【IWJブログ・特別寄稿】パレスチナからのか細い声~パレスチナに通い続ける女性フォトジャーナリストからの報告(写真家・高橋美香)

記事公開日:2014.7.22
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特集 中東

 私が初めてパレスチナを訪れたのは2000年、ちょうど第二次インティファーダ直前だった。シャロンが次期首相に選ばれたことで、「これでまた戦争になる」と人々は暗い顔をしていたことを思い出す。そしてその予感は的中し、シャロンがイスラム教徒の聖地アルアクサ―を挑発的に訪問したことで、それに対する抗議が一気に抵抗運動へと変わっていった。

 二度目に訪れたのは、その第二次インティファーダのまっただなか。半年ぶりに訪ねたガザ地区の友達ハーゼムは、以前のような屈託のない笑顔が完全に消えていた。以前彼はサッカーの話しかしていなかった。それがたった半年で、人格が変わってしまったかのようだった。度重なる戦車の侵攻に子どもたちは怯え、夜になると電気がカットされた暗い部屋のなかで「ひきつけを起こしたように子どもたちが泣き始める」とハーゼムが暗い顔で話した。

 そして数日後、ハーゼムに連れて行かれたのは、すぐ近所の叔父さんの家。家のなかにはハーゼムの叔父さん、叔母さんと小さな赤ちゃんがいた。その赤ちゃんの父親であるイブラヒムさんは、ハーゼムの従兄だった。第二次インティファーダが始まってすぐ、彼は通りを歩いていたところをイスラエル軍兵士に射殺された。赤ちゃんの母親はそのショックで子どもを育てられる状態ではなくなり、赤ちゃんを置いて実家へと帰って行った。

 その赤ちゃんを抱いたまま、ハーゼムの叔母さんは大切にしまってあった息子のイブラヒムさんの死亡証明書を開き、「さあ、写真を撮ってください」とおっしゃった。目の前の光景はあまりに辛かった。まだ何もわからずにきょとんとしている赤ちゃんの澄んだ瞳にみつめられることが、息苦しくなった。私には撮れそうもなかった。家族を喪って悲しみにくれている人たちと向き合うということが、どういうことなのか、その覚悟もないままパレスチナに足を踏み入れていた。

 そんな私に、ハーゼムはそれまで見せたこともない大人びた顔で、「いまミカが撮らなければ、この家族の悲しみも、苦しみも、永遠に誰にも伝わらない」と叱った。声を荒げるわけでもない。ハーゼムの静かな怒りが伝わってきた。

 「そのために来たんだろう? そのために今まで積み重ねてきたんだろう?」

 意を決してファインダーをのぞいてピントを合わせた。ファインダー越しの叔母さんのまなざしは、永遠に忘れられない。ファインダーが涙で曇った。ひとの人生と向き合う、辛さや悲しみと向き合うということが、こんなにも辛いことだと、このときまで気付いていなかった。そのことを教えてくれたハーゼムとは、その後連絡が取れなくなってしまい、いまでもその安否が分からないままでいる。生きていれば33歳。どんな大人になっているのだろう。


▲殺された息子の死亡証明書と遺された孫を抱く祖母――2001年1月、ガザ

「分離壁」が作るシステムとしての占領状態

 次にパレスチナを訪れるまでに8年もの歳月を要した。その8年のあいだに、ガザの入植地は撤去される一方で封鎖はどんどん強まり、東エルサレムと西岸地区では着々と入植地と分離壁の建設が進められていた。パレスチナは、ガザと西岸とイスラエル国内のパレスチナ人の分断、経済面での構造的な支配、入植地の増大によるパレスチナ自治区の「領土」の減少といった、目に見えやすい軍事的な占領よりももっと巧妙な実質的な占領状態に置かれていた。

 私は分離壁の反対運動を村ぐるみで続けている、ラマッラ―北西部のビリン村を訪ねてみた。ビリン村では、ひょんなことから12人家族のアブーラハマ家の居候となった。一家の父親ファトヒと母親バスマは、私を「11人目の子ども、わが娘」としてかわいがってくれ、通算でおよそ6カ月ほどをこの家で家族の一員として農作業を手伝いながら過ごしてきた。そして、日々の暮らしのなかからみえる占領を肌で感じることができた。

 アブーラハマ家は分離壁建設予定地に張られたフェンスのすぐ近くにあり、村人の多くがフェンスの向こう側に自由に立ち入れない自分たちの畑や牧草地をもっている。しかし、いまではそのほとんどが強制的に接収され、巨大な入植地群が建設中である。

