2012年4月11日、岩上安身は、東京都内で元第5福竜丸乗組員の大石又七氏をインタビューした。
1954年3月1日、大石氏は、東京から南東の方向に約4000キロのところにあるビキニ環礁で、米軍による「ブラボー」と呼ばれた、広島原発の約1000倍の威力の水爆実験に遭遇し、被曝した。
このビキニ環礁事件をきっかけに、日本では約3200万筆の署名が集まるほどの、空前の「反核運動」が起きた。大石氏は、事件前の日本では報道規制を背景に、広島や長崎に投下された原爆の恐ろしさを知る国民はいなかったとし、ビキニ事件がなければ、日本人が核兵器の恐ろしさを知るチャンスは、もう少しあとに訪れることになっただろう、との見方を示した。
また当時の、空前の反核運動が「反米運動」へとエスカレートすることを米国が恐れたことが、「核の平和利用」の名目で日本に原発が導入される一つの要因になったとの言及もあり、日本の原子力の歴史を語る上で、「ビキニ環礁事件」は決して小さなものではない、との指摘がなされた。
インタビューの中で大石氏は、「日本は当時も今も、米国の『属国』である」という認識を示し、自分は市民活動家ではないとしつつも、「死んでいった第5福竜丸の仲間の無念を晴らすためにも、私が時間をかけて学んできたことを多くの人に伝えたい」と力強く表明した。
マグロ漁に出て被曝
「私らが(ビキニ環礁での米軍による水爆実験に巻き込まれて)被曝したのは、日本が米国の掌の中で動かされていた時代のこと」。冒頭で、こう発言した大石氏は、今の日本の現役世代、ことに若い世代には、「米国は日本の友好国だから」との視点に根差した思考停止が顕著だと、懸念を表明した。
岩上安身が「今なお日本は、米国の掌の中にあると言った方がいいのでは」と問いかけると、大石氏は即座にうなずき、「昔のことを知っているからこそ、今の状況がよく分かる」と強調。今の日本の若い世代が「日本と米国が対等な立場にある」と考えているなら、それは大きな間違いだと力説し、自らの「被曝」について語り始めた。
ビキニ環礁での大石氏の被曝は、敗戦から9年後の出来事だが、大石氏は「自分たち日本人船員の被曝の問題は、米国の圧力を受けつつ処理された」と、最初に力を込めた。
第5福竜丸に乗り、マグロ漁に出た折に米国の水爆実験に遭遇した大石氏は、「(実験場からは160キロほど離れていたため)私らは、広島や長崎の原爆被害者のように熱波を直接浴びた、というわけではない」とし、受けた被害は「内部被曝」だけであることを指摘した。
そもそも核爆弾の恐ろしさを知らなかった
「私らの船からは、爆発の様子はまったく見えなかった。実感したのは光だけ。はえ縄を仕掛け終わって休憩している最中のことだった」。夜明けの明るさを湛えている空に、夕焼けのオレンジ色をやや薄くしたような光が、ばあっと広がった状態で止まってしまったという。
「地鳴りのような音が、その後、しばらくして襲来した。海の底から突き上げるような感じで、私は一瞬『もうダメか』と思った」。
その当時の日本人には「核兵器」に関する知識がまったくなかったと、大石氏は言う。戦後占領期の報道規制の影響で、広島や長崎が原爆で受けた被害がどういったものだったかについて、一般の国民には知らされていなかったのだ。「ピカドンという新型爆弾が落とされたようだ、という程度の理解が関の山だった」。
「船の上で私は、海底爆発の影響だろうと推量していた。船から見えた、水爆実験ならではのキノコ雲については『変な形の入道雲』ぐらいにしか思わなかった。空から、雪のような白い粉がパラパラと降ってきたのでなめてみると、口の中で溶けないでジャリジャリしていた。味はなく、恐怖心はまったくなかった」。
その白い粉こそが、後に「死の灰」と呼ばれることになる、水爆実験で飛んだ、放射能汚染されたサンゴ礁だったのだ。
