【第266-274号】岩上安身のIWJ特報!「改憲勢力3分の2」で現実化する「ナチスの手口」 ヴァイマル末期と酷似する現代日本 東京大学教授・石田勇治氏インタビュー 2016.9.11

記事公開日:2016.9.11 テキスト独自
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(岩上安身)

◆ヤバすぎる緊急事態条項特集はこちら!
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 改憲をかけた「天下分け目」の決戦である参議院議員選挙は、7月10日に投開票が行われた。民進党、共産党、社民党、生活の党の野党4党は、全国で32ある一人区で統一候補を擁立して選挙戦を戦ったものの、結果は、自民党、公明党、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党の「改憲勢力」が77議席を獲得。衆議院だけでなく、参議院でも、「改憲勢力」が改憲の発議に必要な3分の2議席を占めることになった。

 改憲に際し、安倍政権が真っ先に手をつけようと目論んでいるのが、自民党憲法改憲草案第98・99条に明記された「緊急事態条項」の創設である。安倍総理は2015年11月11日の閉会中審査の中で、「緊急事態条項の新設を目指す」と明言。菅義偉官房長官も、今年4月に熊本・大分大地震が発生した際、「緊急事態条項」について「極めて重い課題だ」と述べた。

 しかし、これまで私が繰り返し指摘してきたように、「緊急事態条項」は極めて危険な内容を含んでいる。「緊急事態」の期間に制限がなく、基本的人権が停止されるばかりか、内閣が国会の同意なしに「政令」という名前の事実上の法律を出せる権限をもち、予算措置も行えるなど、行政府である内閣の権限が極端に肥大化するおそれがあるのである。

 「緊急事態条項」を用いて独裁体制を確立したのが、ヒトラーの率いるナチス・ドイツである。1933年2月27日にドイツ国会議事堂炎上事件が起きた際、ヒトラーは「緊急事態宣言」を発令し、首都ベルリンが位置するプロイセン州だけで共産党員ら「反ナチス勢力」約5000人が逮捕された。

 ドイツ国内における「反ナチス」の運動はこのことで決定的な打撃を受け、事件からわずか約1ヶ月後の1933年3月23日には、ナチス政府にヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を付与する「授権法(全権委任法)」が成立した。独裁体制の成立である。

 ナチスによるこうした独裁確立のプロセスを詳細に記したのが、東京大学教授でドイツ近現代史が専門である石田勇治氏の新刊『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)である。私は参院選直前の7月2日、石田氏に単独インタビューを敢行。「緊急事態条項」を用いた独裁の確立という「ナチスの手口」(麻生太郎副総理の発言)について、じっくりとお話をうかがった。

 今回、「岩上安身のIWJ特報!」では、この石田氏へのインタビューをテキスト化し、詳細な注釈を付けてお届けする。参院選を終えて、改憲がいよいよ「まったなし」の状況を迎えた今、必読の内容である。

記事目次

麻生太郎副総理の「ナチスの手口に学んだら発言」は本心なのか~自民党のお試し改憲が危険な理由

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▲石田勇治氏

岩上安身「皆さんこんばんは。ジャーナリストの岩上安身です。本日は、『ナチスの手口とはなにか?ヒットラー独裁政権を徹底検証する』と題しまして、東京大学教授の石田勇治先生にお越しいただいてお話をうかがいます。石田先生、よろしくお願いいたします」

石田勇治教授(以下、敬称略)「よろしくお願いします」

岩上「私としては念願のインタビューなんですよ。本当に。昨年の段階でも、お願い申し上げていたんですけど、結構お忙しいということで」

石田「すみません」

岩上「本日はご登場いただけて本当に光栄です」

石田「いえ、よろしくお願いします」

岩上「ここに『ヒトラーとナチ・ドイツ(※1)』という新書があります。この新書を僕に教えてくれたのは、升永英俊(※2)さんという弁護士さんなんです。升永さんは『一人一票運動』をやっていらっしゃる弁護士で、新聞広告に強烈なタイトルの意見広告(※3)を1人でお出しになっています。

 すごくパワフルな先生なんですけど、この升永先生からある日、ご連絡をいただいて、『緊急事態条項(※4)がたいへんだよ』と。『それが改めて分かったんだ』と。『いや、僕も勉強して、緊急事態条項についてはもちろん知ってはいたけれども、うっすら分かっていただけだった』というのですね。

 改めて調べてみたら、『ものすごく危険だ』と。『ナチスの前夜とおんなじだ』と。『ナチスの独裁は、みんなが拍手喝采して、ナチスに全権委任法を与えたのだと思っていたら、そうじゃない。その前の緊急事態条項一発で全てが決まっていたんだということを、この本で教えられた』と言って、升永先生は、石田先生のこの『ヒトラーとナチ・ドイツ』を僕に紹介してくれました。

 そこで、僕もすぐに読んで、なるほど、そうだったのかと勉強しました。その間、先生は、このすさまじい分厚さの本の監修もされていますね。『ヒトラー(※5)』という本です。著者はイアン・カーショー(※6)さんという方なんですね」

▲石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』          ▲イアン・カーショー著『ヒトラー』

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▲升永英俊氏

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▲升永氏が出稿した意見広告

石田「そうですね」

岩上「翻訳はまた別の方で、福永美和子さんという方です。石田先生は監修をなされた」

石田「そうですね。はい」

岩上「ナチスが緊急事態宣言を、大統領のパウル・フォン・ヒンデンブルク(※7)に出させて、そして権力を掌握したくだりを読んだのですけど、今日もそういう話も聞かせていただきたいなと思っております。

 その前に、実はもうそういう状況の前夜が今の日本に来てしまっているという話を、前フリでさせていただかなければいけないなと思います。大手メディアがいっせいに報道しているのですけど、改憲勢力が『三分の二議席をうかがう』と。『うかがう』という表現で、各紙全部揃えています(※8)ね。この足並みの揃え方自体が、まずもって気持ち悪いんですが」

石田「そうですね」05e7fd73ed0bbaa9e382a1a7910bab495e2308a1

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岩上「各紙の英語版を見ると、違う表現で言っているんですね。『In Reach』とか、『Cross To Circling』とか、『Nearing Needed Majority』とか、そうした別の言い方をそれぞれしているんですね。英語版だと、もっと三分の二が射程距離に入っているとか、三分の二確保に近づいているとか、そんな表現なんです。ところが日本語だと、全部『うかがう』で揃えているところ、この一糸も乱れぬというか、この気持ちの悪さからまず一言コメントをいただきたいんですけど」

石田「たぶん、はっきり書くとまずいと思ったんですかね。事実、そういう傾向が濃厚だとしたら、やはり今、考えないといけないことがたくさんあるように思いますね」

岩上「あと10日なんですよ。あと10日で、この三分の二が取られてしまうかもしれない。そうすると、衆議院は三分の二(※9)、参議院も三分の二になって、改憲の発議が可能になるわけです。

 今回の参院選で、『改憲勢力』が78議席を取れれば、三分の二である162議席に到達します。間違えてはいけないのは、自民、公明だけではなくて、おおさか維新と日本のこころを大切にする党も『改憲勢力』です。

 日本のこころを大切にする党は、はっきりと、一番やらなきゃいけないのは緊急事態条項だと主張しています。最も鮮明です。自民党の本音をぜんぶ代弁しているような状態にあります。代表は、拉致問題で有名になった中山恭子(※11)さんですね。

 おおさか維新は独自案を出して(※12)、いかにも自分たちは改憲勢力ではない、自民党の改憲案に賛成してないかのようなフリをするんですけど、三分の二に入れてくれるんだったら、協力するみたいなことを幹部が今、言い始めています。これまでもそうですけれども、実際にはおおさか維新は偽装野党と言いますか、そういう党であろうと見られている。というか、それは間違いないでしょう。

 以上のように、『野党共闘』が85議席以上取れれば、改憲を阻止できるんですけど、取れなかったならば分からない。あるいは、仮にうまく取れても、何人かの議員が一本釣りで寝返るようなことがあると、三分の二を超えてしまうわけです。ということは、確実に一人二人こぼれて裏切り者が出ても、三分の二を阻止するという状態にならなきゃいけない。こう考えると、かなり厳しい戦いです」

石田「そうですね」

岩上「そういうなかで、日本のメディアは大多数が緊急事態条項や、自民党の改憲草案の本当の危険性とか、これは取り返しがつかないよという話に関して、十二分に報道したり論評したりしているとは言えないと思います。

 例の発言(※13)ですが、麻生太郎(※14)さんが2013年の段階で言っているわけです。櫻井よしこ(※15)さんが理事長を務める国家基本問題研究所(※16)の講演で、『憲法はある日、気がついたらワイマール憲法(※17)が変わっていて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね』と。

 これ、間違いだらけなんですけど、彼が言いたいのは、史実に正確に学者のように伝えることではなく、ナチスの手口をざっくりと学んで、ざっくりと今の日本の状況のなかで利用して、実行しようということだったんだと思うんですね。

 そして今まさに、みんなが気づいてないような状態のなか、三分の二に到達しそうなわけなんです。麻生さんのこの発言、石田先生はもちろん、リアルタイムで麻生発言の危険性にお気づきになっていたと思います。『ナチス』という言葉を使っているわけですから、ピンときたと思いますけれども、どんなふうにお感じになっていましたか」

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▲麻生太郎副総理兼財務相

石田「まず、こう語る人の感覚が分からない。つまりこれ、『学べ』って言いましたよね。『学んだらどうかな』っていう言い方をした。つまり、肯定的な表現をしたわけです。そのことが持つ意味合いです。

 日本国を代表する政治家が、それを公の場で言うという。これは歴史認識の問題にも関係していると思いますよ。そういう感性の方が、日本の国政を仕切っているという、やはり恐ろしさを感じましたね。その時は。これは、本当は一発で辞任すべきものですよ」

岩上「そうですよね」

石田「でも、彼は、たぶん謝罪もしてない」

岩上「訂正だけ」

石田「訂正だけやりましたね」

岩上「例示をナチスだけにしたっていうのは・・・」

石田「誤解を招いたとか、なんかそんな言い方でされましたけどね。僕は本当に憤りを感じた記憶がありますね」

岩上「日本の中で、政治家の発言に対する世論の指弾というものに、明らかにダブルスタンダードがあるとお感じになりませんか。麻生さんのこれまでの失言(※18)は、このナチス発言だけではありません。つい最近も、テレビを見ていたら、『90を過ぎた年寄りが、老後が心配だと言っているから、おまえ、いつまで生きてるつもりなんだよ』というような、非常に乱暴なことを言っています」

石田「言っていますよね」

岩上「これって、もうナチスっぽくないですか?」

石田「通じるところがあると思います。ただ、彼が本当にそういう自分の言説を広めようと思って言ったとも思えない。言葉の責任を感じて話したのか。そのあたりは僕は、判断できないですね」

岩上「まあ、仲間内には広めようと思っていると思いますよね」

石田「そうですかね」

岩上「この『ナチスの手口に学んだらどうか』という発言も、お仲間のところでの講演ですから。憲法改正のやり方は、ナチスのやり方で行くんだという話を『なるほどそうか』と聞いてうなずく人たちがたくさんいるのです」

石田「しかし、世界の常識で考えて、ナチスというのはいわば『絶対悪』ですからね。多少は良いことがあったかも分かりません。失業の問題とか、俗説的には色々あります。

 それを信じている方はいらっしゃるけど、世界標準で考えて、ナチスを肯定的に捉えるということは、もうその人の言っていることは信用がないということに等しい。世界にはそう受け止められます。少なくとも、先進国ではそうです。だから、日本の政治と世界の政治の溝があまりにも広いということだと思いますね」

岩上「ここの事務所、港区六本木の端っこにあるんですけど、この通り一本隔てたところに、麻生さんがよく通うお店がありまして、よく黒塗りの車がうちのマンションの前をふさいでしまうのです。

 そうした店で飲んだ領収書が、政治資金収支報告書に載っていて、あまりにもひどくないかと。クラブ代に何千万使うんだ(※19)と、そういうことを一部で指摘されても、大手マスメディアの論調は非常に弱々しくて、問題にもされません。

 舛添要一さんは、もう本当に焼き尽くされるまでに叩かれて(※20)、麻生さんとか安倍さんのような人はそうしたお金の使い方で指弾されない。これは絵に描いたようなダブルスタンダードですね」

石田「本当ですね。そういう意味のダブルスタンダードはありますね」

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(※1)石田勇治 著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社、2015年6月)紹介文:ヒトラー政権時代の数々の疑問に、最新研究をふまえて答えた入門書であり、当時の歴史やその背景を知るための決定版の一冊。

 ヒトラーはいかにして国民を惹きつけ、独裁者に上りつめたのか。なぜ、文明国ドイツで、いつのまにか憲法は効力をなくし、議会制民主主義は葬り去られ、基本的人権も失われたのか。ドイツ社会の「ナチ化」とは何だったのか。なぜ、国家による安楽死殺害や、ユダヤ人大虐殺「ホロコースト」は起きたのか、など重要な問題を吟味した新書(参考:Amazon【URL】http://amzn.to/1Uj0A7Q)。IWJ書店では、石田勇治氏のサイン入りの同書を販売している。

(※2)升永英俊:弁護士(第一東京弁護士会)・弁理士。米国のコロンビア特別区及びニューヨーク州弁護士。TMI総合法律事務所シニアパートナー。元東京永和法律事務所代表兼東京永和特許事務所顧問。近時は弁護士や文化人らの賛同を得て「一人一票実現国民会議」を立ち上げ、いわゆる「一票の格差」問題の啓蒙活動を行うとともに、自ら多くの違憲訴訟を提起している。

 岩上安身は2016年1月11日と5月30日に升永氏へインタビューを敢行。升永氏はナチスがいかにして独裁政権をつくりあげたかを解説したうえで、自民党の改憲案の問題点を追及した。

 このなかで升永氏は一票の格差の問題についても取り上げ、内閣が違憲状態で成立していることを問題とした。「一票の格差」が最大2・13倍だった昨年12月の衆院選小選挙区については、憲法違反だとして、二つの弁護士グループが選挙無効を求めた17件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)が2015年11月25日、選挙は「違憲状態」だとする判断を示している。一方、寺田逸郎裁判長は選挙無効については訴えを退けている(朝日新聞、2015年11月25日【URL】http://bit.ly/1QHmotZ)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1MnXVtg)(参考:升永英俊公式ホームページ【URL】http://bit.ly/29A4XJ2)(参考:一人一票実現国民会議 公式サイト【URL】http://bit.ly/29x79p3)(IWJ【URL】http://bit.ly/29A6nTN)(朝日新聞、2015年11月25日【URL】http://bit.ly/1QHmotZ)。

(※3)強烈なタイトルの意見広告:2015年10月、升永氏は新聞各社に麻生太郎氏の「ナチスの手口に学んだらどうか」発言を取り上げ、自民党憲法改正草案の「緊急事態宣言」条項の危険性を訴える意見広告を掲載した(参考:IWJ【URL】http://bit.ly/22moUr3)。

(※4)緊急事態条項:いわゆる国家緊急権。国や時代によってその呼称は異なるが、概して戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止するなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことを指す(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1NAJRGC)。

(※5)イアン・カーショー (著), 石田 勇治 (監修), 川喜田 敦子 (翻訳)『ヒトラー(上):1889-1936 傲慢』『ヒトラー(下):1936-1945 天罰』(白水社、2015年12月)紹介文:学識と読みやすさを兼ね備えたヒトラー伝記の決定版。ウルフソン歴史賞受賞作品(参考:Amazon【URL】http://amzn.to/29ZSyDn)(参考:Amazon【URL】http://amzn.to/29yxwHu)。

(※6)イアン・カーショー:イギリスの歴史家。英語圏でのアドルフ・ヒトラー、ナチズムの研究で有名である。イングランドのオールダム出身。元来は中世の研究家として教育を受けたが、1970年代に近現代ドイツ史の研究に転向した。現在はシェフィールド大学教授。本文に登場する著書以外にも、『ヒトラー神話――第三帝国の虚像と実像』(柴田敬二訳、刀水書房、1993年)などが邦訳されている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1NAJRGC)。

(※7)パウル・フォン・ヒンデンブルク:ドイツ国(ワイマール共和政)第2代大統領。第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。

 第一次大戦後は共和制となったドイツにおいて大統領に当選。アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権樹立への道を開いた。

 1933年2月1日、ヒンデンブルクはヒトラーの要請に応じて国会を解散し、総選挙が始まった。

 さらに2月4日にはヒトラーの要請で「ドイツ国民保護のための大統領令」を発令し、国民の集会・出版・言論の自由を停止した。

 さらに2月27日に国会議事堂放火事件が発生したことを受けて、翌28日に「国民及び国家保護のための大統領令」を発令し、国民の権利停止の範囲を拡大した。

 3月13日にはヒトラーの要請を容れて、ナチ党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスを国民啓蒙宣伝省の大臣に任じた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1fzn7h9)。

(※8)「うかがう」という表現で、各紙全部揃えてます:以下各新聞の見出し、

・朝日新聞「改憲4党、3分の2うかがう 朝日新聞・参院選情勢調査」

・毎日新聞「改憲勢力3分の2うかがう 毎日新聞序盤情勢」

・産経新聞「序盤情勢 改憲勢力、3分の2うかがう 与党は改選過半数の勢い 民進は10議席以上減が確実 共産は躍進か」

・東京新聞「参院選序盤情勢 改憲勢力2/3うかがう 半数超が投票先未

・北海道新聞「改憲勢力3分の2うかがう 未定半数、参院選序盤情勢」

・沖縄タイムス「改憲勢力3分の2うかがう 未定半数、参院選序盤情勢」

朝日と毎日のWEBには24日、産経は23日の遅くに掲載している(朝日新聞、2016年6月24日【URL】http://bit.ly/29FsxG4)(毎日新聞、2016年6月24日【URL】http://bit.ly/29Jbvt8)(産経新聞、2016年6月23日【URL】http://bit.ly/29Aa5gg)(東京新聞、2016年6月24日【URL】http://bit.ly/29Aa7F8)(北海道新聞、2016年6月24日【URL】http://bit.ly/29DUwE6)(沖縄タイムス、2016年6月24日【URL】http://bit.ly/29GiP7o)。

(※9)衆議院は三分の二:衆議院の議席数はそれぞれ2015(平成27)年12月24日時点(民進党結成前)の段階で、自由民主党291、公明党35、民主・維新・無所属クラブ93、日本共産党21、おおさか維新の会13、改革結集の会5となっている(参考:衆議院議員 松本純 公式ページ【URL】http://bit.ly/266CR3l)。

(※10)自民党の改憲案:自民党ホームページには平成24年4月27日付の改憲案がアップされている(参考:自民党公式ホームページ【URL】http://bit.ly/2aeSE8Z)。

(※11)中山恭子:参議院議員(2期)、日本のこころを大切にする党代表。元外交官。在ウズベキスタン特命全権大使、内閣官房参与、国連改革欧州諸国担当大使、内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)、拉致問題担当大臣、たちあがれ日本参議院幹事長代理などを歴任。

 2016年7月13日、日本のこころを大切にする党の中山恭子代表は参院選敗北を受け、辞任する意向を固めたと時事通信が報道した。

 しかし同党は13日の議員総会で「思いは受け止めるが、早急に結論を出すべきでない」として、辞任願を幹事長預かりとすることを決めており、月内に党としての対応を決めるとしている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2abFbMQ)(時事通信、2016年7月13日【URL】http://bit.ly/29ROl4Y)。

(※12)おおさか維新は独自案を出して:2016年3月26日、おおさか維新の会は公式ホームページに独自の改憲案をアップした(参考:おおさか維新の会 公式ページ【URL】http://bit.ly/1UQbLVz)。

(※13)例の発言:2013年7月29日、国家基本問題研究所が開いた憲法改正についてのセミナーで、麻生太郎氏は改憲積極派に向けて、ナチス政権を引き合いに出し、「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか」と発言。この発言について各新聞社が報道し、麻生氏に対する批判が相次いだ。

 この発言は海外の一部メディア・ユダヤ系人権団体らが一斉に批判。7月30日、ユダヤ系人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターが『Which ‘Techniques’ of the Nazis Can We ‘Learn From'”?(一体どんな手口をナチスから学べると言うのか)』と題して声明を発表。発言の真意を説明するよう求めた。

 8月1日、麻生氏は「誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示として挙げたことは撤回したい」と述べた。野党側は8月7日に閉会する臨時国会中に、予算委員会での集中審議を求めていたが、与党側は「一応の決着をみた」として審議を拒否した。

 7日に民主党など5野党は、麻生氏の辞任、または罷免を求める声明を発表し、同日首相官邸に声明を届けようとするも、官邸は受け取りを拒否した。官邸は、「ナチスの手口」発言の麻生氏を徹底的にかばいぬいたのである(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1E9LLeB)。

