【特別寄稿】「夫婦同姓」は“富国強兵”と切り離せない「新しく創られた伝統」!――もう政治なんて待てない……夫婦別姓を司法に問うた5年間の闘い(選択的夫婦別姓訴訟原告・小国香織氏) 2016.2.2

記事公開日:2016.2.2 テキスト
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(選択的夫婦別姓訴訟原告 行政書士 小国香織)

 2015年12月16日午後3時から始まった最高裁判所の大法廷。寺田逸郎裁判長が判決を読み上げます。

 「上告棄却する。上告費用は上告人らの負担とする」――。

 ここまでは想定内でした。夫婦別姓を認めない民法の規定は違憲かどうかが争われたこの裁判は、表向きは国に損害賠償を求める形になっており、そこまで認められるのはハードルが高いと弁護士なら知っていましたし、原告の私たちもそれは聞かされていました。

 私を含め5人の原告と19人の弁護士たちが求めていたのは「民法750条の違憲」だけ。でも、それに続く判決理由骨子を聞いていくうちに、「ああ、違憲と言ってくれてない。違憲とならなかったのか」という思いがひたひたと湧き上がってきました。

名字って「ファミリーネームでしょ?」。果たしてそんなに単純ですか?

 「結婚すると女の子は名前が変わってしまうから、誰が誰だかわからなくなっちゃうね」

 私がおそらく中学生ぐらいの頃ですが、母が卒業学校の同窓生名簿をめくりながらつぶやいた言葉です。記憶をたどる限り、「結婚すると女の子は名字が変わるのか」ということを意識したのはこれが最初だったと思います。

 日本の法律上、結婚制度は「民法」の「第4編 親族」という枠の中に定められています。そして、その中の「婚姻の効力」の章立てにある750条に「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」という条文があります。婚姻届の用紙には「夫の氏」「妻の氏」というチェック欄があり、そこをチェックしないと婚姻届はそもそも受けつけてもらえません。条文としては結婚によって発生する効果だと言っているのだけれど、実質は結婚するための条件になってしまっています。

▲婚姻届にある「夫の氏」「妻の氏」のチェック欄

 現在のところ、法的に結婚した夫婦の96パーセントが「夫の氏」を選んでおり、それが「結婚したら女の人は名字が変わるもの」「男性側が変えると、養子に入ったのかと言われる」という社会通念を引きずっています。

憲法では夫婦になりたい者同士が「結婚したい」と思うだけで結婚できるはず

 「夫婦別姓」というと、マスコミの多くは「家族のかたち」という点から取り上げます。これは政治家の多くも同じように見ているかもしれません。字で書くと確かに「夫婦があえて別の名字にする」とイメージしか想起できないのかもしれません。

 しかし、ここで名前を変えなければならない個人の立場にアングルを構えなおしてみてください。日本国憲法の下で人びとは誰の干渉も受けずに夫婦になりたい当事者二人だけが「結婚したい」と思う意思だけで結婚できるとされているはずです。それにもかかわらず、今の民法によれば、夫婦のうちどちらかが自分の名前の構成部分である名字を変えないと結婚が許されない制度ということなのです。

 夫婦別姓を望んでいる人が制度全体として望むのは、結婚する時に夫婦が同じ名字にするか、元の名字をそれぞれ名乗り続ける「選択的夫婦別姓」制度です。

 現在の日本では名字は「家族の呼称」と思っている人が多いと思います。家族の呼称であるというのは、個人を外から眺めた時の他者の視点です。他者から見れば、一つの家族が一つの名字を名乗れば誰と誰が家族なのかの推測がつくので便利でしょう。

 しかし、頭でわかっていても、自分の名字を変えなければならないということに私は違和感と苦痛を覚えています。自分で望んだ結婚であれば婚姻届を提出するということは、正式に好きな相手と夫婦になれるという嬉しいことのはずです。しかし同時に「私の名前はなくなるのだ。離婚をしない限りは」という思いがこみ上げました。社会通念上、名字が家族の呼び名と定義されていても、私は言葉にならないレベルで「そうではない。個人としての自分の名前なのだ」と思っているということです。

 この心情は根源的な感性のレベルの問題で、人により違い、一生かかってもわからない人にはわからないと思います。新聞でもネット記事でも、この苦痛の部分がわかっていなければ、単に人を秩序の中に位置づけ、その上でのバリエーションを趣味的に語るだけの記事になってしまいます。

 なお、名字を変えたくない、という思いの理由については、これまた人によって様々です。私の場合は純粋に「自分個人のアイデンティティ」の問題です。しかし、「仕事で自分の名前が広く知られているので、結婚したことを多数の人に連絡したくない、プライベートについてあれこれ話したくない」「長く続いた家なので家名として自分の名字を変えたくない」「特に愛着があるわけでもなく名字を変えるのはどうでもいいが、手続きが面倒くさい」という人など程度も違います。

