【安保法制反対 特別寄稿 Vol.241~Vol.250】
ペシャワール会の中村哲さんの活動を見れば分かるように、平和をつくるのは農業であって、武力ではない、という理由で戦争法案に反対します。
(岩元泉 鹿児島大学名誉教授)
いかなる戦争にも「正義」などありません。そうした戦争への道を開く安保法案には断固反対します。
この国は、この70年一体何を学んできたのでしょうか。
愚行は二度と繰り返してはなりません。
(内田慶市 関西大学教授)
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(日本国憲法前文より)。「戦争に頼りながら幸福を追求する国民になる」法案に反対します。
この法案を推進する安倍首相たちは憲法13条の「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」をねじまげています。13条にある「公共の福祉(=全世界の国民の権利)に反しない限り」に違反しています。
(川上文雄 奈良教育大学教員)
安全保障関連法案が7月16日の衆院本会議で可決、参院に送付された。野党の討議継続要求を押し切っての採決はどうにも腹立たしい。とはいえ、与党が圧倒的多数を占める衆議院では、これが当然の結果ではある。
結局は国民の選択か。ちょっとニヒルになりつつも、現政権への怒りはどうにも押さえがたい。7月18日土曜日、私は澤地久枝さんの呼びかけで行われた「アベ政治を許さない」というポスターを掲げる抗議活動に参加した。午後一時、各地で同じ志を持つ者が集い、ポスターを掲げ、怒りの声を上げる。
私は国会議事堂前での行動に参加。会場はポスターを手にする人であふれていた。参加者は主催者発表で、五千人。各地の参加者を入れると、いったい何人まで増えるだろうか。反対のうねりは大きい。
この法案については、反対、賛成それぞれにさまざまな意見がある。私は、人間は間違いうるので、為政者を抑止する憲法を重んじる立場。だから、時の内閣が大きく解釈を変えることそのものに異を唱えている。この立場にいる限り、「日本の安全保障環境が変わったから」と必要性を丁寧に説明されても、「はいそうですか」と翻意するわけもない。
そもそも理解と同意は別物。不同意を理解不足にすり替えるなんて傲慢ではないか。私は最後まで廃案を求め、アベ政治は許さない。
(宮子あずさ 看護師・大学非常勤講師)
‘教壇で戦争を用意する不幸の繰り返し’の愚行が再びあってはならない。若い自衛隊のリスクを平気に語る政治家の無責任さが許される軍国主義染みた時代錯誤の社会になってはならない。我々の教え子たちが武力構図に巻き込まれ、さらなる戦争総括の犠牲を生み出してはならないため、安保法制の動きに強く反対する!
李修京 東京学芸大学 人文社会科学系 教授(歴史社会学)
日本国憲法前文が平和的生存権を謳っているのは、平和を国家の安全という視点から考えるのではなく、個人の人権保障の問題と捉えていることを意味する。個人の自由と生存には、平和による裏づけが必要であるという認識に加え、「国家の防衛」のために、人の命を犠牲にすることを否定する考え方が存在する。9条は、平和的生存権を保障するため、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否定を国家に命じたものと解される。
したがって、9条の下では、たとえ、武力攻撃を受けた場合でも、武力による自衛は認められないという覚悟が求められる。全世界の国民の権利として、平和的生存権を謳っている点にも注目すべきであろう。憲法は、武力攻撃を慎むだけでなく、積極的に世界の平和を構築していくことを世界に向かって宣言している。政府は、日本が武力攻撃を受けることがないよう、さらには、世界平和を構築するよう、最大限の努力をしなければならない。
しかしながら、政府は、諸外国との摩擦を和らげる施策を十分に行わないまま、武力衝突が起こることを前提として安保法制の議論を進めている。安保法制は、「国民を守るために」自衛隊員の犠牲を予定しており、「国家の防衛」のために国民を犠牲にするという考え方に立っている。日本の武力攻撃に晒される人々の犠牲をも前提としている。
