【安保法案反対 特別寄稿 Vol.330】 「1930年代の日本」と安全保障関連法案 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 慶應義塾大学教授・柳沢遊さん

このエントリーをはてなブックマークに追加

 安全保障関連法案を推進する安倍首相は、次のような1930年代認識をもっています。「…しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。‥中略‥こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました…」

 この「戦後70年談話」では、世界恐慌のなかで「ブロック経済」の包囲網に直面した日本が、やむをえず「力の行使」に至ったという歴史観が明確にのべられています。しかし、実際には、日本が世界にさきがけて、中国東北部への軍事侵略をおこなったのです。

 関東軍は1931年9月に満州事変を起こし、翌年に侵略を拡大させて傀儡国家の満州国を作りました。まさに、日本が世界に先駆けて、不戦条約をやぶって、「日満ブロック」につき進んだのです。イギリス帝国がブロック経済に入るのは、世界に繰り広げられた「ソーシャルダンピング」という日本の低為替下の輸出攻勢への対応策として開催した、オタワ会議以後のことです。

 つまり、軍国主義に傾斜した日本が率先して日満ブロックを形成していったことが、世界史の常識なのです。1930年代初頭の日本は、金本位制復帰のための緊縮政策によって、おおくの失業者がうまれ、工場閉鎖がおこなわれていました。民衆の間には、単に貧富の格差がおおきく拡大しただけでなく、様々な「懸隔」が発生していました。すなわち、繁華街を延伸して、「エロ・グロ」の文化に若者が影響を受けていた都市と米価・繭価の惨落に途方に暮れる農村との文化的対立の深刻化が生じていただけでなく、既成政党への根強い不信、世代間・職種間の対立、「日貨ボイコット」を行う中国にたいする「暴支膺懲」の感情が各地でうずまき、国内市場の狭さや資源の貧困、人口の増加問題への解決などを日本「改造」にもとめる声がわきおこっていました。

 こうした民衆の怨念や怒り、差別意識を見事に活用して、「満蒙権益の危機」のキャンペーンにつなげて、満州侵略への合意を形成していったのが、石原寛爾などの関東軍と陸軍・在郷軍人会だったのです。当初、不拡大方針であった民政党政権は、「既成事実」の拡大のまえにあえなく倒壊していきました。日本が世界に孤立する国際連盟脱退の途をえらんでも、それを批判する知識人は、天皇制国家の治安維持法体制のもとで沈黙を余儀なくされました。そこには、大正デモクラシーが、治安維持法などで窒息させられていった、昭和初頭の歴史過程が前提にありました。

 こうした1930年代の日本主導の軍事侵略の時代と、2015年の現代には大きな歴史的位相の差異があることはいうまでもありません。しかし、教育やマスコミが、政府の統制で不自由度をまし、さらに自衛隊の独自の調査機能が肥大化していったときには、上記の「1930年代の日本」は、形をかえて、「日米軍事作戦」の発動として再現する可能性があります。私は、2013年12月に成立した「秘密保護法」と「安全保障関連法」の一体的運用がなされ、日本国が、「普通の国」として、アメリカの後方支援の一翼をになうことによって、民衆の内部に現実に存在している様々な不満や対立、いじめなどが、「対外的軍事協力の枠組み」に転轍・吸収されていくことを、一人の歴史研究者として、強く懸念するものです。憲法の枠組みを無視して、法案を作成し、議員によって論破されても、あくまでも法案成立に固執する安倍内閣の姿勢に、私は、1960年代以来の保守政治とことなる異常さをみいだします。

 以上につき、一層詳しくは、石井寛治・原朗・武田晴人編『日本経済史3 両大戦間期』東京大学出版会、2002年、大日方純夫ほか編『近代日本の戦争をどうみるか』大月書店、2004年などの柳沢遊論文のほか、加藤陽子東京大学教授によって執筆された概説書をよむことで、より深い歴史的理解を得られるでしょう。    

(柳沢遊 慶應義塾大学教授)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