 村人たちは、村ぐるみで分離壁反対、占領反対運動をしているが、週に一度の反対デモはイスラエル軍とボーダーポリス(武装国境警察)の圧倒的な武力によって弾圧され、毎週のように怪我人が発生し、運動が始まった2005年以降、過去にふたりがこの村では殺されている。


▲高さ8メートルの分離壁がパレスチナを囲む 人々は「パレスチナ全体が出口のない監獄」だと口にする――2009年6月、カルキリヤ

 催涙弾、ゴム被覆金属弾、汚水、ガス、実弾と毎週デモの弾圧のために様々な武器が投入される。それだけでなく、運動のリーダー、記録するカメラマン、デモの参加者は、深夜に完全武装で侵入してくるイスラエル軍兵士に連行され、民間人であるにもかかわらず、暴力扇動罪などの罪により軍事裁判所で裁かれ、軍事刑務所に収監される。兵士に投石した少年たちも、たとえ12歳以下の子どもであろうとも容赦なく連行され、法外な罰金を支払わされたうえで「釈放」される。

 今現在パレスチナの農地は入植地の建設によってどんどん奪われ、自宅の敷地であっても許可なく井戸を掘ることも許されず、パレスチナの土地の上につくられた入植地から取水した豊富な水を使って大量につくり、安価に出荷する「イスラエル産」の農作物に市場を奪われ、農業が立ち行かなくなっている。

 結果として、人々はどこかへ働きに出なければならなくなり、イスラエル社会や入植地での3K労働を担う労働力とされてきた。

 あるとき、ビリン村の撮影を続けながら、エルサレムにも拠点を置いて西岸地区の他の町と行ったり来たりを繰り返しながら過ごしていた。取材費も心もとない私が選んだのは、一泊750円ほどの安宿のドミトリー。左右の高さが違うベッドに、ダニだらけのマットレス、いつ洗ったのか分からないシーツが敷かれているような宿だった。窓ガラスは割れ、共同の炊事場は汚れ、宿に帰るのが憂鬱ではあったが、その宿で仲良くなったアシュラフと話をすることが楽しみだった。

 アシュラフはベツレヘムに自宅があるが、イスラエルで働くために、身の回りのわずかなものを携えて、その安宿の屋上にある三畳ほどの個室に暮らしていた。彼は弁護士の資格を持っていたが、それではなかなか生計がたてられず、家族と離れてイスラエルで肉体労働に従事し、仕事と宿の行き帰りだけの日々を送っていた。

 ベツレヘムとエルサレムのあいだには分離壁と検問所があり、イスラエルでの滞在許可がない労働者は明け方には家を出て、何時間もかけて検問所を越え、朝の始業に間に合うようにしなくてはならない。そんな苦労をしてまでイスラエルに働きに行くのは、自治区内に産業が育っていないためだ。アシュラフは滞在許可を持っていたので、安宿に「正式に」滞在することが出来た。許可証を持たない人のなかには、捕まることを覚悟で「不法滞在」している人もいる。

 家族や友達と切り離された生活で孤独を抱えていたアシュラフは、毎日のように私を屋上に招き、ナルギーレ(水タバコ)をふるまい、コーヒーをいれてくれた。私の下手なアラビア語を笑うわけでなく、同僚のほとんどがアフリカ系ユダヤ人という環境のなかで、アラビア語を使う日常とも切り離された彼は、私とアラビア語で会話できることを喜んでくれた。そして私も、毎日のように各地で見たこと、聞いたことをアシュラフに話していた。

 ある金曜日、「今日はミカのためにパレスチナ料理をつくって待っているから」と休日をまるまる使って、モロヘイヤスープ、グリルドチキン、マクルーベ(パレスチナ風炊き込みご飯)とデザートをつくってくれていた。私はビリン村のデモの撮影を終えて、宿に戻った。そしてアシュラフが作ってくれたご飯を食べながら、いつものようにその日あったことを話した。

 「僕は君のやっていることはすごいと思うし、君が撮影を続けている各地の人々、勇気を持って抵抗を続けている人々のことを尊敬している。僕自身占領に苦々しい思いは感じているけれど、でも今ある労働許可証を失わないようにするためには、そういうことと距離を置くしかないんだ」