これらは、平和憲法とは相容れない。日本国憲法の下で、政府に求められているのは、安保法制の整備ではなく、紛争が生じないようにするための地道な施策の展開である。上記の立場に立つならば、日本がこれまで行ってきた地道な平和構築のための施策に光を当て、さらに、今後日本が世界の平和構築に果たすべき役割について、考察していくことが求められていると思う。
さらに、憲法研究者は、国民の安全を考えていないという言説に対して、福島第一原発事故を身近で経験した憲法研究者として一言付言した。安全保障関連法案の審議の中で、万が一に備え、国民の安全を守るのが政府の責任と説明されているが、政府はこれまでその責任を十分に果たしてきたであろうか、甚だ疑問である。武力攻撃事態対処法を受け、2004年に制定された国民保護法では、武力攻撃原子力災害への対処について規定している。
しかしながら、今回、原子力災害の対処体制に大きな不備があったことが露呈した。国民の安全を第一と考えるのであれば、集団的自衛権の行使が必要となる荒唐無稽な事例を前提とする安保法制の整備ではなく、原子力発電所が存在していること自体により生じる具体的・現実的な危険に対して対処すべきではないか。
(藤野美都子 福島県立医科大学教員)
ここのところ国会の安全保障がらみの審議中継をテレビニュースで見たが、佐世保で米軍通訳をしていた義父のことが、何度も頭に思い浮かんできた。
偉い人たちが大義名分を掲げて命令を出すこと、それ自体は、当然の行為だといえる。
しかし、偉い人たちが考えている以上に、命令を受けて実際に現場で働く兵士たちは過酷な環境に身を置いていることもまた、事実であるといえる。
長崎生まれの義父は、友人を何人も特攻で亡くし、恋人を原爆で奪われたあと、戦後は米軍通訳として身を立てた。
しかしながら、そこで知り合った一番の親友の黒人兵が、異動先のベトナムで戦死したことをきっかけに、反米闘争に身を投じた。そのあとは、電気やガスがたびたび止まる貧しい生活になった。
戦死した黒人兵のことを、夫は、ジョンおじさんと呼んでいた。休暇のたびごとに、長崎の自宅に遊びに来て、当時子どもであった夫のこともかわいがってくれたそうだ。ワンダラウォッチ(1ドルの腕時計)をもらったと言っていた。ベトナムに赴任する前も、それを報告しに、うちにやってきたそうである。
敗戦当時の日本にやってくる米兵のほとんどは貧困層出身者、主に黒人である。義父は通訳をしていた頃、自分の名前を書けない彼らにアルファベットを教えたり、ラブレターを代筆したり、かけ算の仕方を示したり(最初は「魔法を使うな」と信じてもらえなかったそう)、愛読書ゲーテ詩集のなかのお気に入りの詩を英訳して聴かせたりしたそうだ。
義父がそのお礼として彼らから教えてもらったものは、米口語、ジャズ、ダンス、分厚いステーキ、などなど。当時の日本人には夢のような世界である。
義父は「ラッキー」というコードネームを与えられていた。まるで犬のような名前である。しかし、ラッキーは思いの外賢かった。「ラッキー、おまえは敗戦国の人間なのに、少なくとも俺より賢い」と、いつの間にか米兵たちの信頼を得たという。ゲーテの詩を英訳したときは、「なぜ敗戦国のドイツ人がこんなに美しいものを書けるのか」とびっくりされたそう。
そのうち彼らは「敗戦国は決して野蛮ではない。合衆国は何も自分に教えてくれなかった。ラッキー、おまえは文字と数学を教えてくれた。おまえの言うことのほうを信じるよ」と言って去っていったそうである。また当時の米兵の大方のものが、レイプを犯す米兵に対して、あいつらは人間の屑だと軽蔑していたそうである。
当時上官にあたる白人と下級兵の黒人とは食堂も別々で、お互いに対等に話し合うということなど絶対なかった。コードネーム「ラッキー」はフリーパスをもらっていてどちらにも出入りできた。上官は下級兵の不平不満をラッキーを通じて知ることができた。
