日本最西端に位置する沖縄県・与那国島。
人口約1500人の小さな島に、2016年3月28日、陸上自衛隊「与那国沿岸監視隊」が発足した。付近の艦船や航空機を地上レーダーで監視する。防衛省は同日、与那国島で隊旗授与式を開催。式で、小川清史西部方面総監は「強固な南西地域の防衛態勢を構築するのは、わが国の防衛意思を示すものだ」と訓示した。
発足前日の27日、与那国島の駐屯地を視察した中谷元・防衛大臣は、隊員を前に「与那国島への陸自配備は厳しい安全保障環境の中、防衛の空白地域を埋め、大きな意義がある。国境を守り、地域から頼られる自衛官として活躍してほしい」と呼びかけた。
沿岸監視隊は南西諸島の防衛を強化する、いわゆる「南西シフト」の先駆けとして配備されたが、中谷大臣は視察中、「南西諸島ってどこまでかな?」などと発言。周囲に「(南西諸島は)奄美、鹿児島も入ります」と進言されると、中谷防衛相は「あっ、鹿児島…」とつぶやき、無知、無関心を露呈した。
今後、約160名の隊員とその家族94人が与那国島で暮らすため、島民の約6分の1を自衛隊関係者が占めることになる。選挙や住民投票など、住民の意思決定に大きな影響力を与えるとも考えられており、不安視する地元の声もある。住民投票で受け入れを決定したとはいえ、賛否は拮抗した。所管の大臣がこの調子では、そもそも本島に自衛隊の配備が本島に必要だったかも疑わしく、住民の不安は増すばかりではないか。
今回、現地で取材を重ねた与那国島在住のIWJ中継市民・猪股哲さんより寄稿をいただいたので、ここに掲載する。
(IWJ編集部)
与那国島在住歴13年、宝石のような島の魅力と、ある「違和感」
私は13年前、縁あって与那国島へきて以来、人生の三分の一をこの島で過ごしています。与那国島での最初の印象は、海洋に散りばめられた宝石のような島だと素直に圧倒されたのを、鮮明に記憶しています。
与那国島が多くの観光客を受け入れながら魅了しているのも、自然のかけがえのない魅力ではないかとではないかと思います。私が与那国島と出会った初夏の4月、熱帯の太陽の下で輝いている命は、緑濃く鮮烈な色を放っており、海はどこまでも深い蒼を湛え、島を渡る風は清浄な海の息吹そのものでした。
しかし、一方で違和感も感じていました。島のあちこちで砂埃を巻き上げながら重機が走り、たくさんの工事をしていました。何の必要があって工事をしているのか感覚としてはわからないのだけれど、工事現場には沖縄県や国の予算で発注したことがわかる看板が立っていました。
豊かな自然と、他方で容赦なく行われる破壊。それを人々が自らの手で行っている、当時の私にはそのギャップが腑に落ちませんでした。
「安全保障」の名で進む自衛隊配備、与那国島での出来事は「最前線からの問題提起」
与那国島と聞いただけで、何かを具体的にイメージすることは、多くの人にとって困難なことだと思います。与那国島の最大の特徴は「地理的な条件」です。
北は鹿児島の奄美列島、沖縄、宮古・石垣島を含む先島諸島と呼ばれる、沖縄のさらに南西に位置する先島諸島の西端が、日本最西端に位置する国境の与那国島です。
与那国島から一番近い島は台湾で、その距離はなんと、わずか111km。隣の行政区石垣島まで127km、那覇まで540km、東京まで2000キロ。北端の北海道から与那国島まで引いた線が3000キロ。そんな紛れもなく日本の一番はしっこに位置する、人口わずか1500名の島が、大きく揺さぶられる事態に直面しました。
それは陸上自衛隊の南西諸島への配備計画です。
日本の安全保障の名において起こっている事態については、与那国島のみならず、石垣島、宮古島、奄美列島も今後、無縁ではありません。
辺野古の問題が全国的にも取り上げられるようになった今、米軍にかわり、今後、自衛隊という組織が私たちの将来にわたってどのような影響を与えるのか、注視していくことが必要です。与那国島での出来事は、むしろ最前線からの問題提起であるとの認識から、この度の陸上時自衛隊沿岸監視部隊の配備について現場から、語りたいと思います。
