2013年8月25日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で行われた「市高教第49次夏季教育研究集会」の記念講演は、村田三郎氏(阪南中央病院副院長)がスピーカーを務めた。「残念ながら今日の話には、2年半前にこの勉強会で話したのと同じ内容のものが、だいぶ含まれる」。労働者被曝や低線量被曝の問題に長くかかわってきた村田氏は、福島第一原発事故発生から2年半が経過した今もなお、改善が見られない、被災地の放射能被害の状況を憂えた。広島・長崎の原爆被害時にあった「弱者切り捨て」が、福島でも始まっているとの訴えは、集まった人たちの耳目をさらった。
- 講演 村田三郎氏(阪南中央病院副院長)「広島・長崎、水俣、福島を通して見えるもの~原爆・公害・原発事故における被害と差別」
「今から2年半前にも、この勉強会でスピーチした。それから状況が良くなったのかと言えば、あの時、発生が心配された問題は実際に起こり、しかも、まったく解決されていない」。「あの時」とは、福島第一原発事故発生直後のことを指す。村田氏は、政府の事故収束宣言を吹き飛ばす危険な状況が、福島に続いていることを強調。「ここにきて、汚染水問題も表面化し、その深刻化を知らせるニュースが連日のように流れている。状況はむしろ悪化しているのではないか」と重ねた。その上で、原発再稼動の機運が高まっていることや、ベトナムなど海外への原発輸出に拍車がかかっている現状を鑑みて、「今の日本では、原発事故前への(メンタリティーの)逆行が起こっている」と懸念を表明した。
原発被曝者にも「受忍」を強いるのか
「日本政府が、米国政府に補償を要求しなかった理由は、日本が敗戦国だったから、だけではない。当時すでに、日本の政府が原子力の利用に前向きだったことが大きい」──。村田氏は、米国が1954年にビキニ環礁で行った核実験で、周辺海域で操業中だった第五福龍丸など1000隻を超える日本漁船が被曝した件に言及して、日本が米国に「補償」という名目で十分な額を要求しなかった理由を、こう推察した。
そして、1945年の広島と長崎の原爆被害で、内部被曝を含む放射能被害を過小評価した日本政府の姿勢にも、同じ事情が反映されていると指摘。「原発の推進が念頭にあったために、当時の日本政府は内部被曝者を軽視したとみられる」とした。村田氏は「福島の今後を占う上で、当時の日本政府の対応を検証することが有意義だ」とも述べ、「当時、原爆で死の灰を浴びた市民は、『国の戦争責任に基づいて被爆援護法を制定し、自分たちを補償してほしい』と国家補償を求めた。だが政府は『受忍論』でこれを突っぱねた」と説明した。
非常に有用な講演会でした。