ご存知のように福島では、原発事故によって人々は故郷や生業が奪われ、人生を狂わされました。被害者は国や東電の安全神話に「だまされていた」とこぼしました。
今から70年前にも、敗戦を迎えたこの国の人々は、軍部に「だまされていた」と言いました。誤った国策によって多くの人命が奪われ、生活の基盤となる経済・社会・文化が破壊されました。「だまされていた」ことの代償は、途方も無く大きいものでした。
しかし、国民は単に「だまされていた」だけの被害者なのでしょうか。伊丹万作のエッセイ「戦争責任者の問題」の中で、彼は「だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない」と述べています。
だとすれば、「だまされること」についての責任が国民、とくに大人にはあるはずです。
先の戦争の際「暴支膺懲」(「暴虐な中国を懲らしめよ」の意)というスローガンが新聞・ラジオで喧伝され、国民はこれに踊らされました。そして、「聖戦」に命をかける気運がみなぎっていったのです。
そして、現政権が安保法制をゴリ押しする際に挙げるのが、まさに「中国の脅威」です。相手を非難して自己を正当化する脅威論(「こちらは平和を望んでいるのに、敵側が一方的に戦争を望んでいる」)は、戦争を始めたがる政権が世論を操る時に使ってきた古典的常套手段でした。
ナチの国民啓蒙・宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスは、「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう」と述べていました。
このような宣伝手法を含めて現政権がナチスに学ぼうとしていることは、「ナチスの手口を学んだらどうか」という麻生発言や、自民党若手有志による「文化芸術懇話会」(「心を打つ『政策芸術』の立案」を設立目的とする)の結成からも容易に推測できます。
先の敗戦と原発震災の悲惨さに思いを致せば、このような宣伝に煽られて、三度目の「だまされていた」を言うわけにはいきません。たくさんの人々が、現政権の嘘と無責任さに気付き、安保法制案の目指すものが戦争であることを見抜いています。廃案しかありません。
(末永恵子 福島県立医科大学医学部)