【IWJブログ・特別寄稿】「明日戦争がはじまる」の作者です。こんにちは。(第3回) 詩人・宮尾節子 2015.5.5

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【IWJブログ・特別寄稿】「明日戦争がはじまる」の作者です。こんにちは。(第2回) 詩人・宮尾節子 2015.5.5の続き)

 日本の憲法が「平和憲法」と呼ばれるのは第9条において「戦争放棄」をはじめとして、平和主義を掲げているからです。その有名な「9条」がいったいどのような経緯で決められたかという、詳しい事情を恥ずかしながら、わたしは知りませんでした。

 しかしあるとき偶然、その当時の事情や経緯にふれた、非常に生々しい資料に出くわしました。そしてその文章にわたしはひどく感動しました──。そこには思考停止にはげしく抗ったひとりの人間の「苦悩と葛藤」が、血がにじむようにして、文面に言葉をにじませていたからでした。

そして、「幣原喜重郎」と出会う

 わたしは、次の文章を読んで、「国が、ひとのこころで、動いた日があった」と感じ驚きました。それも、先にあげた「汝殺すなかれ」という人間の良心の声を、ここに聴いたと思えたのです。そのとき、「国の姿が人間の姿」に見えたことに、たいへん感銘を受けました。

 もしかしたら、これは周知の事実で、みなさんはよくご存知であり、わたしだけが知らなかったのかもしれません。そうでしたら、どうぞ浅学無知をお許しください。ただ、わたしのような者も世の中には案外多いかと思いますので、長くなりますが大変貴重な資料であり「戦争放棄」の条項がまさにこの国に、産声をあげたあたりの経緯を、以下にほぼ全文引用してみます。

 そのまえに、わたしがここでこのように拙い不慣れなものを書くにあたって「二人の政治的・思想的人物」との出会いがあったと、最初に申しあげたもう一人をお伝えしておきます。それは以下の文章(聞き書きです)の発信者である、この人「幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)」なのです。

(*国会図書館内にある憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)と題されたもののコピーを、今川という方が入力したとのものを拝借しました。「日本国憲法について」というサイトより──。深謝。)

幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
                   ー 平野三郎氏記―(憲法調査会事務局)
                           ──抜粋(宮尾)─

(この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。(略)昭和三十九年二月 憲法調査会事務局)

 「私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。(略)」と第一章のまえがきにある。

 「問:かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。 

 答:いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

 問:そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

 答:それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる」

 問うは平野、答えるは幣原で、問答はこのように始まります。以下は「幣原の言葉」の抜粋になります──。

 「軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないという恐るべき不安状態の連続になるのである。そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない」

 「国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など初めからないものなのだ」

 「そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか、そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ」

 「果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが軍拡競争の果ての姿であろう。要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ方法がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである」

 「一、二、三の掛け声もろともすべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。もちろん不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。誰かが自発的に武器を捨てるとしたら──最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前にはだかのからだをさらそうと言う。なんという馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。まさに狂気の沙汰である」

 「しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ」

 「何か僕は天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である」

 「ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか」

 「また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。

 共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である」

参考文献 →「日本国憲法について」

苦悩し、葛藤し、智慧の限りを使うということ

 わたしは、またしてもこれらの言葉に、深く感銘を受けました。ここには凄まじい苦悩と葛藤がある。それも国を賭けての個人の苦渋の選択が見える。「その結果がどうなるか、そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである」と正直に胸の内を吐露し「要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう」と赤裸々に煩悶を晒している。「もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。まさに狂気の沙汰である」。

 思考停止しないとは、このようにも凄まじい葛藤を自らの胸中に引き受け、立ち向かわねばならないということなのでしょう。それでも彼は切り返します。「だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている」。そして自らの智慧をしぼり抜き、彼の気の狂わんばかりの懊悩がたどり着いた「答え」、掴んだ「真実」が、「世界の共通の敵は戦争それ自体である」なのでした──そこから導かれた法が平和憲法の第9条「戦争放棄」だったのです──。

 このようにして平和憲法9条が作られたこと。そして、「世界の共通の敵は戦争それ自体である」つまり「敵の正体は、戦争そのものだ」と覚醒した先達の言葉は、現在の私たちにもたいへん重く響きます。そして9条の「戦争放棄」の知恵こそが、そのとき敵(戦争)に打ち勝つ唯一の方法であったことを、いまいちど胸に思い起こしたいと、わたしは願うのです──。

 幣原喜重郎は当時の、日本の総理大臣でした。わたしは、上で現首相の安倍さんの力づよい演説にも、心が動いたと書きました──。しかし、戦後70年を経た国の長の演説は、集団的自衛権閣議決定という、それはわたしなど政治にうとい者が少なく見積もっても、「軍拡方向への」演説でした。そして、同様に感銘を受けた先ほどの幣原喜重郎の言葉は、「敵は戦争」だという真実を見抜き、敵ではなく戦争を投げ打って、「軍縮と戦争放棄」を願ったものでした。このことの違いは何なのでしょう──。

