「軍事力は補完。最終解決手段は外交だ」 〜岩上安身による新藤義孝衆議院議員インタビュー 2011.2.10

記事公開日:2011.2.10取材地: テキスト動画独自
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(IWJテキストスタッフ・関根かんじ/奥松)

 「アメリカは半年前から艦砲射撃や爆撃で硫黄島を叩き、上陸から5日間で陥落させるつもりだったが、激戦は35日間続いた。総司令官の栗林は、長期戦で米軍の本土進攻を食い止め、戦争終結へつながることを望んでいた」──。

 2011年2月10日、岩上安身が、自民党の新藤義孝衆議院議員にインタビューを行った。新藤議員は、歴史に残る硫黄島の戦闘を指揮した総司令官、栗林忠道陸軍大将の孫にあたる。自民党の国会議員として、長年、硫黄島での遺骨収集事業にも尽力してきた。

 インタビューの前半、新藤氏は遺族としての思いや、硫黄島の遺骨収集事業について語り、後半では民主党政権への評価や、日本の安全保障について触れ、「日本は、全面的な独立自尊はありえないだろう。外交と軍事力のバランスを取ること。しかし、軍事力は補完で、最終解決手段は外交だ」と力を込めた。

■ハイライト

アメリカ軍が目をつけた硫黄島

 クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』で、優秀な総司令官かつ愛情あふれる父親として描かれた栗林忠道陸軍大将(硫黄島着任時は中将)が、絵手紙を送り続けた愛娘「たこちゃん」こと、たか子さんが新藤氏の母である。

 まず、岩上が硫黄島の戦いの意味を尋ねた。

 新藤氏は「太平洋戦争終盤になり、サイパン島が陥落した。米軍は、サイパンを拠点に日本への空襲が可能になった。ただし、戦闘機の航続距離の問題で護衛ができず、爆撃機自体も故障が多いため、サイパンより、さらに日本の本土に近く、飛行場建設に適した平地がある硫黄島に価値が出てきた」と話し、次のように続けた。

戦争終結の願いを秘めた壮絶な戦い

 「当時、硫黄島を守る日本兵は2万2000人、上陸する米兵は6万人だ。栗林はゲリラ戦を考え、島中に地下壕を張り巡らせた。この戦闘の目的は、一日でも長く島を守り、米軍に打撃を与えて、日本本土への進攻をあきらめさせること。元々、アメリカとの開戦に賛成していなかった栗林は、硫黄島で戦争終結への道を探っていた」。

 「1945年2月19日、米軍の上陸作戦が始まると、いったん上陸させてから一気に攻撃した。米軍の戦死者の約8割は最初の突撃で亡くなっている。日本軍の犠牲者は2万1000人、米軍の戦死者および負傷者は合計2万8000人。日本軍が、第2次世界大戦中で唯一、相手を多く倒した戦場でもあった」と壮絶な戦いの様子を語った。

 「栗林の妻、つまり私の祖母に聞くと、栗林は、硫黄島に赴く際、それまで決して手離さなかった天皇陛下御賜の軍刀を、家に置いていったという。死を覚悟してのことだろう。勝てる見込みはなかったが、少しでも戦いを引き延ばして戦争を終わらせることが、自分の役割だと考えていたと思う」。

敵味方合同で慰霊祭が行なわれるのは硫黄島だけ

 岩上が「激しい戦場だった硫黄島で、今、日米双方の関係者が合同慰霊祭を行っていると聞く。これは珍しいことでは」と尋ねると、新藤氏は「硫黄島は、敵と味方が合同で慰霊祭を行なっている世界で唯一の場所だ。その合同慰霊祭は、戦後40年目に初めて開催され、今では毎年行なっている」と述べ、その経緯について説明した。

 「アメリカ側は、硫黄島の戦いを第2次世界大戦の勝利の象徴にして、島に眠る英霊を慰霊したかった。しかし、日本の遺族たちは、アメリカの慰霊祭など認められない。それで、日米合同になったが、当初、生き残った元兵士たちは合同開催を嫌がっていた。殺し合いをした相手なのだから、そう簡単にはいかない。だが、回を重ねるごとに、お互いの気持ちが軟化していったのだ」。

  新藤氏は「相手が憎いというより、自分の大事なものを守りたかった、同じ思いを持つ者同士。なぜ、あんな悲惨な戦いをする必要があるのかと。硫黄島は、二度と戦争をしないように、平和の誓いを強くする場所でもある」と力を込めた。

 岩上が「しかし、アメリカは、今でも戦争をしている国だ」と言うと、新藤氏は「アメリカの職業軍人に『仕事は何か』と問うと、『戦争をしないことだ』と答える。各国は戦争をしなくてすむために、さまざまな手段をとっている。残念ながら現実的には、戦争抑止と防御の必要性はなくならない」と述べ、「しかし、日本は武力で他国を侵略したり、他国での武力行使はしないと決めたのだから、われわれは、それをずっと守らなければいけない」とも語った。

まだ、約8800柱しか戻ってきていない

 次に、硫黄島での遺骨収集事業について聞いた。新藤氏は、遺骨収集が進まなかった理由について、「まず、敗戦国だから。日本は昭和27年まで占領されていたので、島の調査も遺骨収集もできなかった。また、戦後、アメリカは日本軍兵士の遺体を隠すため、島中にネムノキを植林した。それがジャングルになって、風景が変わってしまった。さらに、日本軍が地下壕の位置をわからないように作ったことも、遺骨収集の困難さに拍車をかけた。今では、年間40~50柱ほどしか収集できない」と話した。

 「遺骨を見つけてもバラバラになっている。人間の大腿骨は2本なので、大腿骨の数で人数がわかるが、氏名の特定は難しい。昨年、2000柱が眠っていた集団埋葬地が見つかっている。これは墓地というわけではなく、米軍が大きな穴を掘って、たくさんの遺体を積み重ねるように埋めたもの。アメリカの公文書館で文献を調べて、長いこと研究した結果わかった」。

 菅政権になって遺骨収集事業への予算は増額されているが、新藤氏は「遺骨収集は、国家事業だ。政党は関係ない」と話す。今後の計画について、「現在、約8800柱しか戻ってきていない。一度も調べたことがないのが、今、自衛隊が使用中の滑走路の下。しかし、調査には代替え滑走路の建設が必要になる。まだまだ、長い道のりだ」と述べた。

外交力の「担保」としての防衛力

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