【安保法制反対 特別寄稿 Vol.321~Vol.330】
多くの方が指摘しているように、根本的には選挙で国民の意思を反映させなければなりません。急進右翼政治の台頭には多くの国民がだまされたと感じているとしても、現実に自民党に票が入るのはその政策を支持する有権者がいるからです。原発を廃止し、蝋燭に火をともしてつましい生活をするのと、地球環境が多少悪化しようが国民が多少戦場で死のうが経済が潤って豊かな衣食住を享受できるのとでどちらの選択肢を選ぶでしょうか?
戦後日本人はアメリカ渡来の物質文明の恩恵に目が眩んでしまったようです。あるいは、この傾向は「近代化」そのものにあるのかもしれません。便利で清潔でリッチな生活…求めれば求めるほど電力が湯水のように消費されます。その結果、汚いエネルギー源の原発に頼るか、ホルムズ海峡経由の原油を当て込む…そうだ! エネルギー源は自分たちで守らなければ。かくして、辻褄が繋がっていなくても、経済優先の政党に支持が集まってしまいます。
今回の事変から我々が考えなければならないのは、単に憲法問題や政権の正当性ではありません。我々がこれからどのような生活を送りたいのかが深く問われています。「ぜいたくは敵だ!」…戦時中のスローガンをまさかここで自分が口にしようとは思ってもみませんでした。
夏は冷房があると快適に思うか? 家電や車や衣料品をまだ使えるのに買い換えてはいないか? 残飯を平気で捨ててはいないか? 好きな時に届けてくれる通販生活は、買物の手間が省けて楽か? …かくいう私もマンションは24時間換気で、腐らないように食洗機を時々回さなければなりません。
今回多くの大学生・高校生が運動に参加してくれたのは、心強い限りです。有事法制も原発問題も教育問題もすべて根っこの部分で直接自分たちの生活に繋がっていることを、我々は次世代および後に続く全ての世代に責任を持っていることを、学生たちに明確に伝えて行きましょう。
安間一雄 獨協大学教授(言語学)
今回の安全保障関連法案に関わる与党の動きは、憲法に違反している、また、議論や対話を尽くさずに性急に採決に向かうといった、法を成立させるための民主主義の理念や手続きの軽視ということにとどまらず、私たちをより大きな危険にさらすものです。
私たちは誰もが、富をもち豊かに暮らすことを望むと思いますが、富とは、究極的には安全保障です。工学者バックミンスター・フラーは、ある集団がもつ富を、その集団に「残された日数」であると定義しました。長らく生存を続けられることこそが富であり、すなわち安全の保障です。そして、武力の行使によって安全を保障することはできません。
仮に目の前の暴力に対して武力を行使し、束の間の勝者になったとしても、敗者となった側の欲求が消え去るわけではないからです。武力は、より強力な武力により打ち負かされる運命にあります。それを避けるためには、さらに強力な武力を持つ必要があります。武力の行使により安全を保障しようという考え方は、正のフィードバックにより武力の止めどない増強につながり、不安定です。
経済が好調に成長を続けられる間は、武力の増強における正のフィードバックは経済成長との整合性をもちます。そして、米国は世界最大の軍事力を持つに至りました。しかし、地球上の資源の有限性に基づいている以上、経済が永遠に成長を続けることはできません。
今回の法案は、米国からの要請だと思いますが、米国がその優位性を無条件に保てるであろう「武力の独占」という道を選択しないのは、それが自国の国益に反するからでしょう。武力は安全保障における資産ではなくコストなのです。
安全保障のコストをフェアに分担しよう、という考え方は米国の主張としては分かり易く、そのような要請があった場合、相手が世界最大の軍事力を持つ以上、立場的に不利だとは思いますが、武力による安全保障という考え方そのものが危ういのですから、それを鵜呑みにするのは得策ではありません。自衛隊が米国の軍事行動に参加することは、気候変動や地震による脅威が高まっている現在、災害への対応といった、広い意味での我が国の防衛力を削ぎ、自らを更に不利な立場に追い込むだけです。
安全保障を考える際に、武力よりも重要なのは、食料生産を含む生産性の高い豊かな環境を作ること、そして諸外国・地域およびコミュニティとの良好で、互いに依存し攻撃を誘発しにくい関係を保つことです。本来の積極的平和の考えに基づいて紛争をその原因から解消していき、暴力の意味自体を奪うことであり、武器ではなく知識を輸出することです。