(※14)麻生太郎:元内閣総理大臣。衆議院議員。首相退任後、2012年12月26日に第2次安倍内閣で副総理兼財務大臣兼金融担当大臣として再入閣。第3次安倍内閣でも副総理、財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)を担当している。信仰する宗教はキリスト教(カトリック)であり、洗礼名は「フランシスコ」(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1E9LLeB)。

(※15)櫻井よしこ:ジャーナリスト、元ニュースキャスター。現在の保守派論客を代表する一人。2007年(平成19年)には南京事件を歴史的事実に基づかない政治的創作として描く映画『南京の真実』の賛同者に名を連ねた。2014年12月には安倍晋三首相と対談。「週刊新潮」2015年新年号に対談記事が掲載された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1KYifdQ)。

(※16)国家基本問題研究所:2007年12月に設立された日本の民間シンクタンク。2011年以後は公益財団法人。定期的に月例研究会や国際シンポジウムを開催しており、日本政府に対する政策提言を主な目的としている。

 2013年の第2次安倍内閣成立後は、日本国憲法第9条の改正をはじめ、憲法改正を政権の目標とするよう要望している。

 また、TPPの推進や外国人地方参政権の反対を主張している。原子力発電撤廃に否定的で、原発の維持を主張している。

 慰安婦問題については「20万人の朝鮮人女性を強制連行し性奴隷とした」という吉田清治の作り話で誤解が国際社会に広がり、それが国連クマラスワミ報告書にも採用されたと批判しており、日本政府に事実関係について反論するよう要請している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/24VKMuu)。

(※17)ヴァイマル憲法:ヴァイマル憲法は、第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、帝政ドイツが崩壊した後に制定されたドイツ国の共和制憲法。1919年8月11日制定、8月14日公布・施行。

 ワイマール憲法は、国家主権者を国民とする、財産に制限をつけない20歳以上の男女平等の普通選挙をおこなう、国民の社会権を承認するなど斬新性があったが、同時に有権者の直接選挙で選出されたドイツ国大統領に、憲法停止の非常大権、首相の任免権、国会解散権、国防軍の統帥権など、旧ドイツ皇帝なみの強権が授与されていた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1DssMuN)。

(※18)麻生さんのこれまでの失言:麻生太郎氏はナチス発言以前・以後にも失言が何度も取りざたされている。しんぶん赤旗が2008年までの発言をまとめているほか、NAVERにも失言がまとめられている。

 本文で指摘されている発言は、2016年6月17日、北海道小樽市で開かれた自民党支部大会でのもの。「「90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」と述べた一件」(しんぶん赤旗、2008年9月23日【URL】http://bit.ly/1nAAFoW)(参考:NAVERまとめ【URL】http://bit.ly/2aclep4)(毎日新聞、2016年6月17日【URL】http://bit.ly/1XydlyW)。

(※19)クラブ代に何千万使うんだ:麻生太郎氏の資金管理団体「素淮会」は14年だけでも政治活動費の名目で計137回、総額1531万円を飲み食いに浪費していると報じられている。支出先も銀座のミシュラン3つ星すし店「すきやばし次郎」など高級店ばかりで、夜のクラブにも政治資金から途方もない金額が落とされているという(日刊ゲンダイ、2016年5月24日【URL】http://bit.ly/1qL4Hil)。

(※20)舛添要一さんは、もう本当に焼き尽くされるまでに叩かれて:国際政治学者、前東京都知事。参議院議員(2期)、参議院自由民主党政策審議会長、厚生労働大臣(第8・9・10代)、新党改革代表(第2代)などを歴任。

 2016年5月13日に、国会議員のときに家族と宿泊したホテルの部屋の料金を、政治資金で支払ったこと等について会見を開き、「旅行先ホテルで事務所関係者らと会議をした。家族で宿泊する部屋を利用し誤解を招いたので(支出分を)返金する」と弁明し、謝罪している。

 都議会では6月13日までに自民党を除く7会派が不信任案提出し、6月14日には自民党も不信任案を提出する方針を固め、舛添氏は辞意を表明した。問題が旅行に限らず、あまりにも多岐にわたるものであったため、報道が過熱しネットは炎上。舛添氏についての激しい追及が続き、ほぼ四面楚歌となった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1qQWyJ7)。

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自民党改憲草案に明記された「緊急事態条項」は、ナチスの「大統領緊急令」と「授権法」の2つをセットにしたような内容

岩上「これはやっぱり、権力というものが増長していく過程に見られることですか?」

石田「(日本の現在の状況は)ヴァイマル末期の状況と似ているかもしれませんね。つまり、ある種の権力空間、それまでなかったような空間ができあがっているんですよ。ヴァイマルの最後の3年ぐらい、議会が機能不全に陥った。議会自体がもう機能しなくなっているっていうのが、大きかったと思いますけどね。

 その中で、新しい時代を切り開いていこうという連中が、画策していくわけです。ヒトラー首相就任も、そういうある種のブラックボックスのなかで実際起きていることなんです」

岩上「まさに、あの『学んだらどうかね』という人たちが、ヒットラー並みの権力を持つようになると。安倍さんは、改憲は緊急事態条項からやるということを国会でも発言しています(※21)。ところがその中身について議論はしません。国会で野党議員に質問されても答えない。

 この緊急事態条項ですが、多くの問題点があります。まず国会の事前同意が必要ありません。事前もしくは事後に、ということです。それから基本的人権が制限される。法律と同じ効果を持つ政令が内閣だけでできる。国会で議論も承認もまったく必要なく、総理大臣の思い一つで出せるわけです。内閣と言っても今、日本では任命する全権は総理にありますから、逆らうということはない。

 総理大臣が予算措置を行える。金もついてくる。緊急事態の期間に制限がない。これがものすごく重大だと思いますけど、一時期のものではない。内閣は衆議院の任期を延長することができると。議員内閣制ですから、衆議院の任期が終わって、総選挙になったらば、もう一回ガラガラポンできるはずなんですけど、これを延長できるということになると、無限延長も可能になるので、実際終身議員とか、終身首相ということになると。

 地方自治もなくなる。地方自治体に対しては、直接命令を下せると言っていますから。司法も行政に遠慮せざるを得ない。もちろん、集会・結社・言論・報道の自由がぜんぶ制限されるでしょう。

 国民全てが公権力に従うことと、究極のことが書いてあります。国民が公権力に従わざるをえない。もうほぼ、戒厳令(※22)状態なんですけど、この緊急事態条項、今回の選挙で三分の二の改憲勢力が議席を取れれば、憲法の中に入るわけですよ。本日これからナチスの緊急事態の話をたっぷり聞かせていただくわけですけど、こうした点をお聞きになってどういうふうに思いますか?」

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▲緊急事態条項の問題点一覧

石田「これは、ナチの文脈で言うと、政権をヒトラーが取った後に、国会議事堂炎上事件(※23)というのがあって、そこで、それまでにも出されていたんだけど、もう桁違いの大規模な、と言っていいと思いますね。緊急事態、国会議事堂炎上令って言いますけど、大統領緊急令が出されるんですよね。それと、その一ヶ月後に出る授権法(全権委任法)(※24)、この二つを合わせたようなものですね」

岩上「一発で。二つ合わせた」

石田「二つ合わせたもの。授権法はまさにヒトラー独裁にその道を開いたものであり、後でまた言いますけど、その下で人権、政治家、政治的反対派を取り締まったことから始まって、あげくはホロコーストまで行くわけです。もう未曾有の人権侵害がその下で起きていた。ですからこんなものが日本の憲法の中に組み込まれたら、非常にリスクが高い」

岩上「そうですよね。お試しでやると言っている(※25)。お試しでやった後に、9条の改正にいきたいなどと推進側は言い、そして反対する側もこれを真に受けて、『本丸は9条だ』とか言っているわけです。『本丸は9条だ』と言ったって、じゃあこの緊急事態条項は、出城ですか? これを落とされても、本丸さえ守れれば大丈夫なんですか?これが通ったあと9条を守るとか、そういうことって可能だと思いますか?」

石田「いや、それは無理でしょう。なんでもできるわけですから」

岩上「何でもできるんですよね」

石田「誰がどのような場合に、非常事態かというものを明確に定義する、それがないわけでしょ」

岩上「はい。内閣が判断する。国会ではありません」

石田「それは、あり得ないですよね。だからそういうことをかつてドイツでやってしまったために、その後はそれを学ぼうとして、そうじゃない方法でやってきているわけですよね」

岩上「そうですね。『ナチスの失敗に学べ』なら分かるんですけど、『ナチスの手口に学べ』ですからね」

石田「麻生さんが言われたのは、やっぱり本当だったのかという」

岩上「本当だった。本当だったと僕は思っています」

石田「なるほど」

岩上「でも、多くの人はまだクエスチョンマークでいるんですね。もう10日ですよ。あと10日でこれが本格化できる可能性が出てくるわけですね」

石田「これは、本当にちゃんと直視してみないといけないですよ」

岩上「日本会議(※26)という、安倍政権を一生懸命支えている改憲推進派団体が、最近注目されています。その日本会議のメンバー、というよりもう理論的指導者が、ほとんどの憲法学者が集団的自衛権行使容認は違憲であると言った時に、合憲であると言いました。合憲であると言った憲法学者(※27)は3人しかいないわけですが、そのうちの1人が百地章(※28)さんです。

 その百地さんが、ネットメディア『バズフィード』のインタビューに答えて(※29)、もう本当に熱心に、『我々は緊急事態条項を最重要と考えて運動してきている、緊急事態条項こそやるべきことなんだ』と言っています。

 そしてもう参院選を超えて、その次の国民投票の準備をしていると。これまでに膨大な署名を集めてきたけど、それは全部手元に残してきてあって、1,000万、2,000万という署名の名簿、それを国民投票の時に働きかける。ハガキか何か送るんでしょう。その運動、国民運動のために使う。全部万端整えて、ことに臨んでいると言っているんですよ。

 ここまで明らかに緊急事態条項が狙いだと言っているのに、それを世間は『ほんとかよ?』と思っている。なにかまだみんな薄ぼんやりしている感じと言いますか、真に受けてない。

 でも、三分の二を取って発議して、今のメディアがひたすらこの改憲問題から逃げているような状態のなか、低投票率になれば、その投票した人の過半数で決まってしまいますから。

 すごく情熱を持って熱心にやっている連中が一方でいるのに、メディアの関心がすごく薄い、あるいは報じない。『うかがう』っていうのを足並み揃えて、危機意識のまったくない記事だけ書いているような状態のなか、通ってしまう可能性がある。

 緊急事態条項は万能カードだと思うんですよ」

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▲百地章氏

石田「そうですね。本当に危険だと思いますね」

岩上「日本会議の動向なんていうのは、先生、ご存じでしたか?」

石田「いや、もちろん、細部までは見ていませんけどもね。でも、単なる支援団体じゃないですよね。日本の国のあり方を根本から変えたいという、変えようという明確な意思をもって行動している団体なんですね」

岩上「そうですね。こうした日本会議と、神道政治連盟国会議員懇談会(※30)と、創生『日本』(※31)などは、ほとんどメンバーが重なっていくわけです。700人ぐらいいる国会議員のうち300人とか、あるいは400人近く、という人間が、それらに重なって加盟している。

 彼ら、進めている側の人たちは、自分たちがこんなことを発令した後で、たとえば中国相手に戦争を行ったときに、どういう結果を招くかまでは考えているとは到底思えない」

石田「これは、戦争をやりたい人たちにとっては、是非とも必要なものなんですよ。つまり、こういうものが」

岩上「なければ、できない」

石田「ないと戦争はできないんです。だから、今回のこの緊急事態条項に関して言うと、この前の集団的自衛権と、ほとんどセットです。我々国民がそれを自覚しなきゃいけない。つまりそれが問われているんだということですよね」

岩上「戦争も色々あると思います。それこそ専守防衛で、警察行動的な、例えば領空侵犯に対して、それをはね返していくとか、防御のための戦争。他方、緊急事態条項のようなものは明らかに総力戦を前提にしている。国家の命運を賭けて、相手を滅ぼし尽くすか、自分が滅び尽くすかみたいな、そういう総力戦前提の話ですよね、これは」

石田「そうですね。戦争体制を構築するための法的手段ということだと思いますね。本質はね」

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(※21)安倍さんは緊急事態条項からやるということを国会でも発言しています:安倍首相は改憲と緊急事態条項についてこれまで何度もその必要性を語ってきた。また、今年に入ってからも改憲を在任中に行いたいという意思を明確に示している(産経ニュース、2015年11月12日【URL】http://bit.ly/1MKTbaq)(毎日新聞、2016年3月2日【URL】http://bit.ly/25Z8POU)。

(※22)戒厳令:戒厳とは、戦時において兵力をもって一地域あるいは全国を警備する場合に、国民の権利を保障した法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍部の権力下に移行することで、本来は極端な治安悪化や暴動を中止させるために行われる。しばしば、非常事態宣言と共に、軍部によるクーデターで活用される。

 フランス革命中の1791年にフランスで施行された「戦場及び防塞の維持区分、防御工事等の警察に関する法律」がもとであるとされている。英語圏ではマーシャルロー(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1NbfRR4)。

(※23)国会議事堂炎上事件:1933年2月27日の夜にドイツの国会議事堂が炎上した事件。

 2月27日の午後9時30分頃、議事堂のそばをとおりがかった帰宅途中の神学生が、火のついたものを持った人影を見て、警官に通報。現場には国会議長兼プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングが向かい、議事堂財産の避難と捜査に当たった。

 あたりを捜索したところ、焼け残った建物の陰に半裸でいたオランダ人でオランダ共産党員のマリヌス・ファン・デア・ルッベが発見された。ルッベは放火の動機を「資本主義に対する抗議」と主張。

 しかしヒトラーはこの事件を「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、単独犯行であるとする意見を退けた。

 2月28日、ヒトラーは閣議で「コミュニストと法的考慮に左右されず決着をつけるため」として、 「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の二つの緊急大統領令の発布を提議し、これにより言論の自由や所有権は著しく制限され、政府は連邦各州の全権を掌握できるようになった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1We8Mb3)。

(※24)授権法(全権委任法): 全権委任法は、ドイツ国において1933年3月23日に制定された法律で、アドルフ・ヒトラー首相が率いる政府に、ヴァイマル憲法に拘束されない無制限の立法権を授権。この法律によって、国家社会主義ドイツ労働者党がすでに手中にしていた権力に一応の合法性が与えられることとなった。

 法律の正式名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」。この法律は授権法と呼ばれる、立法府が行政府に立法権を含む一定の権利を認める法律の一種で、ドイツ語および英語では、他の授権法と用語上の区別がなされていない。このため日本語においても単に「授権法」と呼ばれることがある(NETIB-NEWS、2015年11月13日【URL】http://bit.ly/22tVolT)。

(※25)お試しでやると言っている:安倍晋三首相側では「緊急事態条項」の追加なら各党の支持を得やすいという読みがあり、これを突破口にして9条などの本丸に切り込む「お試し改憲」(首相周辺)の意図も見え隠れすると報じられている。この試みを「お試し改憲」として複数の新聞社が報じている(毎日新聞、2016年1月1日【URL】http://bit.ly/29FjFj0)(西日本新聞、2015年5月30日【URL】http://bit.ly/1PdIipz)(日本経済新聞、2016年2月16日【URL】http://s.nikkei.com/29Fk7gX)。

(※26)日本会議:1997年に設立された、日本の民間団体。2016年現在、会員は約38000名、全国都道府県に本部があり、また241の市町村支部がある。関連団体として、国会議員が組織している日本会議国会議員懇談会、地方議員の組織として日本会議地方議員連盟がある。日本会議は新憲法の制定をめざしており、特に「軍事力増強」「緊急事態条項」「家族保護条項」の条文化を重視している。その活動の一環として、日本会議は憲法改正の大規模集会などを開いている。

 2015年10月10日に日本会議が主導して開いた憲法改正を求める集会では、衛藤晟一、下村博文らが出席した他、安倍晋三のビデオメッセージが流された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1hH2BMr)。

(※27)合憲であると言った憲法学者:菅義偉官房長官が「安保法案は合憲」とする憲法学者として名前を挙げた、西修・駒沢大名誉教授、百地章・日本大教授、長尾一紘・中央大名誉教授の3人のこと。

 95%以上の憲法学者が「安保法案は違憲」とする中、「安保法案は合憲」論を主張していた3人は、2015年6月19日の衆院特別委員会で徴兵制について述べ、「徴兵制は違憲」とする政府判断を「間違っている」として「徴兵制合憲論」を主張した。

 3人を推した菅官房長官はこれについて、「徴兵制は憲法上許容されるものではない」と否定した上で「(3人の主張について)知らなかった。あくまでも憲法学者のひとつの意見だろう」と話した。

 一連の流れについて立正大法学部名誉教授の金子勝氏は「日本は戦争を放棄し、戦力を放棄しているので、徴兵制を問題にすること自体あり得ない」としている(日刊ゲンダイ、2015年6月21日【URL】http://bit.ly/1MWXyRq)。

(※28)百地章: 法学者。専攻は憲法学。日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授。日本会議の政策委員を歴任。機関誌「谷口雅春先生を学ぶ」の編集人なども務めた。

 自衛隊は軍隊とするよう憲法を改正するべき、としている。国旗国歌問題では教職員組合の反対を“妨害活動”と批判している。1996年には、選択的夫婦別姓制度導入に反対する「夫婦別姓に反対し家族の絆を守る国民委員会」の呼びかけ人を務めた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1EbszSC)。

(※29)百地さんが、ネットメディア、バズフィードのインタビューに答えて:百地氏はBuzzfeedの取材に答えて、緊急事態条項の必要性について力説しているほか、「草の根運動が必要なのです」と語っている。同記事で百地氏は署名活動をツールとして使っていると語っている(Buzzfeed、2016年6月28日【URL】http://bzfd.it/29R7oeb)。

(※30)神道政治連盟国会議員懇談会:超党派議員による連盟組織。神道政治連盟国会議員懇談会は、自民党を中心に304名(衆議院223名・参議院81名)が参加している。現在の会長は安倍晋三。第3次安倍内閣では、閣僚20人のうち19人が神道政治連盟議員懇談会の会員だとされる。

 これまで元号制定化、国旗国歌法、昭和の日制定、選択的夫婦別姓制度導入の阻止などの活動を行ってきた。なお、「神道政治連盟」は神社界を母体として1969年に結成された神社本庁の関係団体。こちらも新憲法の制定、靖国神社での国家儀礼の確立、道徳・宗教教育の推進、夫婦別姓制度の危険性主張、皇室の尊厳護持などの運動をしており、国政選挙において神道政治連盟はこれまで複数の候補者を推薦・応援してきている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1puO9EJ)。

(※31)創生「日本」:超党派の議員連盟。自由民主党、維新の党(当時)、新党改革(当時)の3党と無所属の国会議員などから構成される。約70名の国会議員が参加している。自民党の中川昭一、島村宜伸や当時無所属だった平沼赳夫をはじめとした自民党及び無所属の議員によって設立された。

 活動目的は、伝統・文化を守る、疲弊した戦後システムを見直す、国益を守り、国際社会で尊敬される国にする、などである。

 親中派の福田康夫が制した2007年自由民主党総裁選挙において所属議員の8割が日本会議国会議員懇談会の前会長である麻生太郎を支持した。

 自民党以外でも荒井広幸・水野賢一・城内実(2012年5月に自民党に復党)ら安倍晋三と親しい議員が多い。2009年以降、安倍晋三が会長を務めている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29hRVka)。

現在に照らし合わせて歴史を見ること~第一次大戦後のドイツと現在の日本の共通点と相違点

岩上「ということで、これからヴァイマル憲法の末期、本当に言うのも恐ろしいんですが、もしかすると日本国憲法の末期なのかもしれません。こういう状態を少し念頭に置きながら、先生の本日のお話をうかがっていきたいなと思います。お願いします」

石田「はい。今日はドイツの第一次世界大戦後の歴史、一般にはヴァイマル共和国(※32)と言われているんですが、それがなぜああいう形で崩壊していったのか、それを考えながら今の日本の状況を見ていきたいと思います。

 日本の今とドイツのあの時代、同じということはないんです。第一次世界大戦に敗れたドイツの話ですが、ドイツの場合は第一次世界大戦の前までは帝国でした。帝政でそれなりにうまくいっていた。イギリス、フランスと比べて、国民国家の形成が遅れていたのですが、短期間のうちに近代化を遂げ、世界からもたくさん留学生が来て、世界に冠たるドイツになり始めていた。人々はわりあいそれなりに楽しんでいた、ハッピーだった時代と回想される場合が多いんです。ですから戦争に負けると思っていなかった」

岩上「しかし、第一次世界大戦では・・・」

石田「それが負けた。そして、帝政が崩壊する。ドイツ人はやっぱり第一次世界大戦で勝てると思っていたし、帝政に誇りを持っていました。それが想定外の敗北になり帝政が崩壊して共和制になった。そしてヴァイマル共和国憲法ができていく。