 アシュラフは、そう話した。

 そのとき、占領というのは、軍事的な目に見えやすいものだけでないこと、こうやって自らの暮らしを守るために、家族や友人と切り離されてカネを得ることと引き換えに黙らされるという、もっと巧妙な、目に見えにくい、システムとしての占領状態が存在するのだということを思い知らされた。

 ジェニン難民キャンプでは、ある難民の家族に出会った。

 2002年にイスラエル軍の軍事侵攻と虐殺がおこなわれたこのキャンプでは、「カメラマンやジャーナリストがあのとき何をしてくれた? 世界は俺たちを見殺しにしようとしたじゃないか。今さら話すことなんてない。外国人なんかに何がわかる。さっさと帰れ」と罵倒され、石を投げられ、話も聞かせてもらえなかった。そんな目にあったのは、パレスチナでは初めてのことだった。

 逃げるような気持ちでバス停に向かっていたとき、ふたりの子どもに話しかけられた。「もし時間があるなら一緒に人形劇観に行こうよ。僕のチケット分けてあげるからさ」と。屈託なく笑うその少年の歯抜けの笑顔が心にしみて、救われたような気持ちになって一緒に向かった先がフリーダムシアターだった。

 フリーダムシアターは、パレスチナ人の夫をもつイスラエル人アルナ・メールによって創設された。難民キャンプの子どもたちに演劇や絵画を通して、夢や希望、自らを表現することを教えた。そのフリーダムシアターが、難民キャンプの子どもたちに無料で披露していた人形劇だった。

 この日抱えることになった、いたたまれない気持ちも、深い虐殺の傷、記憶を難民キャンプの人々が今なお抱えていることを思い知らされたことも、どちらも、その後私の足をジェニン難民キャンプから、遠ざける理由となった。そして、二年半ぶりにもう一度、意を決して訪ねてみた。

 唯一明るい記憶を思い起こさせるフリーダムシアターへと足を運んだ。そこで出会ったのが、このシアターで演劇をしている俳優のカマールだった。しばらく話をするうちに、「もしも泊まるところが決まっていないなら、うちに来ればいい」と言われ、すぐ近くの難民キャンプ内の家に案内された。

 カマールの家に辿り着くと、一家は驚きながらも、すぐに食事と寝床を用意してくれた。玄関のドアを開けるとすぐに居間兼寝室兼応接間があり、その奥に小さな部屋がふたつと台所とトイレと浴室があった。父親のイマード、母親のマハ、カマールのほかに二人の弟と妹が暮らす。姉のひとりと弟のひとりは、家を離れている。普段は朝早くから仕事のあるカマールをのぞいて、五人が居間兼寝室で折り重なるように雑魚寝をしている。そこに、居候としてその日から私が加わった。

 食事のとき、イマードの様子がおかしいことに気付いた。自分でスプーンを口に運べないし、そもそも食事だと促されるまでずっと頭を抱えたまま虚ろな目をして座っていた。みんなが寝静まってから、マハに聞いた。「イマードはどうしたの?」と。

 2002年、イスラエル軍の侵攻があったとき、イマードはまだ働き盛りの35歳だった。この地区のファタハのまとめ役だった彼は、このときイスラエル軍兵士に連行され、壮絶な拷問を受けた。それ以来、徐々に体調を崩すようになり、私が彼に会った2011年には自分で立つことも、ほとんどしゃべることもできなくなっており、ただ1日中虚ろな目をして部屋の隅に頭を抱えて座り込んでいるだけだった。

 それだけでなく、当時12歳だった次男のムハンマドは、イスラエル軍兵士に捕まり、ライフルの銃座で脚を骨折するまで殴られ、8歳だった四男のサリームは太ももを撃たれた。

 「でも幸いにも、うちは誰も死ななかった。帰ってこない子どもたちは死んだと聞かされたり、病院にいると聞かされたり。そのたびに、あちこちに銃撃の合間を縫って確認に駆け回った。食料も底を尽くなかで、外に出れば撃たれるから空腹を我慢するしかなく、何カ月も戻ってこなかった夫は死んだものとあきらめかけていた」

 マハはそのときのことを思い出しながら話した。

 マハは、6人の子どもたちを抱えながら懸命に働き、イマードが病気になってからは夫の介護までをしながら暮らしてきた。農場で肉体労働に従事し、疲れと体の痛みに眠れぬ夜を過ごしながら、懸命に子どもたちを育てた。