▲与那国島
ケビン・メアの外交公電をウィキリークスが暴露!「与那国島が台湾有事の際に掃海作戦の拠点になりうる」
私が与那国島に住み始めてから3年後、与那国島が軍事戦略と無関係ではないということを思い知らされる事件が起こります。
2007年6月24日に、当時のケビン・メア沖縄総領事が、米軍佐世保基地から与那国に掃海艦2隻で与那国島の祖納(そない)港に入ってきました。与那国では復帰後、初めてのことです。この小さな島に米軍が入ってきたことは島民を驚かせました。全く青天の霹靂で、米軍に対して抗議などしたことのない住民は港に集まりながらも戸惑っていました。
重要なことですが、国境に住む人々が軍事的な緊張感を常に意識しながら生活しているかと言われれば、全国の皆さんが感じているのとはだいぶ違います。与那国島に限られた特異な感覚と言われればそれまでかもしれませんが、皮膚感覚として、日本中で喧伝されるような、「隣国の脅威」の話は聞いたことがありませんでした。
島の海んちゅのおじーが洋上で台湾の船と物々交換したとか、自慢げに話すのを聞いたことが何度もあります。この外国との交流はいつも笑顔で話すネタで、憎しみとか怒りの文脈で語られることはありませんでした。そもそも海に対する所有の概念がないのだと思います。戦後の密貿易の「ケーキ時代」を経験した人間には、現在の不自由な経済交流の足かせを振り切って海外と交流した、力強い記憶すらあります。
むしろ権利を主張して線を引きたがる感覚は、おそらく今でも希薄であろうと思います。彼らは「サバニ」と呼ばれる小さな船で外洋に漕ぎ出し、数百キロのカジキを命がけで釣ってくる、海に生きた人々です。「海は誰のものでもない」という、日本人が失いかけている共有の感覚が、与那国島の海んちゅにはありました。
しかし後に、与那国漁協を中心として自衛隊誘致に大きく舵を切ります。
この掃海艇寄港の理由は、ケビン・メアの外交公電がウィキリークスによって公表された内容によってわかりました。文書を拾うと、メア氏は、「祖納港は掃海艦が接岸するのに十分な深さがあり、一度に4隻が入れる」「港近くにある民間空港を利用して掃海艦を支援するヘリコプターも展開すれば、与那国島が台湾有事の際に掃海作戦の拠点になりうる」と分析していました。
この事件をきっかけとして、与那国島への自衛隊誘致は、住民を置き去りにしたまま、そして与那国島の陸上自衛隊基地建設は、なぜ空自や海自、その前段階の海上保安庁ではいけないのかという議論を飛ばしたまま、加速度的に進みます。
「選挙によって民意は示された」?「与那国沿岸監視隊」が配備されるまでの歴史
掃海艇の与那国寄港から1年後、自民党・佐藤正久参議院議員を含む防衛関係者の来島が増え、2008年6月与那国防衛協会が発足。石垣や宮古でも同様にそれぞれ防衛協会が作られ、住民からの要請で自衛隊の誘致が進むという方程式が作られ始めました。防衛協会は自衛隊誘致署名514筆を集めますが、この署名の信憑性に関し議会で公開を求めるも、町長は拒否。未だこの署名は闇の中です。
2009年6月町長・町議長らが与那国島への自衛隊配備を防衛省へ要請。7月自民党の浜田防衛大臣が与那国島視察。同年9月与那国町長選挙において外間守吉氏再選。「自治と自律の島」などを目指すとした「与那国自立ビジョン」の策定に深く関わっていた田里千代基氏をくだしました。
2010年12月に閣議決定された「新防衛大綱」では、南西地域の防衛態勢の強化方針が示され、2011年9月、与那国改革会議が自衛隊誘致反対の署名556筆を集めるも、議会において否決。
2012年7月、条例制定の法定数50分の1をはるかに超え、自衛隊誘致の賛否を問う住民投票の実施を求める署名588筆を町選挙管理委員会に提出。住民のほぼ半数に近いこの署名は、誘致派の非公開の署名とは異なり、与那国町役場の玄関口で閲覧可能になりました。
