パリ銃撃テロ事件は、「イスラム国」との戦争の序曲だったのだろうか――。
日本時間2015年1月20日午後、「イスラム国」が日本人2人を人質にとり、72時間以内に身代金2億ドル(約236億円)を支払わなければ殺害する、という犯行予告映像を公開した。
一連のパリのテロ事件において、ユダヤ教信者向けの食料品店に立てこもったクリバリ容疑者と、イスラム国との関連性が明らかになり、欧米各国で「イスラム国」への強硬姿勢が強まっていた。そして、中東を歴訪していた安倍総理も、その戦列に足並みを揃えた、その矢先の出来事である。
パリのテロ事件と、その地続き上にある今回の邦人人質事件。それを根拠にして、戦争へ向かおうとする流れがあるのだとしたら、我々は一瞬立ち止まり、発端である「シャルリ事件」について考えなければならない。
その根底には、西洋化された社会、グローバル化された世界の原理とも言える「ネオリベラリズム」の社会と、そこに組み込まれない「イスラム社会」の対立という構図が横たわっている。
「共和国の行進」
1月11日、パリでは大規模なデモが行われた。レピュブリック(共和国)広場にある共和国の寓意像を中心にして人々が集まり、レピュブリック広場からナシオン(国民)広場まで、数十万人が約3キロを行進した。このデモは、「共和国の行進(marche républicaine)」と名付けられた。一般市民に加え、フランソワ・オランド大統領をはじめとするフランスの政治家たち、ドイツのメルケル首相、イギリスのキャメロン首相、イタリアのレンツィ首相など約50ヶ国の首脳が参加した。パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長、イスラエルのネタニヤフ首相 の姿もあった。世界中が駆けつけたのである。
人々は、「あなたは誰?あなたはシャルリ!」「われわれは恐れない!」「フランスは恐れない!」と叫んだり、フランス国家「ラ・マルセイエーズ」を歌ったりした。
パリ以外のフランスの諸都市でもデモが行われ、フランス全体で350万人がデモを行ったという。
「歴史的な日」(ルモンド紙)、「前例のない規模」(リベラシオン紙)と言われる「共和国の行進」は、「長い間、これほどフランス人であることを誇りにしたことはなかった」と言われる。
デモの名前にもあらわれているとおり、共和国の理念が人々を結びつけている。
また、イスラエルのネタニヤフ首相とオランド仏大統領は、パリのグラン・シナゴーグを訪れ、犠牲となったユダヤ人の追悼を行った。
当然、私たちは、イスラエルのネタニヤフ首相が、2014年の夏にパレスチナの人々を大量殺戮したことを思い起こすべきである。何がテロリズムと呼ばれ、何がそう呼ばれないのか、それはなぜなのか、考えてみる必要があるだろう。
「テロリズム」
「共和国の行進」は、レピュブリック広場からナシオン広場に向かって行われた。ナシオン広場は、フランス革命のただなかの、ロベスピエールの恐怖政治の時代(1793年〜1794年)に多くの人々が処刑された場所である。「国民」の名を持つこの広場は、残忍な記憶を持つ。
そして、ロベスピエールが行った「恐怖政治」が、「テロリズム」という言葉の語源である。その意味では、革命家ロベスピエールが、最初の「テロリスト」だ。
フランス革命の思想は、もちろん今でもフランスに非常に強く根付いている。共和制はフランスのアイデンティティである。今回の行進のなかでも歌われたフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」は、かなり残忍な歌詞を持つフランス革命の歌だ。
フランス共和国、あるいは近代国家が、その正統性の根拠とするのが、神でも王でもなく、「人々」 である。フランス語のpeuple(英語のpeople)は、単なる「人々」「民衆」の意味もあれば、「国民」の意味も持つ。哲学者ジョルジョ・アガンベンは、この「人々」という言葉がつねに二面性を持っていた言葉であることを指摘している。一方では、「国民」と訳されるように政治的主体としての民衆であるが、もう一方では、「貧民」「恵まれぬ者」「政治から排除されている階級」をも名指しているというのである。(ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』)
今日「テロリスト」となりえる人々は「政治から排除されている階級」であろう。その排除は、国民によって成り立つ近代国家という制度が生み出す亀裂ということもできる。
ノーム・チョムスキーは、シャルリ事件のあとに、1999年に行われたNATO軍によるセルビアのテレビ局の爆撃を思い起こさせながら、「 正義だとされている側が、彼らが攻撃している政府を支持するテレビ局を破壊したときは、言論の自由に対する攻撃とはされないのである」と述べた。「 テロリズムは、テロリズムではない。さらに激しいテロリスト攻撃が、力があるために正義だとされている人々によって行われた場合には」。
(ノーム・チョムスキー 2015/1/10「私たちは皆・・・ 空欄を埋めよ」)
もうひとつ、つけ加えておこう。私たちがシャルリ事件の報道に夢中になっているあいだに、ナイジェリアでは体に爆弾をくくりつけられた少女が爆発し約20人が死亡した。(東京新聞「女児が自爆、19人死亡 ナイジェリア北東部」)ほとんど報じられなかった事件だ。おそらく、シャルリ事件がなかったとしても、である。
