2010年1月15日(金)、亀井金融・郵政改革担当大臣のオープン記者会見の模様。内閣提出法案(閣法)として提出されると言われている外国人地方参政権問題について、新井将敬氏の話も交え、参政権の付与に反対の意向を述べた。
いつもは陽気な亀井大臣が、その日はいささか重苦しい雰囲気を漂わせながら、大臣室に姿をあらわした。
1月15日金曜日、亀井大臣のオープン記者会見。
亀井大臣が身にまとう「重苦しさ」には、理由がおそらく二つあった。
ひとつは、開会が目前に迫った国会で、内閣提出法案(閣法)として提出されると言われている外国人地方参政権問題。
民主党の内部でも賛否が分かれていると言われているこの法案を、鍵を握る実力者・小沢幹事長が、議員立法ではなく閣法で、しかも党議拘束をかけることまで匂わせて、提出しようとしている。
これに公然と「反対」の声を上げているのが、三党連立の一角をなす国民新党の亀井代表である。
ここにきて、亀井代表は、以前よりも強いトーンで「反対」の姿勢を鮮明にし、「三党連立なのだから、我が党が反対すれば、そもそも基本政策閣僚委員会で通らない。そうなれば、閣法として法案提出はできない」と言いきっている。
これまでも、亀井代表は、日本郵政のトップ人事でも、補正予算の編成でも、持論を強く主張し、数に勝る民主党側に要求をのませてきた。しかし、それもこれも、背後に小沢幹事長の影があってのことである。
亀井-小沢ラインは、堅固である。素知らぬふりをしながら、気脈を通じ、お互いに「利用」しあっている。 「飛び出す亀井大臣」の腰には、ゴムひもがついていて、その端を小沢幹事長が握っており、ゴムが伸び切るまで亀井大臣が突出しても、パチーンと元に戻れる、という「仕掛け」になっているかのようだ――。
これは私の勝手な推測とはいえない。亀井大臣に近い関係者も、私のこの「推理」を認めているのだから。
だが、今回の外国人参政権問題はややこしい。小沢-亀井ラインに対立がある。これをどう読み解くか。
もう一つのテーマは、その肝心の小沢幹事長の「疑惑」である。いや、何がどう「疑惑」なのか、今の段階でも、わからないのだが。
連日、新聞などでは検察リークとおぼしき情報をもとに、小沢氏が出所の怪しいカネを原資として、世田谷の土地を購入したのではないか、と書きたてるが、検察は一度も公式の発表も会見もしていない。無言であり、被疑事実も不明のままなのである。今、起きている事態は、あくまで小沢氏の秘書による、政治資金収支報告書の記載漏れ容疑なのだ。収支報告書の記載に間違いがあれば、訂正の申告か、罰金ですむ。その程度の形式犯である。(故意の虚偽記載となれば、罪状は重くなるが)
にもかかわらず、1月13日には小沢氏関連の政治団体など、関係各所に強制捜査が行われている。この程度の被疑事実で、これだけ大がかりな捜索を行うというのは、異例のことである。見方によっては、明らかに見込み捜査、別件での逮捕であり、権力行使に慎重であるべき検察の捜査権の濫用ともうつる。加えて異様なのは、マスメディアが足並みをそろえて、検察の捜査姿勢に対しては批判を唱えず、リーク情報を無批判にたれ流し続けていることだ。
まだ、元秘書が逮捕されたという段階なのに、新聞紙上では、小沢氏が犯罪の首魁扱いであり、その構図が詳細に描かれている。
これは適正な捜査といえるのか。
国民生活に重大な影響が出る国会の開会にあわせるような、ある意味で非常に「挑発的」なタイミングでの強制捜査に、世論の支持は得られる、と踏んでいるのか。
そもそもこの捜査に、民主党を中心とする政権を倒そうとする政治的な意図や色彩は一切ないと言えるのか。
元警察官僚であり、この連立政権のキーパーソンの一人である亀井大臣に、ぜひとも、見解を聞きたい。そう思って会見に臨んだ――。
一同「おはようございます」 亀井静香金融担当大臣(以下、敬称略)「ま、今日の閣議は、別に皆さんに報告するような、それはありません。ただ、18日からね、国会が開かれますので、皆さんしっかり気を引き締めて頑張っていきましょう、という話なんですけどれども。
ま、ちょっと上の(金融庁の階が上、という意味)……あれか上じゃない下のか、(記者クラブ向けの)会見でまあ言ったことなんか、ちょっと触れると、一つは、外国人の参政権の問題だね。
いろいろあれされていますが。これは別に三党連立の合意事項じゃありませんのでね、これは。だからこれは、それぞれ、各党が党内においてね、この問題を議論をしていくというところから、やっていかにゃいかんことだろうと思います。
それと、私自身の考え方ということを言うとね、それは韓半島に対して日本がね、これを支配をしたというね、歴史の中で、韓半島の人達に対して、大変屈辱的な思いをかけた。
そういう方々が日本にね、移り住まれて色々な思いをしてこられたということは事実なんでね、そういう事に対して私は、お詫びをせにゃいかんと思います。
しかしその事と、憲法上のね、国民の固有の権利に規定されていることについて、それを簡単に参政権を付与するというような形で対応を、私はすべきではないと。