 日本の場合、この文脈で考えると、もちろん第一次大戦もありますが、やっぱり第二次世界大戦後に、より関係がある。第二次世界大戦では日本も戦争に負け、それ以前の天皇制国家が崩壊し、民主的な新憲法ができた。そこのところはちょっと似ている。

 それぞれいわゆる旧体制、ドイツなら帝政派、日本だったら戦前の価値観を持つ人たちが、戦後もかなり残ります。今の自民党の安倍政権でも、そういうことを言ったり、先ほどの話だったら戦前回帰みたいなことが公然と言われている。旧体制の支持者が70年経ってもまだいる。

 この時期のドイツの場合はヴァイマルの、本当に帝政が崩壊した直後ですから、価値観、あるいは人、文化的にもまだ旧体制と非常に強くつながっていて、古いものを復活させたい要望が非常に強かったわけなんですよ。だからナチのようなものが出てきて共和国を倒壊させるときに、そういう土壌があったからこそ、ヒトラーのような運動が大きくなっていった、ということは明らかにあるんです」

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▲東部戦線における攻勢について作戦を練るドイツのヒンデンブルク参謀総長、皇帝ヴィルヘルム2世、ルーデンドルフ参謀次長(出典:WikimediaCommons)

岩上「共通点はかなりあるけれども、日本とドイツで一つ違いがあるとしたら、戦争に敗北してから復古的な体制をもう一度、というような運動が盛り上がるまでの時間が違っている」

石田「時間が違うってことですね」

岩上「ドイツの場合、当事者、第一次世界大戦に参戦した世代が残っていた」

石田「そうそう。残っていた」

岩上「今の日本は孫世代が」

石田「そう。戦争のリアリティがないような人たち。日本の場合ね」

岩上「中途半端な時代と言ったらおかしいですけど、戦争に行った人たちの子供の世代、例えば、僕なんかがそうだと思いますが、僕の父は従軍しています。いかに一兵卒として戦争に行くということが大変かを父から聞いて知っている。母は空襲下の東京にいて逃げ回っていたわけですから、その話を聞いた子供たちは戦争を忌避するけれども、もうその経験、記憶が薄らいでくる孫世代になってきている。ということになると、戦争美化ができる」

石田「それはあると思いますね。他方で、日本の場合はやっぱり70年、戦後の憲法がずっと我々の生活を守ってきているわけですよ。その蓄積をどう評価するかがやっぱりポイントだと思います。

 ヴァイマル共和国の憲法の場合は、そういうことを言われる間もなく、崩壊していくわけです。だから理念は素晴らしくても、実際に適応する時に障害が多すぎた。

 でも、日本の場合はもちろん、憲法を変えたいと当初から言われていました。自民党は結党以来の理念だと言っていますから、そうかもしれない。だけれども、他方、戦後憲法の理念がかなり広まっていることも事実です。今それが危機に直面している。というかそこを犯す側からみれば、今はチャンスなのかもしれない。そういう状況にきているということですよね。

 だから、時代も状況も違うけれども、この点でドイツと日本とはやっぱり似ているところと言いますか、論点の重なりがあると思います。それでワイマール共和国憲法というと、もっとも民主的というような、必ずそういうフレーズがつきますね。それが具体的にどういうことかというと・・・」

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岩上「議会制民主主義、男女同権、国民の政治参加、直接民主制。こういったものが帝政時代にはなかった」

石田「その通りです。なかった」

岩上「男女同権なんかも」

石田「ないです。ヴァイマル共和国で初めて普通平等選挙が導入されて」

岩上「これも、日本国憲法と同じですよね」

石田「そうですね」

岩上「なかったわけですもんね。日本も」

石田「日本よりも早くこうなった。一気に大衆政治というものが実現して、多くの人が政治に関わるようになる。直接民主制の要素も非常に強く、国民投票なんかも何回も行われる。だから、ある意味ではポピュリズム的な運動は、もう最初から目立ってあった。

 同時に、こういう国民の生活に関わるような古典的な基本権を全部認めたし、特に重要なのは生存権ですね。これがやっぱり失業保険とか、1920年代に世界に先駆けて失業保険制度が完備されるとか、それから労使共同決定。つまり、労働組合の力が認められるわけですよ。それで一日8時間労働とかこういうものが憲法の下で実現していって、労働者にとってはとてもありがたい国になっていく。

 だけど、これが憲法の下で実現したために、資本家はこの頃はこういうのをなかなか受け入れがたいと言いますか、反発が非常に強かった。だから、ヴァイマル共和国憲法ができた時も、財界を中心とする政党はこれに反対している。だけど多数で通っているということなんですね。

 色々言われますけど、こういう言葉があるんです。実はヴァイマール共和国は、立派な憲法を持っていながら、『共和主義者なき共和国』とか、『即興的な民主制度』だったとか、これは当時から言われていた。つまり、十分に練り上げられたものではなかった。戦争に負けると思っていないから、帝政が崩壊するなんて思っていない。だから新しい憲法が必要だと思われていなかったので、もう敗戦の状況のなかで、もう一気に作ってしまった。

 だから、思慮が足りない部分もおそらくあったと思うんです。『即興的』っていうのは、そういう意味です。そして同時に、さっきもちょっと言っていたことですけど、こういうことも言われていた。『皇帝は去ったが、将軍たちは残っている』と。つまり皇帝はオランダに亡命し(※33)、ドイツ帝国を構成する全てのバイエルン王国(※34)とか、ザクセン王国(※35)も全部解体してしまった。だけど軍部は残った」

岩上「なるほど」

石田「そういう人たちの中から、『自分たちは戦争に負けてないぞ』っていう言説が出てくるんですよ。我々は、第一次世界大戦におけるドイツっていうのは、戦場になっていないんですよ」

岩上「国土が?」

石田「だからむしろドイツは、東部戦線ではソ連、ロシアとの戦いにおいては勝っていた。ブレスト=リトフスク条約(※36)なんて講和条約があって。革命ソビエトから領土を奪うようなことをやっていました。東部戦線は勝っていて、国民はみんな勝っていると思っていたんですよ。

 ところが、1918年に西部戦線で一気にアメリカに攻勢されて、雪崩を打つように崩れていく。まさに想定外の敗北。その責任を軍部はとりわけ、『背後からの一突き(※37)』という言い方をします。

 この『背後からの一突き』というのは、国内にいた社会主義者とか、ユダヤ人とか、革命を助長した連中が我々の戦いを崩壊に導いたんだと。これはもう、戦争直後から出てくるんですよ。こういう考え方が」

岩上「ヒットラーが言い出したのではなく」

石田「ないない。ヒトラーもそのうちの一人ですけど」

岩上「ワン・オブ・ゼムにすぎなかったわけなんですね」

石田「はい。ヒトラーよりも、むしろ今日の話の主役の一人であるヒンデンブルク大統領がまさにこういうことを言うんですよ」

岩上「なるほど」

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▲パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(出典:WikimediaCommons)

石田「これは、当時の軍人にとってはありがたいことなんです。つまり自分たちは戦争で負けてない。国内の裏切りにあった。だから悪いのは彼らなんだと。

 ヴァイマル共和国というのは主な主役といいますか、担い手がいる。それがヴァイマル連合(※38)、あるいはヴァイマル三派といわれる人たち。ちょうど同じ頃の日本の、護憲三派(※39)なんかと似ているんですけど、大正デモクラシー(※40)の」

岩上「大正デモクラシーの時の護憲三派ですね」

8ffd07aff2a74638d4c8acb33d5e503ef9ac0438石田「この三つの政党、ドイツ社会民主党(※41)、中央党(※42)、ドイツ民主党(※43)がヴァイマル連合です。これはしかしいずれも帝政期には野党なんです。

 ドイツ社会民主党なんていうのは、帝政時代は『帝国の敵』と言われていた。『国家の敵』と言われていた。つまり帝政時代の反政府勢力が、ワイマールになると今度は主流になる。つまりアウトサイダーがまさにインサイダーとなって権力を握る。そして労働者の権利を認めるような新しい時代を開いたという。これが、いわゆるヴァイマル憲法の担い手です」

岩上「ということはこういう三派が戦争中、第一次大戦中、あるいは帝政期にも存在できていて、彼ら自身が、自分たちで民主的な憲法とか、民主的な体制を考えていた、と」

石田「戦争中、このヴァイマル三派は平和決議というのを出している。つまり早期終結のためのですね。

 実はドイツ社会民主党も、どの政党も、第一次世界大戦が始まった時に戦争に賛成しているんです。ドイツ社会民主党もやっぱり限界があった。第二インターナショナル(※44)はそれで崩壊するんです。だけど戦争があまりにも長期化して、国内で食糧が不足するという状況になりました」

岩上「飢餓地獄になったんですよね」

石田「そうなんです。そういう中でもう戦争を一刻も早くやめるべきだという議論が出て、国会決議なんていうのをやっている。その三つの政党が手を結んで、共和制の担い手となっていったわけです」

岩上「日本とドイツとの重なりあいで、相違点と共通点があるという話でいけば、ヴァイマル憲法というのが日本国憲法と同様に、大変民主的で先進的なものであった。けれども今日本では右派から、アメリカに押しつけられた憲法だと排撃されている。ヴァイマルに関して言えば、内部から戦争中にもあたためてきたものが花開いたと言っていいんでしょうか」

石田「それは、微妙なところなんです。やはり敗戦にあたっては戦勝国の戦争目的がありますよね。アメリカが賛成する時、やっぱりドイツを民主化するっていうのが、戦争に加わる動機だったんですよ。色々ありますが、そのうちの一つです。

 敗戦国となったドイツについては、そういう連合国の意向も視野に入れなきゃいけない。別に日本国憲法のような形ではないですよ。自分たちが考えたんだけど、やはりそういう敗戦国ゆえの圧力はあったと思います。だからヒトラーなんかから見れば、ヴァイマル憲法だって押しつけだと解釈したわけです。

 でも実際はそうとも言えない。やっぱりドイツにも19世紀以来の自由主義の伝統があって、その憲法学者はそれなりの伝統にもとづいて作ってはいるんです」

岩上「さっきのところですが、労使共同決定-そのあとの8時間労働、ということになると、きっと見ているほとんどの方が、8時間労働って当たり前なんじゃないの?そんなものが歴史的に、ある時期に入れられたものなの?と、おそらくキョトンとする、びっくりするという人、けっこういると思うんです。世界で最初にやったのは、ウラジーミル・レーニン(※45)じゃないですか」

石田「まあ、そうですね」

岩上「だから時期的に」

石田「同じです。それは」

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▲十月革命でペトログラードの群衆を前に演説するレーニン(出典:WikimediaCommons)

岩上「第一次大戦の時に、ロシアが弱かったという話ですが、帝政期のロシアの兵士は戦意が高揚されておらず、やる気がなくて、ぐだぐだ負けていたと言われますよね。それで、革命がロシアでは勃発する。そして、レーニンはこの8時間労働をうたい、書き込むわけです。この書き込んだということもけっこう忘れられているんですね。多くの人が。それを敗者であるドイツもいわば真似たというか、追随したということでもありますよね」

石田「それはそうです。やっぱりあの頃、ドイツ社会民主党というのは、労働者の利益代表ですからね。当然、そういうことで、労働者の支持を得ようとします。だから、これは勝利なんですね、彼らにとっても。敗戦と引き換えに手に入れた。社会的秩序として、8時間労働とかそういうのが導入された」

岩上「労働者の保護ということですね」

石田「そうですね」

岩上「こういうことを、ドイツでは『背後からの一突き』っていうのですが、ソ連のボリシェヴィキ(※46)とつながっているとか」

石田「そうです、共同したところに。まだ話にはあまり出てきてないですが、共産主義者なんかが、この後どんどん批判されていくわけです。共産主義者による謀略とか、ソ連とつながっているとか、そういうようなことをもう右から嫌と言うほど言われるわけです」

岩上「なるほど。例えば、それが労働者の保護という話にも結びつく。今となっては普遍的な価値というか、もう当たり前すぎるほど当たり前なんですけど」

石田「はい。でもこの労働者の権利は、第一次世界大戦の犠牲のもとに成り立ったものなんですよ。やっぱり我々が享受している権利というのは、歴史的に作られたものだから、色んな背景で実現した。どういう犠牲があったか、それを振り返らないといけないと思います」

岩上「今も、建前として8時間労働が当たり前じゃないかと。それよりも働くんだったら、残業代を払うとか、そしてそれでも長時間になる場合は、これはもう身体を壊すからやってはいけないとかいう法律、労働三法(※47)とかあるわけですね。

 ところがそれらが今、空洞化しつつあり、長時間労働のはてに鬱になったり自殺したりしている。そういうことが指摘されるようになり、そういう企業が『ブラック企業』と当たり前に言われるようになってきているわけですけど、これも日本の中で、日本国憲法が空洞化しつつあること、平和主義が空洞化しつつあることと、労働者の権利の空洞化というのは、こういうものと照らし合わせてみると、実は何か、重なり合っている感じがしますね」

石田「だから8時間労働、あるいは労働三法とか、そういうことを良く思わない人たちの政治的な動きが、表面化して出ているのではないかなと思います」

岩上「なるほど。なかなか財界とか、資本家というものは、政治の表面に自分たち自身は顔を現さないけれども」

石田「それは、背後で色んな圧力をかけているのでしょう。労働組合だってそうですけれども、経営者団体だっていくらだってやっていますからね。それが歴史のなかで、こういうところで顔を出すってことだと思います」

岩上「なるほど。そういう意味では、本当に身近な話ですよね」

石田「そうですね」

岩上「歴史を振り返るっていうのも、やっぱり今日の我々の状況と照らし合わせないと駄目です」

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(※33)ヴァイマル共和国:1919年に発足して1933年に事実上崩壊した戦間期のドイツの政体。政治体制は1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。ヴァイマル共和政などとも訳される。

 ヴァイマル共和政におけるドイツの正式な国号は、社会民主党らが提案し、後に日本をはじめ他国の言語での翻訳でも実際多く用いられたドイツ共和国(Deutsche Republik)が拒否されたため、帝政時代からの正式な国号である ドイツ国(Deutsches Reich)が引き続き用いられた。首都も帝政期と同じくベルリンであり、ヴァイマルが首都であったわけではない(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1R7oAqo)。

(※34)皇帝はオランダに亡命し:第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝であったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ドイツ革命が発生すると、オランダへ亡命して退位することになった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29M3zZw)。

(※35)バイエルン王国:バイエルン選帝侯領を起源として、19世紀初めから20世紀初めまで存在したドイツ南部の王国。ミュンヘンを首都とし、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。

 ドイツが第一次世界大戦に敗れると、混乱の中で勃発したドイツ革命により、1918年にルートヴィヒ3世が退位し、バイエルン王国は滅亡した。翌年には社会主義者によってバイエルン・レーテ共和国が立てられたが短命に終わった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29M3zZw)。

(※36)ザクセン王国:1806年から1918年までドイツに存在した王国。前身はザクセン選帝侯領。1918年のヴァイマル共和国の樹立によって消滅した。首都はドレスデン。最終的な領域は現在のザクセン州の領域とほぼ同じ(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29Qj5C8)。

(※37)ブレスト=リトフスク条約:1918年3月3日に結ばれた条約。中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)とロシア共和国およびウクライナ人民共和国のボリシェヴィキ政府(ソ連の前身)とが講和を結んだ。この条約により、ロシアが第一次世界大戦から離脱することとなった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a2Dkuk)。

(※38)背後からの一突き:第一次世界大戦敗北後のドイツ国内において、主に右翼政党がヴァイマル共和政や左翼政党、ユダヤ人等を批判する際に好んで使った主張。

 この主張は右派や保守層に広く受け入れられ、休戦協定に調印したマティアス・エルツベルガーが暗殺されたことや、ドイツ国大統領フリードリヒ・エーベルトが裁判所において「国家反逆罪」を犯したと認定されたこと、そして共和政への不信感の遠因となった。

 ナチスにおいても公的な第一次世界大戦観として採用され、アドルフ・ヒトラーが政権を獲得する際にもこの主張は一役買うことになる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29YAfNx)。

(※39)ヴァイマル連合:1919年ドイツに成立したドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党の3派による連立内閣の呼称。ヴァイマル3派ともいう。これら3党は連携し、連合国に対して第1次世界大戦後の和平工作を行うとともに,ドイツ革命後の処理とワイマール憲法の制定にあたった(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2a7AxDb)。

(※40)護憲三派:第二次護憲運動を起こした立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の三政党のこと。政党内閣樹立や、普通選挙の実現、貴族院改革、行財政改革などを掲げた。

 大正13年(1924年)1月18日、各党の党首である高橋是清・加藤高明・犬養毅が会合した際に成立したが、翌年に革新倶楽部が立憲政友会に吸収され、さらに第一次加藤高明内閣の辞職の際に解消した。護憲三派と言われているが、この中で憲政擁護・普選実行を真正面から主張する資格があるのは、長年の野党暮らしをしていた加藤高明の憲政会だけであり、決して一枚岩ではなかった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29Mg6Iu)。

(※41)大正デモクラシー:1910年代から1920年代、大正年間にかけて起こった政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称。

 何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1vxTjmq)。

(※42)社会民主党:ドイツ社会民主党(ドイツ語でSozialdemokratische Partei Deutschlands、略称 SPD)は、ドイツの中道左派・社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟。中道右派のキリスト教民主同盟 (CDU) と並ぶ二大政党の一つである。

 度々政権を担当しており、ドイツ再統一後では1998年から2005年11月までは同盟90/緑の党と連立を組んで政権を担当し、2005年から2009年までと2013年以降にCDU/CSUと大連立を組んで連立与党となっている。

 ドイツ現存最古の国政政党であり、イギリス労働党、フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a3Qwkl)。

(※43)中央党:1870年12月13日にプロイセン王国議会の議員48名により創設された。ドイツのカトリック系政党。現在のドイツ二大政党の一角を占めるキリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟は、人脈的にこの政党の流れを汲んでいる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29KLAgA)。

  ドイツ民主党:ヴァイマル共和国時代のドイツのリベラル政党。帝政時代の進歩人民党と国民自由党の左派が統合されて1918年に創立された政党。第二次世界大戦の後、旧ドイツ民主党の勢力は自由民主党の創設に加わった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29KMdGT)。

(※44)第二インターナショナル:社会主義者の国際組織で、1889年から1914年まで活動した。1914年7月オーストリアがセルビアへ最後通牒を発し、その直後の7月29日ブリュッセルでインターナショナル事務局会議が開かれるが、8月9日にパリで大会を開催するというほか、何ら実質ある戦争抑止策は提案されなかった。

 傑出した雄弁家であり、国際主義者として信望を集め、ヨーロッパの平和を熱望していたフランスのジャン・ジョレスが暗殺され、第二インターナショナルを導きうる唯一の政党であったドイツ社会民主党は戦時予算の議決を棄権すべしという少数派を押し切り、8月4日のドイツ帝国議会において、戦争を支持し、政府に協力する「城内平和」路線へと舵をきった。フランス、オーストリアの社会主義者も同じ行動をとり、ここに第二インターナショナルは崩壊した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a7B7Rp)。

(※45)ウラジーミル・レーニン:ロシアの革命家、政治家。優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たした。史上初の社会主義国家であるソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。マルクス主義(共産主義)理論の研究と普及にも尽力し、後日、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられた。

 8時間労働制は、1870年代、ニュージーランド、オーストラリアの一部の州で、女性と年少者に限って八時間労働制を法定化しているが、二十世紀に入ると大きな国際的な流れとなって定着した。8時間労働の促進に大きな影響を及ぼしたのは、1917年のロシア革命で、レーニンの指導した革命ロシアは一九一七年、全労働者を対象にした八時間労働制を宣言(布告「八時間労働日について」)。これを契機に一九一九年、国際労働機関が創設され、八時間労働制が第一号条約として結ばれた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a7B7Rp)(しんぶん赤旗、2000年10月23日【URL】http://bit.ly/2a7B7Rp)。

(※46)ボリシェヴィキ:ロシア語で「多数派」をあらわす言葉。ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派を指す。ボリシェヴィキはメンシェヴィキ(少数派という意味)や社会革命党に比べ、実は少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。

 暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた。なおドイツではボルシェヴィズムス (Bolschewismus) は第一義的にロシアの共産主義者を指し、帝政ドイツからナチス時代には、ドイツの社会民主主義よりさらに急進的な過激派という意味でも用いられた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1MsWM1Z)。

(※47)労働三法:労働組合法、労働基準法および労働関係調整法の3つの法律をいう。憲法 28条の労働基本権の理念に基づいて制定されたもので、日本の第2次世界大戦後の労使関係を規定し、対等的労使関係の基礎となっている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a7QVna)。