「子どもがかわいそうじゃないのか?」と挑んでくる夫婦別姓反対派

 夫婦別姓については当事者の不利益よりも先に取り上げられる反論として「子どもの名字はどうするんだ」という反対意見があり、さらに意地の悪いのになると「子どもがいじめられる」というものがあります。これを聞くと「ああ、夫婦別姓反対派のあなたがうちの子をいじめるんだな」と思いますが。

 私が家の場合、子どもは夫の名字を名乗っていますので、私の旧姓とは名字が違いますが、これは私が自分の旧姓を保持すれば当たり前のようにそうなるわけで、子どもと名字が違うことで周囲に説明が必要であることなどの不便さは私が負う問題です。

 戸籍上は娘と同じ名字でなくても、娘の学校行事などでは娘の名字で学校関係の人に接すればいい話で、私にとっては余り大きな問題ではありません。現行制度でも離婚して子どもを引き取ったお母さんが、子どもの名字をお母さんの名字に変えないでそのままにしておくと、子どもとお母さんの名字が違う、というケースが多く発生しています。母子で同じ名字でないという家族は世の中にすでに存在しているということです。

 私は子どもが言葉を覚えていく段階で、現行の制度や裁判について語ってきました。その結果、現時点では子どもは「結婚の時は自分の名前はそのままがいい」と言っています。でも、あくまで本人の意思に任せたいので将来本人の気が変わって、結婚の時に変えたいならそれでよいと思っています。

 民法が改正され、別姓も選べる制度になったら私は子どもの名字は両親の協議でその都度決めればよいと思います。子どもがまだ生まれるか分からない結婚の際に決める制度にすると、子どもごとに別々の名字をつけたいと思っている夫婦の場合、子供の出生の度に離婚届と婚姻届を次々と出すというような方法を使ってでも手続きをするものだからです。本当の意味で離婚する意志があるわけではないのにそのような小手先の書類手続きを誘発するような制度は最初から作らない方がいいと思っています。

私たちが思う「伝統」は日本の古来からの伝統か?

 夫婦別姓に反対する意見として、「夫婦が同じ名字にするのは日本古来からの伝統」と言われることがあります。これは歴史的な事実ではありません。

 明治3年(1871年)、日本は近代国家として江戸時代までの身分制度を廃して、国民の平等を図るために、「苗字」を持つことを解禁します。その後、「苗字」を持つことが義務化されていきますが、明治9年(1876年)に女性について「結婚しても所生の氏を用いる」という旨の政府としての指令(太政官布告)が出されました。明治の初期は、なんと公的には夫婦別姓だったのです。江戸時代までの各地の実態も考慮したためなのでしょう。

 その後、20年余の期間の間に外国の法制も併せて研究された上で民法の草案がいくつも作られ、徴兵制の必要性から戸籍制度の構築も進み、1898年(明治31年)に家制度を採用した明治民法が制定されました。氏は家族の呼称となり、一家の長が戸主となって家族がその命令に服すこと、戸主の地位は「家督相続」という名で長男が継承すること、妻は結婚によって夫の家に入り夫の家の氏を称する、という制度ができたのはこの時です。

 家父長制の家制度とともに、夫婦同姓が制度にされたのは、明治になってからすでに30年も経過していた時期でした。国家の制度としては家父長制も夫婦同姓も、古くからの伝統ではなく、この時に新たに創られたものだったのです。現在から見てざっと120年ほど前の話になりますが、近代国家として「富国強兵」をスローガンにした国家観と切り離せない制度でした。

 ちなみに、伝統的なものというと神社で行う神前結婚式のイメージがあるかもしれませんが、これも1990年(明治33年)にのちの大正天皇が結婚した際に宮中で行われ、それが一般国民の反響を受け、現在の東京大神宮が儀式をプロデュースしたのが始まりと言われています。家制度が整備されたのと同時期です。日本の長い歴史に照らせば、100年ちょっと前の新しく創られた伝統と言えます。

明治直前の日本は一つの政府が家族制度を管理していたような国ではなかった

 歴史的論拠としてよく聞かれるものに「北条政子や日野富子が別姓だった」がありますが、これさえも歴史の中の一部の階層の人を切り取ったにすぎません。日本の歴史は長く、時代による相違も大きく、地域によって状況は多様であり、社会階層によっても異なりました。

 氏をめぐる定義や使われ方もかなりの変遷があります。古くに遡ると、律令制を採った頃は中国の古代家族法と同じで、結婚しても女性は結婚前と変わらず父家の姓を称していたようです。現在では「氏」は「姓」や「苗字/名字」と同じ意味で互いに置き換え可能な言葉ですが、時代によっては「地縁的なもの」「地名からつけるもの」「家を表すもの」などで区別がされましたし、一方で混同されて使われたりもしてきました。

