今、滋賀県に向かう新幹線の車中。のぞみで名古屋へ→こだまで米原へ→東海道線で南彦根へと乗り換える。昨日、電車の乗り継ぎを調べてくれた事務の若いスタッフが、元気よく「よねはらで乗り換えです!」と言っていた。まあ、「まいばら」は、意外に難読駅名のひとつかもしれない。
これから、弁護士の井戸謙一さんにお会いしに行く。初めてお会いする。
井戸謙一弁護士は、2006年に、石川県の志賀原発2号機の運転差し止め請求を求める裁判で、原告の主張を認める判決を書いたのが、当時、金沢地裁の裁判長だった井戸謙一さんだった。14日に高浜原発の再稼動差し止めを求める仮処分決定が下ったが、その原告弁護団のお一人でもある。
これまでにも原発の建設や運転の中止を求める裁判は数々あったが、わずかな例外を除いて、司法は常に、政財官界におもねるかのように、原発推進という「国策」を推進する立場に立ち続けた。井戸謙一さんは、裁判官として、弁護士として、そのわずかな例外の当事者となった稀有な存在である。
先日の福井地裁の判決が下った際、原告の関係者らは、「司法はまだ生きていた!」と、驚喜した。驚喜したとは驚いた、ということ。司法が生きていたことに驚くとは、多くの人が日本の司法はすでに死んでいる、と思っていたことの裏返しでもある。日本の司法はわずかな例外的存在によって生かされている。
政権与党の権力の濫用と、マスコミへの露骨極まる圧力によって、権力の分立が極めて怪しくなってしまっている今日、司法が行政権力に従属する単なる補強追認機関に成り下がり切って「死んでしまった」わけではなく、部分的にでもまだ生きていて、魂を持っている、ということは、大きな希望である。
司法が長い間、「死せる魂」だった、歴史的な理由を考えると、司法反動の歴史を考えざるを得ない。これは、日本では裁判官が戦争責任を問われなかったことにまで遡る。
治安維持法に基づいて反戦平和主義者を勾留し、有罪判決を下した裁判官は、戦後、誰も責任を問われることなく留任し、裁判官として勤め続けた。こうした根っこのところから、見据えていく必要がある。井戸謙一弁護士は、そう語っている。4時からのインタビュー、そんなお話もうかがいたい。
井戸謙一弁護士との御対談を最大の関心と興味をもって聞きました。「絶望の裁判所」が出てから一年、絶望の中に光が見えてきたように感じました。井戸弁護士のお人柄の中に、、かまえずきどらず、しかし確固たる信念の「生ける魂」を見た気がして、とてもさわやかな気分になりました。。
占領軍の解体を免れたのは司法だけではありません。行政も立法もそっくり生き残ったのでした。解体されたのは陸海軍のみだったのです。そして戦後の改革は極めて不十分で中途半端に行われたと我々世代は今感じています。アメリカ追随、迎合と言う意味ではありません。日本国憲法が実質的に死文化しているのはその中途半端さの象徴です。日本国憲法と言う理想によって我が国は現状を正していかねばならないのです。実体を憲法に合わせるように修正していくことが大切で、決して憲法を実体に合わせるように修正してはならないのです。確か、井戸弁護士もそのようなことをおっしゃっていたように思います。