【IWJブログ】朝鮮侵略の真実 奈良女子大学名誉教授 中塚明氏インタビュー 2013.2.16

記事公開日:2013.2.25 テキスト
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[2013年2月18日記事公開][2月25日更新]

 2013年2月16日(土)15時より、岩上安身が、日朝関係について、歴史学者の中塚明氏(奈良女子大名誉教授)にインタビューを行った。以下、インタビューの実況ツイートを掲載します。

インタビューの本記事はこちらです。

■以下、インタビュー実況ツイートのまとめに加筆・訂正をしたものを掲載します。

岩上安身「教育もメディアも文学も、一緒になって、今日なお朝鮮半島における日本軍と日本政府の自責を隠蔽しているような気がします。今こそ、そのことを確認する必要があります」

中塚「1962年に、日清戦争についての原稿を書いた。そのときちょうど、陸奥宗光(※1)の資料が公開された。出てきた資料をよく調べると、例えば、日清戦争は朝鮮の独立のため、と言われていたのに、そうではないことが明らかになった。

 私は、第一次資料に非常に興味を引かれた。戦後、地方の図書館もいろんな資料を公開し始めた。アジア歴史資料センターは、元文書の写真をインターネットでも見られるようにした。もっと利用しなければならないが、その割に、一般的には利用されていない」

(※1)陸奥宗光(1844〜1897):明治時代の政治家・外交官。紀伊藩の出身。坂本龍馬の海援隊に加わって活躍し、明治維新後は兵庫県知事・神奈川県令などを務めたが、西南戟争の際、反乱を起こそうとしたため、投獄された。出獄後はアメリカ駐在公使、山県有朋内閣の農商務大臣を経て、第2次伊藤博文内閣の外務大臣となって日清戦争前後の外交を指導し、条約改正交渉の成功、下関条約の調印、三国干渉への対応など、大きな功績をあげた。(『学研キッズネット』)

◇江華島事件(※2)と王宮占領

中塚「2002年12月、東京大学の鈴木淳先生が、雲揚号(※2)の艦長・井上良馨(いのうえよしか)による報告書を紹介した。一般的に、江華島事件は1日の間で起きた事件とされているが、鈴木先生が発掘した資料によると、3日間やっている。しかし、10月8日の公式報告書には、1日となっている。このように、朝鮮侵略の歴史では、最初から情報を隠している。

 日清戦争は『朝鮮の独立のための戦争』だと今でも信じられているが、実際は違う。1994年、専修大学の大谷正先生が、軍夫について調べていたところ、福島県立図書館に、佐藤文庫という図書があって、そこに日清戦争についての歴史草案があることが判明した。

 そこで、福島県立図書館に足を運ぶと、『日清戦史第二冊決定草案』というものがあった。そこには、朝鮮王宮の占領について、詳細な記録が書かれていた。王宮占領は、偶発的なものではなく、作戦が練られていたことがわかります。

 当時、軍だけでなく、陸奥宗光外務大臣も、日清戦争を始めるために、いろんな理由を探していた。体制として、国家の意思としては、朝鮮を支配したい。しかし、その理由がない。そこで、朝鮮の王室から、日本軍に宛てて、『朝鮮にいる中国の兵隊は、朝鮮独立を阻んでいるから、国外に追放してくれ』という依頼文を出させることを思いついた。しかし、朝鮮政府がそんなことするはずがない。結局、朝鮮政府を攻め立てて、王宮を占領した。発掘された資料には、こうしたことが事細かに書いてあったのです。

 これが、作り話に変えられて、戦史に載せられた。戦史には、王宮の中から朝鮮の兵隊が撃ってきたので、応戦して国王を保護した、と書いてある。これが、嘘っぱちであるとわかったのです。明治27年のことです。しかし、なぜ、どういう理由で書き換えられたのかはわからなかった。推測はできても、現物の資料がなかったのです。

 しかし、海上自衛隊のある自衛官の方が、防衛庁の書庫で、陸軍参謀本部部長会議の記録を見つけられた。その中には、『日清戦史の草案を読んだが、艦艇を威嚇したということを書けば、宣戦の詔勅と矛盾するではないか。書き直せ』といった内容のことが書かれていた。戦史は、部長会議の決定によって、改竄されたことがわかったのです。