義父は狂乱の20代の頃、何を考えていたのだろう。なぜ、30代になって「おいしい」地位を捨て、安保闘争で投獄されるようなことまでしたのだろう。
戦争はとても残酷なものである。実際に多大な被害を被った犠牲者ほど、被害事実を訴えることができない(死人に口なし)。
(後安美紀)
私の専攻は、ドイツ現代政治と平和研究です。かつてナチスが独裁政権を打ち立てた「全権委任法」は、「政府が議決した法律は憲法に違反できる」と定めていました。現在の安倍政権の軍事化政策は、「閣議決定は憲法に違反できる」とばかり、まさに一昨年麻生副首相が述べたように、「ナチスの手口」を地で行くものです。
また、平和研究においては、戦争・テロといった直接的暴力の克服を目指す「消極的平和」、飢餓・貧困・差別・搾取といった構造的暴力と、それらを肯定・容認する文化的暴力の克服を目指す「積極的平和」という概念があります。言うまでもなく、安倍首相が唱える、軍事一辺倒の「積極的平和主義」は、私たちの学問的営為を冷笑・冒涜するものです。「戦争は平和である」と言わんばかりの現政権の反知性主義は、この国を破滅に向かわせるものであり、私は「安保法案」の廃案を強く求めます。
(木戸衛一 安保法案の廃案を求める大阪大学人の会)
私が法案に反対する主な理由は、
(1) 多くの憲法学者がいうように、明らかに憲法違反であること。
(2) 集団的自衛権行使ができる場合が政権内で非常に曖昧で矛盾しており、いろいろな場合に拡大される危険がある。
(3) 同盟国の戦争行為に巻き込まれ、憲法9条に違反して、戦争をする国になる。
70年前の敗戦を真摯に反省していない。
(比田井昌英 東海大学元教授)
ご存知のように福島では、原発事故によって人々は故郷や生業が奪われ、人生を狂わされました。被害者は国や東電の安全神話に「だまされていた」とこぼしました。
今から70年前にも、敗戦を迎えたこの国の人々は、軍部に「だまされていた」と言いました。誤った国策によって多くの人命が奪われ、生活の基盤となる経済・社会・文化が破壊されました。「だまされていた」ことの代償は、途方も無く大きいものでした。
しかし、国民は単に「だまされていた」だけの被害者なのでしょうか。伊丹万作のエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、彼は「だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない」と述べています。
だとすれば、「だまされること」についての責任が国民、とくに大人にはあるはずです。
先の戦争の際「暴支膺懲」(「暴虐な中国を懲らしめよ」の意)というスローガンが新聞・ラジオで喧伝され、国民はこれに踊らされました。そして、「聖戦」に命をかける気運がみなぎっていったのです。
そして、現政権が安保法制をゴリ押しする際に挙げるのが、まさに「中国の脅威」です。相手を非難して自己を正当化する脅威論(「こちらは平和を望んでいるのに、敵側が一方的に戦争を望んでいる」)は、戦争を始めたがる政権が世論を操る時に使ってきた古典的常套手段でした。
ナチの国民啓蒙・宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスは、「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう」と述べていました。
このような宣伝手法を含めて現政権がナチスに学ぼうとしていることは、「ナチスの手口を学んだらどうか」という麻生発言や、自民党若手有志による「文化芸術懇話会」(「心を打つ『政策芸術』の立案」を設立目的とする)の結成からも容易に推測できます。
先の敗戦と原発震災の悲惨さに思いを致せば、このような宣伝に煽られて、三度目の「だまされていた」を言うわけにはいきません。たくさんの人々が、現政権の嘘と無責任さに気付き、安保法制案の目指すものが戦争であることを見抜いています。廃案しかありません。
(末永恵子 福島県立医科大学医学部)