2012年2月18日(土)、千葉県・白井市文化会館にて「塩釜市民ボランティア(希望)」の代表である會澤純一郎氏の講演会、『東日本大震災現場からの報告~大震災から11ヶ月 今私たちができること~』が行われた。宮城県を中心に、精力的に被災地支援を行なっているボランティア団体だ。
(IWJ・原佑介)
2012年2月18日(土)、千葉県・白井市文化会館にて「塩釜市民ボランティア(希望)」の代表である會澤純一郎氏の講演会、『東日本大震災現場からの報告~大震災から11ヶ月 今私たちができること~』が行われた。宮城県を中心に、精力的に被災地支援を行なっているボランティア団体だ。
■イントロ
「ボランティアをやるつもりはなかった」
冒頭、会場では、地震・津波被災地のドキュメンタリー映像が上映され、その後、登壇した會澤氏は「石巻市では、約3000人が地震・津波で亡くなった」と語り始めた。実感として、3000の遺体は想像が付きにくいかもしれないが、体育館のような広さの遺体安置所では、収まりきらないほど。TVを通して伝えられるだけでは聞き逃してしまいがちでも、現場でその数を目の当たりにすると、受ける印象がまったく違うという。
震災直後、ボランティア活動をするつもりはなく、避難所等に、知人が送ってくれたものを届けていたら、「なんというボランティアですか?」と尋ねられ、何度も尋ねられているうちに今の名前を付けたというが、活動そのものを自然体でやっており、今もボランティアをやっているという実感がないという。會澤氏はかつて、高校教師を勤めていた経験があり、教え子やご父兄も亡くなったと聞きき、「こんな大変な時期にやらず、いつ、何をやる?」と思ったという。
「東日本大震災で何を学んだか」
また、東日本大震災以前、宮城県沖地震が来る確率は「99%」と言われていたことを挙げ、東京直下の可能性も指摘されている昨今、東北以外の地方でも災害に備えた心がけをしていくよう警鐘を鳴らした。
3・11直後は、全てのインフラが崩壊。水道もストップ。では、飲み水はどうする?赤子の世話、被介護者への対応、トイレ、風呂。「人間、一ヶ月風呂入らなくても死なないことがわかった。文化的な生活を何の疑いもなく過ごしていたが、辛いものは辛く。それはヒシヒシとやってくる。風呂に入らないのは、やはり辛い」と語る會澤さん。
水だけではない。携帯、テレビ、PC等の、「情報関係の停止」。被災すると、まず、家族はどうなったのかが頭をよぎるだろう。しかし、連絡手段は絶たれ、家族の安否もわからない。それだけにとどまらず、この「情報関係の停止」による危険は、もっと大変なところで起きていた。停電によって、防災津波警報が出せなかったのだ。このことで、助かったはずの命が多く失われたことは、想像に難しくない。
「東日本大震災で何を学んだか。これで賢くならない日本人ではない」、と、會澤氏は語気を荒らげる。今震災で機能しなかった防災機能は何であったか、原因は何かを情報発信し、被害に遭わなかった地域もそれを受け取り、個人ではなく、各自治体でプロジェクトチームを作り備えて行くべきであるとした。會澤氏は、「様々なことを想定した防災計画は、各地にもあるだろう。しかし、避難民を迎え入れたとき時、運営していくだけのマニュアルはお持ちですか?」と問う。「ほとんどない」という。水道の例で言えば、学校の屋上にあるタンクから、しばらく水は出る。しかし、地域の住民みんなが採りにくる。避難所にいる方々が使う分の水など、すぐに失くなってしまう。平時では気付かないことでも、東日本大震災を経た今、経験を活かし、様々な点を見直さない限り、既存の防災計画などは、本当の非常時には使い物にならない。
利便性の高まった社会は、大震災に、脆い。毎晩の停電に備え、ローソク、乾電池、水などの準備。オール電化のうちは、すぐお手上げ状態になったが、たまたまプロパンガスだった會澤氏は、すぐおにぎりを作ることが出来、支援に回ることが出来た。曰く、「3日耐えれれば何とかなる。自衛隊も動き出す。少しでもそういった心掛けを」。
「第二次世界大戦では2000万人のアジア人が死んだ。阪神大震災では6000人以上の人が死んだ。我々は戦後、民主主義を手に入れた。3・11、阪神大震災以後に建てられた建物は、不思議なほど倒れなかった。最多の犠牲者を出した震災・東日本大震災以後、我々は何を手に出来るだろうか」。會澤氏は、投げかける。
「助手席に赤ちゃんを乗せた車が流されていた。助けに行けば、自分も死ぬ」
(…会員ページにつづく)