※7月7日の岩上安身の連投ツイートを再掲します。
早稲田から帰社。やっぱりと言うべきか、用意したパワポは半分ほどしか消化できず。米国が集団的自衛権の行使を求める、その背景をなす戦略がオフショア・バランシングであることを説明できず、残念。せっかく作ったので、別途、講演とか、トークカフェとか、やろうかと思う。
大学が、自分が通っていた昔と比べ、建物が建て替えられて、格段に小綺麗になっていたこと、学生もこざっぱりとしてオシャレで、今日は七夕だったためか、浴衣姿の女子学生が何人もいたのも、へえぇと思った。
ただ、この数年の動きについて話しながら、3.11以降、激増した反原発デモやヘイトスピーチへのカウンターデモ、あるいは戦争法案への抗議集会など、かつてないほどのプロテストの集会やデモが行われているが、そこへ参加した人、あるいは賛否はともかく、野次馬として現場で見に行った人、と聞いたところ、約100人の受講生のうち、手を挙げたのがたった2人だったのに、驚いた。現場に足を運んで、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の肌で感じて、人とコンタクトして、できれば人間関係を作って、一次情報を得ようとしなければ、それはジャーナリストとは言えない。
時代の趨勢や流れにも敏感でなければならず、今、起きていることへの反応と行動が求められる。勉強とバイトとサークル活動で精一杯なのかもしれないが、早稲田全学部からレポートを提出して選抜されたジャーナリスト志望の学生がこれでは、少し寂しい。
単なるメディア企業の社員として就職することと、ジャーナリストであることは全く違う。特権的な記者クラブの一員になれなくても、ジャーナリストであることは可能である。ジャーナリズムとは、営みの名称であり、姿勢とか、スピリットであって、身分ではない。
学生たちはみな忙しく、そそくさと教室を後にしていった。その中で一人だけ、質問したい、と話しかけてきた女子学生がいた。5年生だという(早稲田の場合、制度として、留年すると5年生、6年生と呼ぶ)。しかも、この石橋湛山記念の特別講座の学生ではなく、もぐりで聴講したという。
ちょっと救われた気がした。もぐり大歓迎である。正門から入れなかったら諦めてしまうのではなく、興味や好奇心がわいたら、もぐりこんでも話を聞きに行く。そういうワイルドな行動力が、実のところジャーナリストには一番必要な資質である。もともと優等生がやる仕事ではない。
おとなしく聴講していた学生の中にも、刺激を受けたり、考えるきっかけになった人間もいたかもしれない。僕のメールアドレスを全員に教え、名刺も配った。レポートが必須らしいが、レポートにはかかわりなく、いくらでも質問を受けることにしたので、どんなコンタクトがあるか、楽しみである。