現在の日本の参院選のように、当時のドイツでも野党共闘が求められていた~ドイツ社会民主党とドイツ共産党が手を組んでいれば、ナチスは抑えられた

石田「社会民主党は権力を自ら握るでしょ。それでヴァイマル共和国政府を担うわけですよ。1919年にフリードリヒ・エーベルト(※48)という社会民主党の政治家が大統領になり、首相も社会民主党から出る(※49)んですよね。

 そうすると秩序を維持するために、左翼革命勢力を押さえつけるんですよ。だから社会民主党が共産党を弾圧するっていうような、ローザ・ルクセンブルク(※50)とか、カール・リープクネヒト(※51)って有名な共産党の指導者が、このSPD政権の下で命を奪われていく、そういう対立がもうはじめっからあるんですよ」

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▲フリードリヒ・エーベルト(出典:WikimediaCommons)

岩上「なるほど。社会民主党(※52)という名前の政党が日本にもありますよね。福島瑞穂(※53)さんのいる。今、本当に厳しい選挙を戦っていて、もしかしたら党首と副党首である福島さん。党首である吉田忠智(※54)さんと副党首である福島さんの、お二人ともこの改選で落ちちゃうかもしれないところにいる。

 日本のあのちいちゃな社会民主党、それから日本共産党ですね、ドイツの政党と同じ名前の政党が日本にもありますけれども、これが当時のドイツにおける社民党と共産党とどう違うのか、そしてどういう点で同じなのか、これが分からない方がいらっしゃると思うのです」

石田「社民党という名前、つまりソーシャル・デモクラットですけど、実はこれ近代政党のなかで、もっとも歴史が古いのがドイツの社民党なんですよ」

岩上「そうなんですか」

石田「うん。これは18世紀の半ばにできて、ビスマルクの時代に弾圧されて、冬の時代を経験したあと」

岩上「でもその時、もう誕生していたんですね?」

石田「もう誕生していた。1890年に再結成して、それ以来ドイツの社会民主党というのは、世界の労働運動の中心にあったんです。ロシアで革命が起きる前は、ドイツが労働運動の社会主義運動の拠点だったんですよ。だからすごい伝統がある。今もありますよ。ドイツでは社会民主党は今はもうジリ貧ですけど、それでもかなり強い力を」

岩上「継続しているわけですね」

石田「今も大連合政権で、与党にもなって。社会民主党は、メルケル(※55)首相の時、ドイツキリスト教民主同盟(※56)、キリスト教社会同盟(※57)と連立しています(※58)けどね。非常に長い伝統があります。

 ドイツ共産党(※59)というのは、その中から生まれてきたものなんです。第一次世界大戦の時に、社会民主党は戦争に賛成したんですよ。それまでは反戦、戦争反対って言っていたのに本当に戦争が始まってしまうと、戦争のための国債を発行するのに賛成投票して、それで衝撃を受けた社会民主党の中の戦争反対派が抜けて、そしてやがて共産党を作るんです」

岩上「もっとラディカルなものが」

石田「急進左翼なんですよ」

岩上「急進左翼」

石田「ロシア革命(※60)が起きるでしょ。ロシア革命が起きてソ連に革命政権ができると、このドイツ共産党は次第にソ連の配下に入っていく。だからコミンテルン(※61)のコントロールを受けるようになっていくんですよ。政権の一翼を担うこの社会民主党と共産党との間の溝が、どんどんどんどん深まっていく。

 両方ともマルクス主義政党なんですよ、本当はね。言っていることはそんなに違わないんだけど、行動が全然違った。つまり共産党から見ると、社会民主党はこのようにヴァイマル連合といって、時にはブルジョア勢力とも手を結んだりする。国政を預かる以上は、そういう妥協もするでしょう」

岩上「暴力革命という形で体制を転覆をさせるのではなく、議会を通じて目的を達成しようとしていく」

石田「その通りですね」

岩上「社会主義化とか、労働者の権利を達成するとか。だから今日の日本で言えば、今、社民党は非常にちっちゃくなりましたが、それ以前は社会党(※62)がありました」

石田「そう。その役割を果たしていた」

岩上「社会党や、その後継政党である民主党、今は名前が変わって民進党あたりと似ていると」

石田「非常に似ています。やっぱり労働組合が主要な支持母体になっていて、労働者の利益代表だというような言い方が成り立つ。中央党というのは、実はこれ、カトリック政党なんです。

 カトリックっていうのは、ビスマルクのドイツ帝国の中では少数派で、弾圧されていた。これがむしろ良好な時には政権を担って、信仰の自由とかそういうことを言い始める。民主党っていうのはどちらかというとインテリの学者政党で、ここの人たちがヴァイマル共和国憲法を作ったんですよ。こういう構図があった」

岩上「今日の日本共産党は、このヴァイマルの時の分離したドイツ共産党とはやっぱり体質が違いますよね」

石田「日本共産党って1920年代、大正デモクラシーの時代に出てくるものですよね。戦前の日本の社会大衆党(※63)、社会民主党、ちょっと違うと思いますね。ドイツのこれらの政党のほうがはるかに左翼的なんです」

岩上「日本のほうがはるかに体制に迎合せざるを得ないというか」

石田「日本の共産党は孤立していたと思いますね、あの中では。やっぱり戦前の労働運動のあり方がドイツとはずいぶん違うので」

岩上「日本のほうが、圧倒的に弾圧されていましたね」

石田「なんと言っても、ドイツは労働運動がものすごく大きかった。労働者文化っていうか、独自の生活空間というか、図書館を持っていたり、色んな相互扶助組織を持っていたりとか、社会の隅々までそういうことがあって、そういう意味ではなくてはならない存在として、ドイツではもうすでに影響力を拡大していたわけなんです。

 この図、共産党、ナチ党 (※64)、ドイツ国家人民党(※65)、この3つでヴァイマル連合をとりまくように書いたのは、 このヴァイマル連合以外の政党、ここに挙げた三つの党がヴァイマル共和国を早く打倒したくてしょうがないということからなんです」

岩上「なるほど。この三つとも違う思惑で」

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石田「たとえば共産党はナチスと対立している。ナチスと共産党は全然正反対の政党だけど、でもヴァイマル共和国のあり方にはどちらも根本的に反対。共産党はもちろん極右を認めないですよね」

岩上「そういう意味では、戦後日本の議会主義を選び取った今の日本共産党の流れというより、むしろ新左翼(※66)に近い存在」

石田「そうかもしれませんね」

岩上「そうですよね。新左翼のようなイメージ。新左翼は議会を通じて、というよりは」

石田「もう行動」

岩上「行動主義だと」

石田「そうですね。そう言えるかもしれません」

岩上「当時のドイツ共産党は、ってことですね」

石田「それが、ヴァイマル共和国が発足した直後は、このヴァイマル連合はそれなりの大きさを持っていたんですよ。7割ぐらいですよ、最初は。1919年の1月の国会選挙で、大体この三党を合わせると70%を超える」

岩上「1919年ということは、つまり、ロシア革命直後ですね」

石田「ロシア革命直後、ドイツ帝国が崩壊し、新しいドイツが共和制になる時です。この三つが、ヴァイマル憲法を通して手を組んだ。ところがこの三党はヴァイマル憲法には初めっから反対なんですよ。反対投票しているんです。

 ナチ党はその頃はまだ小さい。ほとんど意味がないぐらい。共産党もその時は国会にまだ出てないんです。でも、その次の年になると、その間にヴェルサイユ条約(※67)が結ばれて、ドイツという敗戦国に強いられたこの講和条約が、ヴァイマル連合の屋台骨を崩していくんです。つまりなんであんな屈辱的な講和条約を、この政権が受諾したのかという。ヴェルサイユ条約の中身は、なかなか公開されなかったんですよ」

岩上「秘密条約だったんですか?」

石田「途中まで秘密で、中身が明らかになったのは5月頃です。国民としては反対だったんです。つまり第一次世界大戦はドイツのせいで起きたっていうような内容で、単一戦争責任条項が入っていたり、まだ具体的な額は決まっていなかったんだけど、巨額の賠償金を払えということだった。

 それからなによりも領土を割譲するという点。ドイツにとってそれは大きな人口、あるいは国土の四分の一ぐらいを失うような大きな損失。それを『敗戦国だから容認せよ』という。そういうとんでもないヴェルサイユ条約をこの連合が受け入れていくんです。これを受け入れないと、連合国が脅してくるわけです」

岩上「戦争を続けるぞ、と」

石田「そうそう」

岩上「続行だと、もう戦う力はないんですよね」

石田「ないんです。だからこれを受け入れたのは正しかったとは思うんですけれども、結局そういう国民の反発を利用して、帝政派がどんどん勢いを盛り返していく。

 今度は1920年、次の年になると帝政派の一部がクーデターを起こすとか、ヴァイマル連合政権を打倒するために実力で倒す、というクーデターが起きる。そこに極右の連中も絡んでくる。この帝政派と極右が徐々につながっていくんです。元々はバラバラで、一方がエリート主義で相手を嫌だと言っていても、だんだん手を組んでいく。

 ヒトラーは極右のナチ党にいたわけだけれども、彼は決して自分の力で大きくなったわけじゃない。いつでもサポーターを見つけ出して、そこから武器をもらうとか、色んな優遇措置を受けることができていた。

 この帝政派にしてみても、こういうナチのような政党がいたほうがいいわけです。彼ら帝政派は大衆にアピールする力はない。そういう手段を持っていない。ところがナチ党の人たちは何でもできる人なわけですよ。言ってみれば帝政派はエリートすぎて、街頭にも出たくないような人たちですよ。でもナチ党の人たちは街頭でやる。つまり役割分担し始めるわけです」

岩上「一方、極左の共産党と極右のナチ党は、しょっちゅう衝突を起こすわけですよね」

石田「そうですね。共産党とナチスはしょっちゅう衝突を起こします」

岩上「そして街頭で暴れまわるような、ならず者、あるいは肉体派の労働者、そうした人たちの気持ち、鬱憤、そういうものを行動によって代弁する。あるいは実際に人を集めたり」

石田「そうです。ナチスは当初は自分が権力を握るとは思っていないんですよ。むしろ権力のなんといいますか」

岩上「サポート」

石田「サポート。道を開くって言いますかね」

岩上「自分たちは突撃部隊だと」

石田「そうそう。それでやっぱりそうやっていても、お金が回ってくれば」

岩上「お金が入ってくる」

石田「入ってくるんです。そういう時代ですから」

岩上「貴族、あるいは資本家がお金を回してくる。スポンサーがいるわけですね」

石田「そうそう。そういうのに依存しながら、帝政派とナチスは仲良くなっていく。だから、そういう意味では本当に政治的な思惑がつながって、だんだんヴァイマル連合の力が小さくなっていく」

岩上「7割の支持があったのが、だんだん」

石田「今言ったように、ヴァイマル連合の支持率は1920年にはもう5割を切るんですよ。その後ずっと低迷していくんですけど。だけどワイマール連合はだいたい三分の一の支持率は必ずキープしている。だから憲法改正は、なかなかできない」

岩上「憲法の問題ですね。三分の一は絶対に」

石田「ワイマール連合がそのぐらいの勢力は絶対に持っている。社会民主党は最後に第一党の地位をナチに奪われますけど、最初からその時まで第一党なんです。首相も何人も出しています。だから社会民主党と共産党が手を組んでいれば、ナチスは抑えられたはずだと当時から言われた」

岩上「何かまさに、今の日本の状況みたいな」

石田「まさにそうですね」

岩上「今回の参院選で一人区に関して野党共闘ができた(※68)。四党の野党共闘といっても、社民党と生活の党はたいへん小さいですから、実質民進党と共産党の共闘ということが言われています。この野党共闘を安倍総理はものすごく攻撃して、民進党に一票入れたらもれなく共産党がついてくると、まさに安倍首相の反共演説(※69)を今、今日も昨日も明日もという感じでやっている。それとここの当時の社民党は、今もかもしれませんけど、日本の民進党とかそれ以前の社会党と」

石田「非常に近いです」

岩上「近いわけですよね。それと、このときのドイツ共産党は暴力路線(※70)だったんでしょうから、そういう意味では、今日の日本共産党と違うでしょうが」

石田「違いますね」

岩上「ドイツ共産党とヴァイマル連合の共闘ができると、帝政派とナチスにとっては大変思惑が外れるというか」

石田「そうです」

岩上「崩さないと」

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(※48)フリードリヒ・エーベルト:ドイツ社会民主党党首、ドイツ国(ヴァイマル共和政)初代大統領。新生の共和国を取り巻く困難な情勢の中、ミュンヘンの新聞が、ドイツが大戦に敗れたのはエーベルトらが「背後からの一刺し」を加えたからだ、と書きたてて訴訟騒ぎになった。

 むしろストライキを早期に済ませるために委員長を引き受けた、とエーベルトは抗弁したが、マクデブルク地裁の判事が、エーベルトはその時点では国家反逆罪だったと述べ、エーベルトに追い打ちをかけた。

 心労を重ねたエーベルトは医者の勧めを受け入れず、盲腸炎を悪化させ、1925年2月28日に腹膜炎のため54歳で死去した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29QBIpK)。

(※49)首相も社会民主党から出る:フィリップ・ハインリヒ・シャイデマンのこと。ドイツ社会民主党の議員として、第一次世界大戦後まもなく首相を務めた。ドイツ革命に際して、共和国設立の宣言を行った人物として知られる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1R7oAqo)。

(※50)ローザ・ルクセンブルク:ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。

 機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコールとの衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。

 死後多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29MIPeU)。

(※51)カール・リープクネヒト:帝国時代から共和国時代初期にかけてのドイツの政治家で共産主義者。1918年の大晦日にドイツ共産党を創設。1919年1月のスパルタクス団蜂起のさいに反革命義勇軍メンバーらにベルリンで逮捕され、「逃亡を企てたため」射殺され、遺体は川に投げ捨てられた。

 実際には、義勇軍リーダーのヴァルデマール・パプストにより処刑されたことが明らかとなっている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29MvHHY)。

(※52)社会民主党(日本):1996年1月に日本社会党が改称して発足した。継続して自社さ連立政権に参加したが、1998年5月に連立離脱。2009年に民社国連立政権に参加したが、2010年に離脱。

 歴代党首は、村山富市、土井たか子、福島瑞穂、吉田忠智(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29QD5oo)。

(※53)福島瑞穂:弁護士、政治家。社会民主党所属の参議院議員(3期)、社会民主党副党首・参議院議員会長。

 2013年7月25日、前年の第46回衆議院議員総選挙および第23回参議院議員通常選挙での敗北の責任を取り、2003年以来10年近く務めていた社民党党首を辞任した。

 党首辞任理由に選挙戦での敗北に伴う引責を掲げる一方で、兼任していた党の選挙対策の総責任者である社民党選挙対策委員長については留任した。2016年7月10日 第24回参議院議員通常選挙において再選を果たした(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2anCQzm)。

(※54)吉田忠智:参議院議員(1期)、社会民主党党首(第4代)。2016年7月14日、吉田党首が党常任幹事会で参院選での議席を減らした責任を取って辞任表明をした(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a105lE)。

(※55)アンゲラ・メルケル:2000年よりキリスト教民主同盟 (CDU) 党首。第8代ドイツ連邦共和国首相。ドイツ国内において、女性としては初の大政党党首・首相。現在、首相3期目(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29I4Pfd)。

(※56)ドイツキリスト教民主同盟:1945年に結成されたドイツ連邦共和国の政党で、キリスト教民主主義、自由主義、社会保守主義を基本綱領の中心に置く包括政党。略称はCDU。

 中道右派のキリスト教民主主義・保守政党であるとも理解されている。このキリスト教民主同盟と社会民主党 (SPD) がドイツにおける二大政党である。連邦議会では、バイエルン州のみを地盤とするキリスト教社会同盟 (CSU) とともに統一会派 (CDU/CSU) を組み、ドイツ社会民主党 (SPD) とともに、議会内で二大勢力をなしている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29JxvRa)。

(※57)キリスト教社会同盟:ドイツのバイエルン州を地盤とする地域政党。略称はCSU。ドイツで最も保守的な政党とされ、同国内では「CSUより右に民主的政党はあり得ない」(つまり、CSUより右は極右政党)と言われている。なお、「社会」とあるが社会主義政党ではなく、むしろ社会保守主義的な政党であるが、経済政策においては社会的市場経済を支持し発展させている。キリスト教民主同盟(CDU)とは姉妹政党の関係にあり、連邦議会では常に共同の統一院内会派(CDU/CSU)を組んできた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a7nz5y)。

(※58)社会民主党は、メルケル首相の時、ドイツキリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟と 連立しています:3期目となったメルケル政権では、メルケル首相率いるキリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟、さらに中道左派の社会民主党で構成された(CNN、2013年12月18日【URL】http://bit.ly/2a3J3BG)。

(※59)ドイツ共産党:かつて存在したドイツの政党。ドイツ語でKommunistische Partei Deutschlands、略称:KPD。主にヴァイマル共和政期のドイツで活動した。しかしヒトラー内閣成立後の1933年に解散させられている。第二次世界大戦後に一時復興したが、西ドイツにおいては1956年に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。東ドイツにおいては、終戦後の1946年に社会民主党と合併し、社会主義統一党となる。現在のドイツ共産党は、ドイツ語では Deutsche Kommunistische Parteiであり、略称はDKP。1968年9月に改めて合法政党として結成された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/20XuFMx)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a4P8g1)。

(※60)ロシア革命:1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命を意味する。

 ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現在のサンクトペテルブルク)で起きた労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命で、ソビエト革命あるいはボリシェヴィキ革命とも。

 ロシア革命という用語は、広義では1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1hc0alb)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1TDTTuf)。

(※61)コミンテルン:1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織。正式名称は「共産主義インターナショナル」。別名第三インターナショナル。「コミンテルン」は正式名称の共産主義インターナショナル、つまりロシア語でコムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール、英語で Communist Internationalの略称(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1hc1BA7)。

(※62)社会党:かつて存在した日本の政党。1945年に旧無産政党系の政治勢力を結集して結成された。

 1993年の第40回総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。

 閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山富市委員長は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。

 1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。

 政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権である村山政権が発足。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。

 1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。

 1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29QikVd)。

(※63)社会大衆党:昭和時代戦前期の日本に存在した無産政党で、結党は1932年。略称は社大党。

 なお、現在の沖縄県の地域政党・沖縄社会大衆党も「社大党」と略されるが、この社会大衆党とは関係がない。第二次世界大戦後に結成された日本社会党の源流の一つとなり、戦前に社大党選出の代議士であった三輪寿壮・河上丈太郎・西尾末広・浅沼稲次郎が戦後に社会党幹部となるなど、人脈的つながりがある(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a4YGHW)。

(※64)ナチ党 :国家社会主義ドイツ労働者党。国家社会主義ドイツ1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、1920年に改称した。指導者原理に基づく指導者アドルフ・ヒトラーが極めて強い権限を持ち、カリスマ的支配が行われた。1933年の政権獲得後、ドイツに独裁体制を敷いたものの、1945年のドイツ敗戦により事実上消滅し、連合国によって禁止された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/268BmhD)。

(※65)ドイツ国家人民党:ヴァイマル共和国時代のドイツの保守ないし右派政党。ドイツ国家国民党とも訳される。主な支持層はユンカー(裕福な地主貴族)や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョア政党」であった。

 ドイツ帝政の復活を求める復古派も多く、ヴァイマル憲法と共和制に反対していた。そのためドイツ社会民主党など穏健左派に支配されたワイマール共和国政府に対して基本的には野党の立場をとっていた。

 1933年6月27日、党首フーゲンベルクが閣僚職を辞任したのを機に、ヒトラーから圧力をかけられて党は自主解散させられ、党員はナチス党へ移るか政治から身を引くかを選ばされた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/268BmhD)。

(※66)新左翼:1960年代以降に欧米などの先進国と同様に、日本でも従来の日本共産党や日本社会党などを「既成左翼」と呼んで批判し、より急進的な革命や暴力革命を掲げて、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開した諸勢力が、特に大学生などを中心に台頭した。「新左翼」とは総称的な呼称で、多数の相互に批判し合う思想・立場・党派も含み、その定義や範囲は立場によっても変化する(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/268BmhD)。

(※67)ヴェルサイユ条約:1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約。ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されたことから、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。この条約および、諸講和条約によってもたらされた国際秩序をヴェルサイユ体制という。

 1918年になるとドイツの敗北は明らかになり、9月29日にスパで開かれていた大本営は、米大統領のウィルソンに講和交渉要請を決定した。

 交渉の末、11月11日に休戦協定が結ばれた。この休戦協定は占領地やアルザス=ロレーヌからの即時撤退を含む、抗戦継続を不可能にする大変厳しいものであったが、「十四か条の平和原則」と、1918年2月11日の「四原則」と「民族自決・無併合・無軍税・無懲罰的損害賠償」、9月27日の「五原則」を加えた「ウィルソン綱領」が将来の講和条約の原則となるとされた。

