「原発近くの住民より、飯舘村住民の被曝量がダントツに高い。すぐに逃げずに暮らし続けたからだ」──。
2013年8月11日(日)13時半より、大阪府能勢町の浄るりシアターで、「原発に『ふるさと』を奪われてー福島県飯舘村は今― 長谷川健一さん講演会」が行われた。長谷川健一氏は飯舘村の酪農家で、3.11以降は地震と原子力災害の被災者として、飯舘村の映像を記録して発表し続けている。この日も、被災当時からの飯舘村の状況を、多くの写真や図を示しながら報告した。
(IWJテキストスタッフ・荒瀬/奥松)
「原発近くの住民より、飯舘村住民の被曝量がダントツに高い。すぐに逃げずに暮らし続けたからだ」──。
2013年8月11日(日)13時半より、大阪府能勢町の浄るりシアターで、「原発に『ふるさと』を奪われてー福島県飯舘村は今― 長谷川健一さん講演会」が行われた。長谷川健一氏は飯舘村の酪農家で、3.11以降は地震と原子力災害の被災者として、飯舘村の映像を記録して発表し続けている。この日も、被災当時からの飯舘村の状況を、多くの写真や図を示しながら報告した。
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東日本大震災と福島第一原発事故から約2年半。長谷川健一氏は、原発事故当時の飯舘村の様子を振り返って、次のように話し始めた。「3号機が爆発した3月14日の夕方9時頃、村役場で会った放射能測定の担当者は、『40マイクロシーベルトオーバーだ』と言った。その数値が、どういう意味かはわからなかったが、『高い』ということはわかった。しかし、『他言するな』と箝口令が布かれた。」
さらに、「3月27日に、京都大学の今中教授らが飯舘村の各所で放射線の数値を計り、『こんなに線量の高いところに、人が住んでいるなんて信じられない。すぐに避難するべきだ』と村長にデータを渡した。だが、村長は『そんなことはできない。データを公表しないでくれ。その線量を浴びながら、生きることはできないのか』と泣きながら言った。村長は、住民や子どもたちの健康や安全よりも、(人口が減って)村が壊れることを恐れたのだと思う」と語った。
福島県内各地の避難所に避難した後も、飯舘村の有志で『全村見守り隊』を組織し、村の各所のパトロールを行っている長谷川氏は、「被曝覚悟でパトロールをしているが、次第に皆が放射能に慣れっこになってきた。これが一番恐いことだ。野生のイノシシやサルが出るが、人を怖がらなくなっている」と話した。また、夏の田んぼの草刈りを村民が行うことを話し、「今年で3回目になる。被曝することはわかっているが、『ふるさとを、みっともないことにしておけない』という村民の強い思いがある」とした。
避難所の生活については、「同じ地区の住民を、同じ避難所に一緒に入居できるようにしなければ、コミュニケーションや絆がなくなってしまう。強く行政に働きかけたが、いざ入居が始まると、申し込み順や抽選などになっていった。今は、区長として24戸の住民と一緒に仮設住宅で暮らしているが、小さな家庭菜園を作ったりして交流できることは良かった」と述べた。
飯舘村での、環境省による除染モデル事業について、長谷川氏は「飯舘村の中心部で行われている除染事業は、山、川、家、学校、などを含む400メートル四方を除染するのに、6億円かけている。飯舘村全体は230平方キロメートルである。除染の効果がないことは、チェルノブイリでも言われていたが、やはり線量は下がらない」と語った。さらに、「線量を記録するモニタリングポストの周辺は土を入れ換え、集中的に線量を下げている」と指摘。「そこで記録された低い線量が公式の記録になって、将来、子どもたちに健康被害が出た場合、放射線との因果関係はないことにされる」と訴えた。
長谷川氏は「飯舘村の子どもたちは、いまだにガラスバッチを持たされておらず、各家庭に1台、線量計が配られただけだ。被曝線量の積算管理もされていない。村は、とにかく帰村することばかりで、子どもの健康のことが抜け落ちている」と憤った。
アップありがとうございました。
現地の実情がわかる講演でした。
避難・移住が一番だなあと思いました。