しかも、署名した個人への圧力が加えられる事件が続出し、署名の取り消し要請も相次ぎます。一方、署名用紙が破られ持ち去られる事件も発生。与那国町議会で条例制定の願いは賛成2反対3で否決。この裏で用地買収など、防衛省の地権者への働きかけは、既成事実が積み重ねられていきました。
2013年3月、町長・外間守吉氏が、自衛隊配備計画を進める国に対し、「迷惑料」として約10億円を要求すると発言。この発言が全国で大きく報道されるなか、町議会において陸上自衛隊沿岸監視部隊に関連した町有地21.4haを防衛省へ賃貸する仮契約が可決。8月与那国町長選挙で、自衛隊配備推進派の外間守吉氏が再選553票対506票の差で勝利、のちに、「選挙によって民意は示された」と繰り返し発言しました。
2014年4月、陸上自衛隊基地建設造成工事着工式典に、小野寺防衛大臣が出席。住民およそ80名の抗議行動により、開場が30分遅れる。小野寺五典防衛相は配備撤回を求める声が地元で根強いことについて、「町長が『反対する住民はほとんどいない』と言っていた。(抗議している人々は)島外からこられたのでしょう」と主張。さらに、自民党沖縄県連副会長・新垣哲司氏が、抗議する地元住民に対して、「ないちゃーは帰れ!」と吐き捨てるなど、問題発言が相次ぎました。
同年9月、与那国町議会議員選挙にて、与野党が3対3の同数で拮抗することに。11月、自衛隊基地建設を問う住民投票条例で、紆余曲折を経て住民投票条例案が可決。2015年2月、住民投票実施、賛成632票対反対445票で、「自衛隊配備に賛成」が過半数を占めました。5月、本体工事が開始されました。
そして本年2016年3月28日、与那国島で、陸上自衛隊沿岸監視部隊編成完結式が行われました。
▲与那国沿岸監視隊・隊旗授与式(2016年3月28日)
9年間でわずか4回しか開かれなかった住民説明会と、投票率「97%」の異常性
これまでの流れを、時系列を説明する形で追っていくとこのような流れになります。その間に住民説明会が行われたのは2011年7月(防衛省主催)、11月(防衛省主催)、2014年2月(与那国町主催)、2015年1月(防衛省・与那国町)の4回だけです。この数少ない話し合いの機会も、上から「ご説明に上がります」として専門家をずらっと並べた、住民の声を封じるためのものだったと思います。
2007年に端を発する、与那国島の歴史上の転換点とも言って過言では無い駐屯地の恒久的な土地使用に関して、9年あまりの間、住民との対話を避けて何をしようとしていたのでしょうか。答えは、民主主義を標榜しながらも、民主的な話し合いのプロセスを徹底的に避けたということです。住民の団体は島内での話し合いの機会を度々要請していたにもかかわらず、行政は最後まで実施しませんでした。
このような経緯で進んでいった与那国島の陸上自衛隊基地ですが、小さな民主主義のモデルケースとしては涙ぐましいほど行動をしていました。
基地の建設に異議を唱える住民に対して、選挙で民意を確認すると言いながら、用地買収や工事はすでに着手されていました。本来であれば、自衛隊基地を与那国島に置くべきか、最初に議論を尽くした後で進められるべき作業が先行して行われていました。そうした土木工事などを通して島の住民の雇用が握られ、次第に反対の声をあげにくい雰囲気が作られていきました。
「すでに作られてしまっているんだから、いまさら基地建設に反対してもどうしようもない」「もう国がやるって言って動いているんだから止まるはずがないじゃないか」
そんな空気が大勢を支配するようになっていきました。
基地建設の是非を問う議論の前に、仮調査や仮契約の名目で既成事実が積み重ねられてきました。陸上自衛隊が与那国島で発足するまで、数回の選挙を経験してきましたが、選挙のたびに争点は曖昧になり、選挙が終わると民意は示されたという開き直りの繰り返しで、議論が熟す前に結論だけが先行したという感は否めません。