 戦史というのは、最初は事実に基づいて書くけども、その草稿ができた段階で、機密に関する事項を全て削除し、公刊をつくる。そうしたことを参謀本部で決めている」

(※2)江華島事件:1875年(明治8)日本軍艦雲揚(うんよう)号と朝鮮のソウル近くの江華島砲台との間で行われた戦闘と、雲揚号による同砲台の破壊および永宗島の占領事件。雲揚号事件ともいう。明治初年以来、朝鮮侵略を企図していた日本政府は、朝鮮近海にしばしば日本軍艦を出動させ、威嚇と挑発を試みていた。75年9月20日、井上良馨を艦長とする雲揚号は、朝鮮の首都ソウルの表玄関に位置する江華島近海に侵入、江華島砲台の砲撃を受けた。飲料水を探すのが目的だったというのが雲揚号侵入の口実であるが、朝鮮側への計画的挑発を図ったものであった。雲揚号にはなんら損害はなかったが、艦砲で応戦、江華島砲台を破壊、さらに南の永宗島に上陸し、民家を焼き、朝鮮人35人を殺害、大砲38門を戦利品として奪った。雲揚号は9月28日長崎に帰港したが、日本政府はこの事件を契機に、翌年日朝修好条規(江華条約)の締結を朝鮮政府に迫った。(『日本大百科全書』)

岩上「日清戦争はたまたま起こった、と言われることがある。ロシアが南下してきて、仕方がなかった。清と向き合わざるを得なかったのだと。しかし、そうではなかった。当時の軍人達は、作戦の報告書の中で、はっきりと朝鮮を取り、併合することが目標だと述べている。それが、第一次資料で明らかになった。目的がまったく違います」

◇東学党の乱

中塚「なぜそういう偽装をして、今まで知られずに、日本人に受け入れられているのか。ある人は『朝鮮というのは駄目な国だから、守ってやらないと属国になってしまう』と喧伝する。しかし、朝鮮とは非常に古い国です。朝鮮半島は、統一国家になってから約1000年。その王朝の伝統は、そんなに簡単には潰せない。また、欧米列強の目も気にせねばならず、実際に、日本のやったことを公にすることはできない。そうした理由から、作り話にしたのです。

 しかし、実際にやられた側は、もちろん全部知っています。東学農民運動(※3)も、春に起こった一揆から、夏に王宮が占領され、それに憤慨した農民が秋に再蜂起します」

(※3)東学農民戦争(甲午農民戦争、東学党の乱ともいう):1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。(『日本大百科全書』)

岩上「学校でそう習いました。東学の信徒を中心に、農民の反乱があったと。有名な事件です」

中塚「ところが、教科書には、王宮が占領されたことが書いていない。そのことによって憤激した農民が、抗日を目指して決起したのです。これは、春のときの一揆に比べて、農民の数ははるかに大きいのに、そうしたことも教科書にはまったく書かれていない。

 1995年7月に、北海道大学の文学部で、『東学党首魁』と書かれた髑髏が見つかった。これは、明治39年9月20日に、韓国の珍島(※4)から持ってきたものだという。それで、井上勝生先生をはじめとする北大の文学部の方たちが調査を始めた。なぜそんな髑髏が、北海道から出てきたのか。また、なぜその骨を日本に持ってきたのか」

(※4)珍島(ちんど):韓国南部、全羅南道南西部にある島。面積333.4平方キロメートル。花原半島までは400メートル幅の鳴梁(めいりょう)海峡に橋が架けられている。大部分が林野だが、田・畑それぞれ5000ヘクタール程度があり、住民6万余の大半が農業に従事する。韓国固有の在来種「珍島犬」の産地としても有名である。(『日本大百科全書』)

岩上「では、それまでは、東学党の乱では、なんとなく鎮圧したのだろうくらいの大雑把なことしかわからなかったのですか?」

中塚「そうです。歴史は次々に書き換えられていきます。

 東学党の乱では、『日本軍が朝鮮人を殺している現場をロシアに見られたらとんでもない。ロシアとの国境まで反日運動を広げてはまずい』ということで、1894年10月27日に、大本営から『南西に集めて殲滅せよ』という命令が出されます。川上操六参謀次長が、『向後悉ク殺戮スベシ』という命令を出しています(『司馬遼太郎の歴史観』)。

 どういう形で殲滅されたかがわかり始めたのは、ここ数年のことです」

岩上「これまで隠され、偽造されてきた歴史が、書き換えられつつある」

中塚「井上先生は、四国の新聞を丹念に読まれました。すると、連山というところで、日本の兵隊が1人だけ撃たれて死んでいたことがわかりました。なぜわかったかというと、徳島の日日新聞に、遺族に対する慰問文のようなものが掲載されたのです。それを、井上さんは見つけ、現地にも行き、詳細に調査した。

