2013年2月23日(土)19時より、札幌市の「かでる2・7」で「宍戸慈さんお話会『ウクライナと福島のいま』」が開かれた。主催は東日本大震災市民支援ネットワーク・札幌 むすびば。福島の原発事故当時、郡山市のコミュニティラジオのDJを担当していたラジオ・パーソナリティの宍戸慈(ししど・ちか)氏は、昨年11月、ウクライナへの視察旅行を行った。この日は、その様子を報告をし、福島の今後へのヒントを提供した。
(IWJテキストスタッフ・阿部/奥松)
2013年2月23日(土)19時より、札幌市の「かでる2・7」で「宍戸慈さんお話会『ウクライナと福島のいま』」が開かれた。主催は東日本大震災市民支援ネットワーク・札幌 むすびば。福島の原発事故当時、郡山市のコミュニティラジオのDJを担当していたラジオ・パーソナリティの宍戸慈(ししど・ちか)氏は、昨年11月、ウクライナへの視察旅行を行った。この日は、その様子を報告をし、福島の今後へのヒントを提供した。
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現在、札幌在住の宍戸氏は、自己紹介として震災前の活動、震災当時の様子を振り返った後、チェルノブイリに行った動機を「7年続けたキャリアを捨てて、福島から避難することが適切かどうか、判断基準がほしかった」と語った。そして「チェルノブイリ原発事故当時、自分と同じ28歳だった女性を現地で探し、ウクライナ政府報告書(2011.4.26)の内容を、自分の目で確かめるために、ウクライナに出発した」という。訪れた場所は、首都のキエフとコロステン。それぞれ、チェルノブイリ原発から南に90km、西に110kmという距離にある。キエフに着いた感想は「空気が凛として、北海道に似ている」。現地でガイガーカウンターのTerraを購入し、測定した数値は0.13マイクロシーベルト/毎時であった。
宍戸氏は「2日目にウクライナ国立チェルノブイリ博物館を訪れた。1階のエントランスあった液晶画面には、福島県のマークが映し出され、その両脇に、日本語とロシア語で詩が書かれていた。その二カ国語でしか書かれていない意味を考え、泣きながら呆然と立ち尽くした」と語った。「チェルノブイリと福島は違うと思っていたが、確実に、チェルノブイリの人は福島を同じものとして捉え、思いを寄せてくれている」と言う。視察旅行の一週間前に訪れた福島県楢葉町の風景と、事故から26年後のチェルノブイリの風景が重なり、胸が締め付けられたという宍戸氏は、「それは、人が立ち入れないからこその、美しい自然の風景だ」と述べた。
チェルノブイリ博物館副館長のアンナは50歳で、宍戸氏が探していた「当時28歳に近い女性」であった。「アンナは、事故当時キエフにいて、妊娠していた。その話に及ぶと、気丈だった彼女がいきなり泣き始めた。『その時、医者に言われて、赤ちゃんを堕ろしてしまった』と。彼女は『福島のみんなも、あなたも、きっと大丈夫だから、頑張りましょう』と言い、言葉はうまく伝わらないながらも、お互いボロボロ泣いた。心が通じ合う感覚があった」と、宍戸氏は語った。
また、宍戸氏は、プリピャチ市から避難している人たちと会う機会を得たという。プリピャチ市は原発から3キロの距離で、福島でいうと大熊町や双葉町に相当する。「そこから避難し、事故後の心のケアをしている母親たちの団体(同郷の会)と、キエフ市内で会った。最初に「一番大事なのは楽観視」という言葉に驚いた。『お子さんはどうですか?』と尋ねると、『ダメよ。一番上の子は甲状腺が。2番目の子は心臓が』と笑って答えた。国からの補償は、今は出ていない。私に『チカ、大丈夫だから子どもを産んで』と言ったが、その大丈夫は、健康被害が出ないという意味の大丈夫ではなさそうだった」と述べた。
宍戸氏が次に訪れたのは、キエフから車を3時間ぐらい走らせた所にあるコロステンという町。「チェルノブイリ法」では、年間5ミリシーベルト以上を「移住の義務ゾーン」、5~1ミリシーベルトを「避難の権利ゾーン」、1~0.5ミリシーベルトを「管理地区」と区分けしているが、コロステンは5~0.5ミリシーベルトで、ゾーンが混在している地区である。そこで、小中高一貫教育のコロステン第7学校を見学した宍戸氏は、「体育の授業は40分しかできなくて、最初と最後に脈拍を測る決まりになっていた。クラスで、身体の調子が悪い子に手を上げさせると、甲状腺の疾患、心臓疾患など、およそクラスの半分ぐらいが、何らかの慢性的な疾患を抱えていた。ある一人の女子生徒は『生後10ヶ月で甲状腺ガンになり、今も心臓の病気を抱えている。でも、いつかは治ると思っている。大事なのは前を向いて、楽観的に考えること』と言った」と、子ども達の様子を報告した。
続けて、「夜は通訳のナターシャの家に行った。事故当時20才だった母親のエレーナと一緒に、明るく迎えてくれた。ナターシャは現在24才で、13才の時に甲状腺ガンになっている。(今、福島などで起こっている)人々の分断や対立は起こらなかったのか、と聞くと、彼女たちは意味が分からないようだった。事故当時、政府は、汚染地から避難するか、残るか、平等な選択肢を与えた。人は、選択肢が等しく与えられる状況では、他の選択をした人を蔑んだり、後ろ指を差したりしないものなんだ、と思った」と話した。
宍戸氏は「今回、各地で聞いた、楽観視という言葉。以前は好きな言葉ではなかったが、決して、何も考えずに、という意味ではない。絶望の渕でも、人は希望を見い出して、生きて行くということだ。現地に行かなくては分からないことが、やはりあった。一方、福島に対して、行かなくてもできることもある。距離を超えてできることは何か、これからも、皆さんと考えて行きたい」と結んだ。