約2週間かけて焼津港に帰還するまでの間、下痢や吐き気といった被曝の症状が続いた。が、当時まだ10代だった大石氏は、ただの体調不良だとタカをくくり、「港に魚を降ろしたら、すぐに次の漁に出たいと真剣に考えていた」という。
日本人の約半数が「反核」に署名
「当時は、科学者らも放射能汚染に関する十分な知識を持ち合わせていなかった。ビキニ環礁事件については、『あの広大な太平洋なら、放射性物質は希釈されるから心配ない』という説を、東大の海洋学者が唱えていた」と続けた大石氏は、「水爆実験では、大気圏にまで上昇した放射性物質が地球全体に広がり、日本にも『放射能の雨』を降らせたが、当時の政府は、そのことを国民に一切伝えていなかった」とも述べた。
岩上安身が「(学者のいい加減さといい、政府の情報隠蔽体質といい)3.11直後の日本が重なる」と反応すると、大石氏は、科学者らが第5福竜丸が持ち返った魚や、甲板に積もった「死の灰」の放射能汚染濃度を調べ終えた段階で、ようやく日本中が大騒ぎになったと説明した。
「きっかけは、読売新聞の報道だった。焼津にいた同新聞の通信人が、私ら船員のうち2人が、検査の意味合いで東大病院に入院した事実をつかみ、(東大がどういう結果を出したかを)報じた。それで日本中が大騒ぎになり、国民の間に、放射能汚染は極めて恐ろしいものであるという認識が急速に広がった」。
それを受け、「核反対」の気運が日本列島をあっという間に席巻。東京の主婦が始めたとされる「原水爆禁止」の署名活動について大石氏は、「約3200万筆を集めるに至った(当時の日本の人口は約8000万人)。当時は保守も革新も、核に強く反対したのだ」と話した。
「米国は、それが『反米運動』へと発展することを嫌がっていた」と続けた大石氏は、米国がその萌芽をいかに摘み取ったかに関する見識を披露した。キーワードは「核の平和利用」「正力松太郎」「中曽根康弘」だった。
「実験材料」にされただけ!?
大石氏ら、東大病院に入院しなかった第5福竜丸の船員は、いったん地元の田んぼの中にある「隔離病棟」に入れられた。
「当時は、被曝は空気伝染するという誤解があった。その後、列車での移動は大騒ぎになるということで、米軍の飛行機で羽田空港まで運ばれて、東京の病院(国立東京第1病院)に入院することとなった」。
米軍は大石氏らを、米国の病院に連れていこうとした。そのことについて大石氏は、「米ソの間に核戦争が勃発すれば、自国民に大量の内部被曝者が生まれるため、米国は、私らを実験材料にして治療法を見つけたかったのだ」と述べ、「当の私らが『戦争で敵だった国なんかに行けるものか』と拒絶したら、彼らは怒っていた。『敗戦国なのに生意気だ』と」と続けた。
大石氏らの米国行きには、東大病院の医師らも強く反対した。「日本の医師たちは、広島や長崎での被爆者検査のデータを、米国が全部持っていったことに怒っていたのだ」。岩上安身が、原爆傷害の実態調査のために米軍が1947年以降に、広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)を相次いで設置した一件に触れると、大石氏は「私らにも、人体への影響調査が行われただけで、治療は行われなかった」と振り返った。
日本は核兵器は持たなくとも「原発」は持つ腹づもりであった以上、内部被曝の治療法を確立させておく必要性があったためだ、と、大石氏はその背景に触れ、「私らは(東京の病院を退院後は)毎年、千葉に1957年に誕生した放射線医学総合研究所(放医研)に検査に呼ばれているが、治療は一切受けていない」と重ねて強調した。
複数の疾患を抱えながら生きてきた
原水爆禁止運動の署名は、この事件が切っ掛けで日本で始まった。当時8000万人の日本の人口で、3200万人が署名、全世界で6億人