この春、2つの「ひまわり」が咲いて、揺れた。台湾、そしてウクライナ──。
中国とのサービス貿易協定を強引に押し進める馬英九政権に抗議するため、台湾の国会に相当する首都・台北の立法院を、学生たちが占拠したのは、3月18日。彼らは、「太陽花學連」すなわち「ひまわり学生運動」と自らを称した。
(岩上安身)
特集 IWJが追う ウクライナ危機
★会員無料メルマガ「IWJウィークリー46号」より転載!毎週IWJの取材をダイジェストでまとめ、読み物を加えた大ボリュームでお届けしています。ぜひIWJ会員に登録し、ご覧ください。会員登録はこちら
この春、2つの「ひまわり」が咲いて、揺れた。台湾、そしてウクライナ──。
中国とのサービス貿易協定を強引に押し進める馬英九政権に抗議するため、台湾の国会に相当する首都・台北の立法院を、学生たちが占拠したのは、3月18日。彼らは、「太陽花學連」すなわち「ひまわり学生運動」と自らを称した。
彼らの行動は、一般市民の圧倒的支持を得た。立法院外には支持者が数千人、数万人のオーダーで集まり、集会のステージが組まれ、青空のもと討論会や勉強会が開かれ、反核、再開発問題、台湾独立問題、反原発問題などなど、様々な社会問題テントが開催されて、さながら政治と思想と言論のフリマ状態を呈した。
そのにぎやかさ、陽気さは、「ひまわり」の名にふさわしいものだった。台湾においては、学生と市民が一体となった、非暴力の民主化運動のシンボルとして、「ひまわり」が大輪の花を咲かせた。
他方、ユーラシア大陸の東端から西の端に目を転じてみる。ウクライナは、世界一、二の「ひまわり」の生産高を誇る、文字通り「ひまわり」の国である。
1970年に公開された、ソフィア・ローレンとマルチェロ・アストロヤンニが主演した名画「ひまわり」にも、ソ連の光景として、地平線いっぱいに続くひまわり畑が映し出されていたのが忘れられない。
そのウクライナで、民衆の運動はどのように花を咲かせようとしたのか。
昨年11月から、首都キエフの独立広場に、当時の大統領ヴィクトル・ヤヌコヴィッチに抗議するために集まった人々は、EUとの協定調印を棚上げにした同大統領への批判の声をあげ、広場の名称をユーロマイダン(欧州広場)と改称した。
3ヶ月続いた民衆の抗議活動には、その当初から米国の影がちらついていた。「ユーロマイダン」をWikipediaで調べてみると、「キエフで抗議デモを行った組織が、アメリカ合衆国国際開発庁、eBayの創設者であるピエール・オミダイアなどから多額の資金援助を受けていたことがアメリカのマスコミにより報道された」と書かれている。
ユーロマイダンの抗議運動に米国の支援があったことは、もはや「常識」と化しつつある。
その後の暗転ぶりは御存知の通りだ。
台北の「ひまわり学生運動」と同じく、一般市民による平和的で非暴力の抗議運動であったはずが、何者かにより、市民や警官らが狙撃され、流血の惨事に至った。ヤヌコビッチ大統領は首都から逃げ出し、マイダン運動を主導していた野党各党の面々によって、暫定政権が組まれた。マイダン側はこれを民主主義の勝利とし、反マイダン側は、クーデターと非難する。
ウクライナの政変は、東南部のクリミアに飛び火した。政変の第2幕である。住民投票の行われたクリミアでは、ウクライナからの独立とロシアへの編入を可決。ロシアは速やかにクリミアの編入手続きをとるとともに、実効支配を行った。しかし、ウクライナ政変は、この第2幕をもって幕引きとなったわけではなかった。
間髪をおかず、第3幕が開幕しつつある。ウクライナ東部のロシア語話者やロシア系住民の多い各都市で、親露派住民らによる市庁舎や政治機関の占拠が始まった。各地元の治安機関は、力づくの鎮圧にためらいがちで、キエフの暫定政権は、ついに西部からウクライナ軍を出動させ、各地で戦闘に突入しつつあり、死傷者も多数出ている。
ウクライナは、すでに内乱状態から事実上の内戦へと移行しつつあるように見える。
多少武装した親露派の者もいるとはいえ、住民と正規軍との間で、正面衝突したら勝負は目に見えている。ウクライナ軍がすみやかに鎮圧するか、それとも膠着するかは、ひとえに外部からの介入があるかどうかにかかっている。
市庁舎を占拠した親露派の住民は、連邦制の是非を問う住民投票を要求し、同時にロシアのプーチン大統領に支援を要請している。
もし仮にロシアが介入すれば、EUも米国も黙って指をくわえていることはないだろう。そのときは内戦は戦争へと転化する。第二次大戦以降、はじめてロシアとNATOが直接衝突に至るかもしれないのである。
そうなれば、ひまわりの大地は、おびただしい血で染め上げられることだろう。
台北のひまわり学生運動は、4月10日に、自主的な判断によって立法院の封鎖を解き、後片づけまで丁寧に行って整然と退去した。暴力沙汰も無縁だった。「私たちの運動は終わっていない。始まりはこれからだ。私たちは自分たちの責任を引き受けるために、ここから出てゆく」との言葉を残して。
台湾とウクライナ。2つの「ひまわり」の国の違いは何だったのだろう?
