「力ずくの強制連行はなかった」という安倍総理の発言を覆す、日本軍による拉致監禁・性暴力の証言者へ ~岩上安身によるインタビュー 第330回 ゲスト 日本軍による拉致監禁・性暴力の証言者 2013.8.12

記事公開日:2013.8.12取材地: テキスト動画独自
このエントリーをはてなブックマークに追加

(IWJテキストスタッフ・富田/奥松)

特集 戦争の代償と歴史認識

※全文文字起こしを掲載しました(2013年10月15日)

 「私は逃げ遅れてしまった。そして1人の日本兵に腕をつかまれた。彼らが駆ってきたトラックに強引に乗せられ、連れて行かれた」──。

 2013年8月12日(月)、東京都港区のIWJにて、岩上安身によるインタビューに応じたフィリピン人元従軍慰安婦のエステリータ・デイさんは、自分が拉致された状況をこのように説明。慰安婦の徴用では「強制連行を示す証拠はなかった」という安倍総理の主張は、否定されるかたちとなった。

■イントロ

 現在83歳のエステリータ・デイさんは、14歳で日本兵による蛮行の被害に遭った、と明かしている。連れて行かれた場所は、日本軍の駐屯地だったという。岩上はまず、「日本国内における、いわゆる『慰安婦問題』に関する見方には幅があるが、『慰安婦』というよりも『レイプ』という言葉の方が事実に即しており、そのレイプを、当時の日本軍が集団的かつ組織的に、現地の女性に対し行ったと見るのが正しいと思う」との認識を示した。

 エステリータさんは5人兄弟の4番目。母親は雑貨店を経営し、父親はサトウキビ農園に働く家に生まれた。「お父さんは、私が欲しがるものを、何でも買ってくれた」。一家が暮らす、フィリピンの西ネグロス州のタリサイという町に日本軍がやってきたのは、彼女が12歳の時である。「日本軍がマニラを占領したというニュースが流れたため、私たちは疎開したが、日本軍は疎開先にまでやってきた」。ただし当初は、日本軍は怖い集団ではなく、「私たちが飼っていたニワトリを見て、物々交換を求めてきた。私たちが応じると、彼らは砂糖や塩・醤油を分けてくれた」。

 「1943~44年、私と母親は、日本軍の飛行場で働いていた。1日働くと500グラムの米がもらえた。ある日、アメリカ空軍がビラをばらまいた。英語で『ここで働くのはやめなさい』と記されていた」。エステリータさんは「アメリカ軍がフィリピンに接近しつつある、とのニュースが流れると、日本兵は一気に残虐になった。日本軍がゲリラの襲撃を受けてからは、一般のフィリピン人を取り締まるようになった」とし、声を震わせて、次のように振り返った。「10月か11月のある日、ライフル銃を携えた日本兵が、ゲリラ容疑で捕まえたフィリピン男性たちを市場の近くにある広場に連行してきた。日本兵は、捕まえた人たちの首をはねたり、ライフルで撃ったりした。居合わせた市民は一斉に逃げたが、私は足をすべらせ逃げ遅れてしまった。そして、1人の日本兵に腕をつかまれた。彼らが駆ってきたトラックに強引に乗せられ、連れて行かれた」。

 連れて行かれたのは、タリサイにある、もとは砂糖工場だった日本軍の駐屯地だという。エステリータさんは「すぐに一角にある小屋に押し込められ、1人の日本兵が入ってきて私を押さえつけてレイプした。そのあと2人の日本兵、その後も数人にレイプされた。さらに別の日本兵がレイプしようとしたので抵抗すると、壁に頭を打ちつけられ意識を失った」と証言。目が覚めると、そばにいたリンダという名の女性に「抵抗するな」と忠告されたという。岩上が「無理に連行されたフィリピン人女性は、あなた以外にもいたのか」と尋ねると、「トラックには、ほかにも女性が乗せられていたが、彼女たちは別の場所に連れて行かれた」とエステリータさんは答えた。

 「翌日も日本兵が小屋にやってきたが、日本語がわかるリンダさんが『この子は体が弱っている』と説明してくれたため、無事だった。が、3日後から、またレイプが始まった。3週間後にアメリカ軍が来て、解放された」。岩上が「強制連行した日本軍の部隊名を覚えているか」と問うと、エステリータさんは「日本語が理解できなかったため、わからなかった」と答えた。

 さらに岩上が、「当時の日本軍は『欧米の帝国主義からアジアを解放するために戦っている』と称していたし、今日でも、そう主張する日本人がいる。あなたは、彼ら日本兵に『解放軍』のイメージを抱くことができたか」と質問した。エステリータさんは「実際は、そうではなかった。日本軍は、むしろ『戦争』を仕掛けてきた。敵でもない私たちに酷いことをした」と静かに怒りを表明。「日本軍から、金銭など対価的なものは支払われてはいない。当時、私はまだ学生だったが、日本軍は私から勉学の機会を奪ってしまった。戦争が終わり復学したが、小学6年生までしか学校に通っていない」と訴えた。

