日本全国上映が幻となった映画「ひろしま」、被爆者の真実に迫る秀作が海外にも広まる 2014.8.15

記事公開日:2014.8.20取材地: テキスト動画
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(取材・記事:IWJ・薊一郎、記事構成:安斎さや香)

 1952年に日教組が制作を決定し、関川秀雄監督により、広島市民の全面的な協力を得て1953年に制作された、映画「ひろしま」――。1955年には、第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞している。

 原爆を題材とした日本を代表する映画「ひろしま」を、日本が敗戦した日である8月15日に、市川市の市民団体「トランジション タウンいちかわ」が主催で上映し、『映画「ひろしま」奇跡への情熱・核廃絶プロジェクト』のゼネラルプロデューサー・ディレクターを務める小林一平氏のゲストトーク、展示会が開かれた。

 上映会の主催した「トランジション タウンいちかわ」は2012年に誕生し、地域のコミュニティの力を活用して持続可能な社会へ楽しく移行(トランジション)していくことを目指す団体。今回の上映会は、終戦記念日に映画「ひろしま」を観て、原子力の怖さと平和への思いをシェアすることを目的として主催した。

■ハイライト

  • ゲスト 小林一平氏(「奇跡への情熱」プロジェクト代表、映画プロデューサー)

「この映画にないのは、『熱』と『におい』だけ」

 父・小林大平氏が映画「ひろしま」で監督補佐を務めていたという小林一平氏は、映画を上映した後に講演を行った。

 小林氏と映画との関わりを紹介する中で、父・大平氏が「こんなすごい映画に携わったことはない」と語ったなど、映画についての父親の思い出を語った。

 映画「ひろしま」を世界に広めようと決心したきっかけは、2008年に広島で映画を上映した際の一観客との出会いだったと小林氏は振り返る。その観客は「今日初めて被爆者として名乗ります」と上映後に告げた上で次のように小林氏へ語った。

 「今まで差別を恐れて、自分が被爆者だとは名乗れなかったが、この映画を観たら、だまっていられなかくなった。ぜひ世界で上映してください」

 この言葉が原動力となり、小林氏は映画「ひろしま」を広めるための活動に踏み切った。小林氏は、映画「ひろしま」の内容の前に、映画のなりたちから話しを始めた。

 長田新編集の被爆した子どもたちの作文集「原爆の子」がベストセラーとなり、1952年に同名の映画が新藤兼人監督で製作された。ところが、作文集の編集者である長田氏も、作文の作者である被爆した子どもたちも、その映画は「私たちの感じた原爆ではない」との感想を持ったという。

 そこで、全国の教師たちがひとり50円を出し合い、本で描かれたとおりの映画を作ろうということになった。また、当時の広島市長の掛け声により、約9万人の人々が出演した。

 映画はオールオープンセットの撮影となったため、70から80もの家屋を燃やしたほか、広島電鉄から車両2両を買い取って燃やしたのだという。自らも被爆者で被爆者を長年診察してきた医師・肥田舜太郎氏は、この映画を観て、「この映画にないのは、『熱』と『におい』だけだな」という言葉を残した。

 映画を配給する松竹は、全国の映画館で上映するに当たり、3つのシーンのカットを要求したと小林氏は語る。冒頭のエノラゲイのパイロットの話、登場人物みち子の友達が、「ドイツに原発が落とされなかったのは、日本人が有色人種だから」と語るシーン、子どもたちが被爆者の骨をみやげとして売る場面だ。当時、映画の製作側が要求を拒否したことで、全国上映がなくなった。

 その後、教師たちにより、学校の教室や校庭で上映されたりしたが、国内外では、ほとんど映画の存在が知られなかった。

「核をなくそう。今日よりも明日の方がいい時代にしよう」

(…会員ページにつづく)

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