両者は、実はどちらも似たような課題を抱いている。
まずどちらも、近代において国民国家の形成が遅れた国だということを指摘しておかなくてはならない。かつて植民地であったり、事実上の保護国であったりして、主権をもちえなかった国、民族が、独立国家としてアイデンティティーを形づくるべく模索している途上にあるのだ。
ウクライナは、ソ連が崩壊してから、旧ソ連を構成していた新興独立国のひとつとして誕生した。言いかえるならば、ソ連中央における政変の結果、連邦が解体されて、棚からボタモチのようにして「独立」が手に入ったわけで、自力でこの「国境」でくくられた国家の独立を勝ち獲ったとはいえない。
ロシア・ウクライナ間の国境は、ソ連邦内の行政区分の境界に過ぎず、国民国家としてのロシア、国民国家としてのウクライナの「国境」を定めたものである、とは言いがたいところがある。
クリミア半島は、フルシチョフがソ連共産党第一書記の時代に、党内部での自身の権力の基盤固めのために、ウクライナに「編入」してしまった、という経緯がある。もちろん、将来、ソ連邦が崩壊し、ロシアとウクライナがそれぞれ独立の国家になるなどと夢にも思わなかった時代の話だ。
仮にウクライナが「独立」後も、事実上ロシアの「保護国」ないしサテライト(衛星国)として存続し続けるのであれば、この「国境」にまつわる潜在的な不満は火を吹くことはなかっただろう。
しかし、ウクライナが国民国家としての自覚を強め、ロシアから距離を取り、西欧に傾斜してゆくとき、「国境」をめぐる問題は看過できなくなってゆく。
ウクライナは、どこまでが近代的なネーション・ステート=国民国家としてのウクライナたりうるのか。
ユーロマイダンが生んだ暫定政権は、ウクライナ語を公用語とし、ロシア語を公用語から外す決断を下したが、ウクライナという民族、ウクライナ語という言語に高い優先順位を与える「純化」政策に、誤りはなかっただろうか。ロシア語話者を排除する改革は、結果としてウクライナの融和や統一を遠ざけ、分裂に導く罠に自ら陥ってしまったのではないだろうか。
ロシア語話者を排除する政策は、結果としてウクライナの融和や統一を遠ざけ、分裂に導く罠に自ら陥ってしまったのではないだろうか。
台湾とウクライナはまた、国民国家を形成途上だというのに、国家を超えたグローバルな経済システム、国家を越えた安全保障システムへの参入を迫られている、という共通課題がある。台湾は中国との間の事実上の自由貿易協定締結を迫られ、ウクライナはEUやNATOへの参加を目の前にぶら下げられている格好だ。手にしたばかりの国家主権を、一部手放すことを求められ、獲得途中のアイデンティティーを「国民国家」を超えるより大きな単位に溶解させることを余儀なくされることのようにも見える。
そして、「国民国家」たらんとして「主権」にしがみつくことは、この時代、古くて、進歩的ではない。「バスに乗り遅れるような」やり方だ、などとけなされたりもする。グローバル経済、そして集団的安全保障体制こそが21世紀の唯一の正しい解であるかのような奇妙な同調圧力が働いている。
台湾の若者と市民らは、中国に呑み込まれては大変だと、スピーディな反応をみせた。ひまわり学生運動のリーダーらは、経済よりも優先すべきこととして、人権や環境、分配の正義を掲げた。彼らは中国とのサービス貿易協定に対しては十二分に警戒心を怠らなかった。しかし、馬英九が掲げてみせた「近い将来のTPP参加」には、反応できたとはいえなかった。
ここまで書き進めていけばもはや明らかなことだが、台湾が、ウクライナが、直面している課題とは、我々が直面している課題とそう大きくは変わらないことに気づく。
我々は、2つの「ひまわり」の明暗から、何を学ぶことができるだろうか?