【IWJ緊急レポート】大地震から半月、余震が続き被害が拡大するネパール 〜支援の手届かず、ビニールをかぶせたテント小屋で苦しい生活を余儀なくされる人々 2015.5.13

記事公開日:2015.5.13取材地: | テキスト
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(IWJ・安斎さや香)

 北は中国、南はインドに挟まれた、東西に細長い帯状の小国「ネパール」が今、危機的状況にある。

 2015年4月25日、ネパール中部を震源とするマグニチュード7.8の巨大地震がネパール全土を襲った。5月9日現在、犠牲者数は8000人を超え、負傷者は1万7000人にのぼる。

 国連は、この地震で影響を受けたのが約800万人と推計。ネパールの人口は約2780万人(2013年)であることから、3人に1人が被災したことになる。データだけをみても、その被害の大きさがうかがわれる。

 5月12日にも、首都カトマンズから北東約76キロのチベットとの国境の街コダリ付近でマグニチュード7.3の大きな余震が起こり、死傷者が出ている。現地は今も予断を許さない状況だ。

 私は、2006年の夏に初めてネパールを訪れた。豊かな自然、心温かい人々、村の発展に対する地域住民の熱い情熱に魅せられ、その後、2008年の夏から25日に起きた大地震の震源地ゴルカ郡の隣、ダディン郡の農村に長期滞在し、公立学校の建て直しなど、教育支援に携わった。

 その後もネパールをフィールドにした地域研究のため、たびたび現地に足を運んだ。たくさんのことを教えてくれたネパールは、私にとって第二の故郷のようなものだ。そのネパールが、今、未曾有の大地震により、非常に厳しい局面に立たされている。いてもたってもいられない気持ちである。ここでは、発災直後からコンタクトをとってきた現地の人々の声を集め、ネパールが置かれている現状をレポートする。

山に囲まれた自然豊かな小国を襲った悲劇

 ネパールが位置する南アジアは、アジア地域の中でも発展途上の国が多い。ネパールはその中でも所得水準がさらに低い、後発開発途上国に位置づけられている。それゆえ、耐震基準や人々の防災意識も低く、甚大な被害に拍車がかかってしまった。

 ネパールは、ヒマラヤ山脈をはじめ、北部が山岳地帯、中部は丘陵地帯、南部は平野地帯にわかれている。山が多い地形という事情から、被害の全容はいまだわかっていない。ネパールのコイララ首相は、犠牲者が今よりさらに増え、1万人にのぼるのではないかと話している。

 目立った産業がないネパールにおいて、地方で暮らす人々のほとんどが農業に従事している。交通網も未発達で、車道が存在しない村が多くある。大きい街まで徒歩で1週間~2週間かかる村もあるため、車を見ることなく一生を終える人もいる。

 今回、震源となったゴルカ郡は、ネパール中部、カトマンズから北西に約70~80kmのところに位置する。付近の村はほぼ壊滅状態で、土砂崩れにより道路は寸断。村は孤立し、支援が難航しているという。

▲ネパールの地図(wikipediaより)震源はゴルカ郡(地図中央×印の付近)

危機に瀕する世界遺産の街、首都カトマンズ

 ネパールの首都カトマンズは、他の国内都市と比べると群を抜いて人口が密集している地域である。今回の地震でも多くの人が犠牲になった。建物の損壊もひどく、現在、たくさんの人々がテント生活を余儀なくされている。

 首都カトマンズを含む盆地一帯はユネスコの世界遺産に登録されており、カトマンズ市、ラリトプル市(パタン)、バクタプル市が行政区として存在、約176万人(2011年)の人々が暮らす。3つの行政区にはそれぞれ、15世紀・マッラ朝時代の王宮広場や寺院など、数々の歴史的建造物が残されており、この頃に栄えたネワール文化を今に伝えている。

 カトマンズ盆地の急激な都市化などにともない、これらの文化遺産は、2003年から2007年まで危機遺産に指定されていた。今回の地震でも、建物の損壊が激しく、貴重な建造物を修復、維持できるのか、非常に危うい状況にある。