地球上に偏在する資源に依存することによって、持てる側・持たざる側のどちらに立っても紛争を呼び込んでしまうようなことを避け、むしろ太陽輻射や大気の循環など、地上に遍在する資源を効率的に活用する技術の開発に注力し、その知識を世界と共有し、攻撃されうる要因を徹底して排さなければなりません。
また、米国を含む諸外国の軍事行動に参加することが、近未来的にどのような状況をもたらすかということを想像することも大切です。
人工知能やロボット技術による自動化の波は、武力のコストを下げるために、むしろ軍事において先導的に活用され発展していくと考えられます。集団的自衛権が実際に行使されるような近い未来、前線にもはや人間の兵力はいなくなっており、自動化された兵器が敵側の兵站を標的にするでしょう。
もちろん、兵站も自動化されるわけですが、例えば米国の兵站ロボットの護衛に就いた自衛隊員が戦闘により殺されていくことを想像しなければなりません。米国にとって、自国民の戦死者ゼロはゴールのひとつでしょう。我が国が米軍を支援するということは、そのゴールに対しても貢献するということを意味します。したがって、人手が必要とされるところへ優先的に配備されていくことを想定しなければなりません。
そして、攻撃行為の自動化は、紛争を根本的に解消する方向に向かわない以上、テロリストを含むあらゆる武力的主体において起きる変化だと考えなければなりません。攻撃はより安価に、軽やかになります。攻撃対象の痛手を最大化するため、戦場での兵站に関わらず、広い意味でのロジスティクスが攻撃の標的となります。同盟国と見なされる我が国の物流やエネルギー等、社会インフラへの攻撃を招くということです。
これはもちろん、いわゆるサイバー攻撃を含みますし、稼働中・停止中に関わらない原子力施設への攻撃も含みます。これらは、私たちをより危険な状態に置くことになります。
それは富ではありません。富でないものを安全保障と呼ぶことすら矛盾ですので、今回の安全保障関連法案は、違憲性や、法としての整合性を問われるまでもなく、その概念自体が、21世紀初頭の現在、すでに破綻しているのです。
仮に法として成立した場合、私たちは矛盾の中に置かれることになります。憲法に違反しているといった、人の社会の決めごとの整合性の破綻にとどまらず、安全の名のもとに市民の生活や生命が危険にさらされるという矛盾です。
この法案を是とすることは、私たちにとって賢明な選択とは思いません。むしろ、実際に私たちの安全が保障されることを目的として、紛争の解決の手段として武力を用いない、21世紀の技術的社会的状況とマッチした、新たな国内外の秩序の形成に向けた議論と対話を進めるべきです。
斉藤 賢爾 慶應義塾大学SFC研究所上席所員/関東学院大学非常勤講師(人間環境学部)
私が安全保障関連諸法案に反対するのは、軍事力の誇示によって国際的な紛争を抑止しようという、その基本思想を信じることができないからです。
集団的自衛権によって手に入るであろう「抑止力」は、仮に当面の軍事的緊張を凍結できたとしても、その緊張の原因を取り除くことには役立たないと思います。それどころか、より強力な軍事力を持とうとする欲求を、周囲の国が高めることにつながるでしょう。その行き着く先は地球的規模の破滅しかありません。
また、今国会での審議において、政府が安全保障関連諸法案の全貌を語っていないと思われる点も、重大な問題点だと考えます。政府の諸法案の必要性についての説明の核心は、要するに集団的自衛権によって「日本の安全」が確保されるという点にあります。
しかしながら、なぜ日本の安全のために自衛隊の世界的展開を可能にする必要があるのか、この点についての説明はいまだなされておりません。多くの論者が指摘するように、ここには「アメリカの世界戦略への協力」という、日本の安全の確保を遙かに超える領域に自衛隊を活用しようという意図があると思います。その点に触れようとしない現政府には不信感を持たざるを得ません。
