【安保法制反対 特別寄稿 Vol.246】 日本国憲法の平和的生存権について 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 福島県立医科大学教員・藤野美都子さん

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 日本国憲法前文が平和的生存権を謳っているのは、平和を国家の安全という視点から考えるのではなく、個人の人権保障の問題と捉えていることを意味する。個人の自由と生存には、平和による裏づけが必要であるという認識に加え、「国家の防衛」のために、人の命を犠牲にすることを否定する考え方が存在する。9条は、平和的生存権を保障するため、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否定を国家に命じたものと解される。

 したがって、9条の下では、たとえ、武力攻撃を受けた場合でも、武力による自衛は認められないという覚悟が求められる。全世界の国民の権利として、平和的生存権を謳っている点にも注目すべきであろう。憲法は、武力攻撃を慎むだけでなく、積極的に世界の平和を構築していくことを世界に向かって宣言している。政府は、日本が武力攻撃を受けることがないよう、さらには、世界平和を構築するよう、最大限の努力をしなければならない。

 しかしながら、政府は、諸外国との摩擦を和らげる施策を十分に行わないまま、武力衝突が起こることを前提として安保法制の議論を進めている。安保法制は、「国民を守るために」自衛隊員の犠牲を予定しており、「国家の防衛」のために国民を犠牲にするという考え方に立っている。日本の武力攻撃に晒される人々の犠牲をも前提としている。

 これらは、平和憲法とは相容れない。日本国憲法の下で、政府に求められているのは、安保法制の整備ではなく、紛争が生じないようにするための地道な施策の展開である。上記の立場に立つならば、日本がこれまで行ってきた地道な平和構築のための施策に光を当て、さらに、今後日本が世界の平和構築に果たすべき役割について、考察していくことが求められていると思う。

 さらに、憲法研究者は、国民の安全を考えていないという言説に対して、福島第一原発事故を身近で経験した憲法研究者として一言付言した。安全保障関連法案の審議の中で、万が一に備え、国民の安全を守るのが政府の責任と説明されているが、政府はこれまでその責任を十分に果たしてきたであろうか、甚だ疑問である。武力攻撃事態対処法を受け、2004年に制定された国民保護法では、武力攻撃原子力災害への対処について規定している。

 しかしながら、今回、原子力災害の対処体制に大きな不備があったことが露呈した。国民の安全を第一と考えるのであれば、集団的自衛権の行使が必要となる荒唐無稽な事例を前提とする安保法制の整備ではなく、原子力発電所が存在していること自体により生じる具体的・現実的な危険に対して対処すべきではないか。

(藤野美都子 福島県立医科大学教員)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