このように責任の所在を明確にせず正体不明の空気が支配を始めると、転がっていく先の歯止めが効かなくなっていきます。今年に入り与那国の居酒屋で、海上自衛隊の制服を着た幹部と島の有力者がお酒の席の最後に万歳三唱をしていたなど、陸自の次は海自だと、誘致の署名を集める動きがあるとも聞いています。
度重なる選挙で、住民の声を聞く代表を送り込んで島の政治状況をなんとか改善したいと願っていた住民にとって、自衛隊員とその家族を含め200数十人の投票行動は与那国島の自治にとって壊滅的な打撃を与えることになるのだろうと思います。民主的な選挙を通じたプロセスで島の未来を自律的に変えていくことの困難さに、打ちひしがれ、力尽きた感じはしますが、最後のたった一人になるまで諦めない誰かがいること、どんなに困難であっても、自立の火は与那国島に燃え続けていると私は信じています。
不条理によって打ちひしがれていく人々を間近で見ていると、「もっと頑張れ」とは言えなくなります。沖縄本島でも選挙におけるしがらみの強さは有名ですが、そのさらに上をいっているであろう与那国島は、選挙のたびに苛烈な葛藤の渦に投げ込まれることになり、沖縄でも「最も激しい選挙の島」として勇名を馳せています。
2014年9月の統一地方選挙での、与那国島における投票率は、97%にものぼります。これは健全な投票率ではなく、「異常」な数字です。棄権する自由も、投票する自由も奪われていると見るほうが健全な判断ではないでしょうか。
「分断して統治せよ」?基地建設問題が浮上してから与那国島は「対立の歴史」だった
報道ベースで、注目度も情報量も圧倒的に足りないのは悲しいことですが、1972年の沖縄の日本復帰以来、「沖縄の基地負担の軽減」を中央政府が繰り返し語る背後で、このような自衛隊基地が沖縄に「新設」されるということの意味を深く知ってほしいと思います。
メディアが時間的・金銭的な事情により離島の与那国島まで取材できないこともわかります。大手新聞社は公共性に鑑みて軽減税率を適応されてはいるのですが、今回の式典では、地元に対しては何のアナウンスされていないのが現状です。地元には秘密裏に、国内向けには大々的に大メディアを動員して、南西諸島への軍事基地化の先端を開いた与那国島のことを喧伝するのだろうと思います。
情報力の格差を利用した地方潰しは、今後も続くでしょう。石垣・宮古・奄美へと連なる琉球弧の列島線上に、米軍の下請けとしての自衛隊を配備することは、本来の日本の国防とどのような関係があるのか、真剣に考えるに値するテーマのはずです。今後とも注視しなくてはいけないし、同様の手口で、誰のための戦いかわからない戦いの準備が着々となされてゆくのだろうと思います。
基地建設の問題がこの与那国島に持ち込まれてからは、対立の歴史がずっと続いてきたと回顧します。「分断して統治せよ」という言葉そのままに、小さな島では自衛隊基地をめぐって、中央から制服を着た自衛官が多数来島し、住民の対立が作られていきました。
多くの原発立自治体と同じように、税金やお金や人員を自在に投入できる権力は、強大な力を持っていると肌身に感じました。力で押さえつけられ、もの言えぬ空気が作られていく感覚は、差別の感情なしには語りえぬ悲しさがあります。選挙戦の激しさとダーティーさでは、おそらく日本の中でも屈指の部類に入るだろう与那国島の選挙は、この島の人々をへとへとに疲れさせている反面、勝ち負けを巡る祭りのような狂乱のエネルギーが毎回渦巻き、どこにそんな余力があったのかと、毎度驚かされています。
中央政府が自立を目指す地方に貼った、「非文明的」というレッテル
その狂乱に拍車をかけたのが自衛隊基地の問題である事は間違いないと思います。