最後にあげたい理由は、今回の諸法案の提出者である現政府すら、これらが国民の支持を得られると思っておらず、国民的支持の希薄さが明らかだという点です。先日の自民党総裁選において、安倍総裁が無投票当選となりましたが、現政府が躍起になって対立候補の立候補を押さえ込んだ理由は、党員投票における批判票の噴出を恐れたためであると、私は考えます。また2014年末に、消費税率引き上げ先送りの是非を国民に問うという理由で、不要説を押し切って総選挙に打って出た安倍首相が、これだけ国民的議論の起きている法案について国民の信を問おうとしないのはどういうわけでしょうか。
以上の理由から、私は安全保障関連諸法案に反対します。
「安全保障関連法案」に反対する岐阜大学関係者有志の声明」賛同者
(山本公徳 岐阜大学准教授)
自然法則を研究する物理学でも、いくつかの基本法則があり、それらは理論自身の整合性と実験での検証を経て、確固となっていきます。
したがって、自由な発想に基づいているといっても整合性を欠いたものや、実験、観測と矛盾する理論は打ち捨てられていくのです。言い換えれば、そのような制約のもとで、自然法則に採用される理論を組み立てることは非常に困難で、それがゆえに面白く価値もあるのです。
今までに確立されてきた理論体系も様々な実験、理論の試行を経てできたものです。その場しのぎの理論を組み立てても、永くは続きません。自然法則を憲法に例えれば、憲法はその解釈も含めて確立されたものであり、今までの運用でテストされてきたものです。
違憲の法案を認めることはできません。また、違憲の法案を成立させた人は、憲法改正に今後携わる資格がありません。元来、憲法改正をして自主憲法を作るといってきた政党は、その節を曲げて、違法な手続きの下で物事をすすめています。その内容が良かろうと悪かろうと違法な法案を通すことは不正なのです。
(両角卓也 広島大学大学院理学研究科准教授)
世界の平和を守るため、日本も武力で貢献すべきだとする意見があります。
しかし、「平和を守るため」の世界の軍備も武力も今日明らかに過剰で、世界は、平和を守るために軍縮をする流れの中にあります。日本が平和主義であったために、東アジアの軍拡競争が押さえられ、戦争の重要な抑止力になっていたことは、戦後70年の歴史が証明しています。
今、日本が「平和を守るための軍事貢献」を志せば、東アジア 各国の軍拡で利益を得る人を喜ばせ、軍拡競争につながり、意図的なあるいは偶発的な戦争につながり得、決して平和を守ることにつながりません。また、アベノミクスで株価があがり、景気が良くなったと思っている人がいます。
しかし、実際に行われていることは年金を使った株価のつり上げです。巨額の年金で株が買われれば株価は当然上がります。しかし、いつかは安倍相場を終えなければなりません。
年金が安倍相場が終わる直前に売り抜ければ、株価はさらに大幅に下落しますので、それができません。その時点で年金には巨額の損金が生じ得ます。その損金の責任はだれがとるのか。現在の、また将来の年金生活者がそのツケを払わなければならなくなります。安倍首相は、安倍相場を演出して支持を取り付けていますが、その目的は戦争法案であり、憲法改正です。まやかしの安倍相場、株価のつり上げにだまされてはいけません。
人々の安全を、また将来の生活を危機に陥れる戦争法案に反対します。
(水野広祐 京都大学東南アジア研究所)
日本の児童文学の世界には、政治と宗教については論じないという風土がありました。
しかし、立憲主義をないがしろにする安倍政権の一連の動きを見るにつけ、これでは子どもの将来が危うい、無用の戦争に子どもたちがさらされたり若者が狩り出されたりすることにもなる、また子どもの貧困の加速が経済的徴兵制につながる、と考えて、私は反対の声を上げることにしました。
また、これまではあまりものを言わないできた児童書の作家・画家・翻訳者・出版社の中にも、言論・表現の自由や出版の自由が踏みにじられそうになっていることに危機感を抱く者が増え、現在は「フォーラム・子どもの未来のために」というグループを作って(絵本学会、絵本作家・画家の会、童話著作者の会、日本国際児童図書評議会、日本児童図書出版協会、日本児童文学者協会、日本ペンクラブ子どもの本委員会が参加)、特定秘密保護法の廃止を求め、安保法制に反対し、安倍首相の退陣を強く求めています。
さくまゆみこ・青山学院女子短期大学教授(児童文学)
沖縄からこそ平和を発信するのだという信念から、私は戦争に向かうような法律に断固、反対します。沖縄戦での経験によれば、軍隊は住民(国民)を守りません。アメリカを支援することを目的とする自衛隊は、アメリカ国民を守り日本国民を守りません。「集団的自衛」は明らかに憲法違反です。