 「つらい体験を忘れたいと思い、1949年にマニラに出稼ぎに行った。翌年、夫になる男性と知り合い、6人の子どもが生まれた。夫はすでに他界したが、自分が戦争中に被害に遭ったことを、伝えることはできなかった」とエステリータさんは語った。「そして、ある日ラジオで支援団体が『被害者のフィリピン人女性は名乗り出てほしい』と呼びかけているのを聞き、それに応じた。1993年のことだ」と、告白の経緯を話した。「もともと、私の被害を知っていたのは母親だけ。自分の子どもたちへの説明は、名乗り出たあとのことだった。彼らは『お母さんは、あくまでも被害者なのだから』と理解を示してくれた」。

 インタビューに同席した支援団体「リラ・ピリピーナ」のレチルダ・エクストレマドゥラさんは、同団体が確認した被害者の数は計174人、そのうち73人は他界しているとし、「エステリータさんのケースは、ほかの被害者に共通する部分もあるが、被害にあった場所はさまざまで、細かな被害状況は個々で違う。屋外でレイプされた例もある」と話した。岩上の「フィリピン人女性が、お金を稼ぐために慰安婦になったケースはあったのか」との質問には、「われわれが知る限りでは、そういうケースはない。174人は全員、強制連行され、レイプされた」と語った。

 岩上が、旧日本軍が慰安婦問題に関与していたのに加えて、そこに「強制性」があったことを認めた、1993年の「河野洋平元官房長官談話」に触れると、レチルダさんは「われわれは、河野談話を一定程度は評価している。ただ、河野談話は実質的な謝罪ではなく、あくまでも道義的な責任を果たすための、ひとつの表明に過ぎない」との認識を示した。それに対し岩上が、「では、どういった謝罪がベストなのか」と問いかけると、レチルダさんは、1. 本人のみならず、被害者遺族や被害を与えた国への正式な謝罪、2. 日本の教育現場で慰安婦問題をきちんと教えること、3. 合法的な補償金の支払い──の3項目を挙げ、「これらを日本の政府が実現させ、正義が回復することを、われわれは切に望んでいる」と述べた。

―― 以下、全文文字起こし ――

(…サポート会員ページにつづく)

アーカイブの全編は、下記会員ページまたは単品購入より御覧になれます。

サポート会員 新規会員登録単品購入 550円 (会員以外)単品購入 55円 (一般会員) (一般会員の方は、ページ内「単品購入 55円」をもう一度クリック)

「「力ずくの強制連行はなかった」という安倍総理の発言を覆す、日本軍による拉致監禁・性暴力の証言者へ ~岩上安身によるインタビュー 第330回 ゲスト 日本軍による拉致監禁・性暴力の証言者」への5件のフィードバック

  1. しぶやのぶこ より:

    このおばあさんは、そんな大きな間違いは言ってないだろう。
    被害者の生の証言を直接聴けたのはよかった。
    売春ではなく、レイプや拉致・現地人虐殺がフィリピン中で、起きていたことは間違いない。

  2. coo より:

    これは 慰安婦の話ではなく拉致監禁、婦女暴行の事件ではないでしょうか?
    エステリータ・デイさんを元慰安婦などと呼ぶのはおかしくないですか?犯罪被害者でしょう。
    彼女の名誉の為にもこういう事件があったという事実は明らかにして記録すべきです、されていないのでしょうか?
    ご本人がどこに連れて行かれたかわからないとしても米軍に解放されたのならば米国に記録されているはずです。

    現在の沖縄などでも事件は起きているのですから 戦時にはこういう悲劇が多く起こっていた事は間違いありません。
    でもそれと 慰安婦問題を同列にすることはかえって問題をより複雑なものにしてしまう危険を感じます。

  3. 坂上 かよ子 より:

    貴重なお話を、ありがとうございました。
    同じ女性として一母親として胸が、締め付けられる思いでした。
    従軍慰安婦なんていうオブラートに包まれた言葉で処理をしようとして来たことが、とても恥ずかしく思えました。

  4. Appunpun アサクラ より:

    私も、この方のインタビューは、従軍慰安婦の強制連行の事実を証明する話では無いと思います。
    少しの間違いでも、慰安婦問題をうやむやにしたい者たちには、格好の攻撃材料となります。
    デマだなんだと文句付けられないように、配慮願います。

  5. うろこ より:

    >従軍慰安婦の強制連行の事実を証明する話では無いと思います。
    >デマだなんだと文句付けられないように、配慮願います。

    デマだと歪曲されない為には以下の点を強調すればいいのではないでしょうか?
    1.「慰安婦」と呼んでいるのは日本だけ。それ以外の国では「性奴隷」。日本軍による「強制連行、監禁、レイプされ続けた」という経験をもつ人は「慰安婦」と同じ。
    2.「慰安所」は当然部隊と共に移動して、世界各地につくられて消えていった。「慰安婦」もいっしょに移動させた例もあるが、捨てていった例も多い。これはその典型的な例ではないか。
    3.末期や辺境になってくると、日本軍兵士達が自ら作った「慰安所」も多数あったとされている。(林博史教授の話)「俺たちで女さらってきて「慰安所」つくろーぜ」みたいなもんでしょうかね…

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です