 人は長生きしてもせいぜい100年くらいしか生きられませんし、家族関係の秩序に関する知識やイメージは家庭で親や祖父母から言われることから形作られることが多く、せいぜい二代前のことでも感覚的には「伝統」だと思ってしまうのではないかと思います。

 では明治以前の結婚や、それに伴う氏や名字の変更の伝統はどのようなものだったのでしょう。明治以前は、夫婦別姓が歴史の伝統だったと主張する人がいますが、必ずしもこれは正しくありません。

 明治時代の直前の江戸時代は、日本は一つの政府で日本列島全部の住民の家族制度を管理していたような国ではありませんでした。そもそも氏を持つのは武家だけでした。一方で庶民は通称として屋号のような氏を持ち、嫁入りした女の人の氏の扱いは、生家のままだったり、嫁入りした先のものを名乗ったりと地域によってばらばらだったようです。

96%の夫婦が夫の氏を選んでいる現実と、時代とともに変わる生活スタイル

 第二次大戦後にGHQの支配下で民法も1947年に改正され、家制度自体はなくなり、男女の権利も平等になりました。氏については改正原案で「夫婦は共に夫の氏を称す」としていた所をGHQの指摘を受けて、「夫または妻」に修正しました。「協議によりどちらかの氏にするのだから平等だ」という説明をつけてGHQの了解を得ています。

 この改正を見てみると、結婚しても男女とも財産を持ったり相続したりする権利に違いはなくなったため、氏だけが明治民法の名残を残していると言えるでしょう。表面的には「協議で夫婦どちらかの氏を名乗ればよいのだから」とぎりぎりでGHQから承認されながら、実際の社会の状況を見れば96パーセントの夫婦が夫の氏を選んでいるという状況になっており、社会通念として「女性は結婚すれば名字が変わるから」と思われているわけですから。

 しかし、一方で人々の生活スタイルは時代と共に変わってきています。かつては、夫婦一緒に自営業で生計を立てていた人が多かったかもしれません。その後、高度経済成長に従い雇用されて企業で働くサラリーマンの割合が増え、夫だけが働き専業主婦が出現しました。女性の名字について外から眺めた都合を考える場合、その時代まではそう不便はなかったかもしれません。しかし、経済活動や研究活動等、家庭以外で活動する女性が増えて、さらに法律面でも本人確認が厳格的になってきた昨今では、結婚のために戸籍上の氏が変更されることは大きな問題になって久しいのです。

猛烈な反対派議員と政局に振り回された選択的夫婦別姓

 私が結婚したのは今から9年前のこと。結婚前は「外国人と結婚すれば名字を変えないで済む」と知っていましたが、ご縁があったのは日本人でした。夫は私の気持ちはよくわかってくれましたが、自分も変えたくなく、私が「どちらも変えたくない場合は事実婚といって法的に結婚しない方法を取る人もいるみたい」と言うと、もうそれしかないと結論づけていました。

 一方で私には、結婚後にどちらかが重大な病気になったり事故に遭ったりした時、家族として本人の代わりに意思表示が必要になったら、果たして家族として認められるだろうか、という不安がありました。確率は低くても、起こらないとは言いきれません。そんな究極的なことを思いめぐらして、深刻に考えているのは私の方なのだから、とりあえず私が折れて名字を変えるしか方法がないではないかと思い直し、婚姻届を出しました。

 結婚した時は自民党政権時代。90年代半ばに法務省の法制審議会で、民法の改正をする方向で答申がされたということで、あとは国会に民法改正案を提出すればほぼ通る、といわれていたのに、土壇場で自民党の一部の議員の猛反対で国会での成立を見なかった、という話もあとで知りました。

 その後、2009年に民主党・社民党・国民新党の連立政権となり、夫婦別姓選択制を推進する2名が閣僚入りしたことにより、夫婦別姓はもう実現するのでは、という報道もされました。しかし、閣僚の一人であった亀井静香氏が反対。そうこうしている内に、その時の鳩山政権内では普天間基地の移設問題をめぐり連立を組んでいた社民党と対立し、社民党が連立政権から降りることになり、推進政党であった社民党が政権から外れることでさらに絶望的になりました。

 自民党政権の時代も内部で推進派議員が周りの議員を説得にかかり、少しずつ歩みながらも大きな波で流されるように潰されていましたが、政権交代後は政治的に不安定で、民主党内も推進で足並みをそろえられない状況で単独での法案提出さえもしない状況となりました。政治で変わるのを待っていてはもうだめなのではないか、と思った時でした。