 日本軍は、1人で200人を打ち倒したという記録もあり、東学党の乱では、日本軍はまったく損害がなかった。この戦いで戦死した日本人は、連山で死んだその人だけです。

 ところが、『靖国神社忠魂史』という本の中では、日清戦争の陸戦、成歓の戦いでその男が死んだことになっている」

岩上「どういうことですか、それは?」

中塚「私が思うに、朝鮮独立のために日本軍が戦って、朝鮮人を殺し、朝鮮人に殺されたということは、有り得ないのだと。これは、とんでもない歴史の偽造です。

 『坂の上の雲』には、そういったことが一切書かれていない。本当にそれでいいのかと思います。そして『坂の上の雲』は、NHKによって、さらに拡大された。NHKのドラマには、朝鮮半島で戦争が行われていたことが、全く出てこない。

 本当は、太平洋戦争に至る軍事的な経験は全部やっていたのです。『殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす』という三光作戦(※5)は、日中戦争のときに日本軍がやった作戦といわれていますが、東学の鎮圧で全部やっている。

 日本軍は、北から南下するかたちで、農民達を押さえつけていき、羅州(なじゅ)で体制を固めて、珍島に追い詰めます。犠牲者は、3万人ないし、傷ついた者を合わせると5万人とも言われます。ジェノサイドです。しかし、このことを日本人はほとんど知りません。これは、大変なことです。

 その後、サトウマサヒロという人が、木浦(※6)へ行き、珍島で綿花の栽培を始めた。その方が、山すそに埋められていた髑髏を拾って、参考資料として、母校の北大へ送ったということです。北海道大学や小樽商科大学の先生方のおかげで、ずいぶん明らかになりました」

(※5)日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす)。(『大辞泉』)

(※6)木浦(モクポ):大韓民国南西部、全羅南道の港湾都市。もと、水軍の要港の木浦鎮。交通の要地にあり、農水産物の集散地。綿実油を産する。もっぽ。(『大辞泉』)

◇田中正中

岩上「征韓論という考えが明治維新になってすぐに出てきた。あの頃の人たちの頭の中は、征韓論一色だったのではないかと思う。しかし、先生の本によると、唯一反対した人物がいる。田山正中(たやませいちゅう)という人です」

中塚「征韓論の理由のひとつに、朝鮮を征服して、ロシアを防ぐという理論があるが、田山は『できるはずがない』と言っている。『攻め取ることはできるかもしれないが、周りは全部敵になる』と。ほかに、征韓論に反対を唱えているのは、勝海舟くらいしかいない。日清戦争は、日本人の思想を考えるために重要です」

岩上「田山正中がどういった批判をしているか。ちょっと読ませていただきます(『司馬遼太郎の歴史観~その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』)。

 『日本が朝鮮を自分のものとし、そこを足場にしてロシアを防ごうというものがある。しかしこれは「戦の道」(戦争の仕方)を知らないもののいうことだ。日本が朝鮮を攻略することはあるいはできるかもしれない。しかしたとえそうできたところで、朝鮮の人心がわずかの時日でどうして日本になびき従うことになるだろうか。そんなことはありえない。むしろ朝鮮を占領した日本は、まわりは全部敵という状態になる。それなのにさらにまた他の強敵(この場合はロシア)を防ごうとしても、そんなことはできることではない』

 これは、慧眼ですね」

中塚「日本の朝鮮政策に心からつき従う朝鮮人はいない。そうした中で、日本の朝鮮観は作られてきた。日本人は、朝鮮人の自主的な側面、生きていることすら認めない、というものの考え方が今日でも牢固として続いていると思います」

岩上「これは、非常に普遍的な考え方です。米国によるアフガン戦争、対テロ戦争もそう。侵略をしたら、ずっと敵視される。戦闘で勝つかもしれないけれど、どうやってそこを支配することができるのかと。さらに、田中正中はこう書いています。

 『朝鮮にことを起こして、人心をふるいたたせ、日本の文明を進めようとするものがいる。もっともな言い分のようだが、朝鮮に出ていってこれを試みるというのは、考え違いもはなはだしい。前にもいったが、目前の強敵を避けるのは卑怯である。なにも問題のない弱国を伐(う)つのは不義である。ことさらに事件を起こし、彼我の人命を犠牲にし、金銭や穀物を使い、その費やす財貨は、ことごとく外国のずるがしこい商人の手に入り、われわれの苦しみはただそのわるいがしこい商人を助けるだけではないか』

 これは、今日の尖閣問題の話そのものですよ。なぜオスプレイやF-35を買わなければならないのか。何の意味もない岩礁でもめている。続けて読みます。

 『朝鮮の人心はあつく信義を好みかたく条理を守り、気質はアジアの国々で最も美しいと聞いている。いまだかつて外国のわるがしこい誘いに応ぜず、すぐれた品性の変わらない美人に似ているというではないか。美人は常に人に愛される。にもかかわらず、どうしてこの国がひどい目にあわされるのか』」