 しかし、一家の暮らしは楽ではなく、イスラエル軍の侵攻で銃撃されて割れた窓ガラスはそのままビニールシートで覆われており、朝食のパンを買うお金がないと、毎朝のように布団の下に落ちているかもしれない1シェケル(25円ほど)を探していた。そんななかでも、決して私にはお金を出させてはくれなかった。どうすれば恩を返せるのかと考え抜いた末、マハと一緒にトマト農場で働く事に決めた。そして農場主に「私が働いた分はマハに渡してくれ」と頼み込んだ。マハには、これも取材、撮影と偽って。


▲トマト農場で働くマハ――2011年12月、ジェニン

 そして、その二年後、再び一家を訪れた。「つい数週間前イマードが亡くなった」と伝えられた。まだ46歳の若さだった。

 マハは夫の死後三か月間は「喪に服す」ことを強いられ、家から外に出ること、家を訪ねてきた親族以外の男性と顔を合わせることなどが「恥」とされ、なかなか家の外にも出られず、働きに行くこともできず、「不自由で窮屈」な暮らしを強いられていた。

 「こんなことをしていたって、イマードが帰ってくるわけじゃない。外に働きにいかなければ、借金がかさんでいくばかり。何よりも私はもう退屈で気が狂いそう」とマハが言う。マハに「恥」の概念を押し付け、その自由を奪っているのはイマードの親族などだった。

 私たちは、周囲の裏をかいてマハの実家がある村へ気分転換と「仕事」に行くことにした。「実家の母の調子がすぐれないので」とマハは言い訳をした。内心の嬉しさを隠しながら神妙な顔をして車に乗り込み、私たちはマハの母親インム・カーセムが暮らす村へと向かった。

 そして村に到着すると、早速マハは「オリーブの実を拾いに行こう」と言い出した。収穫が終わったあとのオリーブ畑で、木の下に落ちている、木の持ち主には見向きもされないような干乾びた実を、木の持ち主の厚意で拾わせてもらうそうだ。

 私たちは炎天下四日間ほどその実を拾う作業に精を出した。地表に落ちた棘のある植物に何度も刺されながら実を拾い続けるのは、トマト農場で働く以上に厳しい作業だった。しかし、その干乾びた実から採れるわずかな油が、マハにわずかな収入をもたらした。故郷を奪われた難民が、土地を持たないということがどういうことなのかを体で理解した。ビリン村での十日間にわたるオリーブ収穫作業ももちろんしんどいものだったが、地べたに這いつくばってわずかな油のために拾うよりは、その収穫量は労働時間に見合ったものであり、はるかに楽で喜びの大きいものだった。

 マハは実を拾いながら、昔話をしてくれた。長男のカマールが十代の終わりのころ「僕が死んでも、ずっと僕を愛し続けてくれる?」とマハに突然言い出した。マハは直感で分かったそうだ。「ああ、この子は武装組織に加わろうとしている」と。

 「カマールは、兄弟のうちで誰よりも親思い、友達思いで、優しくて、感受性の強い子。父親がああいう姿にさせられた。友達はどんどん殺されていく。故郷がないこと、土地がないこと、貧困が成長した彼自身にのしかかり始めた。そんななかで、家族を守ること、友達を守ること、不正義を正すことは、彼にとっては武装組織の一員となって占領に抵抗することだという結論だった。でも、私にとっては、どんな武装組織も、民衆のことなんて本気で考えてはいない、民衆の血を利用することでしか成り立っていないと思っている。組織の存続や利害関係や、そんなことのために自分の息子の命を奪われてたまるかと思った。だから、カマールが組織に入るのを阻止した。ありとあらゆる方法を使って」

 マハはそう話した。それは、母親の壮絶な覚悟だった。私は、マハのような人の姿こそを追いたいと思う。その声を記録したいと思う。誰にも拾われることのない、「名もなき」小さな声こそを。


▲著作者:現代企画室『占領ノート』編集班/遠山なぎ/パレスチナ情報センター

空爆を加えられている時だけがパレスチナの苦しみではない

 私は、常々、人々の暮らしのなかからみえるものを写し取りたい、伝えたいと思っている。そういう意味で、戦争が起きている、空爆が加えられているときだけがパレスチナの苦しみではないと思っている。だからこそ、迷惑をかけながら民家に居候して、その暮らしに溶け込み、「家族」の一員となって、その声を拾い続け、姿を追い続けている。

