ドクター「薬を飲んでいるから安定しているのに、発作が起きない状態が続くと安心してしまい、そのうち薬を飲み忘れてしまって、ある日突然、発作が起こる、という患者さんが少なくないのです」と。
忘れてはいけない。今、どこへ行くにも薬と病院での検査データを持ち歩いている。
検査データの中には、帯広でカテーテル検査をした際の心臓の画像のDVDも含まれている。攣縮の痕跡がはっきりとわかる心電図のコピーも。いつか、きっと必要になる、と思って持ち歩いて、実際、2回目(2/25)と3回目(3/3)の救急搬送の際、これが役に立った。2度も3度もカテーテル検査をされたらたまらない。
血圧計も持ち歩いていた。今はもうひとつ購入して、会社においてある。今日は注文していた介護用ベッド(電動で頭の位置が上下できるもの)が届いた。これをオフィスに入れて、自分の座っている机の後ろ、本棚との間に設置した(もちろん、血圧計もベッドも自腹の購入である)。
「とにかく安静にして休むように」と医師に言われる。多くの人からもそう助言される。同じ病気になった、という体験者からもメールが寄せられ、入院して休んだ、自宅で一年間休んだ、などと、休養や静養を勧める声が数多く届く。その一方で、IWJの経営がピンチの現実が目前にある。
「休むべき」というコマンドと、「休んでいたらIWJが潰れる」と、危機を告げるアラームが、同時に鳴り響いている。この分裂を解消すべく、考えたのが、会社で横になりながら、仕事をする、という苦肉の策だ。
「次に倒れたら、即、入院」と、3度目に倒れた時に搬送先の小田原の病院の医師に言われた。すぐ頭に浮かんだのは、病室で横になりながら、いかに仕事をするか、だった。
実際には、病院のベッドでそんなに仕事をすることはできないだろう。しかし、スタッフに指示を出さずに会社が運営できるわけもない。だったらやはり、倒れて入院するわけにはいかない。倒れる前に、横になって安静にすべきだ。
そうだ、病院で横になって仕事をするより、会社で横になって仕事をしよう! 倒れる前に、横になろう。病院に入院するのではなくて、会社に入院しよう。そう思いついた。社長がゴロゴロしていたら、スタッフの士気は低下するかもしれないが、本当に入院してしまうよりマシである。
寝ながら、仕事をするって、事情を知らない人から見たら、ナマケモノにしか見えないだろう。先日、匍匐前進、という言葉を使ったが、本当にそんな姿になってきた。地を這うようにして、じりじりと前へ進むのだ。歩みは格段にのろくなるけれど、確実に前進は続ける。決して諦めない。
もうひとつ購入したのが、ペンダントだ。ロケット、というべきか。首からぶら下げている。ロケットの中身は、ニトログリセリンの錠剤。肌身離さず、お守りである。まさか、映画や小説などでおなじみのニトログリセリンを手放せない身になるなんて、一ヶ月前には想像もしていなかった。
僕は大学の半ば、二十歳の頃に結婚し、子供もつくった。結婚を親に承諾してもらうと同時に、父親から自立して自分でやれ、といわれ、本格的に働き始めた。働きながら、大学へも通った。学費も大学3年から自分で稼いで払い、子供のミルク代も稼ぎ出した。
早稲田は、あの頃は、出席を取らないありがたい教員がたくさんいた。今は出席を義務付け、出席をしない学生に単位を出さないことを当然視するバカな教員がいくらでもいて、このツィッター上でも絡まれたことがある。義務と権利が転倒していることがわからなくなっている。
昼間は働いたり、あれこれ動き回ったりもしていて、落ち着いて本を読むのは夜中だった。その頃から睡眠不足になるまで夜中に本を読む癖がついた(高校からその癖はあったけれども)。六畳一間のアパートである。妻からは迷惑がられる。仕方なくダイニングなしのキッチンで本を読み続けた。
出版社に就職して、編集者になり、そこでもメチャクチャに働いた。一週間徹夜したこともある。そこを辞めてから週刊誌の記者になり、この時も猛烈に働いた。ストレスが溜まる仕事だったので、ストレスの解消のために、本格的にフルコンの空手道場に通い出した。