中塚「こういう気骨のある人が、日清戦争くらいまではいたのです」

◇朝鮮支配思想の底流

 話は変わりますが、皇室というのは一貫して平和主義だという話があります。確かに、日清戦争が始まったとき、『この戦争は朕(ちん)の戦争にあらず』と発言しています。

 佐々木高行という人がいます。その人の日記に『保古飛呂比(ほごひろい)』というものがありますが、明治16年までしか公開されていない。宮内庁の資料部にあることはわかっているが、公表しない。

 ところが、昭和3年に津田茂麿(つだしげまろ)という人が、『明治聖上と臣高行』という本を書いた。その中に、佐々木高行の日記がいっぱい出てくる。明治28年の戦争が終わり、講和条約が結ばれ、昭和天皇が、京都御所で何泊かしたときがあるのですが、そのときの日記が、本に引用されている。そのときに、天皇がなんと言われたかというと、遼東半島は、いずれもう一度再戦の機会があるだろうと。そのときにとってもいいのではないかと、大いにお笑いになさってしゃべられた、と書かれてある。

 にもかかわらず、日本の歴史家は『明治天皇は日清戦争には賛成ではなかった』と言う。どうして、そんなことが言えるのか。歴史家は、『明治聖上と臣高行』をほとんど利用しない。皇室の具合が悪いことは言わない」

岩上「明治天皇も、遼東半島をまたとればいいだろうと、そう思っていた。なぜそこまで朝鮮半島を取りにいきたいと思ったのでしょうか」

中塚「背景には、日本書紀(※7)の話がある。八幡信仰(※8)。応神天皇(※9)。そういう底流がずっとあり、江戸時代にも、歌舞伎でそういう舞台がある。江戸時代には、頭の片隅にそういう考えがあったが、明治時代には、朝鮮侵略が国家目的になります。それが象徴されるのはお札です。神功皇后が出てくる」

(※7)日本書紀:奈良時代の歴史書。最初の勅撰正史。六国史(りっこくし)の第一。30巻。舎人(とねり)親王らの編。養老4年(720)成立。資料として、帝紀・旧辞のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを広く用い、神代から持統天皇までを漢文の編年体で記したもの。(『大辞泉』)

(※8)八幡信仰:八幡神に対する信仰。古く九州宇佐八幡宮に対するものを起源とするが、平安時代には朝廷が王城鎮護神として崇め、鎌倉時代には源氏が氏神として以後、武士が守護神として信仰、全国に広まった。(『大辞林』)

(※9)応神天皇:記紀で、第15代の天皇。仲哀天皇の第4皇子。名は誉田別(ほんたわけ)。母は神功皇后とされる。(大辞泉)

岩上「私もお札の写真を見ましたが、不思議なことに、洋装でネックレスをしている。仮に実在したとしても、3世紀か5世紀くらいの人です。なぜ洋装なのかと。古代の記憶や神話――朝鮮半島は元々俺たちのものなのだという記憶――があり、新たな近代国家に、帝国になった。そこで、帝国になったら、植民地を持たないと駄目ではないか、という考え方になる。

 大変な知識人である岡倉天心もそう言っている。日本書紀を批判なしに間に受ける。秀吉の時代にも、三韓征伐の話が出てくる。これもやはり、神話が心の支えとなっている。

 八幡信仰についてですが、全国で一番多いのは稲荷。おそらくその次に多いのが八幡信仰です」

中塚「石清水八幡宮というところがあります。伊勢と並ぶ双璧で、全国八幡神社の総元締めです(※10)。八幡信仰というのは、九州のほうから上がってきた信仰のようです。応神天皇といえば、神功皇后。神功皇后といえば、三韓征伐。これは、日本人の中に刷り込まれています」

(※10)(※8)で述べたように、起源は、九州大分県宇佐市にある宇佐神宮で、ここは中塚名誉教授の記憶違い。(責任:岩上安身)

岩上「先生は、いくつもいくつも問題があるとおっしゃっています。江華島の問題や、さらに、東学党の乱。3つ目が、朝鮮王宮の占拠。これも、偶発的なものではありません。

 そして、4つ目としては、閔妃(※11)という国王妃を殺したことです。首謀者とされる三浦梧楼を日本に連れ帰ったことは、知っている人が多いと思います。しかし、このすべてが真実ではない。暗殺は、一種のテロではなく、日本の中枢が深く関わっている」