 こんなやり方では、人々の注目を集めることは難しく、また多くの人に伝えることは難しいことも分かっている。何百人も殺される「目に見えやすい」悲劇、ニュースほどには、その日常に目を向けてはもらえない。それでも、物事は、その日常に本質があると思っている。空爆だけが苦しみではない。封鎖が続くこと、入植地に自分の土地を奪われること、自分の土地ですらも自由に井戸も掘れないこと、イスラエル社会のなかで「同化」しようともがくイスラエル国内のパレスチナ人の存在…そこには多くの苦しみがある。

 私は、できるだけパレスチナの人々に親しみを感じてもらいたい、難しい宗教戦争などでは決してなく差別と抑圧と人々の尊厳の問題なのだということを感じてもらいたいと、各地で写真展やスライドトークをおこなっている。岩上さんとの出会いも、そんな会場のひとつだった。

 2010年拙著『パレスチナ・そこにある日常』出版記念写真展として、那覇市の国際通り裏にあるバー&ギャラリー「土」で同名の写真展を開催した。それは、2009年に、沖縄の読谷村在住の彫刻家・金城実さんのアトリエでその作品を撮影しているときに、同時期に取材に来られていた映画監督の西山正啓さんの紹介で実現した。「土」のオーナーのごうさんとは、以前に実さんのアトリエでお目にかかっていた。ごうさんは写真展開催を快諾してくださるだけでなく、それまで開かずの間と化していたシャワー室を片づけ、期間中、二階に居候させてくださった。岩上さんは、そのとき知事選の取材に来られていたようで、「土」に来られたことが出会いだった。そのご縁で、今、IWJに寄稿するためのこの原稿を書いている。

 そもそも、実さんとの出会いもパレスチナに関係していた。ある出版社のPR誌に連載していたパレスチナのルポを読んだ編集者から、「パレスチナの話をうかがいたい。そして金城実さんの彫刻作品集を出版するためのカメラマンを務めてほしい」と連絡があり、下見のために実さんに会いに行った。そして、その作品にも実さん本人にも圧倒された。「日本にもこんな大きな心、広い視野を持ち、覚悟をもって闘っているひとがいたのか」と。

首相官邸前に立つ

 そのまま月日は流れ、パレスチナやエジプトやアフガニスタンと日本を行ったり来たりするなかで、安倍政権になり、集団的自衛権の行使が憲法解釈でなされるということに傾いていった。私は、その報道をテレビや新聞で目にしながら、どんどん「このままではいられない」という気持ちになっていった。

 集団的自衛権の行使容認の閣議決定を翌日に控えた6月30日、「わたしには自衛隊員の弟がいます/そしてアフガニスタンに大切な友がいます/集団的自衛権の名のもとで弟に友を殺させたくない/殺されたくない」と書いた紙を掲げて官邸前に立った。もし行くのだとすれば、覚悟をもって命令に従い、攻め入る弟の命の問題だけでなく、むしろ何の覚悟も準備も、もちろん何の非もなく「集団的自衛権」のもとに彼らに突然奪われる可能性のある異国の友の命の問題を訴えたくて。

 官邸前に立つ前夜、考えれば考えるほど眠れなくなって、居ても立ってもいられず先に書いた訴えを紙に大きく書いてはみたけれど、実際にこれをプラカードがわりに掲げて立つ勇気があるのか、土壇場まで悩み続けた。決まって浮かんでくるのは、板挟みになる母の苦渋の顔。うちの家族内では、今に始まった議論ではない。弟が自衛隊に入ったときから、私はこの可能性を危惧し続けてきた。遅かれ早かれアメリカの戦争に引きずり込まれていくのではないかと。

 そして、私はアフガニスタンの子どもたちの学校教育を支援するNGOのボランティアスタッフの一員として活動するようになり、2007年に初めて現地を訪れて、多くの大切な友達ができた。支援活動を通した十年以上にも及ぶ子どもたちとの付き合いのなかで、その成長を見守ってきた。その大切な子どもたちが、自分の弟に命を奪われるかもしれない。極論だとは分かっていても、それは耐え難いことだ。

 アフガニスタンの一番の親友アクバルは、2008年にタリバンが仕掛けた遠隔操作の爆弾で爆破され、瀕死の重傷を負った。借金に借金を重ね、必死にリハビリをして日常生活をなんとか取り戻す努力を続けてきた彼には、不自由な脚という大きな後遺症が残った。そして、そのことは彼にできることの範囲を狭め、人生の可能性を狭めた。

 最初の数年はまだ良かった。彼も社会復帰のために懸命で、他のことを考える余裕がなかったから。しかし、月日が流れると「なんで生き残ってしまったんだろう」と無表情につぶやくようになった。ただでさえ産業が育っておらず、失業率も高いアフガニスタンで、不自由な体を抱えて生きていくということは、想像を絶するほどの困難があるのだろう。ただただ見守ることしか出来なかった。