 今いったい、この国では何が起きているのでしょうか。わたしたちは、考えなければなりません。これから苦しいけれど、もっともっと考えねばならない正念場を迎えるのではないでしょうか。「苦悩と葛藤」を抱えて、それでも「思考停止」をしないこと。それのみが、わたしたち国民の、いえ、わたしたち人間・ホモサピエンスのできる大切なこと、つぎなる智慧にと人を導く、ほんとうに幸いな方法ではないかと思うのです……。

 わたしは特に、強いイデオロギーというものを持ち合わせていません。あるとすれば「汝殺すなかれ」を人としての最後のよりどころとする、覚束ない心ひとつが頼りの人間、それでもいつ何時アイヒマンとなるやも知れない、ひとりの「凡庸な」人間です。

 殺すか殺されるか・・・の一触即発の場面ではもしかしたら──人を殺めてしまうかもしれません。生存本能という荒ぶる力が働いて、自分を守るために反射的に動く自分を止められないかもしれない。だからこそ、そういう危うい存在だからこそ、そのような場面に巡り合わせないためにこそ、そこに至る前に、どこまでもどこまでも、人は苦悩し葛藤し、人間の持てる智慧の限りを、使うべきなのではないでしょうか。

 結局、ハンナのいう「悪の凡庸さ」は「思考停止」をした人たちのことを指しました。法を守るだけで、あとは自分で考えることをやめてしまった人たち。あるいは法が決まれば、それでもう諦めてしまう人たち。人が悪に変容するか否かは、最終的には「自分の頭で思考できるかどうか」という、どこまでもそのひとつのことに、懸かっているのだと思います。どこまでもとは、その指が投票用紙に、あるいはその指がボタンに、あるいはその指がナイフに、あるいはその指が銃の引き金に、触れる、その瞬間までです。人があらゆる「いま・ここ」に触れる、そのたったひとりの孤独な瞬間を、「汝殺すなかれ」の良心を選ぶ自由と幸福が、「いま・ここ」目の前にあると、自覚し覚醒するまでです。

 ──そのような思考停止の怖さや、それに気づくきっかけが、もしもこの度の、わたしのちっぽけな詩で、ささやかながら、乱暴ながら、わずかなりとも届けられたのであれば、たくさんご批判も頂きましたが、書いてよかったと、わたしは思うことができます。

愛とは、葛藤を引き受ける勇気のことを指す

 ハンナ・アーレントは、わたしの印象では、真実以外の誰の側にもつかないという強い信念と、誰の肩も持たないという決然とした態度の、しかしそれらを翻せば、見えてくるのは、「誰も敵ではない」──という彼女の強い「人間愛」です。ときに人はこのようにも、愚かになるのだという、同じく人間への深い「慈悲」とともに──。

 「彼は常に法に忠実な市民だったのだ」。アーレントは「アイヒマンの裁判」のアイヒマンについてこう書きました。法を守る凡庸な市民。大量虐殺に関与した者たちは残虐非道な悪魔ではなく、普通の人たちだったこと。普通の善良な人たち──ハンナの驚きと落胆はそこにありました。その善良な人たちを憎まねばならない、やり切れなさも……。そしてこの度の、法(憲法)を変えてしまうという動きの恐ろしさも、結局はそこに繋がるのだと思います。

 法は、わたしたちをよそから来る悪から守るだけでなく、わたしたちをわたしたちの内部から来る悪から守るためのものでもあると思います。すなわち「わたしを、とめろ」──法にはその役割も強くあるのだと。

 最終的には、自らの覚醒に向けられた幣原喜重郎の言説「敵は戦争だ」にも、わたしはアーレントと同じ徹底的に自己省察を通過して他者に向かう「両刃の思考」を感じ、同じ強い「人間愛」を感じてしまうのです。そしてわたしには、その愛こそが信じるに足るものだと思えるのです。

 強い愛とは、葛藤を引き受ける勇気のことではないのでしょうか。そして、今この時の、この国こそ、その強い愛で、どこまでもどこまでも、葛藤を引き受けながら、思考停止に抗って、人の叡智を見出すことが必要なときではないでしょうか──。

 疲れたら、休みたい。疲れ切って、思考停止してしまうのは、時にやむを得ないことです──。しかし、その時のわれわれの暴走を止めてくれる、制御してくれるものが、われわれの良心を反映した国の法、憲法であるとわたしは信じたい。そこに盛り込まれた人間の良心の声は「汝殺すなかれ」であると──。その文言が変わることがないことを、常に確かめたい。

 かつての総理大臣、幣原喜重郎が考えに考えに考え抜いて到達した「世界共通の敵は戦争である」の彼岸から、選び抜いた答えが「戦わない=戦争放棄」であるならば、憲法9条は覚醒した法だと、わたしには思えるのです。詩を書くものとして、二人の苦悩と葛藤、そしてそこから生まれた言葉を信じられると思い、その言葉から導かれた答えを、わたしは信頼したいです。