鬱憤は、すべて サンドバックに向かって吐き出した。仕事の徹夜明けでヘロヘロになっていても道場へ向かった。フルコンの空手道場で、ガチンコの組手を行う。少しでも気を抜けば、ノックアウトされる。入門して早々に、組手で黒帯に上段回し蹴りを叩き込まれて、意識を失った。
学生時代、ラグビーの練習でスクラムの最中に脳震盪を起こし、失神して以来の失態である。今度は、のんきな学生時代の話ではなく、社会人として働いて妻子を養っている時の話である。こんな目に何度もあったら、仕事にならない。そう思ったが、道場通いは、やめなかった。
生きることは文字通り戦うことで、仕事をすることで必然的に抱え込む神経的なストレス(写真週刊誌の記者の仕事は殺伐としていて、理不尽なことだらけで、およそジャーナリズムの理想からはかけ離れていた)を払拭するためには、それをはるかに上回る肉体的なストレスが必要に感じられた。アドレナリンが中途半端に分泌されるイライラを、それをはるかに上回るアドレナリンの分泌で押し流す感じだ。
その週刊誌の契約記者もやめ、完全なフリーになったのは、27歳の時。頼るべき組織がまったくなくなり、未熟なのにひとり身になったとき、自分が太平洋を自力で泳いで横断しようとしている心細い泳ぎ手になったような気がした。ますます、心は張り詰め、休めなくなった。
フリーは、自分の時間が自由になる。組織に縛られず、気楽で、気ままな商売だと多くの人が思っている。実際には、組織に守られず、というのが、実態である。気楽どころか、気は全く休まらない。恒産があるとか、独身だとか、子供がいなくて共働きだったらまた違っただろう。
あるフリーの先輩ジャーナリストに、酒を飲んだ時、「え、岩上、お前、若いのに妻子を養ってるの⁉︎ そんな奴、この業界で聞いたことがない。フリーはだいたい働き者の女房に養ってもらってるか、養われてなくても、食わせてはいない、女が自分で働いてるかのどっちか」と言われた。
先輩のお名前を記しても怒られはしないだろう。吉田司さんである。ご本人は酔っ払っていて、覚えていないかもしれないが。
色々なことがあったが、フリーになって2年後の29歳の時、ペレストロイカのソ連に取材に行くチャンスをつかみ、月刊「文藝春秋」に署名記事を書いた。それをきっかけにソ連へ取材に何度も行くことになった。89年、ベルリンの壁崩壊の年だ。世界が激しく動いていた。
話はもうどんどん飛ばすが、その取材をまとめて本にして、処女作で賞をいただいたり、95年のオウム事件の時には、それなりにスクープもものして、テレビでコメントするようになり、そこそこ使える仕事は順調に積み重ねてきた、ように見えたことだと思う。外からみた時には。
だが、90年代に入り、30代を迎えるとともに、変調をきたすようになってきた。不眠症が始まっていたのである。
それまで、アドレナリンが出るストレスフルな仕事のうさを、空手などで身体をいじめて、さらに上回るアドレナリンの放出で忘れ、肉体を疲れさせて、酒を飲んで眠ってきた。
疲れ果てて、眠って、また猛烈に働き、殴って蹴って、殴られて蹴られて、フリーとして生きてゆくあらゆる不安を全部忘れて眠る、その繰り返しに、身体が耐えられなくなってきたのだ。
ロシアの取材が長くなると、道場へ通うことができなくなる。身体がなまる。ストレスのレベルも違う。
不眠症が始まっていた。それを酒でごまかしていた。さらにモスクワから東京へ戻っている時に、黒帯への昇段審査を見据えて稽古しているとき、右手の拳を骨折した。
いわゆるボクサー骨折と言われるもので、自分のパンチ力に自分の拳の骨が耐えられずに折れてしまうものだ。
右手がハンドボール大に腫れ上がった。ペンが持てなくなった。深刻な事態だった。記者がペンを持てなくなったら、侍が刀を持てないのと同じで、ただの役立たずだ。医者から、この骨折は手術不能と言われた。空手、続けられますか?と聞いたら、まだ、続ける気なんですか?と呆れるように返された。
それが転機になった。それからもしばらくは道場通いを続けたけれども、思い切り踏み込んで右ストレートを打てないようではどうしようもない。左拳と両足だけでは、自ずと限界がある。