 バクタプルの近くに住むスルヤさんは、地震直後のバクタプルの様子を写真で私に伝えてくれた。彼には、2009年にこの場所を案内してもらったことがある。地震前のバクタプルと比べると、被害のすさまじさを改めて痛感する。

▲地震前のバクタプルの様子(ツアーネパールより)

 スルヤさんが撮影した地震後の写真を見ると、右側の寺院が全壊してしまったことが分かる。

▲地震後のバクタプルの様子(スルヤさん撮影)

▲地震後のバクタプルの様子(スルヤさん撮影)

▲地震後のバクタプルの様子(スルヤさん撮影)

▲地震後のバクタプルの様子(スルヤさん撮影)

 次の写真も、地震の前後の様子を確認することができる。

▲地震前のバクタプルの様子(トリップアドバイザー提供)

▲地震後のバクタプルの様子(スルヤさん撮影)

 画面中央にあった白い寺院があとかたもなく崩れてしまっている様子は、被害の大きさを物語っている。

自ら被災しながらも、地元の有志が被害の大きい地域へ物資を送る

 スルヤさんが暮らす集落でも、6名の人が亡くなり、家を失う被害も出た。

▲地震の被害を受けたスルヤさんが暮らす集落の様子

▲地震の被害を受けたスルヤさんが暮らす集落の様子

 そんな中、より被害の大きい地域のために、スルヤさんらは水や食料を届けに向かった。

▲被害の大きい地域へ届けるための水(バクタプル市・スルヤさん撮影)

 大量の使用済みペットボトルには、飲料水がつめられている。ネパールでは、長距離移動をする際などに、こうしたペットボトルに水をつめて持ち歩く習慣がある。

 日本のように蛇口をひねれば飲み水が飲めるわけではないため、ネパールの人々は水汲み場まで行くか、配達される水を購入して生活している。地方では、水汲み場まで片道1時間以上も歩かなければならない地域もある。

▲水が枯渇してしまった水汲み場(カブレ郡・安斎さや香撮影)

 この集落では井戸の水が枯渇してしまったため、水汲みのために遠い距離を毎日何往復もしなければならない。

▲水を汲みに行く人々の様子(タナフン郡・小林渡さん撮影)

 スルヤさんたちは水のほかに食料も用意した。次の写真は、ビニール袋に食料をつめている様子。女性や子どもたちが協力してパッキングしている。

▲被害の大きい地域へ届けるための食料をつめる様子(スルヤさん撮影)

 ビニールにつめられたのは、チュウラという蒸したコメをつぶして乾燥させたものと、インスタントラーメンを砕いたもの。どちらも、ネパールでは軽食としてよく食べられている。チュウラは保存食でもあり、各家庭に常備されていることが多い。

▲被害の大きい地域へ届けるための食料(スルヤさん撮影)

壊滅的な被害を受けた震源地のゴルカ郡

 前述した通り、今回の地震の震源地は、ネパール中部のゴルカ郡だ。2008年の夏、私は認定NPO法人JNFEA(日本ネパール女性教育協会)の教育支援プログラムに同行し、ゴルカを訪れたことがある。目的地はゴルカ郡の中心部からさらに北のシルディバスという村。JNFEAのカウンターパートナーで、後述する私が代表を務めたNGOでもカウンターパートナーを務めてくれていたNGOスタッフ・クリシュナさんらとともに、徒歩で1週間ほどかけて向かった。

▲シルディバスへ向かう道中の村(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

▲シルディバスへ向かう道中のつり橋(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

 山道のため、車が入れないことから、物資の運搬にはロバが使われる。

▲荷物を運ぶために用いられるロバ(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

 村の人々も、焚き木や、家畜のえさとなる木の枝・葉っぱ、畑の収穫物、生活用品などを人力で運ぶ。40~50キロもの荷物を担いで山道を登る場合も多い。

▲焚き木を運ぶ村の人々(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

▲シルディバスへ向かう道中の谷(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

 日本と比較すると、考えられないほどアクセスは悪いが、自然の音だけが聴こえる、とても美しい場所だ。

▲シルディバス村(ゴルカ郡・クリシュナさん撮影)