「私はシャルリ」運動の盛り上がり
シャルリ事件の後、フランスでは3日間、喪を表す半旗が掲げられ、公共の建物などには「私はシャルリ」という垂れ幕がさげられた。高速道路の電子表示版や鉄道の電子時刻表にまで、「私はシャルリ」の言葉が現れた。
だが、シャルリ襲撃事件とは、表現の自由に対する闘いなのだろうか?表現の自由とは何なのか。何よりもそれは、フランスであればフランス革命を通じて勝ち取ってきたものだ。だが、それは西洋的価値である。
2007年に、シャルリ・エブドは、イスラムの風刺画を掲載したことで、「あるグループの人々を彼らの宗教のために公的に侮辱した」としてイスラム団体に訴えられている。当時のシャルリ・エブドの編集長フィリップ・バル氏は、表現の自由の制限は、すでに生命保護に関連する法律、人種差別主義や侮辱や中傷を犯罪とする法律にもうけられており、風刺画の発表はそれらの法律には觝触しないと主張した。そして、その裁判は、「デモクラシーにおいて栄えるべきあらゆる表現形態にとって、重要である」と述べた。彼の言い分は、宗教が個人的な範囲を越えると「イデオロギー」になり、あらゆるイデオロギーは「 激しく批判されることを受け入れなければならない」ということ、そして、それが「デモクラシーの本質そのもの」だということだ。
(ウォール・ストリート・ジャーナル フィリップ・バル「 現代の冒涜:生き残るためには、デモクラシーはドグマに直面する必要がある」)
この裁判では、結局、イスラム団体の訴えは退けられた。
宗教がひとつのイデオロギーであるというバル氏の主張は、たしかにそうかもしれない。だが、そうすると、「デモクラシー」もまたひとつのイデオロギーである。「表現の自由」や「デモクラシー」という極めて西洋的な価値を、西洋の「他者」に受け入れさせることができるのだろうか?そして、それは正しいことなのだろうか?
ウェルベック氏の新作『服従』
シャルリ襲撃事件の当日、ミシェル・ウェルベック氏の新作小説が店頭に並んだ。ウェルベック氏は、フランスの海外県である、インド洋の島レユニオン生まれの詩人・小説家である。
新作のタイトルは、『服従』。これは、イスラム教を表す言葉でもある。「イスラム」の本来の意味が「絶対帰依」だからだ。『服従』は2022年を舞台にした近未来小説で、その世界では、国民戦線党マリー・ルペンとムスリム同胞団党のモハメド・ベン・アベスが大統領選を闘い、イスラム政権が誕生する。イスラムに対して批判的と思われ得る内容だ。マリー・ルペンは実在の極右の政治家であり、モハメド・ベン・アベスは架空の政治家である。それが象徴するようにこの小説は虚実が入り混じる。
ウェルベック氏は、以前、イスラム教を「もっとも馬鹿げた」宗教と評している。 シャルリ事件以後、『服従』のプロモーションは中止され、ウェルベック氏も安全を図るため表に出ないようにしていると報じられている。
この小説の発売の前、メディアはこの話題を取り上げており、フランスにおけるイスラムの問題が人々の関心を集めていたと言える。シャルリ・エブドの7日の表紙は、ウェルベック氏を描いたイラストだった。「魔術師ウェルベックの予言」とタイトルがつけられている。ひどい表情で描かれたウェルベック氏には「2015年、私は歯を失い、2022年、私はラマダンをする」という吹き出しがついている。
魔術師ウェルベックの予言
『服従』は単にイスラム批判の小説ではなさそうである。フェティ・ベンスラマ氏(チュニジア出身の精神分析学者。パリ第7大学教授。ラシュディ事件を、表現の自由とは全く別の角度から分析した『物騒なフィクション』の著者)は、『服従』について、「このフィクション上のイスラム政治体制への転換は、それに先立つ、抑制のきかない資本主義、消費主義、テクノサイエンス主義の混合である西洋の超リベラル秩序への奴隷化の期日にほかならない」と述べている。
この「超リベラル秩序」をネオリベラリズムと言い換えることができるだろう。ネオリベラリズムの席巻のなかで、多くの人はニヒリズムに陥る。そのニヒリズムを掬い上げるのが、イスラム教だった、あるいはバリバリの右翼だったかもしれない、というのが『服従』のストーリーなのだ。そのように考えれば、イスラム政権の成立は荒唐無稽なフィクションと言い切ることはできない。
邦訳も出ているウェルベックの初期の作品『闘争領域の拡大』は、自由という名のもとに繰り広げられる資本主義社会は、敗者にとっては容赦のない苦しい世界であるということがテーマとなっている。
ネオリベラリズムは、グローバル化の原理にして、グローバル化した世界を統一する論理である。だが、そのあり方は検証されることもなく、既成事実化されて成立してきた。だとすれば、それは、まるで宗教のように、根拠を問われることもなく無条件に、そして盲目的に受け入れられてきたものだと言える。
『服従』は、単なるイスラム教の批判ではなく、西洋的論理に対する批判なのではないか。無条件に受け入れられているネオリベラリズムの論理とは、現代の西洋化された世界が「絶対帰依」しているものだとも考えられるからである。
ネオリベラリズムに組み込まれない社会、そこから無視され排除された世界が、現在の「イスラム圏」であるとすると、現代版にアップデートされた「西洋社会」とイスラム社会の対立が見える。
「テロとの戦争」
シャルリ事件以後、フランス政府は誤った方向に進んでいった。