 休戦期間は1ヶ月とされており、ドイツ側の状況によっては期限満了後に更新されないことになっていた。ドイツ側では講和条約に対する反発が根強く、受諾への動きを見せたエルツベルガーですら、「悪魔の仕業」と呼んでいた。

 ドイツの大半は戦火に巻き込まれなかったため、ドイツ一般市民には敗北感が薄く、さらにヒンデンブルクが議会証言で、革命派による「背後の一突き」によってドイツが休戦に追い込まれたと主張したことで、「不当な休戦」によってもたらされた「過酷な講和条約」に対する怒りは、ドイツ国民間に広く浸透した。

 これを好機と見たヴェルサイユ条約の軍備制限に反対するヴァルター・フォン・リュトヴィッツ元ベルリン防衛軍司令官は、1920年3月13日にヴァイマル共和政打倒のクーデターを敢行するが、市民の支持は集まらず失敗した(カップ一揆)。

 しかし講和条約を受諾した以上、ドイツ政府は講和条約を実行する「履行政策」に勤めざるを得なかった。賠償金支払いは困難を極め、インフレがじわじわと進行した結果に賠償金支払いが滞り、フランスのルール占領を呼び込むこととなった。

 ルール占領によってインフレーションは破滅的な規模に拡大し、ミュンヘン一揆等、左右両翼の暴動・反乱が相次いだ。しかしグスタフ・シュトレーゼマン内閣以降はドイツ経済と政情も一時的に安定し、ロカルノ条約の締結と国際連盟加盟実現により、ドイツは事実上国際社会に復帰した。

 しかし世界恐慌以降は再び条約に対する不満が惹起され、ナチ党の権力掌握を招くことになる。エルツベルガーら休戦協定に署名した人物は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)等右派によって「11月の裏切り者」と非難された。

 1920年8月26日、エルツベルガーは極右テロ組織コンスルの手によって暗殺された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1gMiocm)。

(※68)今回の参院選で一人区に関して野党共闘が出来た:前回(2013年)の参院選では、1人区では野党各党の候補者が乱立したため得票が分散し、自民に有利に働いたが、今回の参院選前に、民進・共産・生活・社民の4党が、32ある改選議席1の選挙区(1人区)で事実上の統一候補を立て、選挙協力する見通しとなったと報じられた。

 これについて、前回参院選の得票数を今回の構図に当てはめて試算した場合、山形、栃木、山梨など7選挙区で与野党の当落が逆転するという予想がなされていた。

 結果としては全体的には与党に大きく水をあけられることとなったものの、「野党統一候補」を擁立した全国32の1人区では、11選挙区で与党に競り勝つという結果となった(The Huffington Post、2016年5月24日【URL】http://huff.to/29Zxrzk)(参考:朝日新聞【URL】http://bit.ly/29XHMMS)。

(※69)安倍首相の反共演説:2016年6月12日、長野県飯田市で行われた街頭演説などで、安倍首相は民進党と共産党をともに批判している。

 「野党共闘」の動きが現実味を帯びてきた2016年3月、安倍政権は「共産党は破防法対象」とする政府答弁書を閣議決定。自民党も「民共合作」のビラを作製し、共産へのネガティヴキャンぺーンを展開してきた。背景には共産党の議席数が過去最高になっているなど、共産党の躍進を警戒する動きがあるとされている(日刊ゲンダイ、2016年6月14日【URL】http://bit.ly/29TGhex)。

(※70)このときのドイツ共産党は暴力路線:できたばかりの共産党は、暴力的革命の道を選び始めた。

 1919年1月5日から1月12日にドイツで起きたロシア革命の再現を狙ったスパルタクス団と呼ばれる共産主義者によるワイマール共和国政府への暴力蜂起はよく知られている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/20XuFMx)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a84Ib3)。

反ファシズムのために野党共闘を訴えたアインシュタインたち~短期決戦なら中国相手に戦争しても大丈夫という保守派の考えは非常に危険

石田「面白いのが実はこの野党共闘、かのアインシュタイン(※71)が熱烈に支援していたというんですね」

岩上「アインシュタインが!?」

石田「僕は、これは見落としてはならないことだと思います。『ヴァイマル共和国末期(1932年)に野党共闘を求めるアピール』というものがあるのですが、1932年の7月にナチ党が第一党になる選挙が行われます。

 その7月の直前にヴァイマル共和国末期、1933年にヴァイマル共和国が一応終わるんですけど、著名な芸術家、学者らが野党共闘を求めている。

 このメンバーの一人にアインシュタインがいます。それからケーテ・コルヴィッツ(※72)、ドイツではとっても有名な芸術家ですよ。彫刻家ですよね。ハインリヒ・マン(※73)は、トーマス・マン(※74)のお兄さんですよね。マン卿。ケストナー(※75)は文学、有名な児童文学の作家。つまり、こういう文化人、芸術家、33名による緊急アピールっていうのが出ている」

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▲アルベルト・アインシュタイン        ▲ハインリヒ(左)、トーマス・マン兄弟

 

岩上「今日の文脈(共産党を含んだ野党共闘が求められ、右派からは警戒されている現在の日本の政治的状況のこと)では日本人に分かりやすいですよね」

石田「まさにその通りです。社会民主党はこのとき下野していますので。そういう意味で」

岩上「パワポに示された『ヴァイマル共和国末期(1932年)野党共闘を求めるアピール』を読みましょうか。『個人の自由、政治的な自由がいまドイツでは根絶やしにされようとしている。もし最後の瞬間にいたっても、反ファシズムで一致する全勢力が、これまでの原則対立を脇に置いて、一つにまとまることが出来なければ、全ての自由が失われるだろう』と。

 これはね、今日本人は聞いておいたほうがいいですよね。『一つになるための目前のチャンスは7月31日だ』。おお、7月だったんですね。今回の参院選も7月10日ですよ、みなさん。『そのチャンスを活かし、統一的な労働者戦線に向けて一歩を踏み出すことが大切だ。統一的な労働者戦線は、議会だけでなく、その他全てを守るために不可欠である。

 我々は、この確信を共有する全ての者に次の選挙で、社会民主党と共産党の共闘が成立するのを助けるべく、この緊急アピールを発する。最善策は、二党の統一候補者リストだが、せめてリスト協力が実現するよう望む。

 政党だけでなく、大きな労働者組織の中で、およそ考えられる全ての影響力はこのために行使されねばならない。どうか、天性の怠慢と臆病な心のせいで、我らが野蛮の中に沈み込むことのないようにしよう』。

 すごいアピールですね。そして、びんびん響きます、今の日本において。『最前策は、二党の統一候補者リストです』って。これは」

石田「まさにそう言っている」

岩上「ねえ。一人区では、野党共闘できたけれども、統一名簿もつくれず、複数区での共闘もできませんでした。一生懸命アピールしてきた知識人のうち、憲法学者の小林節(※76)さんの果たした役割などもとても大きいんですが、小林節さんも野党共闘はもう無理だと諦めて、もうこうなったら自分でやるしかないと言うんで、『国民怒りの声(※77)』を作られたりしている。

 結局それぞれが競い合うような状態に、いま日本はこの参院選に関してはなっちゃっているんですけど。この切迫感、本当にぎりぎりですよ。日本はできるだけ切迫感が感じられないように、メディア・コントロールがなされていますけど」

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▲小林節氏

石田「されていますね」

岩上「当時のワイマールの人たちはどうだったんでしょうか。これだけ言われれば、やっぱり切迫感がひしひし伝わるんですけど、日本のように、うまく矛先を逸らし、娯楽やゴシップで、みんなの気持ちがそれ、この間、清原(※78)、舛添(※79)さん、そういう話で、正月からずっとそうなんですよ。ゴシップばっかり」

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▲舛添要一氏

石田「ほんとですね」

岩上「あるいは、ゲスの極み乙女(※80)とかね。そういう話だけですよ。で、気をそらされて、本当に大切な6ヶ月と7ヶ月とかの時間を、失ってきている(※81)。ヴァイマルの時にはどうだったんですか?もっともっとみんなが政治に関心あったんですか?」

石田「今の日本と同じような状況ありました。ヴァイマル文化(※82)っていう、それは立派な文化が。色々あるんですが、みなが政治のことをそれだけ注視していたかというと、そうとは一概にはいえない。ただやっぱりもう一つは」

岩上「知識人は気づいていたけど、大衆まで届いていたのかどうか」

石田「この二つの政党、ドイツ社会民主党とドイツ共産党の共闘というのは、今言った歴史的経緯を考えると、本当に難しかったと思うんですよ。

 当時の共産党は完全にソ連のコントロール下にあって、そして共産党は社会民主党を『ファシスト』と呼んでいた。『社会ファシスト』といっていたのです。お互いの信頼関係がまったくない。

 このアピールは本当に絶望的なアピールだったと思います。でも、学者や芸術家たちはやっぱりこのアピールを出した」

岩上「ドイツ共産党にも問題があって、特にソ連共産党そのままであるなら、それはもう本当に暴力的な政党だろうと。だけど、ファシストが立ち上がってきたらその比ではないからと」

石田「そう。そういう判断です」

岩上「そういうことにアインシュタインらは気づいていた」

石田「アインシュタインはユダヤ人なんですよ。そういう立場だから、差別がどんどん強まっているわけですよね。ナチスが強くなるってことは、ユダヤ人に対する嫌がらせやらなんやらが、もう具体的な形で迫ってきているわけですよ。

 選挙公約や党の綱領の中に、『ユダヤ人を追放する』と書いてあるわけですから。ヘイトスピーチも公然とやっているし、それだけじゃなく暴力もいっぱい引き起こしているわけですね」

岩上「アクションがあるわけですよね」

石田「そうそう。そういう状況の中でこう言っている。でももしアインシュタインたちの言う、このアピールがきっちり実践されていたら、世界は変わっていたと思いますよ」

岩上「本当ですね」

石田「結局アインシュタインの危惧は的中し、1933年に彼はアメリカに亡命します。その後、ユダヤ人の最終的な大虐殺、ホロコーストが起きますが、そういう意味で彼は将来を見ていたわけです。

 私はやっぱりこういうのはなんて言うか、このアピールは歴史の中では選択されなかったオプションなわけですが、今、我々がこのアピールとその経緯、歴史を知っている以上、同じような事態にならないように、何をすべきか考えないといけないんじゃないかと思います」

岩上「野党共闘を進め、決して乗り気ではない民進党の背中を押し、部分的な野党共闘ができたのは、やっぱり市民連合(※83)とか、その中に加わっているSEALDs(※84)、安全保障関連法に反対する学者の会(※85)や、ママの会(※86)、その他のみなさん。あるいは市民連合とはまた別の市民の動きが、かなり背中を押してきたと思うんですよ。

 そういう中で安全保障関連法に反対する学者の会があり、この学者の会の人たちがたくさんのアピールを去年の安保法制時にされた。たくさんの人が署名され、1万人ぐらいいますか。日本にはこんなに大学の先生がいたのかと思うぐらいいらして、そういう声を上げた。安保法制については素晴らしかった。

 ただホップ・ステップ・ジャンプのような形で、まず特定秘密保護法(※87)がやられ、そして、安保法制、集団的自衛権(※88)がやられ、今度明文改憲がやられようとしているというのは、もう完全に地続きです。

 しかもそこには毎回選挙が絡んできて、選挙の時にはそうした本当の争点は言わず、アベノミクスだと言っておいて、ふたを開けるとすぐに秘密保護法をやり、という形できたわけです。ホップ・ステップには、みなさんすごくビビッドに反応されたと思うんですけど、最後の仕上げの明文改憲には十二分に注意が払われていない。安保法制のほうが、はるかに盛り上がりがあったというのが私の懸念というか」

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▲SEALDsによる国会前抗議の様子

石田「そうですね」

岩上「不安とか。なぜ届かないんだろうというもどかしさでもあったんですけれども。先生いかがでしょう、なぜもう一歩届かないのかなと」

石田「去年の夏から秋にかけての安保法制、私自身も関わっていましたが、あれから時間が経つなかで、多くの人がすでに忘れてしまっているというか。日常のなかで、そんなにもう現実的なものでないように感じている人が増えてしまったんじゃないかなと思いますね」

岩上「緊急事態条項というのは、ある程度、歴史を知っているとか、あるいは法律的な知識があるとか、そうでないとなかなか理解できないという・・・」

石田「そうですよね」

岩上「緊急事態条項についてのドイツの歴史を知っていれば、まずいんじゃないかって気がつくんじゃないかと思うのですが」

石田「そうですね。だからドイツの歴史というのは、ドイツという国の歴史であり、また同時にドイツという文明国の失敗の歴史なんです。その失敗のせいでたくさんの犠牲が出た。これはもう人類の不幸の歴史だったわけです。そこから学ぶのはその後に生まれた人間にとっては義務というか、同じことを繰り返しちゃいかんですよ」

岩上「ドイツの悲劇に学ぶと」

石田「そういうことです」

岩上「『ドイツの失敗に学ぶ』でなくちゃいけないはずなのに、(麻生太郎副総理は)『ドイツの手口に学ぶ』なんですよ」

石田「だからもう根本的なところで」

岩上「全然違う。ところが『ドイツの手口に学ぶ』人たちのほうが、先に進行しているのに、それに対してカウンターをしなきゃいけない『ドイツの悲劇に学ぶ』人たちの数があまりにも少ない。もっともっと先生の本を買っていただいて、多くの人に読んで、広めていかなきゃいけないなと思うんです。あと10日しかないですよ」

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(※71)アルベルト・アインシュタイン:ドイツ生まれのユダヤ人の理論物理学者。

 特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理などを提唱した業績により、20世紀最大の物理学者と呼ばれる。光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞。アインシュタインは数々の政治的発言を行っている。

 第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えた。

 しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言し、同時代人の文学者ロマン・ロランから後に痛烈に批判されている。

 また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命している。一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解も広く存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない。

 なお、アインシュタインはアメリカに滞在中の湯川秀樹のもとを訪ねた折、「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった。こんな私を許してください」と激しく泣き出すと、深々とお辞儀を繰り返したという逸話がある。

 この姿を見た湯川は、「学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はない」という考えに至り、世界平和のための運動に力を入れるようになったという(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1LefBXr)。

(※72)ケーテ・コルヴィッツ:ドイツの版画家、彫刻家。周囲にいた貧しい人々の生活や労働を描いたほか、自分自身の母として・女性としての苦闘を数多くの作品に残した。

 ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチス・ドイツという揺れ動く時代を生きた、20世紀前半のドイツを代表する芸術家の一人。社会主義運動や平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命後わずかな間存在した社会主義政府の労働者芸術会議に参加するなどの活動を行っている。

 1933年、ナチ党の権力掌握とともに「退廃芸術」の排斥が始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員や教授職から去るように強制された。彼女は最後の版画連作『死』および、母と死んだ息子を題材にした彫刻『ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後は展覧会開催や作品制作など芸術家としての活動を禁じられた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1LefBXr)。

(※73)ハインリヒ・マン:ドイツの作家、評論家。弟は作家のトーマス・マン。ナチスの勢力が大きくなってくるとハインリヒは警告を発したが、1933年にナチスが権力を掌握するとハインリヒはアカデミーを追放され、フランスへ脱出した。この時ナチスが行った焚書にハインリヒの著書も含まれており、続いてドイツ市民権も剥奪された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29UETeM)。

(※74)トーマス・マン:ドイツの小説家。処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。

 その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞した。

 1933年にナチスが政権を握ると亡命し、スイスやアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマールのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29UG3a3)。

(※75)ケストナー:ドイツの詩人・作家。辛らつで、皮肉の強いパロディや、厭世的でシニカルな作品を多く発表する。

 『エーミールと探偵たち』などで知られる。自由主義・民主主義を擁護し、ファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。

 ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。

 ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取る相手としてはケストナーには人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、変名でケストナーが脚本を書いた映画『ほら男爵の冒険』を制作したりしている。

 なお、ベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点がなく、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29SZJK3)。

(※76)小林節:法学者、弁護士。専門は憲法学。慶應義塾大学名誉教授。小林氏は2015年6月の衆院憲法審査会に参考人として出席し、集団的自衛権の行使を認める安保法制を「違憲」と指摘した憲法学者の一人。

 2015年10月21日、東京・千代田区の霞ヶ関コモンゲート西館にて、被災者支援に携わる有志弁護士の会が主催する『災害対策を理由とする【憲法改正】についての報道及び関係者向け意見交換会~緊急事態条項「国家緊急権」の創設は必要か~』が行なわれ、小林氏は日弁連災害復興支援委員会前委員長である永井幸寿氏とともにゲストに招かれ、熱い議論を繰り広げた。

 議論の終わりで、小林氏は永井氏の言い分を全面的に受け入れ、国家緊急権は必要ない。特に今の権力に渡してはならないという趣旨のコメントをして話題になった。

 2016年5月9日に政治団体・国民怒りの声を設立、代表を務めたが、2016年7月の参院選で議席獲得に至らなかったことなどから、小林氏は離党を発表した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1kqswcX)(参考:IWJ【URL】http://bit.ly/1WlFoAa)。

(※77)国民怒りの声:2016年5月9日、小林節氏は記者会見を開き、新党を立ち上げたことを宣言。

 基本政策は1言論の自由の回復(メディア、大学への不介入)、2消費税再増税の延期と行財政改革、3辺野古新基地建設の中止と対米再交渉、4、PP不承認と再交渉、5原発の廃止と新エネルギーへの転換、6戦争法の廃止と関連予算の福祉・教育への転換 / 改悪労働法制の改正等により共生社会の実現、7憲法改悪の阻止。

 小林氏のほか、元民主党副代表である円より子氏、元衆議院議員の橋本勉らが所属し、2016年7月の参院選では10人が出馬したが、議席獲得には至らなかった。

 代表の小林氏が離党し、党名も「国民の声」に変更されると報道されている(参考:田中龍作ジャーナル【URL】http://bit.ly/29XTyXQ)(参考:読売新聞【URL】http://bit.ly/29Tf0im)(J-CASTニュース、2016年7月19日【URL】http://bit.ly/29ULiGY)。

(※78)清原:元プロ野球選手、野球評論家、タレントの清原和博氏のこと。2016年2月3日、マンションの自宅にて覚せい剤取締法違反(所持)で現行犯逮捕された。この前後、清原氏の動向についての報道が過熱した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1tvQKqb)。

(※79)舛添:国際政治学者で元政治家、前東京都知事である舛添要一氏のこと。

 2016年5月13日に、国会議員のときに家族と宿泊したホテルの部屋の料金を、政治資金で支払ったこと等について会見を開き、「旅行先ホテルで事務所関係者らと会議をした。家族で宿泊する部屋を利用し誤解を招いたので(支出分を)返金する」と弁明し、謝罪している。

 都議会では6月13日までに自民党除く7会派が不信任案提出し、6月14日には自民党も不信任案を提出する方針を固め、舛添氏は辞意を表明した。問題が旅行に限らず、あまりにも多岐にわたるものであったため、報道が過熱し、ネットは炎上し、舛添氏についての激しい追及が続き、ほぼ四面楚歌となった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1qQWyJ7)。

(※80)ゲスの極み乙女:日本のロックバンド。作詞・作曲・ボーカルを担当する川谷絵音とタレントのベッキーとの不倫が報じられると、ネットは炎上。ワイドショーやネットニュースは連日この話題でもちきりとなった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1qQWyJ7)(日刊スポーツ、2016年5月9日【URL】http://bit.ly/29MQzOD)。

(※81)本当に大切な6ヶ月と7ヶ月とかの時間を、失ってきている: 2016年6月14日、参議院議員の山本太郎氏は東京・渋谷で、7月10日投開票の参議院議員に出馬した三宅洋平の応援演説を行った。

 このなかで、山本氏は、世間を騒がせている舛添要一都知事の公私混同疑惑について、政権与党によるスピンコントロール(目の前にある本当に解決しなきゃいけない問題に煙幕を張る一種の隠ぺい工作)であると語っている(デイリースポーツ、2016年6月14日【URL】http://bit.ly/26csesp)。

(※82)ヴァイマル文化:ヴァイマル共和政期(1918年の第一次世界大戦終結におけるドイツの敗北から1933年のヒトラー政権成立まで)に叢生した諸文化の勃興。

 しかし保守派やナチ党といった右派は、これらの文化の多くを「退廃的」とみなした。1933年のヒトラー政権成立に伴い、これら「退廃的」な文化の担い手は、表現を変更してナチスに迎合するか、もしくは迫害、亡命の選択を迫られた。

 アメリカ合衆国やイギリスなどへの亡命者はユダヤ人、非ユダヤ人を問わず多い。国内に留まった者は活動を禁止されたり、ひどい場合は強制収容所に入れられる者もいた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29MQzOD)。