 そのアクバルが、ようやく最近また昔のように笑うようになった。難しいとは分かっていても、それでも人生の目標を口にするようになった。不自由な体を言い訳にせずに、困難なことに挑もうとし始めた。その姿を見ていると、もう二度と、彼の希望を奪うことは許されないという気持ちになる。誰よりも平和を願うのは、彼のように戦争で傷ついた、傷つけられた人々自身だと痛感する。だからこそ、弟がその希望を奪う日が来るかもしれないということに、全力で反対しなければならないと思う。

 それでも、私の心から、悲しそうな母の顔は消えなかった。「もしも弟がアフガニスタンで誰かを殺すようなことに加担したら、私は一生彼を許さない」と、何度も母にぶつけてきた。そのたびに母は悲しそうな顔をした。

 私が国家の決めること、国家の進む道に異を唱えて表明すれば、それは弟に迷惑をかけることになるかもしれない。本当に家族に迷惑をかけてまで、表明する、声をあげる覚悟はあるのか? そんなものは自分のエゴではないのか? と、一昼夜自分自身に問い続けた。でも、結論は「どんなことよりも命が大事」ということだった。

 抗議行動に参加する前日、一昼夜悩むなかで何度も思い出した金城実さんの言葉や覚悟が私の背中を押してくれたともいえる。実さんは、ご自身のお父さんの盛松さんが志願兵として戦地に行き、ブーゲンビル島で戦死され、幼い実さんを遺して逝ったことを「犬死」だとして、その死の意味を問い続けている。

 盛松さんの信念は「立派な日本人としてお国のために働けば、沖縄に対する差別はなくなる」というものだった。だからこそ「実を立派な日本人として育ててくれ」と、妻の秋子さんに言い残した。靖国神社に「英霊」として祀られた父、その父を思い、6月23日に涙を流す母のことを、実さんは「それでいいのか?」と問う。

 「戦後も結局、基地を押しつけられた。沖縄の民意は踏みにじられ続けた。沖縄に対する構造的な差別は変わっていない。戦争中本土を守るための捨て石とされたことと何も変わっていない。父親は犬死だ」と。これからの抵抗のために、自らの肉親の死すらも厳しく問う実さんの覚悟から、私はたくさんのことを教えられた。

 ガザへの空爆がおこなわれ、多くの方々が犠牲になっている。パレスチナから刻々と情報や連絡が入ってくる。とうとう17日には地上軍がガザへ侵攻を始めた。


▲金城実作「生ぬるい奴は鬼でも喰わない」――2014年7月撮影

 パレスチナの友達、特にガザの友達から、悲鳴のようなメッセージが届くたびに、実さんに会うための大阪行きをあきらめた方がいいかとも思った。できるだけ情報収集に没頭したいとも思った。しかし、こんなときだからこそ実さんに会いたい、自分の立っている場所で抵抗を続けることの意味を再確認したいと思い、大阪行きの夜行バスに飛び乗った。

 そもそも今回のことの発端は、ヘブロン郊外で入植者の青年三人が何者かに誘拐され、殺されたたことだった。この「入植者誘拐殺人事件」について、すぐに「ダウラトアルイスラミーヤ」という組織が犯行声明を出したが、これは無視され、イスラエルは「ハマスの仕業」だとして、ヘブロンをはじめとする西岸地区全土で「捜索」を開始、それに対する抗議行動を行った青年たちが射殺されはじめた。

 そして東エルサレムのシュアファットに住む16歳の少年ムハンマド君が「誘拐殺人事件の報復を」「アラブ人を殺せ」と公言する右派の入植者たちに、生きたままガソリンをかけられ、飲まされ、焼き殺された。

 イスラエル軍、警察による「大捜索」のなかで、事の発端となった「入植者誘拐殺人事件」はハマスの活動家が容疑者とされ、西岸地区では多くのハマスの活動家が連行され、ガザ地区からはロケット弾がイスラエルに飛ばされ始めた。そして、イスラエルは、このときを待っていましたとばかりに、大規模な空爆を始め、民家や学校や病院も標的にして多くの民間人を巻き添えに殺しつづけている。

 私は、「入植者誘拐殺人事件」が起きたとき、このタイミングに妙な違和感をおぼえた。まるで、先ごろ発表されたファタハとハマスの統一政府づくりを潰すために仕組まれたかのようなタイミングに思えたからだ。