 それでも──。結局は、わたしの小さな詩も、七年前にふと思いついた細やかな作り話です。おとぎ話なのです。同じように、今の時代においては、狂気の沙汰を承知で作った幣原喜重郎の軍縮論と戦争放棄の──憲法9条ももはや、おとぎ話に過ぎないのであれば──。しかたがありません。わたしたちは再び、元のおとぎ話の振り出しにもどるだけです。強い日本を作るために、軍拡競争という際限のない悪循環を繰り返す、もうひとつのおとぎ話へと。そしてもう一度、わたしたちは思い知らなくてはならないのかもしれません。「世界の共通の敵は戦争、だった」ということを──。

そして、「明日戦争がはじまる」

 「War is over, if you want it.」(戦争は終わる、君がそれを望めば)1971年にジョンレノンとオノヨーコさんが歌った歌の、このフレーズが、わたしは大好きです。そしてこの歌で、もし地球上の人類の全員が「戦争をしない」と決めたら、それが起こらない!という事実ににわかに気づいて、ひとりでひどく昂奮したものです。

 一人ひとりがほんとうに思えば、世界が変わることの凄さに。自分がその変えることができる「一人」に混ざっていることに、びっくりしました(笑)。宇宙のなかの、地球という星の地球人の、自分もかけがえのない一人なんだ、ひとりの地球人代表なんだと、自覚できた瞬間だったのかもしれません・・・。その存在の重さ、尊さにとても感動しました。変わらないのは、きっと、変わらないと多くの人が、思い込んでいるからなのでしょう。変わると気づいた人達だけが、せっせと動いて世界を変えていってるのです、変えてきたのです。それが、現実だと思います。よくも、わるくも──。

 「War is over, if you want it.」(戦争はおわる、あなたが望めば)1971年。ジョンとヨーコと根ざす思いは同じくしながら。2014年。わたしは小さな詩を掲げました。「Tomorrow,War will begin, 」またこうも英訳されました「Tomorrow’s War」(明日戦争がはじまる)です。読んで頂ければ幸いです。

 日々の暮らしと、身のたけの言葉で、身のまわりの詩を書くことぐらいしか能がないわたしが、「こころとことば」という危ういものを頼りに、このようなところで、このようなことを書いてしまったことに、今じわじわと身の竦む思いがしています。穴だらけの諸々の見解には、お叱りも受けるでしょう。たとえそれが、ひどく間違っていて、はげしく偏ったものであるとしても、これが現在のわたしの、ありのままの気持ちです。

 これから、また少しずつ学んで、意識を更新し、軌道修正をしながら、今日よりは明日と、少しはましな詩を書き、ましな人間になりたいと願っています。自分の守備範囲を逸脱して、拙いものを書いて参りましたことをお詫びしつつ、長々と読んで頂いたことに深く感謝いたします。このようなわたしに最後までおつきあい頂きほんとうにありがとうございます。みなさまとこの場を提供してくださった岩上安身さんに心より感謝です。ありがとうございました!

月刊誌『新英語教育』12月号(三友社出版)の「今月の詩」欄に「明日戦争がはじまる」を、ノーマン・ジェームス・アンガス氏の素晴らしい英訳付きで掲載して頂きました。対訳でどうぞ、ご高覧くださいませ。

最後にもう一度だけ、くり返させてください。

わたしは反戦詩を書いたのではなく
詩を書いたのです。

「世界の敵が戦争」なら、
わたしは
わたしの詩は
敵をもちたくない──

拙い詩を読んでくださって、本当にありがとうございました。

宮尾節子拝

(写真:長谷川游:http://hasegawau.blogspot.jp/

記事に素敵な写真を添えてくださった、長谷川游さんにも感謝です。

☆ただ今、『宮尾節子アンソロジー 明日戦争がはじまる』(集英社インターナショナル)が発売中です。また、Amazonのみで新詩集『明日戦争がはじまる』(思潮社オンデマンド)が発売中です。拙い文章よりは詩のほうが水を得た魚になれます。読んで頂ければ魚が跳ねて喜びます。詩を読んで頂くことで、また水を得ることができます。どうぞ、よろしくお願い致します。

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「【IWJブログ・特別寄稿】「明日戦争がはじまる」の作者です。こんにちは。(第3回) 詩人・宮尾節子」への2件のフィードバック

  1. @kazenosaburou より:

    一気に2回読みました。
    第3回 とても素晴らしいです。

    宮尾さんの、現在のありのままの気持ち しっかり受け止めました。

    幣原元総理の思い。こんな時代だからこそ、ぜひ一人でも多くの人に読んでもらいたいです。何を感じるかは千差万別でしょうが、平和を希求する人間の思いはきっと通じると思います。

    憲法9条を持つ日本。
    戦争を放棄し、軍備も一切持たない国コスタリカ。
    幣原元総理の思いを何度でも読み返してみたいと思います。
    1,2,3と大変興味深いお話をありがとうございました。
    明日戦争がはじまることのないように。

  2. おおおおお より:

    で、戦争をなくすために戦争を始めるんだw

    断言するよ。
    あなたみたいな正義感がいつでも戦争を起こす。

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