(※83)市民連合:安保法制に反対する市民団体が2015年12月20日、来年夏の参院選に向け、安全保障関連法廃止を訴える野党統一候補を支援する目的で設立。

 安保法制に反対する学生グループ「SEALDs」「ママの会」「学者の会」「立憲デモクラシーの会」「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」5団体の有志が呼びかけて発足した。

 団体の正式名は「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」。IWJではこの時に行われた、会見の模様を取材。現在もそのハイライトを公開している(IWJ、2015年12月26日【URL】http://bit.ly/2afWOi7)。

(※84)SEALDs: 自由と民主主義のための学生緊急行動(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)。メンバーの多くは十代後半から二十代前半の若者であり、所属する学校は多様。

 特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認によって日本国憲法の理念が危機に瀕しているとして、立憲主義に基づかない政治に対して反対の姿勢を打ち出し、国家による社会保障の充実と安定雇用の回復を通じた人々の生活の保障や、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求める。すなわち立憲主義、生活保障、平和外交を掲げるリベラルな政治勢力の結集を求めている。

 前進団体はStudents Against Secret Protection Law、(略称SASPL)であり、特定秘密保護法に反対する学生有志の会とも呼ばれていた。IWJも折にふれてSEALDsの活動を取り上げている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1hOriH3)(IWJ【URL】http://bit.ly/24Q9L2p)。

(※85)安全保障関連法に反対する学者の会:第3次安倍内閣によって進められている平和安全法制に反対することを目的として、2015年6月に結成。2015年9月25日に会の名称は安全保障関連法案に反対する学者の会から安全保障関連法に反対する学者の会へと変更された。

 団体の呼びかけ人は、大学教授や弁護士などといった学者で、平和安全法制は違憲だと主張。憲法9条のもとで持続してきた平和主義を捨て去る暴挙であるとも主張されている。2015年12月21日には、他の安全保障関連法に反対する複数の団体と「安全保障法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」を結成した。

 2016年7月10日現在、同会のホームページでは同会のアピールに賛同する学者は14,000人を超えていると記載されている。

 IWJは折に触れて同会の活動を取材し、現在もシンポジウムなどの動画を掲載している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29ZS4vn)(参考:安全保障関連法に反対する学者の会公式ホームページ【URL】http://bit.ly/29U5QMj)(参考:IWJ【URL】http://bit.ly/29Y1Fno)。

 IWJでは「学者の会」から寄稿を募り、IWJのホームページに掲載した(安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ【URL】http://bit.ly/1Dctmg0)。また、現在も「改憲への危機感」に関して、市民からの寄稿を募り、IWJのホームページに掲載している(「国民投票」で自民党改憲草案が現実に!? みんなで語る「改憲への危機感」~寄稿文特別掲載!【URL】http://iwj.co.jp/wj/open/consti-msg)。 

(※86)ママの会:2015年7月4日、京都で乳幼児を育てるママたちが中心となって発足。発起人は西郷南海子氏。IWJも折に触れて、彼女たちの活動を報じている(参考:ママの会公式ホームページ【URL】http://bit.ly/2a8ozXv)(IWJ【URL】http://bit.ly/29Y2rk1)。

(※87)特定秘密保護法:正式名称は特定秘密の保護に関する法律。日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を「特定秘密」として指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則を定めたもの。2014年(平成26年)12月10日に施行された。法施行5年後の見直し規定を盛り込まれている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/KOiLDi)。

(※88)集団的自衛権:ある国家が武力攻撃を受けた場合に、直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利。その本質は、攻撃を受けている他国を援助し、これと共同で武力攻撃に対処できるところにある(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1iJbFyR)。

プロイセンのモデルを継承した大日本帝国~第2次世界大戦は、旧ドイツと新ドイツが手を結んで世界に挑戦したという側面も

石田「もう一つだけいいですか。アインシュタインはアメリカに行きましたよね。アメリカに行って、彼は第二次世界大戦の戦争を一時的にだけど賛同している。相手がナチだからです。しかし、戦後悔やんでいます。

 それから、アインシュタインは直接原爆の開発に関わったわけじゃないが、あの有名なルーズベルトへの手紙(※89)を書いています。

 つまりアインシュタインはヒトラーが政権を取ったためにドイツから離れざるを得なかったわけです。だからこそアメリカに行った。そしてユダヤ人の虐殺がヨーロッパで起きていることを聞き、そういう原爆の開発を側面から刺激するようなことを言う。その原爆はどこに落とされたか」

岩上「日本ですね」

石田「そうですね。ヒトラー政権が生まれていなかったら、あんな短期間にアメリカで原爆の開発が進むことはなかった。いろんな偶然が重なって日本に落ちた。

 でも、アメリカは早い段階で日本に落とす可能性を示唆していたらしいですから、必ずしもドイツが5月に終戦になったから日本に落ちたとは言えないかもしれないけど、でもあれだけ急速に核兵器の開発に向かったのは、ヒトラー政権が生まれたからです。だからこれはドイツだけの問題ではない。日本にだって関係あるんですよ」

岩上「日本は世界大戦を本気で戦ったわけですが、世界大戦というのは、米国という、覇権国相手に戦争するといった大冒険ですから、自分が同盟を組める相手がいないとそうそうできることではありません。

 ソ連があり、中国があり、アメリカがあり、イギリスがありというような状態のなか、わざわざナチス・ドイツと同盟を組んで三国同盟(※90)を結んだ。ドイツ、イタリア、日本。ファシスト2国と日本もファシズムですよね。軍国主義、天皇制ファシズム。それと手を結び合わなかったらそういうことにならなかった」

石田「そうですよ。なってないと思います」

岩上「わけですね」

石田「やっぱりあそこで間違いがあったんですよね」

岩上「もうひとつ言うなら、日本の天皇制ファシズムについてですが、天皇制自体は非常に古い歴史があるかもしれませんけれど、実際の近代国家としての日本、明治憲法下の日本というのは、プロイセン憲法(※91)をモデルにしました(※92)」

石田「そうです、その通りです」

岩上「つまり先ほど帝政の話がありましたが、あの帝政派の古いプロイセン(※93)のモデルが日本に温存され、それで旧ドイツ(プロイセンの体制をまねた日本)と新ドイツが手を結び合って、世界に対して大戦を挑んだという言い方もできるわけですよね」

石田「できるかもしれませんね。いやだからプロイセンの法律に戒厳令がある(※94)んですよ。それで大日本帝国憲法にも、天皇は戒厳令を出せると書いています(※95)よね」

岩上「国家緊急権が認められてしまっていた」

石田「そうですよね。だから、戦前の日本の政治システムというのは、岩上さんのおっしゃるとおり、帝政期のドイツを継承しています」

岩上「その帝政期のドイツ、ビスマルク(※96)の統治のもとでも社会民主党が、つまり後のヴァイマルにつながる動きが生まれていたんでしょうか。しかし日本では、そうした動きは弾圧され続け、もっとも古い強権的なシステムがそのまま温存してしまったしたということですかね」

石田「ビスマルクの時代に社会民主党は弾圧されています。社会主義者鎮圧法(※97)って。ビスマルクが失脚した後、完全に自由になってきて」

岩上「復活してくるわけですね」

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▲オット―・フォン・ビスマルク(出典:WikimediaCommons)

石田「それは、ヴィルヘルム2世(※98)のせいなんですね。1890年以降は社会民主党が再建されて、もうかなり自由に出てくるんですよ。

 でも第一次世界大戦が始まると、また戒厳令ですからね。自由な活動ができなくなって、第一次世界大戦中の社会主義者なんかは監獄に入れられています。だから日本が戦前に復帰することを望んでいる人は、戦前のドイツ帝国と同じような道に進もうとしているんでしょうかね」

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▲ヴィルヘルム2世(出典:WikimediaCommons)

岩上「そういうことなんだと思うんですよ。戦前に回帰したいという人の願望は、プロイセンのドイツ帝国に回帰したいというという願望につながる。それはヴァイマル共和政を終わらせ、ドイツ帝国復活を求める人にヒトラーやその同盟者の支持者に重なりますね。今の安倍政権は、日本会議とかそういう人たちに支えられているわけですが、そうした主張をする人たちは、もちろん前回の戦争で『負けていない相手』、戦う相手として中国を念頭に置いているわけです。

 でも中国と戦争をやって勝てるわけないじゃないですか。だって向こうは核を持っているわけですから。それから中国はこの前の戦争をした時のようなまでの貧しい国じゃないわけです。もう経済では日本のGDPを追い抜いているわけですから。

 OECD(※99)の予測によると2030年に中国は世界のGDPの30%を占め、日本は3%。10倍規模の差が出る(※100)。これって第二次大戦前の日本とアメリカの経済力の比較、あるいは軍艦の比率みたいなものです。将来は勝てないが、だけど今なら勝てるという気持ちを、第二次大戦前、日本はアメリカに対して思っていました。

 今度は、中国に対して将来はもう勝てない、だけど今なら勝てると。核ミサイルはともかく、まだ局地的な戦闘能力だったら勝てるんだと言っているわけです。例えば日本会議の言っていることを支持するような、ネトウヨさんたちの書いていることで、軍事に関わることといったら、自衛隊がぴかぴかで、海戦とか空戦の非常に狭い領域の武器規格だったら勝てる、みたいなことを言っている。それもどんどん怪しくなっていっているんですが。

 というのは、向こうもスホーイ社の第五世代戦闘機(※101)なんて入れているんですから。正面装備でももう勝てなくなりつつある。それなのに、長期的な大戦争だったら国力の差が出て勝てないけど、短期ならやれる。一撃食らわす。一撃を食らわすと、相手はキューっと言って、戦意喪失すると。そこで講和を求めると」

石田「それは戦前の帝国主義ですね」

岩上「そっくりですよね。昔と言っていることが」

石田「アナクロ以外のなにものでもない」

岩上「全然勉強していないんですよ。第二次大戦、アメリカに宣戦をするというときに、山本五十六(※102)が、『大丈夫か?』と言ったら、『1-2年暴れてみせるけど、その後講和しないと』と。それぐらいしか持たないよと言っていたわけですよね。実際、持たなかった。

 これはもう、中国を相手にしても持つと思っているわけじゃない。ただ一撃食らわすと、相手がキューとなって和睦となるだろう。そしてその後は、中国に威張らせない。日本がずっと威張り続けられるって。隣の国ですよ。その向こうがキューってなるってことを想定すること自体が。1930年代、中国に対して中国一撃論(※103)というのがありましたよね」

石田「ありましたね」

岩上「あの時も言っていましたよね。あるいは暴支膺懲(ぼうしようちょう)(※104)。暴れるシナを懲らしめてやると。それで一撃食らわしたら中国軍は引っ込んでいく。だけどそれは持久戦に誘われていただけ、というようなことがありました。

 だから一撃論も暴支膺懲も全部間違いだったんですけど、そういう過去の戦略的な間違いをまったく考えず、同じ南西諸島を舞台に、短期決戦、限定された戦域で、使われる武器も限定されている、巌流島のような決闘をやれば、キューっと言わすことができるっていう論理が、それこそ大衆右翼主義みたいなところで、今広がっているんです。

 これは幼稚ですよ、本当に。それで、アメリカがついてきてくれるだろうと。でも、だいぶ怪しくなってきたんで、アメリカはついてこないんじゃないのっていうところに、だいぶ皆さん気がついてきてはいるんですけど」

石田「いやその話は本当に恐ろしいですね。そういう考えをする人がいるかもしれないとは思いましたけれども、そんなに数が多くて、今の安倍政権を支えているとは」

岩上「国会議員の中にもね。そんな程度の理解の人がゴロゴロいますし」

石田「もっと過去の歴史を学ぶべきですね。そういう考えがどのような事態につながるのかという過去の事例がいくらでもあるじゃないですか。だいたいそんな国際紛争を、戦争を通して解決をするなんていうことが今の21世紀によく堂々と言えるなと。普通のまともな人ならそういうこと言わないし、そういう事態になること自体、政治家として失格です」

岩上「そうですね。第二次大戦後を見ると、紛争当事国になった国って、弱小国じゃないですか。つまり本当に巨大な国は自分で手を汚さずに代理戦争をさせる。だから日本が中国ともめるということは、そういう代理戦争をする属国、非常にランクの低い国になってしまうわけでしょ。

 それで自ら憲法も変えて、国民主権から基本的人権から、民主主義というもの、立憲主義というものも全部否定して、ファシズムのような体制にして、ケンカを売ったあげく、ボロボロになって。仲裁されたとしても日本はその時もう、ぼろぼろになっている」

石田「同じ過ちを二回繰り返すのかということですね」

岩上「ドイツは二回やったし、日本ももう一度やらないと分からないと白井聡さんや内田樹(※105)さんなんかがおっしゃっていたけど 、そう考えると」

石田「あまりにも、恐ろしいというか」

岩上「そういう意味では帝政の考えを持っていた人が残存しているヴァイマルと似ている。今日の孫の世代まで、たとえば岸信介(※106)の考えを孫の安倍晋三さんという人が引き継いでいるというところも、非常に似通っているんじゃないかという」

石田「それはそうだと思いますね。やっぱり今、このヴァイマルの末期の状況、まだもう少し」

岩上「そうですね。話をそっちへ戻そうと。そっちのレジュメを出しますか」

石田「そうですね」

岩上「わかりました」

石田「国家緊急権の話を」

岩上「ちょっとここで一度すみません。休憩といいますか、ティータイムを入れたいと思います」

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(※89)ルーズベルトへの手紙:1939年、物理学者アインシュタインからフランクリン・ルーズベルト大統領宛に送られ、アメリカの原子爆弾開発のきっかけのひとつとなったことで知られる手紙。

 手紙でアインシュタインは、ウランによる連鎖反応が近々実現され、それが強力な爆弾となりうることを指摘した上で、政府の注意の喚起と研究の支援、そして政府と物理学者とを仲介する仕組み作りを訴え、最後にナチス・ドイツの核エネルギー開発を示唆する事実を指摘した。

 この手紙から8 ヶ月後に、エンリコ・フェルミとシラードは政府から資金的援助を受けることとなったが、アメリカ政府がマンハッタン計画によって本格的な原子爆弾開発に取り組むようになるまでに、これ以降3年を要した。アインシュタインは晩年、この手紙に署名したことへの後悔の念を吐露した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2atE5fq)。

(※90)日独伊三国同盟:1940年(昭和15年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された日独伊三国間条約に基づく日独伊三国の同盟関係。

 アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認、調印国いずれか1ヶ国が、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に、相互に援助すると取り決めがなされた。

 1943年(昭和18年)10月13日、連合国に降伏したイタリア王国はドイツに宣戦し、同盟を破棄した。日独両国は共同声明を発して同盟を再確認し、さらに三国同盟にはドイツの傀儡国家・イタリア社会共和国が加わったが、1944年に入ると東欧の同盟国は次々に離脱した。

 1945年(昭和20年)4月25日にイタリア社会共和国は解体され、5月7日にドイツ、8月15日には日本が降伏し、三国軍事同盟は消滅した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1A5VTEc)。

(※91)プロイセン憲法:プロイセン憲法は3月革命の影響のもとに成立した憲法。同憲法は強大な国王大権と、議会制と基本的自由権を兼ね備えたものだった。

 日本では岩倉具視が欽定憲法の採用を定め(1881年)、密かに憲法原則の確定を進め、1850年プロイセン憲法に倣った君権主義や超然内閣主義が採用されることになった。

 1882年には、伊藤博文が憲法調査のため欧州を視察し、とくにプロイセンとオーストリアの国法学者から大きな影響を受けた。草案は国民に公開されることなく、枢密院で議論されただけで、1889年に大日本帝国憲法として公布された(参考:比較ジェンダー史研究会【URL】http://bit.ly/29LwKuL)(参考:衆議院ホームページ【URL】http://bit.ly/29N3L5Q)。

(※92)明治憲法下の日本というのは、プロイセン憲法をモデルにした:1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として、参議・伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査を始めた。

 伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果プロイセン(ドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)とされている。

 翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2aoXv91)。

(※93)プロイセン:ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。

 プロイセンの語源となったプルーセンは、ドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。このドイツ騎士団国が1525年にプロイセン公国となる。

 1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増し、プロイセン公国は1701年にプロイセン王国となった。

 王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利し、プロイセンを盟主とするドイツ帝国が誕生した。1918年、ドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2aDnEx2)。

(※94)プロイセンの法律に、戒厳令がある:1848年革命後のプロイセン王国には「戒厳に関する法律」があった。限定地域において常法を停止し、指揮官掌下で軍隊を率いて警戒するとされていた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1NbfRR4)。

(※95)大日本帝国憲法にも、天皇は戒厳令を出せると書いています:大日本帝国憲法においては、天皇が国家緊急権を行使する規定が制定されていた。緊急勅令制定権(8条)、戒厳状態を布告する戒厳大権(14条)、非常大権(31条)、緊急財政措置権(70条)などである。

 非常大権は一度も発動されたことが無なく、戒厳大権との区別は不明瞭であるとされている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1WL7bvc)。

(※96)ビスマルク:プロイセン及びドイツの政治家、貴族。プロイセン王国首相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国首相(在職1871年-1890年)を歴任。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相」の異名を取る。

 プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身。代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、軍制改革を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立。

 プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。

 文化闘争や社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29OdoAL)。

(※97)社会主義者鎮圧法:1878年、2度の皇帝狙撃事件をきっかけにオットー・フォン・ビスマルクが制定した法律。

 主にドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)をターゲットにしたもので社会主義的な結社を禁止し、集会・出版を制限した。1890年、皇帝ヴィルヘルム2世が更新反対を唱えたため廃止された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a03PSA)。

(※98)ヴィルヘルム2世:第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝。1888年に祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世が相次いで死去したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位。

 祖父の治世において長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。しかしその後保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。

 一方外交では一貫して帝国主義政策を推進し、海軍力を増強して新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリスやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦を招いた。

 1916年にパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が成立すると、ほとんど実権を喪失。大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなくなった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生するに至った。

 革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡命して退位した。そのままなし崩し的にドイツは共和制(ワイマール共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家はドイツ皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。

 ヴィルヘルム2世自身は戦後もオランダのドールンで悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支援。1925年にドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性はなくなった。1941年6月4日、ドールンで死去(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29Yyd03)。

(※99)OECD:経済協力開発機構。ヨーロッパ、北米等の先進国によって、国際経済全般について協議することを目的とした国際機関。本部事務所はパリ(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1jf2FDj)。

(※100)OECD の予測だったら2030年に、中国は世界のGDPの30%を占め、日本は3%。10倍の規模の差が出る: OECD(経済協力開発機構)が2060年までの経済を予測したデータを示している(参考:media pub【URL】http://bit.ly/1R3LMcG)。

(※101)スホーイ社の第五世代戦闘機:2000年代から運用が始められたジェット戦闘機。代表的な第5世代ジェット戦闘機(計画段階も含めて)として、アメリカ合衆国のF-22、F-35、またロシアのT-50 (PAK FA)、中国のJ-20(開発中)などが挙げられる。2015年現在、第5世代ジェット戦闘機として実用化されているのは、F-22のみ(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29URhZH)。

(※102)山本五十六:日本の海軍軍人。山本はアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、連合艦隊参謀長・福留繁にハワイ奇襲作戦について語っていた。

 また山本は、アメリカと戦うためには航空機増産しかないとの信念に従って、当時最新鋭の零式艦上戦闘機と一式陸上攻撃機各1,000機の増産を求めるが、軍令部第一部長・宇垣纏に拒否された。

 1940年(昭和15年)、第二次世界大戦緒戦でナチス・ドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握。同年2月下旬の手紙で山本は三国同盟について「唯あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。当方重要人事異動の匂いあり唯中央改善と艦隊強化も得失に迷いあり候」と懸念していた。山本の憂慮とは裏腹に日本はドイツへの接近を強め、日本海軍も親独傾向を強めていた。幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、4月11日の故郷・長岡中学校での講演で「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」と語りかけ、日本がアジアの真のリーダーとなるには20-30年かかると述べている。

 海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定。会議直前、山本は海軍大臣・及川古志郎から機先を制されて賛成するよう説得され、会議ではほとんど発言しなかったので、司会役の海軍次官・豊田貞次郎により「海軍は三国同盟賛成に決定する」が正式な結論となる。

 山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。山本は堀悌吉に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と言い残して東京を去った。

 2ヶ月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印したが、山本はこれを受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1JcHpKA)。

(※103)中国一撃論:日中戦争初期に武藤章、田中新一らによって唱えられた事変拡大論で、日本軍による強力な一撃を加えるだけで中国は屈服し、早期講和に持ち込めると言うもの。

 日本陸軍上層部は、関東軍が満ソ国境において ソ連軍と対峙している状況で、中国における戦線拡大を警戒したため、事変不拡大の方針を打ち出し、早期講和の道を模索し始める。