 そして日本政府は、よりによってこの時期、7月5日から9日にかけて、イスラエルを訪問して経済協力促進の合意をする茂木敏充経産相を送り出した。武器輸出三原則を廃し、防衛装備移転三原則に看板をすげ替え、イスラエルのような国にも武器、兵器の輸出や関連の技術協力を始めようとしている。まさに、そのことを再確認するためのイスラエル訪問。カネ儲けが一緒にできれば、占領して人権を無視して多くの一般市民の命を奪っている国だろうが構わないのだろう。少なくとも、周囲からはそのようにみられても仕方がない。そういう一歩をこの国は踏み出してしまった。根拠もあやふやな「国益」のために。

 このことによって、日本人にとってもパレスチナでの出来事がますます他人事ではなくなっていく。もちろん、今までも無関係でいられたわけではない。米軍基地が日本にあり、日本の技術が戦争やガザの占領にも寄与している限り、間接的には関係してきた。しかし、これからは経済的にも軍事的にも、直接日本がこれらの事柄に関わるようになる可能性が高い。

 ガザからは、毎日のように多くの叫びが届き続ける。これからは、私たち自身が直接この悲鳴の元凶となり、苦しみを直接与えることに加担していくのだ。

 ガザに暮らす友達が、たまたま仕事でガザを離れていて、エジプト側のラファハからガザに戻ろうとしたら国境が閉じられていて、入れなかったそうだ。なすすべもなく自分の家がある地区が空爆されている情報を受け取り続けているその苦しみ。彼から「お願い。誰か止めて。あそこに家族がいるんだ」という言葉が届く。その叫びに心がえぐられる。

 また、ガザに暮らす、会ったことのないSNS上の友達からもこんなメッセージが届く。

 「僕はもうここで死んでしまうかもしれない。だから君たちに伝えたいんだ。ここで出会った君たちの存在は僕にとって本当に大きな意味を持つもの。ただのSNS友達なんて思ったこともない。大切な存在。みんなのことが大好きだよ」と。

 自分がひとりではないということが、どれだけ彼らを勇気づけているかということをほかのパレスチナ人の友達からも何度も聞かされてきた。みんなが繋がろうとしてくれている、みんなが見守ってくれている、自分はひとりで闘っているわけではないと思うことこそが、最大の勇気になるのだと。

 空爆開始から三日目、ガザの友達から「爆撃のなか、ここにいるみんな、疲れ果てているのにとても眠れない。もう何十時間も。頭が痛いよ。疲れ果てたよ」という言葉が届く。同じころ、東エルサレム在住の友達は「ああ、いまロケット警戒のサイレンが鳴っている。アッラーフアクバル」と連絡をしてくる。そしてパレスチナから発射されたロケット弾がエルサレム近郊に着弾。友達は少し興奮気味に「やるなあ、ハマス」と言う。私はてっきり自分達も巻き添えになるかもしれない苛立ちをみせるのかと思っていた。占領下で暮らすパレスチナ人の複雑な心持ちに触れた気がした。

 そして急にパッタリとガザの友達と連絡が取れなくなり、SNS上でもガザの人たちからの投稿がなくなる。ガザの外にいるガザに家がある友人と連絡を取り合い、彼にも確認してもらう。ガザではインターネットが遮断されるという噂は本当なのか? 情報の遮断されたガザで、いったいどんなことがおこなわれるのか?と胃がキリキリ痛む。数時間後、停電と一時的なネットの遮断との情報がガザから。ガザの友達と数時間ぶりに連絡がつく。

 「そうやっていろんな可能性を考えて心底心配してくれる友達が外にいるなんて本当にありがたく、心強い。ありがとう、いつもガザの僕たちを思ってくれて」と。

 携帯電話からそう返信があった。

 ハマスのロケット弾は、今回は発射の数も多く、射程距離も長く、思いのほか正確な狙いが付けられていることが分かってくる。もっとも、発射しているのがハマスとは限らない。

 ガザの女性から届いた言葉が胸に突き刺さった。

 「私は、もう疲れたと感じたり、泣き出したくなったり、ベッドに倒れこみたくなったり、すべてが終わるまで眠っていたくなったりするとき、たまらなく罪の意識を感じる。だって私の家族はまだ殺されていないし、家も爆撃されていないし、私自身まだ怪我もしていないし、生きているから」。