早く決着を着けたいという地元の声が聞こえてくるのもよくわかります。しかし、本当の決着が何なのか、私は地方の自立を抜きにしては語れないとの実感を日々強めています。自衛隊誘致の話がわき起こった、2007年から今日まで、町長選挙、議員選挙、昨年2月の住民投票を経て、何かが決着したのだろうか、と自問し、そのたびに首をふります。何も解決していないのに解決したふりをする――これは、日本の劣化した悪しき民主主義の模倣です。
与那国島にはかつて「どぅらい」というアテネの直接民主制にも似た仕組みがありました。大きな問題が起こった時には、広場に人々が集まり女性も子供も意見を表明するのです。大人から子供まで、等しく政治に関わる土壌が、歴史の中で培われてきたのです。
しかし、近代になり、中央の強化に伴い地方の尊厳が削られるようになっていくと、孤高の自立の精神は「非文明的」というレッテルが貼られ、「本土並み、沖縄(本島)並み」という言葉とともに急速に文化が廃れていきます。全ては情報化の流れですが、中国脅威論が本土から逆輸入されたように、沖縄も先島諸島も本土の世論という圧倒的な言語空間に飲み込まれそうになっています。
与那国島で抱いた違和感の正体は「自立」と「支配」が混在する社会の姿
私が最初に与那国島に来島して感じた、腑に落ちないギャップとは、自立と支配が混在する社会の両面を、この与那国島で見たからだと思います。
日本の多様性や文化の源泉でもある海流文化の記憶の入り口が与那国島です。1500名の与那国島に160名の自衛隊とその家族が住むようになれば、政治的な傾向は特定の集団の意向に必ず左右されてしまいます。
日本が日本としての支配の体制を隅々まで完了させる日、日本は日本でなくなる。地方が地方であることを許されなくなり、沖縄は沖縄であることも許されなくなり、先島が先島であることも許されなくなるでしょう。
与那国島は琉球の支配に対して最後まで抵抗した、最後の独立国でもありました。危機感の源泉は自我の喪失の危機で、ひいては日本全体の危機感と同じです。日本の危機を感じる人は右も左も関係なく存在すると思います。単純なハードパワーである軍備の拡充は、国をかえって危うくするのではないかという感覚を覚えます。
※南西諸島との間で交易を行っていたが、16世紀に琉球王朝の支配下に入る。1879年の琉球処分で日本に帰属。植民地となった台湾に出稼ぎに行く人が相次いだ。沖縄戦では日本海軍の監視所が米英軍機に爆撃され、山中に避難した島民約2千人がマラリアで死亡。戦後は台湾と密貿易の形で交流が続いた。日中国交樹立後の1982年、町は台湾・花蓮市と姉妹都市を結んだ。
文化・人材・交流・経済のソフトパワーをこれほど閉ざした上で、国防の議論が、軍事力一つの前提に絞られている時点で全くおかしいと思うのです。二択ではない、第三の道を与那国島は2005年自立ビジョン宣言を議会で承認しました。ビジョンは、基本理念を「自立」・「自治」・「共生」として、与那国島を「県外だけでなく、台湾、中国、東南アジアなど世界の国々と自由に往来する『交流の島』」などと位置づけています。
中央が許可を与えた枠の中でしか振る舞うことを許されなくなる日。いつか人が故郷に誇りを持って生きる尊厳すら自発的ではなくなる。与那国島に押し寄せる圧倒的な力は、国境の島、与那国島の人々の交流を閉ざすことにつながりかねません。
日本の自滅と戦争への一歩を築く歴史の礎ではあってはならない。善隣外交の入り口として国境の島々が機能しなくてはいけないと、軍民混在の地上戦の惨禍に置かれる可能性のある島民の一人として、現場からの報告とさせていただきたく思います。
与那国島の問題は日本が抱えている問題の縮図のように思います。また、与那国島を通して日本を見つめた時に見えてくる視点もあります。今後継続して情報共有を図れればと思います。この度の陸上自衛隊与那国駐屯地沿岸監視部隊入隊式に際して、与那国島より寄稿させていただきました。