 しかし、武藤らは対支一撃論を唱え、国民政府に強硬姿勢で望み 講和を引き出すという方針を陸軍上層部に訴える。そして、事変の不拡大と拡大のどちらが良いのかのはっきりした長期戦略のないまま、対支一撃論に従って上海を攻略し(第二次上海事変)、南京も攻略した(南京攻略戦)。

 日本軍は強力な一撃を国民政府に加えることに成功したが、国民政府は屈服せず、これ以後、中国全土に事変が波及した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1Akfb94)。

(※104)暴支膺懲:支那事変(日中戦争)における大日本帝国陸軍のスローガン。「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意味。1937年(昭和12年)の盧溝橋事件および通州事件以降は特に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1CzlkN0)。

(※105)内田樹:哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。

 専門はフランス現代思想だが、取り上げるテーマはユダヤ人問題から映画論、武道論までと幅広い。なお、内田氏は日本の対米従属と安倍政権による軍国化について、次のように語っている。「アメリカがこれまで受け持っていた軍事関係の『汚れ仕事』をうちが引き受けよう、と自分から手を挙げてきた。アメリカの「下請け仕事」を引き受けるから、それと引き替えに「戦争ができる国」になることを許可して欲しい。安倍政権はアメリカにそういう取引を持ちかけたのです(中略)日本がこれまでの対米従属に加えて、軍事的にも対米追随する『完全な従属国』になった場合に限り、日本が「戦争ができる国」になることを許す。そういう条件です」(参考:内田樹の研究室【URL】http://bit.ly/1KjUfpS)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a08WC2)。

(※106)岸信介:満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(第56・57代)などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。岸信介と安倍晋三の共通点は、米が進めてきた占領政策をいかに克服するかにあり、岸元首相は一貫して「サンフランシスコ体制」の打破を目指し、安倍首相も「戦後レジームからの脱却」を掲げていることはよく知られている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1J9FreD)(dot、2014年2月14日【URL】http://bit.ly/29Utc4q)。

ヒトラー時代の授権法でさえ議会に対抗措置が認められていたのに、自民党改憲案にはそれすらない~ナチスの名称は国家社会主義ドイツ労働社党だが、社会主義との本質的な関係はほとんどない

岩上「では、続きに参りたいと思います」

石田「今日の話題のひとつは非常事態に対することですけど、ヴァイマル共和国憲法にもその規定があったわけです。国家緊急権というのが定義されていた。実はヴァイマル共和国時代に国家緊急権というのは何度も発令されていたんですよ。これは事実です。

 これがどういう内容だったをちょっと確認していただきたい。非常に有名なんですけど、ヴァイマル共和国憲法第48条。特に、第二項というのが大事です。二項を読んでいただくと分かります」

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岩上「『ドイツ国内において、公益および公の安全および秩序に著しい障害が生じ、またその恐れがある時は、共和国大統領は、公の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には武装兵力を用いて介入することができる』」

石田「そうなんですね」

岩上「はっきり書いてありますね」

石田「これはもうはっきりと書いてあって」

岩上「ここ重要ですね。公共の安全および秩序」

石田「そうなんですよ」

岩上「自民党の改憲草案では、公共の秩序とはっきり書いてありますね。公共の秩序がすべての基本的人権よりも上位にくるということが。ここにも公の秩序という言葉が出てきますね。まさにこれ同じことが」

石田「そうですね」

岩上「書いてありますね」

石田「そうですね。しかもここには必要な措置というのがあるんですが、これがどんな措置かということについての規定がない。だから事実上・・・」

岩上「規定がないということは、何でもできる」

石田「そういうことなんです。必要な場合、武装兵力、武力を用いることができる。それだけじゃないんですよね。その後」

岩上「『この目的のために、共和国大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる』。

 これは非常に具体的に丁寧に書いてもらえているというか、自民党の改憲草案も、これを含むんですけれども、ここまで明確に書いていないので、ちょっと分かりづらいんですが、でもまぁ事実上同じことを書いていると言ってもいいですね」

石田「で、なんでこんなものがヴァイマル共和国という民主的な憲法秩序のなかにあるのか。これはやっぱり歴史的な背景がある。

 先ほど言いましたけど、第一次大戦まではドイツ帝国でしたね。ドイツ帝国の時代は皇帝がこの権限を持っていたんです。それが戒厳令という。実は1851年、ずいぶん前ですね。ドイツがビスマルクによって統一される前にあったプロイセン王国の法律に、戒厳に関する法律があった」

岩上「そこでもプロイセンがモデルなんですか!?」

石田「まさにそうなんです。そこで、これとほとんど同じことが言われているわけなんです。帝政が崩壊しましたよね。皇帝がいなくなった。それで、ヴァイマル共和国という大衆民主主義が生まれた。

 その時にこれがなくていいのか、ということになったんです。皇帝の果たす役割、皇帝への期待というのがドイツ国民の間でその頃はあったんです。国が混乱した時、戦争の時、その時誰がその混乱を収拾できるのか、最終的に。

 かつては皇帝だった。でも皇帝はもはやいない。それで考えついたのが、大統領という人にこの権限を与えればいいと。だけど皇帝は世襲ですよね。大統領は選挙で選ぶんです。しかも直接選挙で選ぶから、これは民主的だって言うことになる。

 その大統領がこの権限をいざというときに行使できるようにしましょうということです。ヴァイマル共和国は初めてできた共和制の国です。しかも準備が十分できていない。何が起きるか分からないなかで、こういう信頼できる人間に託そうと。でもこれは性善説ですよ。

 こういう権力を与えれば、共和国を潰そうとするような、国家転覆を謀るような右も左も色々出てくるかも分かんない。これを抑えられる大きな権限を大統領に与えたということなんです。

 これは実はヴァイマル共和国が発足した直後にも何度も使われている。エーベルトが初代大統領の時には、共産党などの暴力的な転覆の試みを抑えるために、実際にこういうことをやった(※107)ことがある」

岩上「発令し、武力介入をすると言うことを実際に行った」

石田「ありました。というのも、軍が必ずしも言うことを聞かない、ということがあったんです。軍は共和国に忠実じゃないので。独自の権力集団だ、ということで、あまり政治にコミットしたくない時期がずっと続いたんです。末期のほうはまた違うんですけど。

 でもそういうことで、これはヴァイマル共和国の前半は、明らかに共和国の安定化に貢献したと評価されている。それだけにこの48条を巡っては、こんなものないほうがいい、という議論には必ずしもならなかった」

岩上「なるほど」

石田「ところが」

岩上「リベラル側もこれは一定程度使えるんじゃないか、必要なんじゃないかと見なしていた?」

石田「そうです。そう見なしていた。でもこれはあくまでも性善説ですよね。例えばもし権力を持った人が、共和国をぶっ壊すというような立場になったら」

岩上「転覆させるような勢力を押さえ込むのではなく、当の本人が転覆させて別の国の形、あるいは別の国体を立ち上げようなんて思ったら、それはものすごく強大な武器になる」

石田「そうなんですよ。それでまさに第二代大統領、この人がヒンデンブルクなんですけど、1925年に保守と中道に担がれて大統領になるんです。

 任期が7年なんですよ。最初の任期の7年のうち4、5年はおとなしかったんですけど、世界恐慌が起き、ヴァイマル共和国の終わりのほうになり、30年代に入るとですね。つまりヒンデンブルクは非常に保守的な人物なんですよ」

岩上「将軍だった。彼は第一次大戦でも」

石田「英雄と言われていて、プロイセン王国に生まれた貴族です。伝統的保守を代表する。だからそういう旧体制のシンボルだった」

岩上「なるほど」

石田「この人が選挙で選ばれちゃったんですよ。これがやっぱりヴァイマル共和国の運命を決する、実はもう25年のその選挙で決まるというか。その後の世界恐慌(※108)がなければ、また話は違ったかもしれませんけど、でもこの人物を大統領に選んでしまったことが、やっぱり後半期の」

岩上「ナチ台頭を準備すると」

石田「その通りです。つながっていった」

岩上「なるほど。ヒンデンブルクの権威というのは、ヒトラーの権威とは比べものにならないですよね」

石田「そうです。ヒトラーが首相になった頃には、ヒンデンブルクのほうがはるかに信頼感があった」

岩上「権威が全然違う」

石田「ヒトラーは首相になってから、ヒンデンブルクの持っている権威を自分が引き受けるという」

岩上「利用するんですね」

石田「そう、利用しつつ、最後はヒンデンブルクの権限も自分が取っちゃう」

岩上「首相という立場。一歩下がった立場から、やがて総統になるわけですよね」

石田「そう。大統領の権限を自分が手に入れてしまう」

岩上「なるほど。ヒンデンブルクに対して忠実な、一歩下がったポジションだったのに、いつのまにかヒンデンブルクの権威を継承してしまうようになる」

石田「そうですね。それにはやっぱりいくつか理由があって。ヒンデンブルクが亡くなった時、80いくつで彼は非常に高齢だったんですよ。もう寿命と言われていたから、ヒンデンブルクの後継者をどうやって決めるか。

 ヒトラーにしてみれば、もし大統領選挙になるとややこしいでしょ。それもあったんですよ。だから後で言いますが、授権法が成立した後、自分で勝手にというか、自分で自分を大統領の後継者にしてしまう」

岩上「そしてそういう乱暴なことが、その授権法で可能なんですね」

石田「可能なんですよ」

岩上「言葉の話になりますけど、その授権法というものと、全権委任法と、両方使われますよね」

石田「同じです」

岩上「同じなんですか?」

石田「まったく同じです」

岩上「ドイツ語で本当に正しい言い方だと」

石田「授権法です。全権委任法というのは、授権法の中身を言い換えているだけです」

岩上「あ、そうですか。じゃあどちらを使っても間違いではない」

石田「間違いではないです。日本の世界史の教科書には両方出ていると思いますね。権力を授けるという意味ですから、立法権を政府に授けるためのもの。内容からそれを一般的に、全権委任法と言っているだけで。ドイツ語の原語を訳したら、どうしても授権法になります」

岩上「そうですか」

石田「では次ですが、さらに48条というのは、今、第二項が有名だと言いましたが、第五項があるんですよ」

岩上「『詳細は、共和国の法律でこれを定める』と」

石田「これは定まらなかったんですよ。これはいろんな説があって、意図的に定めなかったんだって言われるのが有力です。つまり定めることによってフリーハンドがなくなるので。これは為政者にとって都合がいいものですから、色んな議論、要求もあったんだけど、結局、定めないままナチの時代を迎えるわけなんです。

 ちなみにこれは共和国議会の要求があれば失効するという、議会にも対抗措置を認めているんですよ。だから議会がきちんと対応すれば、この大統領の講じる非常措置を無効化することもできたんです」

岩上「なるほど」

石田「そういう仕掛けがちゃんとできている。それなりのバランスを取るような枠組みは作ってはあったんです」

岩上「それでも国家緊急権が発動されて、そしてその時にどういう人物なのかということ次第では、こうした共和国議会の要求があって失効、といっても潰されちゃう」

石田「やっぱり最低過半数は必要ですからね。そういう状況になかったんですよ。それはやっぱり。ヒトラーがこれをやったときに、議会はこれを潰さなかったんですよね」

岩上「自民党の改憲草案を見る限り、日本国の議会の要求があれば失効するなどというのは書いてないですよ」

石田「だから、あんな悪法と言われる48条にもあるものを。日本の憲法、自民党の草案にはないんですか?」

岩上「ないですね。見渡す限り」

石田「恐ろしいですよ、それは」

岩上「恐ろしいですよね」

石田「ドイツの法学者が見たら、もう時代錯誤も甚だしいです。日本の自民党の非常事態法に関する規定は」

岩上「もしくは、世界で最も新しい恐怖の新時代を先取りするものかもしれない」

石田「本当に背筋が凍る思い」

岩上「本当ですよね。いやあ、本当に。責任ありますよ。世界に対してですよね」

石田「はい。ヒトラーは選挙で首相になったという。これですね。ヒトラーが率いる政党、つまりナチスは正式名称を『国家社会主義ドイツ労働者党』と言います。日本では『国家社会主義労働者党』と言われるんですよね」

岩上「そうですよね。僕も気になりました」

石田「私は、というか、今歴史学では、国家社会主義っていう言い方はしません。日本ではやたらそれが広がっているんだけど、あれは完全な誤訳だと思っています」

岩上「National Socialismの訳だろうと思っていたんですけど」

石田「うん。National Socialismの訳なんですね。だけどその時のNationalをどう訳すか。国家社会主義というと、やっぱり国家中心主義でしょ。国家主義でしょ」

岩上「はい。上からのということですね」

石田「ナチズムにとって、国家というものは民族に従属するものなんですよ」

岩上「国家は民族に従属する」

石田「だから民族あるいは国民が主役と。ここがやっぱり恐ろしいところでもあるんですけど」

岩上「怖いですね」

石田「だからここを『国家社会主義』と訳さないほうが今は適切なんです」

岩上「逆に言えば、国民主権を奪おうとしている人たちがいるけど、国民主権を守っても、その解釈次第ではこの国民主権の中からナチズムというのが出てくる」

石田「それだけ民衆の権力の上に自分たちがあるんだというのを意識しているわけで、国家はむしろ敵だという感じですよ。ナチスの出てくる頃は。社会主義なんて言っているから、ナチは社会主義かと言う人が多いんだけど。

 元々ナチ党はドイツ労働者党という労働者党から出てきています。しかしこれは労働者の権利を拡大するためでなく、労働者からマルクス主義の影響を取り除くためのものなのです。

 だから労働者というのは本来働く、神聖な労働をする、労働という神聖なものを取り戻すために自分たちは活動して、マルクス主義や共産主義から労働者を守るんだという」

岩上「日本を取り戻すじゃなくて、労働者を取り戻すみたいな話ですか」

石田「そうそう、そのためなんですよ。だからこれ労働者党と言って。だから、よくナチは」

岩上「左翼から生まれたんだみたいな」

石田「そういう要素はないわけじゃない。でもそれは本質を外した議論です」

岩上「なるほど。それは重要ですね」

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(※107)暴力的な転覆の試みを抑えるために、実際にこういうことをやった:エーベルトはドイツ史上最初の民選大統領ということで、現在のドイツではあらゆる町で大通りに彼の名前が冠されている。

 一方、エーベルトは、後のヒンデンブルクよりも上回る回数でワイマール憲法第48条を濫発したことでも知られている。

 左派労働者の暴動を右派義勇軍を使って抑制したりしたため、治安維持という点で一応の評価をされてはいるが、左派からは批判されることも多い(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29QBIpK)。

(※108)世界恐慌:通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさす。

 1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。

 ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。

 翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

 週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、さらに10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し、株価は平均43ポイント下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった。

 10月29日は後に「悲劇の火曜日」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1J9FreD)。

ドイツ国民の熱狂がヒトラーの独裁政権をつくった、という勘違い――ナチスに投票したのは4人に1人~ワイマール共和国を理解する鍵は「大統領内閣」、ヒトラー政権はヒンデンブルグのサポートなしには成立しえなかった

石田「ナチ党に関して、こういう重要な選挙の成績を書いておきました。1930年9月の国会選挙で、第二党になります。これがやっぱり大きな躍進なんです。その前の選挙では本当に得票率数%で、泡沫政党といわれていた。

 ところが1932年には、第一党になるんですよ。37.4%。ところが、ナチ党のピークはここにあります。ナチ党というと、みな選挙で勝ち上がったと考えますよね。確かに選挙によって第一党にまでのし上がったことは事実です。

 だから選挙で、民意で首相になったという言い方は間違いではないけど、半分しか当たってないっていうのはそういうことです。ヒトラーが首相になるのは1933年の1月ですが、その直前、1932年11月の国会選挙では第一党を維持しているものの、実は得票率が下落しているんです」

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岩上「33.1%に下落している」

石田「そう。しかも票数で言うと、200万票失っている。その時の選挙の投票率が80.6%。それを考えると有権者の4人に1人か、それよりちょっと上回るぐらいの割合でしかナチ党に投票していない。4人のうち3人はナチ党以外に投票、あるいは棄権している」

岩上「自公政権と同じぐらい(※109)ですね」

石田「そんなもんなんですよ。だから」

岩上「4人に1人で」

石田「だからヒトラーが首相になったときの実質的な、こういう統計上の数字はこの程度なんですよ」

岩上「なるほど」

石田「だからこれを見れば、みんながヒトラーを推したんだ、それでなったとは言えない。やっぱりここには別の論理が働いていたと」

岩上「民主主義の喝采のなかからファシズムが生まれるみたいなことを言う人たちっているわけですよね」

石田「そう。それは民衆の責任にしているわけですよ。国民っていうのは愚かなんだからって」

岩上「愚民だと」

石田「そうそう、そうそう」

岩上「オルテガ(※110)なんかを読んで、そんなことを散々言うような新保守というのは、日本にもいますよね」

石田「いますよね。だけど、実際国民はそんな馬鹿じゃなかったってことですよ。この頃のテューリンゲン州(Thüringen)っていうのはナチ党の牙城なんですけど、ここでは大幅に4割も減らしている。だから1932年の11月12月のヒトラーやナチはもうブルーです。

 お金なくなっちゃって、選挙資金もないと言って分裂騒動になるんです。ヒトラーのもとで第二の指導者だったグレゴール・シュトラッサー(※111)は、党を分裂させるかもしれないと。危機的な状況になっていったってことです。そういう状況のなかで、年が変わって1月末にヒトラーは首相に就任する」

岩上「なるほど。逆にピークの落ちた時が危ない。自分たちの危機を乗り越えるために、国家そのものを危機に陥れるようなことをやるわけです」

石田「結果的にそうなんですけど、ナチ党の勢いが衰えているから、ナチ党を利用しようとする人間にとってはチャンスなんです。上り調子の時は勢いがあるから言うことを聞かないけど、落ちめになってくると救いをさしのべるかのように」

岩上「主体を言い換えて、ナチを主体というより、ナチを利用する。これは旧勢力とか、資本家とか」

石田「さっき言ったヒンデンブルクが大統領二期目なんですけど、彼がこの局面でヒトラーを首相に任命しました。実はそれまではずっと逡巡していたんですよ。ヒンデンブルクは貴族ですから。ヒトラーなんて本当にどこの馬の骨か分かんない」

岩上「第一次大戦の時、ヒトラーは伍長ですもんね 。ヒンデンブルクは将軍ですから、それはもう」

石田「そう。しかもドイツの国籍を最近まで持っていなかった。オーストリア中心ですから。もう(ヒトラーのことを)非常に疑いの目で見ていたんですよ。あんな奴に何ができると。本当にドイツの政治家の中でも異端ですよ。やっぱり来歴とか学歴も含めて言えば、もう本当に珍しい人が上がってきた」

岩上「ドイツは統一をした時には非常に大きな帝国になりますけど、その前まで分裂していたから。その中でやっぱりプロイセン出身というのが」

石田「優位です」

岩上「やっぱり一番優位で、オーストリアとかだと、やっぱり低く見られていたんですか?」

石田「まずオーストリアとドイツは別なんです。バイエルン(※112)はドイツ帝国の中なんですよね。でもヒトラーはオーストリア」

岩上「外国出身」

石田「外国出身ですよ」

岩上「今で言えば、在日みたいな感じ。在独みたいな言い方ですかね」

石田「そう。だから外国人ですよね。ヒンデンブルクからすれば」

岩上「ドイツ人は民族というものをすごく強調するじゃないですか。どれくらいを民族として平等に見ていたのか。どこから先を非国民と言ったのかという境界が僕なんかには分からない。オーストリアとか、だからヒトラーみたいな」

石田「それはやっぱり時期によっても違う」

岩上「あ、時期によっても違う」

石田「プロイセンがまだ小さかった頃は、やっぱりハプスブルク(※113)のオーストリアのほうが大きいですよ。圧倒的に」

岩上「そうですよね」

石田「今でもウィーンに行けば、やっぱり我々こそヨーロッパだというような人はいっぱいいます。ドイツのことを低く見ている人もいますよね。貴族趣味なんていうのは、プロイセンよりもハプスブルクのほうが強かったりします。

 でもこの時期は、やっぱりプロイセン出身の人が圧倒的に有利だったことは確かで。ヒトラーはバイエルンでもないんですよ。だからオーストリア出身だったっていうこと」

岩上「外国人なんですね。やっぱり」

石田「そう。それで1932年に国政選挙を獲得するというような状況です。もう一つのポイント、ヒトラーは首相になる。そして国民総決起政府なんて言い方をしています。

 でも実はヒトラー政権というのはナチ党の単独政権ではないんです。保守党である国家人民党と連立しています。ついに帝政派と新右翼の代表のナチが手を組んだ。連立政権です。しかし連立政権と言っても、過半数を手にしていたわけではない。

 ここに書いたように国会に多数を持たない少数派政権で、ナチ党が196、国家人民党は52、合わせて248。全体の584議席の半分に満たない。これをもって、どうしてこういうふうに言えるのかという感じですよね」