まあ、参政権の行使をしたいというとこまでお気持ちを持っておられるんであれば、私はやはり帰化をしていただくということ、それのいろんな障害がもし難しいことがあるならね、それを帰化しやすいようにしていくということも、一つのあれじゃないかと、このように思います。
私はまあ、この問題を考えるたびに思い出すのは、新井将敬です(在日韓国人から、帰化して日本国籍を取得し、東大出身、大蔵省入省というエリートコースを歩み、1986年衆議院に初当選。ところが、日興証券との証券取引法違反の疑惑をかけられ、1998年2月19日に自殺した)。今度十三回忌やりますけれども。彼がねえ、自決をする前の晩に私にね、最後の、まあそれが最後だった、泣きじゃくりながら私に電話をしてきたのを、私は忘れることができない。
『亀井さん』って言ってね、『私は日本人になってね、日本のために政治家として頑張りたいということで、今までも頑張ってきたし、今からも一生懸命頑張ろうと思っておるのに、私はね、政治家だから友人が株についてね、有利なことをやってくれたかどうか知らんけれども、そういうことで政治家だからということでいい目を見たかもしらんということになればね、それは申し訳ないかもしらんけれども、法律に反するようなことを私はやっていません』と。
ところがわずか3時間くらいの事情聴取で話を打ち切って、もう今にも許諾請求というのが新聞等で踊っているような、明日にもそれがされるようなね、状況で、一方日興證券の自分の友人は、何日もね、何十日も事情聴取をずうっとされてきたというね、『どういうことなんでしょうか』と。『私のそうした思い、そういうものを全然理解もしてくれようとはしないし』と言ってね、泣きじゃくっていました。
それが最後でした。私はだから葬儀の時にね、彼の思いを弔辞で私は祈りながら歌を捧げてやったんだけれども。 『敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花』(本居宣長が詠んだ和歌)ってありますね。
彼はまさに日本人になって、日本人としての生き様を求めたんでね。皆さん方ご承知のように、日本の侍は主君から辱めを受けた場合、その主君に抵抗するというんじゃなくて、自ら命を絶つということでね、主君に抗議したんだね。日本の侍の処し方というのは。
彼もそうした辱めを受けて、それに対して、司法に対して抵抗していくというね、道を選ばないで、日本の侍の作法に則って自ら命を絶つというね、道を選んだということをね、私は弔辞の中でそれを話をしたわけですけどね。
彼のそういう、あの時のね、私に対する悲痛な訴えが、もういつも私の中をね、よぎってくるんですが。
この参政権の問題にしてもね、私はこの日本の、そうした韓半島の人達に対して与えた苦痛、いろんなものに対してね、そういう形で対応すべきではないだろうと、このように思っております」
この亀井大臣の発言は、なかなか意味深長である。
なぜ、故・新井将敬氏の話を、このタイミングで持ち出してきたのだろうか。在日外国人に対して地方参政権を付与することに、亀井大臣は、反対の立場を表明し、この話の中にもあるように、「そのかわりに帰化を」とすすめている。
だが、新井氏は、帰化し、日本国籍を取得した人物である。有能で、東大を出て、大蔵省に入省し、自民党から出馬して代議士になったエリートだ。そんなエリート中のエリートでも、検察が強引な捜査を行えば、犯罪の容疑者になってしまうのであり、そのあげく、衆議院本会議で逮捕許諾請求が決議される直前に、自決に追いやられたのである。
これは、たとえ帰化した人物であっても、「差別」は厳然と存在すると読み取れる話である。帰化したところで、いざという時は、元々からの日本人と同じようには扱われないのだ、ということになる。「帰化すればいい」という亀井氏の主張と、これは矛盾するのではないか?
もちろん、では帰化せずに、地方参政権を得れば、「差別」をはね返し、乗りこえることができるのだ、という運びにもなるかといえば、そうでもない。帰化しようと、参政権を得ようと、その程度のことでは、この国のはらむ差別意識、とりわけ、最強の捜査機関たる東京地検特捜がひそかにはらんでいる差別意識は払拭されないだろう、という話である。
何しろ、自民党政権時代に、国会会期中は不逮捕特権を有している代議士の身分であっても、逮捕に踏み切ろうとしていたのである。これほど特権的な存在であっても、特捜ににらまれたらどうにもならない。特捜こそ、この国の至上の権力機関なのだ、ということになる。
もうひとつ、読み取るべき要点は、しかしながら、この新井の死に様を、本居宣長の歌になぞらえながら、お上ににらまれたら、抵抗せずに潔く、腹を切るのが武士の作法であり、それを見事だったと讃えてもいる点である。これは、今まさに、東京地検特捜部に、手をかけられようとしている小沢一郎氏と、その側近たちに向けて、抵抗するよりは、腹を切る美学をすすめているようにも聞こえる。
受け取り方は、人それぞれであろう。
だが、よほどぼんやりしている人ならばともかく、亀井氏ともあろう人が、こんなデリケートな時期に、帰化をした新井将敬氏の死、東京地検特捜部の強権発動、そして本居宣長の歌を、何も考えずに述べるわけはない。
私は、この話の真意を知りたい、と思った――。 (続く)