(その2の続き)
足尾の山が緑を取り戻し始めた日
昭和12年(1937年)頃から国や栃木県が足尾の山の緑化に乗り出したが、亜硫酸ガスを含む煙が出ているうちは効果があらわれなかった。しかし「自熔製精錬法」が確立した昭和31年以降、山は少しずつ緑を取り戻し始めた。
「今では約1200ヘクタールが緑化しました。と言っても、全部が埋まって森林になっているわけではないんです。2500ヘクタールのうちの1割ちょっとが苗木を植えて昔通りの森に戻りつつありますが、それ以外の部分は草やシダなんです。緑は戻ってきつつありますが、全部を森にするのは大変なことなんです」
そう話す鈴木さんは、足尾環境学習センターのセンター長を務めると同時に、NPO法人「足尾に緑を育てる会」の会長も務め、足尾の禿山の緑化にあたっている。
鈴木さんが用意した1980年の足尾の山の写真と、2013年の足尾の山の写真を見比べればその差は一目瞭然だ。同じ場所とは思えないほど、緑が回復しているのがわかる。鈴木さんによると、「こんなに違うんですか、こんなに戻ったんですか」と両陛下も驚いていたという。
▲1980年の足尾の山
▲2013年の足尾の山
しかし、「この写真は、2500ヘクタールのほんの一握りです。まだまだ禿げ山は奥まである」と鈴木さんはいう。
「『緑を育てる会』では、『100万本の木を埋めよう』というスローガンを掲げていますが、平らな場所でなく、山に上って植えなければいけないから、年間1万本くらいしか埋められていない。100万本植えるには100年かかります。100年でも無理かもしれない。私たちの代では終わらないですから、今の子どもたちがこの活動に共鳴し、『自然を戻そう』という意識を持ってもらわなければなりません」
緑を育てる会は、次の世代に緑化事業を引き継ぐために、「体験植樹」を実施している。
関東一円の小学校の生徒たちが、毎日のように「環境学習」と称して環境学習センターを訪れる。その小学生たちが、足尾の禿げ山に一本一本植樹するのである。環境省もこの企画にともに携わり、緑化を推奨している。この日も、黄色い帽子を被った大勢の小学生がバスに乗ってやってきていた。
▲小学生たちが植えた苗木
「それだけ先生たちの自然に対する意識も変わってきているんでしょうね。緑を育てる会が活動を始めた18年前から比べると、年々増えてきています。一度自然を破壊すると、元通りに回復するためには大変な労力、お金、時間がかかる。そういうことが、ここにくることで勉強できます」
鈴木さんのいうように、100万本の木を植えるまでに100年かかるとすれば、鈴木さんの代はおろか、この日、環境学習センターにきた小学生たちの代でも終わらない。もしかしたら、この小学生たちの、そのまた子どもたちの代でさえ終わらない。それだけ足尾鉱毒事件の代償は大きい。
毎日のように訪れる多くの小学生たちに苗木を用意し、山へ案内する。そのための手がまるで足りていないのだという。「ボランティアさんはいつでも募集しています。そのあたりのことを書いてくださるとありがたいです」と鈴木さんは笑った。
「日本のグランドキャニオン」
センター内の説明をひと通り受けた我々は、鈴木さんとともに環境学習センターを出て、目の前にある渡良瀬川へかかる橋に向かった。渡良瀬川の水は透明で、澄んでいた。かつて鉱毒が流れ、魚が死滅した川だとはとても思えない。
▲橋から望む渡良瀬川
「この橋に両陛下がいらっしゃって、渡良瀬川を見てもらいました。我々が『日本のグランドキャニオン』と呼んでいる、岩肌になっている部分があります」。鈴木氏は切り立った岩山を指さした。
▲「日本のグランドキャニオン」と呼ばれる「岩山」
「煙害で、木も土もすべて流れてしまった。後世に伝えるために、あの一角はあえて緑化せず、今後も残すと決まっています。人間の戒めとして、未来を担う子どもたちにも見てもらおう、ということで。天皇皇后両陛下にもご説明しましたら、『それはいいことですね』とおっしゃってくださいました」
さらに鈴木氏は、川を眺めた両陛下の様子を語った。
「両陛下とも川を覗きこんでいらっしゃったので、『これだけ綺麗になったんですよ。魚も住んでいますよ』とお話しました。すると皇后さまが『イワナですか?』と話されたので、『イワナもいますし、ヤマメもいますよ』とご説明しました。長い間、しばらくずっと川を眺めていましたよ」
亜硫酸ガスで廃村に追い込まれた旧松木村
足尾には、足尾銅山による「煙害」を受けて、廃村になった村があったのだという。「松木村」という村だ。
足尾環境学習センターからさらに車で10分ほど、渡良瀬川上流に向かったところに松木村は存在した。今は一般の立入は禁止となっている区域だが、鈴木さんが中を案内してくれた。
▲旧松木村
松木村は足尾の山間の開けた土地にあった。農業とともに養蚕業が盛んで、渡良瀬川からは魚が獲れた。江戸末期の嘉永6年(1853年)には37戸、178人が、何不自由なく暮らしていた。今では、わずかに残る墓石などが、松木村が存在した唯一の証なのだという。
▲旧松木村に残る墓石。今では風化してしまっていて文字が読めない。
▲家の土台として敷かれた石。松木村の形跡をうかがわせる
「大豆や大根やジャガイモなんかも作ってたんじゃないかなぁ。馬や牛も飼っていたっていいます」と鈴木さんは話す。
調べたところによると、古河鉱業が足尾製錬所を本格稼働し始めた明治17年(1884年)頃から、村の生活は一変する。
もともと、銅の精製過程では大量の木材が使われるため、足尾の山々からは樹木が乱伐されていた。そこに追い打ちを掛けるかのように、亜硫酸ガスが流れ込む。農作物は枯れ、蚕の餌となる桑の葉も木も枯死。農業も養蚕も廃業せざるを得なくなった。こうした被害は松木村だけではなく、足尾銅山周辺の村々も同様の被害を受けた。
松木村の状況は、明治29年(1896年)、政府が古河鉱業に煙害対策を施すよう命じたことで、さらに悪化する。煙害対策とは、それまで分散していた製錬所を1か所に集中する、というものだった。これによって、煙害が松木村に一極集中し、被害はさらに激化してしまったのだ。
村人たちは、わずかばかりの示談金で立退きを余儀なくされ、1200年間も続いたとされる村の歴史は、明治35年(1902年)、ついに幕を閉じた。
旧松木村の敷地は古河鉱業が買収し、鉱石くずなどを廃棄する集積場などに利用した。今でも銅の精錬過程で生じる「カラミ」という使い道のない黒いカスが、山に覆い被さっている。
▲捨てられた「カラミ」に覆われた山
光と影に思う
当時の松木村の写真はもとより、松木村に関する資料そのものがほぼ残っていない。むしろ、松木村の廃村は「タブー視」されてきたようだ。
自然と共に生きる大切さを教えて頂きました。➔【IWJ検証レポート〈その3〉】113年の時を超えて届いた田中正造の「直訴状」 〜「足尾鉱毒事件」の跡をたどった天皇陛下の胸中を探る旅(記者:原佑介) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/170323 … @iwakamiyasumiさんから
https://twitter.com/megumegu1085/status/514795348548517890