佐野元春に「情けない週末」という歌がある。随分昔の、僕らがまだ20代だった頃の歌だ。好きになった女性に一緒に暮らしたい、とプロポーズするのだが、そのあとに「<生活>といううすのろがいなければ」というフレーズが続く。このフレーズが凄いと、家庭を持つ前の友人がしきりに言っていた。
友人とは、実はラジオのパーソナリティーなどで活躍しているえのきどいちろう君なのだが、それはともかく、僕はこの歌を聴いた頃はすでに子供もいて、生活に追われ、ずっしりとその重みを感じながら背負って生きていたので、「<生活>といううすのろ」は実にリアルに感じられた。
生活がうすのろ、なのか、生活という現実を抱え込むと、若い頃のように身軽に動けなくなり、自分がうすのろになったなと否応なく感じてしまうというべきか。いずれにしても職をもち、家庭を持って、守るべきものができると、人間は軽々とした身動きがとりずらくなるのは確かだ。
今夜も国会前でコールしているSEALDsのメンバーの若者たちが、とても輝いて見えるのは、彼らが「うすのろ」ではないからでもある。時にその輝きに嫉妬してか、嫌がらせに近い書き込みもネット上では散見されるが、その代表が、就職できないよ、という脅し文句である。
若者たちに、そういう脅し文句を投げつける中途半端な「オトナ」がいかにみっともないかはいうまでもない。しかし、それと同時に、<生活>といううすのろを抱えたり、背負ったりしなければならなくなる時に、どう輝きを失わないでいられるか。これは大切なテーマであると思う。
SEALDsをもじって、OLDsというのが生まれた。どこで誰が最初に言い出して始めたのかよくわからないのだが、地方で年配の方々がゆっくり歩きながら、のどかに戦争法案反対を唱えようというイベントをタイムラインで見つけ、リツィートした。
明日は、「おばあちゃんの原宿」こと、とげぬき地蔵のある巣鴨で、OLDsのスタンディング集会があるという。ちょっと愉快で微笑ましくなる企画で、これは絶対にお伝えしなければと思っていたら、そこへMIDDLEsなる中高年の集まりが連帯して参集するという。
そう聞いて、ますますちょっとこの企画は見逃せなくなってきた。子供を育て上げ、親の介護もつとめあげて見送った僕は、まだ55歳で、本来ならMIDDLEsの年齢なのだが、立場的にはOLDsである。孫もすでに2人もいるし。「<生活>といううすのろ」の重圧もかつてより格段に軽い。
OLDsの気持ちもわかる。ある種の突き抜けた身軽さも、OLDsの世代にはあるのだ。と同時に、「<生活>といううすのろ」を背負って働いていて、様々なしがらみに縛られ、守りに入らざるを得ず、身動きが取れなくなっているMIDDLEsの歯がゆい気持ちも、同世代だけによくわかる。
MIDDLEs世代が、戦争法案に反対の気持ちを持っていても、声を上げるのは簡単なことではない。家庭のこと、仕事のこと、社会における立場、もろもろ考えれば、尻込みしてしまい、生活を理由にして、自分自身が「うすのろ」であることに甘んじてしまうことも無理からぬものがある。
だからこそ、MIDDLEsが、一番後発であっても始動したことに、歓迎の拍手を送りたい。おそらくは中高年の男性が多いのではないか。同じ中高年でも、ママはとっくに声をあげ、渋谷をジャックし、女性週刊誌の編集方針を変化させるまでに至っている。今度はパパの番だ。
佐野元春の「情けない週末」は、最後は「<生活>といううすのろを乗り越えて」というフレーズで締めくくられる。ほとんどの人は、やすやすと「うすのろ」を乗り越えることはできない。守るべき生活を抱きしめながら、重い足取りで歩くのだ。その足取りを笑わないでもらいたい。
まったりとした歩みで、スローなテンポのコールで、「戦争法案反対!」「民主主義って何だ⁉︎」と声をあげればいいのではないだろうか。自分の生活を守りながら、そして大切な生活と家庭を本当の意味で守るためにも、おずおずと。それは結構、「悪くない週末」となると思う。
岩上さんへ、とまるで私信のように書くことをお許しください。
私は現在61(!)です。とにかく声を上げるだけでもといって、投稿するのは4通目です(1通しかアップされてないですけど)。
今日のような文章を書く時の岩上さんは、恐らく何時もどこかで運命というものは自分の想像を超えて訪れるという真実を
意識していて又実際に経験したことのある人間なのだナ~と思われて同世代の人間として(失礼!)共感を感じられて、
凄い人がいるものだと思うのです。
理論を以て今次の改憲の策動や自民党の小児病的白痴性を批判することには、徒労感が先に立ってしまって、良くないのですが、今日まで生きて来たことは結構シンドイことで、おまけにバカを相手にする時は真剣にやんないといけないからとある意味余計な荷物を背負い込むのも仕方がないかと政治の風を感じながら歩いております。
いつも長い文章になってしまうのでここでやめますが、私はどこかで他人と違う存在たらんという生き方を選ばざるを得なかったので、どこかで間違ったのだと思いつつMIDDLESに「お互いシンドイけど、もう一丁やるとしますか」と連帯の挨拶を
おくります(最後までどうも古さのある文章で、不甲斐ない)。