2014年3月9日(日)12時過ぎより、三重県津市で40団体以上が主催し「3.9さようなら原発 三重パレード」が行われた。お城西公園での集会の後、参加者が中部電力三重支店前を通ってパレードを行った。
(文字起こし・中継市民スタッフ徳王信彦)
特集 3.11
2014年3月9日(日)12時過ぎより、三重県津市で40団体以上が主催し「3.9さようなら原発 三重パレード」が行われた。お城西公園での集会の後、参加者が中部電力三重支店前を通ってパレードを行った。
■全編動画
以下は、当日中継許可が下りなかった「福島の高校生、佐藤美菜さんのトーク」を、ご本人の許可を得て文字起こししたもの。
やまなみ農場という農家に生まれたのは16年前のことです。畑を耕さない農法で、化学肥料も使わず虫や草を敵とせず、自然と共存できる唯一の農法です。自然農の他にも味噌や醤油、納豆やこんにゃく等、ほとんどの食材が手造りで、自給自足の生活を目指していました。私も何度も手伝わせてもらいました。
そして、やまなみ農場で自慢できるものの一つが手作りの我が家です。7年かけて父と兄二人が手伝って造った、と聞いています。私はこの家に家族と猫と13年間暮らしてきました。2013年3月11日、その日まで、もうあの家に住めなくなるなんてこれっぽっちも思っていませんでした。停電して水が出なくなって、それでさえ混乱していたのに、福島第一原発が爆発したと知らされました。
その時の私は、原発がどんなものなのか、わかりませんでした。無知でした。いつから原発や放射能について理解し始めたのか、わかりません。爆発したその次の日、13日の事なんですけど、山形の知り合いの家に避難しました。荷物はほとんど持たず、車で通常の倍以上の時間をかけて、たどり着きました。しばらくそこに滞在させてもらいましたが、話が進み、家の前に雪がまだ1メートル以上もある山奥の別荘を貸してもらう事になりました。そこで4歳離れた兄と二人だけの生活が始まりました。仕事のある母は、週末だけ通ってくる状況で、学校にも行きませんでした。
最初は新しい生活に新鮮さを感じていましたが、すぐに思いました。なんで家に帰れないのか、福島はどうなっているのか、そんな疑問と兄と二人だけの生活に、ストレスばかりが溜まっていきました。そのせいで、何も悪くない兄に八つ当たりをしていたりしました。あの時、私は何も知りませんでした。知ろうとしていなかったが故に、考える事さえできませんでした。津波で家が流されたり、避難区域になり、避難生活を強いられた人達に比べれば、何も不自由なく暮らしていたのに、無駄な生活を送ってきました。
夏の終わりごろから、山形県米沢市という所の雇用促進住宅に住み始めました。生活するには十分すぎる家電を支援してもらい、そのころから福島に時々遊びに戻っていました。放射能なんて知らない、何も危なくない、友達と遊びたい…、転校した学校にも行かず、現実から目をそらし続けました。そんな私に、私の母は「元の学校に戻る?」と聞いてきました。私は、戻る選択をしました。今思えば、母は私を守るために避難させたにも関わらず、福島に戻るという選択肢を与えてくれたのです。私は、母にどれほどの負担を与えてしまったのかわかりません。
中学3年生になる時、元の学校に戻り、部活も復帰しました。ただ楽しく、あの時は過ごしていました。でも、原発とか放射能、セシウム、被曝…、その時母がやっていた活動の話や、活動でかけている電話の内容を聞く度に、私はやりきれない思いを抱えました。自然農や自給自足の話をしている時の母の方が、私は好きでした。いつも、「どうして?」という疑問ばかり出てきて、でもそれらを否定して、自分は関係ないと思い込ませていました。
高校は、基督教独立学園(*山形県小国町)という所に入学して、初めて思い知らされました。伝えようとしなければ、誰も知ろうとしてくれないんだって、当事者でなければ問題をみようとしないんだと。私も沖縄の基地問題や、TPP、その他にもいろんな問題、私は知ろうとしていませんでした。それと同じ事で、私達のような人達が伝えなきゃ、誰も知ってくれません。そういうことに気づきました。
それと同時に、自分は無力なんだと気づかされました。何もできない自分に、自分が嫌いになった事もあります。福島は何もないつまらない所かもしれないけど、私の大切な場所を与えてくれた所です。でも今は住んではいけない場所。将来、私に子どもができた時、後悔したくないんです。何の罪もない子どもに、放射能の健康被害といういらない苦労をさせたくありません。だから今、福島に住む理由は何一つありません。
私は2年間、問題から逃げていました。その逃げていた事は、とっても重い罪だと思います。それに気づいた私は、私の子ども、2世3世を守る事で罪を償っていくつもりです。それに合わせて、無力だけど、「3.11」で経験した事と、私がいろんな人から聞いて考えてきた事は、それくらいは伝えていけるのではないかと思いました。それで、どうやって伝えていくか考えた時、母の講演先で「少しだけ話す場を設けてもらえないか」と母に話したところ、今回、この場を用意してもらいました。本当にありがとうございます。
去年の夏、やまなみ農場を訪れてみました。母から片付けていると聞いていたんですけど、実際見てみると、あんなに散らかっていた家に、何にも物がない状態で、それに荒れた田畑を見て、私は泣く事しかできませんでした。
こうなったのは誰のせいでもない。誰も責める事はできませんでした。私は、泣きながら飼っていた猫を探しました。そうしたら鳴き声が聞こえて、近寄ってきてくれたんですけど、触れようと思って手を伸ばしたら、警戒して距離を置かれてしまいました。でも、私はやっぱり泣きながら、人間が住んではいけない所に、こんな小さい動物を置いて行くことに、胸が苦しくなりました。「ごめん」と謝る事しかできませんでした。安全な所に一緒に連れていけないけど、せめて精一杯生きて欲しいなと思いました。
今福島に、子どもも大人もお年寄りも、たくさんの生き物も住んでいます。福島県民でさえ、意識の薄い人がたくさんいます。それに、秘密保護法が制定されれば、情報が遮られ、私達は知る事ができなくなります。それを聞いて、また無力さを感じました。でもそこで、あきらめたらダメなんだなって、お母さんに教わりました。周りがどうであれ、自分の意見を貫こう、それが無理でも、大切な「やまなみ農場」で暮らした事実は消さないように、そして子どもの健康を守ろう、と思いました。
最後になりますが、こんな私の声に耳を傾けてくださって、ありがとうございました。私のような人もいるんだなと、心の奥底でもいいので、覚えておいてください。それが私にとって幸いです。
私達の上から黒い雨が降ってきます。傘という不確かなものでしか凌いでいません。それすらもない者もいます。いつか黒い雨が虹色に輝いて、太陽に照らされ、青い青い澄み渡る大空が世界に広がりますように。
以上です。ありがとうございました。
■佐藤美菜さんプロフィール