訴訟は一念発起してひとりで起こせるものではない。

 私は婚姻届を出す前に「夫婦別姓」についてインターネットで調べたり、何冊も本を読んだりしていました。周りに理解をしてくれる人もいなかったので、仲間が欲しいという思いも強く、インターネットで活動団体というものがあることも知りました。

 その延長でたまたま入会した会は、自民党での推進派議員を顧問に据えている会でした。といいつつも、できる活動はせいぜい1年に1~2回、「ロビー(活動)」と称して議員会館に陳情に行き、国会での状況を聞くことぐらいです。あとから考えれば2000年代は「男女共同参画」の政策が推し進められた反動で「バックラッシュ」と言われる男女平等叩きの動きがあった時代に当たっていました。

 その後、民主党を中心とする連立政権のもとで、結果的に訴訟するだけの人が集まれたのは、この団体で活動をしていたからでした。団体内で「司法に訴えるしかないのでは」という話になり、一人が「ちょっと弁護士さんに相談してきてみる」と相談に行ったのが第一歩でした。誰か一人が一念発起して人を集めたのではありません。同じように活動してきていてカンパを集めたり政治家に働きかけるのが得意な人、今まで婚外子相続差別などの家族法の訴訟を経験している家族法に強い弁護士たち、「誰かがやらないといけない」と思った原告が決まって実現した裁判でした。

「合憲か違憲かの判断」はしなかった東京地裁

 2011年のバレンタインデーに東京地方裁判所に提訴しました。東日本大震災の1ヶ月前のことでした。私たちとしては裁判所に民法750条が違憲だということを言ってほしいのが目玉でしたが、戦いの仕方としては「国会議員が立法してこなかった」のだから「国家賠償法」に則って賠償を求めるという形をとる裁判になりました。その上で憲法の13条(個人の尊重)、24条(婚姻・家族と個人の尊厳、両性の平等)の点から、また、日本が締結している「女性差別撤廃条約」の点からみても違反しているという主張をしました。

 地方裁判所での裁判は提訴から判決まで2年3カ月かかりました。年に3回ほど法廷が開かれ、最後の方の法廷で原告が自ら陳述し、原告側の弁護士と被告側(国)の代理人からされる尋問も体験しました。裁判長が女性だったので、支援の方の中には「いい判決が期待できるのでは」という声もありましたが、そう単純ではありませんでした。

 憲法は個人に「結婚の際にそれまでの自分の名字を保持する権利」は保障していないし、条約も「個々の人に具体的権利を付与しているものではない」という判決でした。報道では「合憲」と打っているところもありましたが、正確には「合憲か違憲かの判断はそもそもしていない」判決でした。

「国会が国民のコンセンサスや歴史、伝統を慎重に見て進めるべき」!?~少数者の苦悩を無視した高裁判決

 もとより最高裁判所まで闘うのが当たり前という裁判でしたので、次は東京高等裁判所に控訴。高等裁判所では地方裁判所のように一から事実を述べたりすることがないせいか、9カ月程度の待ち時間で2014年3月に判決が出ました。

 この判決では、夫婦で同じ名字を名乗ることは習俗の継続、家族の一体感を醸成の目的があって、そこに正当性があるとか、旧来から社会的に受容されている、国民の支持を失っていない、という、少数者の苦悩は無視するような全体から見た考え方でした。

 その上で、「家族に関する法制は国会が国民のコンセンサスや歴史、伝統……を慎重に見て進めるべきこと」という結果。いやいや、多数の国民が「これでいいんじゃない?」と思っている制度を受容できないから訴えたのに、そんなことなら司法になんか頼まないわ!と叫びたくなる判決でした。

3人以上の裁判官が「違憲だ」または「違憲が濃厚だ」と判断 最高裁へ

▲最高裁判決当日、列をなす傍聴希望者

 そして最後の最高裁。2014年4月に上告しました。二審の東京高等裁判所までは、憲法については13条、24条についてしか問題にしていませんでしたが、24条には平等についての14条の精神も盛り込まれていることと、24条についての裁判所の判断があまりにも形式的だ、という不満があったことから、上告の時に14条も加えて争うことになりました。

 弁護士さんからあらかじめ言われていたことでしたが、約1年間は全く動きがありませんでした。年が明けて2015年2月18日の午後3時すぎ、弁護団長から「大法廷へ」と言う件名のメールが舞い込みました。あまり時をたがわずにマスコミも速報で「夫婦別姓訴訟が大法廷に回付された」と打ちました。

 最高裁判所では、上告が来るとまず裁判官5人で構成された小法廷で審理され、初めての憲法判断をするべき案件であったり、3人以上の裁判官が「違憲だ」または「違憲が濃厚だ」と判断した場合などに大法廷の15人の裁判官の判断に回します。最終的に違憲判決を得るための一里塚ですから、私たち原告も弁護団も支援者も期待を大きく膨らませました。

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