(※11)閔妃(みんぴ):(1851~1895)朝鮮李朝第26代国王高宗の妃。清朝と結んで摂政の大院君を退け、守旧派(事大党)を重用して親清政策をとる。日清戦争後はロシアに接近して反日政策を展開したため、日本公使三浦梧楼の指揮下の日本官憲および壮士らによって殺害された。(『大辞泉』)

中塚「アジア歴史資料センターで、元文書が公開されています。これを丹念に読むと、川上操六(※12)と、三浦梧楼(※13)がやり取りをした文書がある。川上は、朝鮮にまだ日本軍の残存部隊がいるとき、それを自由に動かせる権限を自分に与えてくれ、と外務省を通さずに三浦に頼んでいる。そういう記録が出てきている。要するにあれは、真夜中に日本軍が訓練した朝鮮の兵隊と乱闘して、閔妃が殺されたことにしようとした。

 計画では、大院君(※14)を引き出そうとした。日清戦争の王宮占領のときに引き出され、さんざん日本軍にこき使われていた人物を、もう一度利用しようとしたのです。しかし、大院君が立ち上がらないまま、夜が明け始めた。南大門に朝市が立ち始めた。そういったところに、血のついた刀を下げた日本軍が帰ってきた。それで、乱闘の中で殺されたということがなくなってしまった。

 さらに、王妃事件についていうと、宮本竹太郎という陸軍少尉がいる。この人は、実際に閔妃を殺したのは誰かという話をするときに名前が挙がる人物です。東学の鎮圧にも行っています。この宮本が寺内正毅(※15)に宛てた書簡が1通だけあります。一少尉が、なぜ参謀次長に手紙を宛てているのか。

 この宮本、どこで死んだと思いますか? 宮本は、朝鮮から連れ戻され、特に何も処分されず、そのまま除隊したはずです。しかし、アジア歴史資料センターにある資料によると、台湾で死んでいる。憲兵大尉になって、台湾討伐に行っている。なぜ、宮本が台湾に行ったのか。日本国家として台湾に行かせたのではないかという思いがある」

(※12)川上操六(かわかみそうろく):(1848~1899)軍人。陸軍大将。鹿児島の生まれ。欧州視察後、陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に転換させた。日清戦争の時、大本営参謀として作戦を指導した。(『大辞泉』)

(※13)三浦梧楼(みうらごろう):(1846~1926)軍人・政治家。山口の生まれ。広島鎮台司令長官として萩の乱を鎮圧。のち、朝鮮特命全権公使として閔妃殺害事件を起こした。晩年は山県有朋とともに政界の黒幕として活動。(『大辞泉』)

(※14)大院君(だいいんくん):(1820~1898)朝鮮李朝末の王族・政治家。李太王の父。本名、李応(りしおう)。李太王初期に権力を握ったが、極端な排外鎖国政策と天主教迫害で外国の干渉を受け、また皇后閔妃一派と争って敗れ、失脚した。

(※15)寺内正毅(てらうちまさたけ):(1852~1919)軍人・政治家。元帥・陸軍大将。山口の生まれ。教育総監・陸相・初代朝鮮総督を歴任ののち、大正5年(1916)首相となったが、同7年に米騒動で総辞職。(『大辞泉』)

岩上「台湾に行かせたのは、間をおかずにですか?」

中塚「そうです。自分で行ったかどうかはわかりませんが。

 やはり、歴史は遡って考えないといけません。311以降、政府や東電の対応に批判が集まりましたが、そのときに、『大本営の発表』だという批判があった。一般のみなさんは、これを聞いて、満州事変以降の大本営だと思っている。そこには、日清・日露のころは入っていない。しかし、大本営は、ずっと以前からあったのです」

(了)

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「【IWJブログ】朝鮮侵略の真実 奈良女子大学名誉教授 中塚明氏インタビュー」への1件のフィードバック

  1. うみぼたる より:

    こちらのブログと中塚先生のインタビューを二つの窓で同時に見ていくと、とても理解しやすいです。
    井上先生のインタビューも視聴しましたので、「東学農民戦争と日本」の内容が既知のように読み進められました。

    日本はジェノサイド条約に署名していません。先進国ではこの条約に署名してないのは日本くらいだと思います。
    ジェノサイド条約に批准していくプロセスで、日本が過去におかしたジェノサイドの実態とバックグラウンドにある帝国の関与も明らかになってほしいです。軍産複合体のお金儲けに日本が都合よく利用されるのも、終わりにして欲しい。
    東学農民の命を殺めたスナイドル銃は、イギリス製のものでしょうか。
    当時、イギリスは中国とのアヘン貿易も活発でした。

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