多くの憲法学者が憲法違反だといっているものに対し「学者先生は文字どおりに受け取るものだから」と現首相は言っています。法律を文字どおり受けとらないなら何に従えばいいのでしょう。法治国家の基本を知らない人を首相においておくのは許されません。
この時代に生きる民主主義・平和主義国家の国民の責任として、「安全保障関連法案」を廃案に持っていきましょう。
(高良富夫 琉球大学工学部教授)
わが国は、敗戦後70年になんなんとする歳月を、戦争によって他国民を一人も殺すことなく、また自国民にも一人の戦死者を出すこともなく、歩んできた。この事実は重い。さらに、つい最近まで武器の輸出を慎み、世界のどこでどんな紛争が起こって死者が出ようとも、日本製の軍用武器によって殺される人は一人もいなかった。この事実も極めて重い。これらによって世界の中で日本はまさに「名誉ある地位」を占めてきた。大震災後の原発事故によって大いに毀損したとはいえ、日本は誇るに足る立派な国であり、わたしは日本人であることに誇りを持っているが、その論拠は、右翼の諸君が言い立てるような国粋主義-排外主義にあるのではなく、こうした平和主義をつらぬき、天然資源を浪費することなくおおむね豊かで安定した社会を築き上げてきた点にこそあると考えている。
これに基づいてわが国は本来の積極的平和主義外交を展開すべきなのだが、愚かなるわが外務省(※注1)はその意思も能力も持っていないのは残念なことである。国連の常任理事国はすべて武器輸出大国であり、これらを中心とした平和回復と称する軍事介入は、結局のところマッチポンプをしているに過ぎない。ましてや、米国が正義の戦争をしてきたわけではないことは、ベトナム戦争やイラク戦争の結果を見れば明らかである。わが国がこうした軍事介入に荷担する義理を持たないことは論を俟たない。
ところが、現在政府与党を預かる人々は、「押しつけ」憲法を廃し自主憲法を制定することを党是しているはずなのに、米国政府内でさえ間違っていたと認識されるベトナム戦争を間違っていたと言うことすらできないばかりか、上述のようなわが国の立ち位置に対する理解も敬意も持たず、ひたすら米国の従僕(ポチ)として邁進すべく、戦争法案の成立に腐心しているところである。このことは、敗戦後70年に亘って守り続けてきた平和主義をないがしろにするだけでなく、彼らの本来の立場とも相容れないものであるはずである。ところが、国際紛争を小学生の喧嘩と同列にしか捉えられず、「わたしは総理大臣なのだから、わたしの言うことに間違いはない」などと公言して憚らない人物が頭目に選ばれ、しかもこの期に及んでなお表立って反対する声が中から上がってこないのだから、この人物を選んだ人々も同じ穴の狢なのであろう。論理的に破綻していても平気でいられるのは、知性がない証拠である。
立憲主義さえ理解できない彼らに、学問の自由など考えが及ぶことは到底ない。国立大学に君が代日の丸を「要請」してみたり、あまつさえ、国立大学には文系学部はいらない、などといって大学「改革」を要求してみたりするのも、根は同じ、反知性主義である。最近わたしは彼らの目論んでいることを見ると、その思想は、医者や教師やその他インテリを捕らえて皆殺しにし、カンボジアのいっそうの荒廃を招いたポル・ポト派や、バーミヤンの世界遺産を爆破してしまったタリバンなどと大して変わらないのではないか、との思いを禁じ得ない。これらの例を引くまでもなく、未来を見据えず、現在を破壊するのはたやすい。その意味ではインテリとは弱いものである。ましてわが国には、長いものにはまかれろ、という悪習がある。放送協会の報道が天皇の護憲発言さえ自主的にカットするような状況になってしまったことはその一つの表れである。
本書を繙き、苦労を厭わず電磁気学を修めようとする読者諸賢は、知性が未来をひらくことを信じ、学ぶ人々であり、その意味では反知性主義とは対極にあるものである。わたしたちはこのことを再確認し、適切に行動しよう。
(※注1)敗戦によって帝國陸海軍は解体されたが、その不作為によってわが国が真珠湾奇襲攻撃の汚名を着ることになった原因を作った外務省はそのまま現存していることは覚えておいてよいだろう。
2015年6月
横山順一
~「『電磁気学』の教科書 2015年度版のあとがき」より~
安保法案を強制するのは、安倍一人ではできない。