また、人間の死に場所は二つはない、どれか一つなのだ、なんのために死ぬのであれば納得がいくかだ、と思い至った。
自分の死に場所は空手か、そうではないだろう。自分が生きるも死ぬも、納得できるかどうかは、ジャーナリストとしての仕事を通じて、全うしてのことだろう。ようやくそうした覚悟がさだまってきた。
道場の先生からは、仕事を辞めて、事務長にならないか、というお話をいただいたこともあったが、ご辞退申し上げた。
結局、自分はこの仕事に打ち込んで、この仕事を死に場所と定めるのだ、と決めた。そうした覚悟が定まってきた30代半ば過ぎ、時代は90年代の後半にさしかかり、バブル崩壊の負の影響が深刻化してきた。出版界は未曾有の不況といわれ、硬派の月刊誌が次々廃刊となった。
80年代までとは明らかに環境が変わってきた。眠れない日々が続いたが、もうアドレナリンを出し尽くすほどに汗をかくことができない。その時間もない。寝酒を飲んで寝るのを繰り返すうちに、体調がおかしくなった。微熱が続く。病院に行って検査をしたら、肝臓の数値が悪いと言われた。
酒を一ヶ月やめるように、と医師に言われた。その通りにすると微熱が止まる。治ったと思って、また飲み出すと、また熱が出る。そんなことを繰り返しているうち、これは酒をやめないと本格的に内臓を壊すな、と思い、酒を絶った。
酒を一滴も口にしないと、体調は改善されたが、ますます眠れなくなった。あれこれ本などを読んで、自分は交感神経優位の不眠症、睡眠障害なのだ、と気がついた。
その頃には、今も続く首や背中や腰の痛みも常態化していた。抵抗があったが、病院に行って睡眠導入剤を処方してもらった。
最近、椎名誠さんが長年、睡眠障害に悩まされ、いろいろな薬を飲みながら今日に至っているとカムアウトする本を書かれた。出版社の編集者時代、椎名さんの担当編集をしたことがあり、精悍な30代の椎名さんに接する機会があった。校正ミスを2箇所して、厳しく叱られた思い出もある。
あの頃の椎名さんも、すでに睡眠障害を患っていたのか、と知って、少し驚いたが、活力に溢れるような椎名さんは、それゆえ僕と同様に交感神経優位になりやすく、睡眠障害に陥ったのかもしれない、と合点もいった。
ともあれ、眠れなくても死ぬわけではない。首や腰が痛くても、死に直結しない。根を詰めて仕事をすれば、睡眠障害も腰痛なども悪化するが、騙し騙し、乗り切ることを覚えた。覚えようとあれこれあがいた。アドレナリンを鎮める方向で、様々な手立てを講じた。ヨガも瞑想も座禅も組んだ。
病と老いと死の三つに直面した40代でもあった。難病で長い間苦しんできた母を、長い介護の末にみとった。その次には父が衰え、その父も介護の後にみとった。その間に妻と別れ、2人の娘を育てた。両親が作った借金の保証人になったため、その借金の返済に火の車となった時代でもあった。
父をみとり、親の借金の清算を全て終えた時期と、娘たちが学校を出て巣立つ時期とが重なった。長い40代が終わり、身軽になって自転車を乗り回し、遅ればせながらパソコンを扱い始め、ネットの可能性を確信し、ホームページをリニューアルして、自由に発信し始めた。
それが2009年。陸山会事件と政権交代の年だった。またアクティブに動くテーマに巡り合っていた。のちにIWJ設立につながる着想はこの頃に育んだものだ。半年ほど、ワークバランスの絶妙に素晴らしい時代を味わったが、あっという間にまた、ワークへとバランスが傾いてしまった。
ツィッターは2010年初頭から始めた。人に言えない苦労を重ねてきた時代と違い、この5年間は何でもリアルタイムで明らかにしてきた。ワークライフバランスは、ワーク、ワーク、ワークになってしまったが、それまでとは違い、苦労は苦労でも、陽気な苦労だった。
IWJを設立して以後も、たくさんの人と交流して、情報だけでなく、心も通わせてきた。楽しかった。苦労はあったが、それまでの陰にこもった苦労とは、まったく性質が違うものだった。