 感じる必要のない罪の意識。そして私自身が、安全な日本からこの虐殺を止められもせず眺めているという罪の意識にさいなまれる。

 エジプト政府が仲介しようと停戦案を出したが、この停戦案で失うものなど何もないイスラエルはそれを受諾することを閣議決定した。イスラエルにとって停戦が成立すれば、またそのまま封鎖と占領を続けていれば、遅かれ早かれ「武装組織」の抵抗が始まり、またその機会を利用して叩けばいい。ハマスが停戦案を受け入れなければ、「イスラエルは受け入れたのにハマスがそれを蹴った。悪いのはハマスだ」と更なる攻撃を正当化できる。批判的な世論をひっくり返せる。

 一方ハマスは、その停戦案では、結局封鎖も解除されず、占領は続くだけだとして、その案の受諾を渋った。そのあいだにハマスの軍事部門やイスラム聖戦などが拒否を表明した。仲介をしようと試みたのが、アメリカからの軍事援助に首まで浸かった、国境の閉鎖を通じてイスラエルによる封鎖の求めに応じて協力しているエジプトのシシ政権だということを忘れてはならない。

 そして現地時間の17日夜、イスラエル軍の地上侵攻が始まってしまった。民家だけでなく病院や学校も空爆の対象になっている。ピンポイントで攻撃できる「能力」のあるイスラエル軍が、病院や民間人を避ける「能力」がないはずがない。「もう、いったいどこへ逃げろというの?」という悲鳴のような声が現地からまた届いた。

 世界で飛び抜けた軍事力をもつ、唯一の軍事超大国・アメリカと強固な関係を維持していれば、どれだけ罪なき人々の命を奪っても、国際法を無視しても、何をしても「自衛」として許される。イスラエルは、横暴を重ねることで、そうした不条理な国際社会の現実を見せつける。

 一方、国なき民は、自衛にもならない自衛を試みようとするたび「テロリスト」と断罪され、虐殺される。対岸の火事ではなく、今だからこそ、私たちも「自衛」という言葉の意味を、集団的自衛権の行使を、真剣に考えて議論していく必要がある。

 空爆や地上侵攻に反対して止めるだけでは、パレスチナの人々の苦難は何も解決されない。目に見えやすい空爆や侵攻や虐殺だけでなく、日常の常態化した占領や封鎖を解決しなければ、これから先も何度でも同じことを繰り返し、そのたびに無辜の命が奪われていく。

 16日、空爆開始以降に殺された方々は227名、1678名の方々が負傷されたと保健省の発表があった。現在もこの数は増え続けている。その同時刻にガザからSNSに投稿された言葉をご紹介したい。

 「あなたがたがこの虐殺を止めようとしてくれるのに必要な血は、まだまだこれだけでは足りませんか?」

 この言葉に、私たちはどう応えるべきなのかが問われている。

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20件のコメント “【IWJブログ・特別寄稿】パレスチナからのか細い声~パレスチナに通い続ける女性フォトジャーナリストからの報告(写真家・高橋美香)

  1. 難しい宗教戦争などでは決してなく差別と抑圧と人々の尊厳の問題なのだ

  2. ☆凝縮した内容でパレスチナ人の置かれている状況が判ります

  3. 難しい宗教戦争などでは決してなく差別と抑圧と人々の尊厳の問題なのだ!

  4. 高さ8mの分断壁が建っているパレスチナの人々はそこから出ることができない。

  5. 切々と伝わるブログ。悲惨な現実に言葉を失った。

  6. 集団的自衛権はともかく武器輸出三原則の撤廃は阻止したいです。

  7. 次のイスラエル大使館前スタンディングの時は美香さんの想いを胸に立つ

  8. 「空爆や地上侵攻に反対して止めるだけでは、パレスチナの人々の苦難は何も解決されない。」

  9. どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?〜清志郎の訳詞を思い出した

  10. *現在、実行されている信じ難い空爆のニュースの真相に迫れる長文。

  11. ~高さ8mの分離壁 人々は「パレスチナ全体が出口のない監獄」と~

  12. 「貴方方がこの虐殺を止めようとしてくれるのに必要な血は、まだまだこれだけでは足りませんか?」

  13. 必読な内容。パレスチナの人々の苦難と苦境がリアルに書かれてる

  14. 「難しい宗教戦争などでは決してなく差別と抑圧と人々の尊厳の問題」

  15. 自分の手が血に染まる前に、誰かの手が自分の血に染まる前に耳を傾ける

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