与党の議員たちは集団的に権力に怯え、圧力に屈し、自分の声を失った。
与党の皆さん、勇気を出して、自分の良心と会話して、「違憲だ!」、「王様は裸だ!」と叫んでください。日本を大事にする人々はあなたたちの勇気を期待している。
自分の子供や愛するものを戦争へ行かせることができなければ、今すぐ声をあげて「やめろ!」と叫んでください。
裸の王様を支持する議員がいなければ、王様の醜いパレードも終わるだろう。
(アンジェラ ユー 上智大学国際教養学部教授)
安全保障関連法案を推進する安倍首相は、次のような1930年代認識をもっています。「…しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。‥中略‥こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました…」
この「戦後70年談話」では、世界恐慌のなかで「ブロック経済」の包囲網に直面した日本が、やむをえず「力の行使」に至ったという歴史観が明確にのべられています。しかし、実際には、日本が世界にさきがけて、中国東北部への軍事侵略をおこなったのです。
関東軍は1931年9月に満州事変を起こし、翌年に侵略を拡大させて傀儡国家の満州国を作りました。まさに、日本が世界に先駆けて、不戦条約をやぶって、「日満ブロック」につき進んだのです。イギリス帝国がブロック経済に入るのは、世界に繰り広げられた「ソーシャルダンピング」という日本の低為替下の輸出攻勢への対応策として開催した、オタワ会議以後のことです。
つまり、軍国主義に傾斜した日本が率先して日満ブロックを形成していったことが、世界史の常識なのです。1930年代初頭の日本は、金本位制復帰のための緊縮政策によって、おおくの失業者がうまれ、工場閉鎖がおこなわれていました。民衆の間には、単に貧富の格差がおおきく拡大しただけでなく、様々な「懸隔」が発生していました。すなわち、繁華街を延伸して、「エロ・グロ」の文化に若者が影響を受けていた都市と米価・繭価の惨落に途方に暮れる農村との文化的対立の深刻化が生じていただけでなく、既成政党への根強い不信、世代間・職種間の対立、「日貨ボイコット」を行う中国にたいする「暴支膺懲」の感情が各地でうずまき、国内市場の狭さや資源の貧困、人口の増加問題への解決などを日本「改造」にもとめる声がわきおこっていました。
こうした民衆の怨念や怒り、差別意識を見事に活用して、「満蒙権益の危機」のキャンペーンにつなげて、満州侵略への合意を形成していったのが、石原寛爾などの関東軍と陸軍・在郷軍人会だったのです。当初、不拡大方針であった民政党政権は、「既成事実」の拡大のまえにあえなく倒壊していきました。日本が世界に孤立する国際連盟脱退の途をえらんでも、それを批判する知識人は、天皇制国家の治安維持法体制のもとで沈黙を余儀なくされました。そこには、大正デモクラシーが、治安維持法などで窒息させられていった、昭和初頭の歴史過程が前提にありました。
こうした1930年代の日本主導の軍事侵略の時代と、2015年の現代には大きな歴史的位相の差異があることはいうまでもありません。しかし、教育やマスコミが、政府の統制で不自由度をまし、さらに自衛隊の独自の調査機能が肥大化していったときには、上記の「1930年代の日本」は、形をかえて、「日米軍事作戦」の発動として再現する可能性があります。私は、2013年12月に成立した「秘密保護法」と「安全保障関連法」の一体的運用がなされ、日本国が、「普通の国」として、アメリカの後方支援の一翼をになうことによって、民衆の内部に現実に存在している様々な不満や対立、いじめなどが、「対外的軍事協力の枠組み」に転轍・吸収されていくことを、一人の歴史研究者として、強く懸念するものです。憲法の枠組みを無視して、法案を作成し、議員によって論破されても、あくまでも法案成立に固執する安倍内閣の姿勢に、私は、1960年代以来の保守政治とことなる異常さをみいだします。
以上につき、一層詳しくは、石井寛治・原朗・武田晴人編『日本経済史3 両大戦間期』東京大学出版会、2002年、大日方純夫ほか編『近代日本の戦争をどうみるか』大月書店、2004年などの柳沢遊論文のほか、加藤陽子東京大学教授によって執筆された概説書をよむことで、より深い歴史的理解を得られるでしょう。
(柳沢遊 慶應義塾大学教授)