 この地域の住居は、石を積み上げた瓦屋根の家がほとんど。上の写真は、シルディバス村からの風景で、山と山の間からヒマラヤ山脈に属する、世界で8番目に高いマナスル山(8163m)の頂上が顔をのぞかせている。

 ここシルディバス村も、今回の地震で大きな被害を受けた。住宅の損壊だけではなく、土砂崩れなどの影響で道もふさがれてしまっていることから、ヘリなどで投下される物資が命綱だ。

 海外のメディアでは、シルディバス村の家々が倒壊し、付近の村に物資を投下する様子を写真で伝えている。

 JNFEAなどのいくつかのNGOは、緊急支援金を募り、ゴルカ郡などで支援を実施する予定だという。

ネパールへの支援を決めた理由

 私が長期滞在していたダディン郡は、ゴルカ郡の隣、カトマンズとの間に位置している。

▲ネパール全図、青がゴルカ、黄がダディン、赤がカトマンズ(在ネパール日本大使館より)

 この地域の村々でも、ゴルカ郡と同様に、深刻な被害を受けた。先ほど紹介したクリシュナさんは、この地域の出身で、学校の理事なども務めながら、あらゆるNGOのカウンターパートナーを務めて活動している。地震後には村を歩いて回り、その様子を写真で私に報告してくれた。

 また、先述したように、彼は、当時、私が代表を務めていたNGOのカウンターパートナーでもあり、村の発展のために、日々、さまざまなNGOと協力しながら日々尽力してきた人物だ。

▲NGOスタッフのクリシュナさん(カトマンズのホテルにて撮影)

 大学時代、私は途上国を旅するバックパッカーで、いろいろな国をまわっているうちに、国際協力に関心を持つようになった。当時、ネット上で自分と同じような思いを持った学生有志のグループを見つけ、そのメンバーとネパールを支援する団体Plant the Book On Nepalを創った。

 はじめのうちは、ネパールとはどのような国なのか、まず知ることからはじめよう、ということで、勉強会を繰り返し行った。ネパールの国旗の形は変わっている、ということぐらいしか知識のなかった私だったが、UNDP(国連開発計画)などのレポートを読むと、アジアの中でもとりわけ南アジアの所得水準が低く、ネパールは、その中でもあらゆる数値で経済的な貧困率が高いことを学んだ。

 「途上国でなにか役に立つことがしたい」――。このような共通の思いを持っていた私たちだったが、その一方で、途上国で暮らす人々のためにならないような援助や、多額の資金が無駄な大規模開発プロジェクトに投じられている現実を目の当たりにする中で、なにかできることはあるのだろうかと、思い悩んでいた時期もあった。

 そんな中、冒頭でも紹介したように、大学4年の夏、私は初めてネパールを訪れた。そこで、クリシュナさんと出会い、彼らの地域の活動を知ることになる。先進国にはできるだけ頼らず、地域の特性に沿った、その地域独自の発展のあり方を模索して、日々奮闘している姿勢に感銘を受け、彼らの活動を少しでも応援できればと思い、いつかネパールでプロジェクトを立ち上げようと思い立った。

 そして2008年夏、Plant the Book On Nepalの代表としてダディン郡の村に長期滞在し、村の人々にネパール語を教わりながら、村のことを少しずつ学んでいった。

 私たちの資金規模でできるプロジェクトで、かつ村のために必要な支援はなにかをクリシュナさんたちと相談した。当時、ネパール政府は教育にほとんど予算を割いておらず、老朽化した公立学校が村には何校もあった。公立学校の存立が危うくなると、貧しい家庭の子が学校に行けなくなってしまう。そこで、公立学校を建て直すプロジェクトの実施を決めた。

 支援することになったのは、老朽化で雨漏りがあり、倒壊する危険がある学校だった。

 学校ができるまでの間、私はネパールの農村の暮らしに関心がある外国人を村へ案内し、ネパールの教育事情や暮らしについて学べるツアーを繰り返し行った。

▲支援することになった建て直す前の学校(ダディン郡・安斎さや香撮影)

▲支援することになった建て直す前の学校(ダディン郡・安斎さや香撮影)