親の借金を背負わされ、返す苦労をしているときには、すでに、毎週、テレビに出る「有名人」になっており、もう誰にもその苦労を打ち明けられなかった。孤独だった。本当に世界の中でたった一人、というほどの孤独を味わっていた。
相談した弁護士は、しきりに自己破産を勧めたが、そんなことは絶対にできなかった。自分だけが自己破産したところで、年老いて認知症に半分なりかけた父親は、担保に家を取られ、行き場を失うことになる。父から、母との思い出の詰まった家を取り上げさせるわけにはいかなかった。
僕は自分の働きだけでは、返済に回せず、金を借りまくった。立派な多重債務者で、すっかりブラックリストに乗ってしまい、アコムやプロミスなどではもう貸してもらえず、どこで嗅ぎつけたか、闇金からの誘いが毎日やってきた。ドロップアウト一歩手前だった。
こんな境遇にあることを誰にも愚痴ることも相談もできなかった。
宮崎学さんが、バブルで借金を背負って眠れなくなる日々を綴られていたが、心底、その苦しみがわかった。僕が背負った親の借金も、宮崎学さんほどではないが、元金は2億円近かった。住専とその債権を引き継いだ整理回収機構は鬼のようなところで、金利7%をまったくまけなかった。
自分の意思で借りた金でもなく、自分の懐に一円も入ったわけでもない。
年老いた親が、銀行と不動産屋に半ば騙されるようにして、遠く離れた九州の鉄筋鉄骨3階建てのアパートを購入して、そこからの上がりで返済を行なっていたが、経年劣化した田舎のオンボロ物件で、人が入らなくなり、毎月、補填せざるを得なくなったのだ。
働いても働いても、収入は自分がしたわけでもないそのオンボロ物件購入の返済に流れた。親子二代に渡る60年ローンだという、今から考えると本当にふざけたローンだった。
結局、その物件は、誰も入居者のいないゴースト物件となり、更地にして、土地を売却した。わずか1千万円にも届かず。バブルが崩壊して、その価値は10数分の1に暴落していた。
そんなときにも仏様のような慈悲を示してくれる人もいた。弁護士に相談に行ったら、その弁護士と私との共通の知人である、諏訪マタニティクリニックの根津八紘院長だった。根津先生は、あなたのような有為な人間がそんな借金で潰れてはいけないと言って、500万円無利子で貸してくれた。
もちろん、根津先生には、後日、耳を揃えて500万円返した。その折に先生からもらった言葉は、「本当に金が返ってくるとは思わなかった。これまでにも苦しいやつに金を貸してきたが、返した奴は誰もいなかった」というものだった。
親の借金は、親の死後に、すべて清算した。僕自身の債務もすべて完済した。現在、僕は多重債務者ではない。すべてきれいにしている。この点はお断りしておく。
この身動きの取れない時代に、大切な恋もして、そして失った。とても素晴らしい女性だった。再婚を真剣に考えた。娘たちにも話し、了解と祝福も得た。「いい話じゃない、応援するよ」とも言ってくれた。だが、様々な壁が立ちふさがった。僕の抱えている借金もその障害のひとつだった。
様々な事情や不運が重なり、結ばれることができず、別れざるを得なかった時の悲しみは、深すぎて言葉にもできない。ここでも多くを語らず割愛する。眠れない苦しみは、増すばかりだった。
抜け殻となった僕がゆっくり再生するには少々の時間がかかった。再び、今度はネットを舞台に、働きづめとなり、ジャーナリストとして一人で立つ苦労に、人を雇って食べさせる苦労が加算された。この前、子育ての苦労を卒業したのに、娘と同じ年頃の若者をまた何人も抱えることになった。
そして、IWJを設立してからは、苦労とはいっても、基本は陽気に、アクティブに、働き続けてきたわけである。休みをずっと取らないで働き続けることが人間は可能である、ということに気づいた。新たな境地だ。自分は回遊魚のマグロのように、泳ぎながら眠るような体質になったと思った。
それはしかし、結果からみれは、間違いだったことになる。僕は眠りながら、泳ぎ続けられるマグロではなかったのだ。とうとう心臓の動脈が耐えきれず、痙攣を起こしたのである。
