2013年1月20日(日)13時15分より、福島県郡山市のビックパレットふくしまで、「健康相談会 in 郡山・分科会1『嶋橋美智子さんを囲んで』」が開かれた。原発労働者の息子を白血病で亡くした嶋橋美智子氏が、闘病当時の思い出や労災申請の苦労話を語った。
(IWJテキストスタッフ・関根/奥松)
2013年1月20日(日)13時15分より、福島県郡山市のビックパレットふくしまで、「健康相談会 in 郡山・分科会1『嶋橋美智子さんを囲んで』」が開かれた。原発労働者の息子を白血病で亡くした嶋橋美智子氏が、闘病当時の思い出や労災申請の苦労話を語った。
■全編動画
※分科会途中からの映像となっております。何卒ご了承ください。
冒頭、浜岡原発の作業員だった息子を白血病で亡くした嶋橋氏が、体験談を語った。嶋橋氏は「息子は一年間通院したが回復せず、さらに一年間、浜松医大に入院して亡くなった。1999年に、その闘病記を第一書房から出版した。当時は、原発労働者に対して年間50ミリシーベルトまでが許容量とされていたが、危険性などの十分な説明はなかった。父親の定年退職をきっかけに、横須賀から浜松に家族で移住し、すぐに息子の病状が悪化。白血病と診断された。それまで、職場では3カ月ごとに定期検診があり、異常は見られなかった。入院すると顔が腫れ、鼻血が大量に出た。一年間、抗ガン剤治療をしても治らず、最後には痛み止めの麻薬を打ちながら死んでいった」と話した。
続けて、「会社から『死亡見舞金で3000万円払うが、労災申請はしないでほしい』と言われた。息子の被ばく手帳には、正常値4000~9000の白血球が、13800という異常値が記されており、それにもかかわらず、異常なしと印が押されていた。入院すると、勤め先ではなく中部プラントという親請け会社の副社長がやってきて、治療の手助けは何でもすると言われ、とても親切な対応を受けた」と述べた。そして、「息子の死後、やはり釈然としないので、正規に労災申請をした。すると監督庁は、書類の不備を理由になかなか申請を受け付けない。会社からは『労災認定になった場合は見舞金は返却してもらう』と言われ、念書を書かされた。会社が労災認定の書類を記入しないなど、妨害が多かった。原発労災認定の第一号の人は、認定までに3年かかっていたが、息子の場合は40万人の署名を集めたことも功を奏し、1年3カ月で認定された」」と当時を振り返った。
嶋橋氏は、福島の子供たちの被ばくをとても危ぶんでおり、「息子は年間50ミリシーベルトの被ばくで、白血病で死んだ。福島の人々も注意してほしい。息子の死から労災認定までの闘いを綴った著作を、最近復刻した。少しでも、売上げを福島の原発被災者の支援活動に回したい」と話す。また、「原発を再稼動しよう、海外へ売ろうという、今の自民党は許せない。金を育てるのか、子供たちの成長を助けるのか、どちらかわからない」と憤った。
続けて、亡くなった息子の業務内容や、原発労働者を撮影した樋口建二氏の写真集について語った嶋橋氏は、「今、学者たちに経費を払って活断層の調査をしてもらっている。浜岡原発に防波堤を補強している。原発があるから、そういった余計な工事や調査で不安を招いている。原発がなければ、何も問題はない。本末転倒だ」と述べた。