 日本と比べて、家族が多いネパールでは、日々の生活をやりくりするのも大変な家庭が多い。そういう状況にも関わらず、学校建て直しのための村の会議で、「若い日本人が自分たちのために支援してくれるといっているのだから、私たちがなにもしないわけにはいかない」と、村の募金を呼びかけてくれる人が現れた。

 これは、私もクリシュナさんたちも予想していない展開だった。村の人自らが積極的にプロジェクトに賛同し、募金を集めたというケースは、長年NGOスタッフをしてきたクリシュナさんも初めての経験だったという。

 実際の学校建設も、できるだけ村にある資源を使い、村人総出で行った。2009年、学校は無事完成。私はネパールをあとにしたが、もっとネパールのことを学びたいという思いで、2010年に大学院に入り、ネパール研究に没頭した。

▲完成した学校(ダディン郡・安斎さや香撮影)

▲完成した学校にセメントを塗った後の様子(ダディン郡・安斎さや香撮影)

▲完成した学校で学ぶ子どもたち(ダディン郡・安斎さや香撮影)

▲村の人々と子どもたち(ダディン郡・西川昌徳さん撮影)

 研究の途中だった2011年3月11日、東日本大震災で私の地元、福島は大変な被害を受け、原発事故による影響はいまもなお続いている。震災後には福島の支援に関わるようになった私は、その後、ネパールの支援には関われていないが、たくさんの思い出がつまったネパールが、私にとって特別な存在であることは、今も変わらない。

震源地に近いダディン郡では住宅など90%の建物が損壊した地域も

 私が活動していた地域、ダディン郡では、建物の約90%が損壊し、クリシュナさんの家がある村でも、たくさんの被害が出た。

▲地震で倒壊した村の住宅(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

 全壊ではない住宅でも、住むことができない建物は多いという。

▲地震で損壊した村の住宅(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲地震で損壊したハイウェイ沿いの住宅(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

 家に住めなくなってしまった多くの人々は、ビニールやトタンを屋根や壁の代わりにした、テント生活を余儀なくされている。家畜小屋で寝泊まりする住民もいる。

▲建物が倒壊した村で小屋を作り生活している(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲建物が倒壊しテント生活を余儀なくされている村の人々(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲小屋の骨組み、ここにトタンやビニールを被せる(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲小屋で炊事をする村の女性(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲家畜小屋で食事をする村の人々(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲小屋で作られた寝室、隣は家畜小屋(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

▲壁のない小屋で寝泊まりする村の人々、ベッドの上には蚊帳がつけられている(ダディン郡・クリシュナさん撮影)

 ネパールの気候は、雨季と乾季に大きくわかれ、6月には雨季に突入する。ここに紹介したようなテントや小屋の生活では、雨季の雨をしのぐことは到底できない。

 衛生的にも今後、状況はさらに悪化することが懸念されており、感染症の危険性もある。雨季までに家を建て直すことは不可能なため、クリシュナさんたちは、少しでも多くのビニールなどを購入して村に配りたいと、支援を求めている。

 ダディン郡への支援を実施しているNGOは以下の通り。

(ダディン郡の村を直接支援したいという方は、安斎宛で下記IWJのアドレスまでご連絡ください。雨季になる前に必要なビニールシートやテントを購入するための資金を、現地のローカルNGOに直接届けるお手伝いを責任を持ってさせていただきます。)

【office@iwj.co.jp】

被害が大きかった理由――地盤が脆弱だったネパール

 なぜ、ここまでの壊滅的な被害になったのか。

 地震の規模の大きさはもちろん、建物の耐震性に問題があったことは、先に述べた通りだ。この他、ネパールの地形も大きく影響している。

(…会員ページにつづく)

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  1. ネパール地震の大変読みやすい記事 より:

    1.ネパール地震についての現状で把握できる事態が明示されている
    2.使われる写真や配置が知りたいことをわかりやすく知らせている
    3.自らの体験と学んだことに根ざした、眼差しの温かさと、地震による緊急事態の変化を知らせている
    4.ネパールの政治について簡潔にまとめられている
    とても読みやすい記事と思います。穏やかな筆致ですが、ネパール地震への渾身の情熱が伝わってきます。

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