そして僕は、結局、20代以来のテーマに正面から取りかからなくてはならなくなった。交感神経優位が続くのをオフにすることである。
しかし、経営は物理的な問題で、全財産を投げ込んだIWJを潰す訳にはいかない。こっちも待ったなしだ。
生きるか、死ぬか、の選択を迫られているのではない。生きて、生き延びて、同時にこのIWJの窮地を乗り越えて真に安心を得られるか、はたまたどちらも、破綻するか、なのだ。
死ねない。しかし、仕事をしない訳にはいかない。その妥協点が、会社に持ち込んだベッドでゴロゴロと、この身はナマケモノになりつつ、頭は勤勉に仕事をし続ける。この取り合わせしかない、ということなのだ。
いやー、話が長くなった。僕が心臓の冠動脈が攣縮を引き起こすほどの交感神経優位がいつから、なぜ、起きたのか、遡って考えてみたら20歳くらいから始まって、ずっと続いていた、ということが、自分でも改めてわかった。
心のこわばり、交感神経優位の歴史の物語の一席。
長々とお読みいただき、感謝です。ちょっと寝ます。今朝は9時起きして、モニバの送別会のためテレ朝へ行きます。
皆さん、僕の病状について、心配し過ぎないでください。でも油断もせず、できれば応援をし続けてください。
約束します。生き抜きます。
岩上さん、お疲れ様です(いつもIWJのみなさん、お疲れ様です、と書き出すのですよ。お疲れ様というのが最も似合いの言葉だと、ごく自然に出てきたのですが、あなたのこの手記を読んでいて、またまたお疲れ様です、と言わざるを得なかったですね)。人間の生きる型があると思います。いつの間にか全速力で走り出していて、それへの気付き方や、近しい人の生き死にとの付き合い方、愛する女への愛し方、失い方、それもこれもいつも全速力の中・・・あなたの言う交感神経優位の状態の中、疲れ過ぎる事に馴れて、恐らくは快感さえもあって、一人でいる時にしか涙を流せなくなって、それも涙は一雫二雫しか流れてくれず一人で張った風呂桶のお湯にやっと墜ちて、まだ自分には流す涙があるのだと変に解放された気になって、全速力の中にいると人間らしさからもどこか遠くにいる実感が湧いていて、ふと気付くならば何と沢山の苦労や疲労や責任や屈折した愛情や周囲の人への思いやりを一気に抱えていることか、そして事件が一気にやってくることかと、それもこれも自分の型なのかも知れないと、20代の眠れぬ夜の明け方に、やはり妙に冴えた頭で反芻する。
岩上さん、これはあなたを想像して書いた文章ではありません。わたしが自殺した父を送った時に、母の疲れた背中や、東京に残した恋人との絶え間ない愛情表現の交感のズレや、混乱に墜ちこんだ親戚の大人たちへの醒めた意識や、生き別れた妹との再会や、そして孤独や、それら一切に一時に襲われた時のことを思い出して書いたものです。
でも、岩上さんの屈託に比べればとは書きません。耐えるのに必要な膂力は皆備えているのだと感じたまでです。
岩上さん、お疲れ様です。岩上さん、わたしも頑固な不眠症ですが、おやすみなさい。
こんにちは。
岩上さんの今回の急な心臓疾患の原因は、
「たばこの副流煙」だと聞いております。
赤ちゃんの突然死なども、たばこの副流煙であることが多く、無知な親が部屋内で吸ったりするからです。
このことをもっとはっきり主張しないと、岩上さんの体質が弱くなったみたいに思われてしまいます。
うらやましい位の壮絶、というよりめまぐるしい岩上さんの半生。
この生活の仕方が原因ではありません。
やりがいのある仕事を続けることは、人を丈夫にします。
このような生活が続けられるほど、岩上安身さんは、今でもご丈夫なのです(笑)
【岩上安身のツイ録】眠れない日々 ~僕が交感神経優位になってしまった理由 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/239927 … @iwakamiyasumi
素直な心情を綴った岩上さんの半生記に心打たれました。多くの人に読んでほしいな。
https://twitter.com/55kurosuke/status/579039793398427648