岩上「そういう意味では、自民党単独でどこまでできているのかっていうのと、ちょっと」

石田「似ているかも」

岩上「似ていますよね」

石田「これは支える人物と権力があったから実現した。何度も出てくるヒンデンブルクという人物と、彼が持っている権力が、この少数派連立政権を支えたんです」

岩上「なるほど。それも1933年というタイミング」

石田「そう」

岩上「ちょっとヒトラーが落ち目、勢いが弱まってきたかなというときこそ、言うこと聞くだろうと」

石田「そう」

岩上「旧保守は、後ろにいるわけですよね」

石田「そうです、そうです」

岩上「貴族であったり、資本家であったり」

石田「そういう政府を大統領が後ろで支えているので、当時から、これは『大統領内閣』とか、『大統領政府』という言い方があるんです。これはワイマール共和国憲法に定義された概念じゃありません。

 ナチ党は1932年7月に確かに第一党になるんですが、1932年11月に減るんですよね。それで1933年の間に政権の掌握というものがあった。今、大統領内閣と言いましたが、ワイマール共和国の末期の首相の写真をちょっと見てもらいたいんですけど」

岩上「今、出しましょう。この三人ですね」

石田「こちらから、ブリューニング(※114)、パーペン(※115)、シュライヒャー(※116)と。これ全部、ワイマール共和国末期の首相の写真なんですけど、これら3人には共通点があるんですよ。どれも国会に基盤らしい基盤がない」

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岩上「ああ、なるほど」

石田「もっぱら大統領の権力、大権に依存して政権運営に当たっていた。こうした少数派内閣は大統領内閣と呼ばれ、実は発足直後のヒトラー政権も、そういう大統領内閣だった。だから、ヴァイマル共和国の末期の政治はこれを理解しないと理解できない」

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岩上「その大統領が主役だっていうのが、ヒトラー以前も続いていた」

石田「実はそうなんです」

岩上「ヒンデンブルクがお飾りじゃなかったんですね」

石田「そうなんですよ。まさにキングメーカーになっていた」

岩上「なるほど」

石田「そういう局面になってしまった。そういう局面はつまり、1930年以前は実はなかった。やっぱり議会の問題なんですこれは。議会が多数派を自ら作れなくなるという、議会の混乱がこれを招いた一つの原因であることは間違いない。そこには世界恐慌という問題があるんです。

 ではもう少しこの大統領内閣について見ていきたいと思います。今言ったとおりですが、憲法に明文規定されたものではないんです。ところが憲法には大統領の大きな権限が三つ定められている。

 一つは首相と閣僚を任免する権限。二つめは国会を解散する権限。三つめに国家緊急権なんです。これが第48条、さっき見たやつね。これは非常時の緊急命令権とも呼ばれます。この三つを組み合わせて用いることで、こういう統治が実現するんです。

 特に大事なのが国家緊急権なんですけど、これは大統領が非常時にそういう命令を出せるんです。それは大統領命令、大統領緊急令と言います。これは法律と同等であると見なされていた。そのために、例えば首相が大統領を動かして、こういう大統領緊急令を発令できれば法律と同じことになりますから、首相は国会から独立して国政に当たることが出来る」

岩上「なるほど」

石田「これがこの大統領の仕組みなんです」

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岩上「ヒトラーはこのヒンデンブルクに首相として任命され、そしてヒンデンブルクに国家緊急令を出してもらって、そのことによって選挙中に国家緊急令を。あの議事堂炎上事件ですね」

石田「炎上事件で、まさに国家緊急令を使うわけですよね」

岩上「ヒトラーの権力というのはこれによって、ものすごく大きなものになったんですけれども、それはヒンデンブルク抜きではありえなかったわけですね」

石田「あり得ないと思います」

岩上「なるほど。ということは、ヒンデンブルクの同意がなければできない」

石田「できないことです」

岩上「政権はヒトラー、ヒンデンブルクの合作」

石田「二人がちゃんと署名している。一人の署名だけじゃ駄目なんです」

岩上「そうなんですか。ナチズムというのはそういうことなんですね」

石田「そうなんです。だからナチ党のような新右翼、ナチズム、ファシズムと言ってもいいですが、それと伝統的な保守勢力の同盟によって成り立っているわけです。これは当時からそういう分析があります。要するに利害関係が一致したということなんです」

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(※109)自公政権と同じぐらい:前回2014年の選挙において、自民党・公明党は圧勝しているが、議席数と得票数のバランスを見ると、小選挙区制の影響が大きいと赤旗が分析している。

 ちなみに全有権者の中での得票割合を示す絶対得票率でみれば、自民は比例代表選挙で16・99%、小選挙区で24・49%(しんぶん赤旗、2014年12月16日【URL】http://bit.ly/2a1WBxa)。

(※110)オルテガ:ホセ・オルテガ・イ・ガセット。スペインの哲学者。主著に『ドン・キホーテをめぐる思索 (Meditaciones del Quijote)』(1914年)、『大衆の反逆』 (La rebelión de las masas)(1929年)などがある。

 保守主義者と評されることもある。日本では西部邁が影響を受け、しばしばオルテガの発言を引用している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29V9tU8)。

(※111)グレゴール・シュトラッサー:ナチ党の幹部。ナチ党がミュンヘン一揆の失敗により禁止された時期にナチ党の偽装政党「国家社会主義自由運動」で頭角を現し、ナチ党再結党後に党首アドルフ・ヒトラーより北部ドイツのナチ党の再建を任された。その後、党中央で宣伝全国指導者や組織全国指導者を務めた。

 実弟オットー・シュトラッサーと並び、ナチス左派を代表する人物であったが、保守派のヒトラーから疎まれてやがて実権を喪失した。1932年12月には独断で首相クルト・フォン・シュライヒャーと接触したため、党役職の辞職に追い込まれた。さらにナチ党の政権獲得後に「長いナイフの夜事件」で粛清された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29V9tU8)。

(※112)バイエルン:バイエルン選帝侯領を起源とし、19世紀初めから20世紀初めまで存在したドイツ南部の王国。ミュンヘンを首都とし、ヴィッテルスバッハ家によって治められた。

 ドイツ連邦共和国のバイエルン州の前身であり、同州のほぼ全域とヴィッテルスバッハ家が世襲してきたライン宮中伯領に由来するプファルツ地方(ザールラント州とラインラント=プファルツ州の一部)を領土としていた。英語名に由来したバヴァリアの呼称が使われることもある(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29M3zZw)。

(※113)ハプスブルク:現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。

 中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2acQuID)。

(※114)ブリューニング:ヴァイマル共和国時代末期の1930年から1932年にかけて首相を務めた。

 ブリューニングは、躍進したナチ党が政権の責任を負うべきと考え、その危険性を考慮することもなくナチ党と中央党との連立に反対しなかった。

 1933年1月、ついにナチスが政権を握る。3月の選挙でブリューニングは国会議員に当選したが、この国会に全権委任法が提出された。ブリューニングはこの法案に反対していたが、中央党議員の分裂を避けるため賛成した。ブリューニングの賛成の影響もあって賛成に転じる者も多く、この法案は可決された。

 党首のルートヴィヒ・カースが亡命したため、5月6日には中央党党首に就任したが、同年7月に中央党は自主解党に追い込まれた。

 1934年5月、ナチスの粛清対象にリストアップされているとの情報を得たブリューニングは、身に迫る危険を避けてドイツを出国し、難を逃れた。

 一方、ドイツ国内に留まったシュライヒャーらは、1934年6月30日の「長いナイフの夜」により殺されてしまった。その後スイス経由でアメリカ合衆国に渡り、ハーヴァード大学に教授職を得た。在米中はヒトラーやナチスに対する言及を避け、亡命ドイツ人との接触も行わなかった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2ae9djS)。

(※115)パーペン:フランツ・フォン・パーペン。ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。

 その後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。しかし「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29WwkN6)。

(※116)シュライヒャー:ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領やヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。

 1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。

 その後、自ら首相となるも、国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーとパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。

 その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人もろとも殺害された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1Hda6WG)。

大統領緊急令乱発はヒトラー以前から始まっていた――ヒトラーが権力を掌握するまで~ナチス分断の動きを察知したヒトラーは、反対派を蹴落としていった

石田「ブリューニングは、1930年の春に首相になりました。その直前に、国会では多数派を持っていたヘルマン・ミュラー(※117)の社民党政権が成立します。

 ところが1929年の世界恐慌で失業者がどんどん増え始める。そうすると、企業が労働者の失業掛け金を折半しているでしょ。それを巡って大連立政権が与党の中で割れてしまった。財界の方を代表するドイツ国民党は、できるだけ掛け金を減らしたい。自分たちの出費を減らすのです」

岩上「企業の負担を減らしたい、ということですね」

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石田「そう、それで結局内部から崩壊していく。これは国会に多数派を持っていた最後の議会に基礎を置く連立政権だった。これが倒れた後、ヒンデンブルク(※118)はブリューニング(※119)を首相に任命するんです。

▲ヒンデンブルク                 ▲ブリューニング

 『政党間の多数派形成能力が失われた状況を利用して』と書きましたけど、1929年、1930年、だんだん世界恐慌の影響がドイツに及ぶと、それまで以上に政党間の利害対立が深刻化するわけです。そしてお互いの誹謗中傷があって、多数派が作れない。だからミュラーに代わる首相が議会の中では生まれない。

 ヴァイマル共和国憲法は、基本的に議院内閣制を想定していたんですね。つまり首相も閣僚も国会の信任を得なきゃいけない。そのためには首相、政府は国会で多数派を確保しなきゃいけない。ところがそういう国会の多数派を持てるような首相が現れない。

 そういう状況を利用して――利用してと言っていいと思うんですけど――ブリューニングを首相につけて、その後は大統領緊急令をうまく使えば、国会がもうぐちゃぐちゃで、何も決まらないんならこれで行きましょうという話になる。これで議会政治の空洞化が始まった」

岩上「この時に議会が混乱するというのは、双方に言い分があるわけじゃないですか」

石田「そうですね」

岩上「例えばこのまさに崩れた時というのは、労働者の失業保険、この企業負担を巡って、というきわめて具体的なイシューがあるわけですね。このイシューをどっちかに傾けないと決着がつかないわけでしょうけれども、ヒンデンブルクは結局どっち寄りなんですか? やっぱり財界ですか」

石田「まあ、そうですね」

岩上「財界寄りなんですね」

石田「ヒンデンブルクの心の中には、このヴァイマル共和国憲法の示す理念を受け入れようとする心はないんですよ。だけど大統領になってしまった以上、憲法に忠誠を誓う。彼も誓っているわけで。だからやっぱりそんなに露骨にできない。でも、できればここから別れを告げて、もう少し違う形態の権威主義的な統治、あわよくば、帝政復活まで行くような道をつけたいと思っていたんです」

岩上「面従腹背だったんですね。ヴァイマル憲法に対して」

石田「1930年7月17日、増税とデフレを基調とする政府の財政再建案が国会で否決されます。するとブリューニング首相は、もう国会は駄目だということから大統領を動かして、緊急令を交付する。大統領緊急令です。

 すると野党はただちに大統領緊急令廃止法案を国会に提出します。これも48条第三項に規定されている。そして、国会はこれを可決するんです。すると大統領緊急令は無効になりますよね。

 ところが、これに対抗して大統領は国会を解散するんです。大統領には国会解散権があります。解散して、解散中にいったん廃止された大統領緊急令を再交付する。もう一回、同じものをやるのです。

 こういうやり方で、元々反政府寄りになっていた世論が沸騰して、このときの選挙でナチ党が一気に第二党に台頭する。ブリューニングとしては、国会が言うことを聞かないから、大統領の力で自分たちの法案を通して、大統領は大統領で自分の持っている権限を使って国会を解散する、というやり方です。解散して国会が再招集されないうちに、こんなことをやってしまう」

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▲発足直後のブリューニング内閣の顔ぶれ(出典・WikimediaCommons)

岩上「背景にある経済的状況はデフレ、不況ですよね。それに対して増税でまず財政再建だ、国家の財政再建だという。まさに、今の日本の抱えている状況と、バックグラウンド自体は似通っていますよね」

石田「特にこのブリューニングという人は、世界恐慌の対処の仕方が非常に古典的だった。つまり公共投資、いわゆるケインズ(※120)主義的な考え方ではなく、財政均衡(※121)論ですよね。古典的な考え方で、ですから、今不況になってしまったからには、もうとにかくインフレを起こしたくないという。1930年ですけど、7年前には有名な天文学的なインフレがドイツで起きていました(※122)」

岩上「はい。ハイパーインフレ」

石田「そう。ハイパーインフレ。それを繰り返すわけにはいかないので、失業者がどんなに増えても『増税とデフレ』で行くわけですよ。だから労働者はたまったもんじゃない。

 もう一つは、この頃ドイツはまだ、第一次世界大戦の賠償支払い(※123)を強いられていて、このブリューニング政府はもう国力が、経済力が弱っていることを対外的に主張することによって賠償支払いを免除してもらいたいとか、そういう意図もあったと言われているんです。

 国民にとっては、非常に苦しい生活を強いる政策を政府が打ち出していくんだけど、そういう意味で反政府世論が高まっていたところに、こういう議会を無意味化するようなものを始めた。これが、大統領内閣(※124)の具体的始まりなんです。同じようなことを、次々とやっていくということなんです。

 ヒンデンブルクの話はこれまでに何度も出ましたが、やっぱりこの人がキーパーソンです。なぜキングメーカーかというと、このヒンデンブルク自身が首相を任命する権限がありますから。普段は多数派を承認していたんですよ。だけど今は少数派でも承認してしまう。そういう人です。

 帝国陸軍元帥で、国民的英雄。帝政主義者。1925年初当選。憲法に忠誠を誓うけれども、国会を衆愚政治の場ととらえ、代議制民主主義に代わる権威主義統治の可能性を追求していました。

 ナチ党が第一党になった後も、ヒトラーをボヘミアの一兵卒、伍長と見下して、首相の座を与えることを躊躇していたのですが、ナチ党の退潮が始まり、共産党の伸長が保守派・財界の不安を助長するなか、取り巻きの進言を受ける形で、ヒトラーを首相に任命した。こういう話なんですね。

 前後しますけど、さっき言った1930年の9月、これがさっきも話に出た、国会と大統領が衝突したというやつですね。この頃から、大統領内閣の性格が濃厚になってくる。政党間対立の先鋭化と左右両翼反対派の増大で、政府が打ち出す政策はどれも暗礁に乗り上げていく。すると首相あるいは政府は、ますます大統領緊急令に依存していくようになる。

 結果的に国会は開かれますけれども、ほんの数日で閉じてしまう。あるいは法案だってもう成立しなくなってしまう。その代わりに緊急令が急増してくる。こういう状況になってくると、国会はほとんどパスしてしまうんです。国会は無意味化、形骸化してくる。具体的な政策は大統領周辺に集まってくる官僚と専門家の間で決めていく。だから、オープンにすることもだんだんなくなってくるわけです。議会に提示することも必要なくなる」

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岩上「官僚主導で」

石田「そうですね」

岩上「しかも一部の」

石田「ヒンデンブルクの権力と、その取り巻きの政治的影響力がどんどん肥大化する。そういう不透明な権力空間がヴァイマル共和国のこの時期、ベルリンにできあがっていた。もう世論が影響力を行使できない状況になっていたということなんです。

 その後、1932年7月にパーペン首相に替わりました。パーペンが首相になると、国会を解散する。ヒンデンブルクも同意して、この時にナチ党が第一党になる。ここで非常に重要なのは、この選挙の結果、ナチ党と共産党、この二つの政党が国会の過半数を取ってしまうんです」

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▲パーペン内閣(出典・WikimediaCommons)

岩上「ナチ党と共産党で過半数・・・」

石田「はい。50%を越えてしまうのです」

岩上「お互い、相容れない同士で」

石田「もう、(両者とも)原理的に反ヴァイマルなんですよ。反議会主義。だから議会を敵視する勢力が議会の中に二つ出てきてしまった」

岩上「本当に惜しまれますよね。先ほどもありましたけど、アインシュタインらが言ったように、社民党と手を結び合って、あるいはこの共産党が議会を通じて、理念を達成するような物わかりのいい政党であれば(※125)」

石田「そう。そうであれば、全然違った」

岩上「変わった」

石田「そういうことなんです」

岩上「やっぱり暴力主義的であるというところが・・・」

石田「このときの共産党にはそれ(議会を通して理念を達成すること)は無理だったんですよね」

岩上「やはり革命を通じてと・・・」

石田「当時の共産党の指導者は、ヒトラーを政権につければいいと言っていた。そしたらすぐ駄目になるから、その後に自分たちが行くと。ヒトラーの後は我々の出番だと、そう考えていた。

 ヒトラーが来て、ドイツの政治経済をめちゃくちゃにすれば、その後自分たちに出番が回ってくる、と言っていた。それで社会民主党は常に裏切りものだから、共産党からすると手を組むことなんてあり得ないという状況だった。だから、もうこの段階で法案は何も通らないんですよ。すぐ不信任案が出されるという状況です」

岩上「物わかりが悪かったんですね」

石田「うん。駄目」

岩上「一昔前の新左翼(※126)みたいな」

石田「でも、それは歴史的な・・・」

岩上「経緯があったわけなんですよね?」

石田「そうなんですよ。こういう状況の中で、ヒトラーはヒンデンブルクから副首相になりませんか?と打診を受ける。これは国会もこんな状況だけど、ナチ党は第一党だから、名目としては通りますよね。第一党なんだから。

 それを政権の副首相にして連立政権かなんかでやれば、ヒンデンブルクも国民の三分の一ぐらいの支持がありますから、ヒンデンブルクに対する国民の信頼も出てくるという思いもあったんだと思います。とにかく今のままだったら何も決まらない状態になるから、ヒトラーに権力をさしのべるわけです。

 でもこれをヒトラーは拒否するんですね。自分はあくまでも一人の絶対的指導者を目指すと。ナチ党というのは、ヒトラーのもとの指導者体制だから、その上にもう一人いたら指導者原理が崩れる。パーペン(※127)みたいな男のもとで副首相になるぐらいだったらお断りするって、これは物別れになってしまう。それで9月に国会が召集されました。

 9月に国会が招集されると、すぐ国会は解散です。国会が解散されると、国会はもうないですから法律は通るはずないんですが、パーペンは大統領緊急令によりかかりながら統治をする。この選挙が終わると60日間プラス30日間、90日間国会は召集されないんですよ。その3ヶ月間、大統領緊急令を使って、新しい国家を作ろうとする」

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▲アドルフ・ヒトラー(出典・WikimediaCommons)

 岩上「新国家・・・」

石田「そう。これもやっぱり非常事態だということで、これも、こういう議会のあり方が国を危うくしているということで非常事態だと。だから大統領緊急令はいくらでも使えるわけです」

岩上「ヒトラーの前に」

石田「ヒトラーの前にすでにこういうことがあるんです」

岩上「前例があるんですね」

石田「そう。制限選挙を再導入するとか」

岩上「制限選挙というのは?」

石田「つまり自由選挙じゃない。あのとき言われていたのは」

岩上「成人なら誰でもということではなく?」

石田「ではなくて。戸主。戸主には二票あげるとか」

岩上「戸主に二票!?」

石田「男女平等は否定できなかったんだけど、社会的責任の大きい人には、票をあげるとか、色々なことが考えられていた。帝政時代のプロイセンだったら、納税額で決めていました」

岩上「納税額で制限した。ついこのあいだの戦前までの日本のありようと一緒ですよね」

石田「そうです。そういうのを再導入することで、責任ある人物を多く権力の側に引き込んで、安定した国を作ろうと。新国家ですね。政党もいらないというようなことも、ここでもう言っているんですよ。実は」

岩上「プレ・ヒトラーですね」

石田「プレ・ヒトラーです。ただ、パーペンはヒトラーのような人気はない。貴族出身でね。だからもうちょっとすると、パーペンはヒトラーに歩み寄っていく。ヒトラー政権の副首相です。でもこういうのを聞くと、あれ?っと、みなさん思うかもしれないけど」

岩上「身分制国家というのは貴族制へ戻そうと?」

石田「それに近いですね。職能身分国家というのはイタリアでもファシズム、オーストリアでもこういう考え方があって、決してそんなにおかしなことではなかった。あくまで当時ですが、こういうことは色々議論されていた」

岩上「珍しくなかった?」

石田「議会制民主主義に代わるものとして、色んなオルタナティブが示されていたんです」

岩上「なるほど」

石田「そういう実験的なことをやろうとしていた。こういうふうになってくると、世論の中では国会なんかいらないっていう話になってきます。そして、共産党やナチ党を中心に街頭が政治宣伝の場になるわけです。国会はもうみんな来ませんから。

 中には共産党とナチ党みたいに激しくぶつかりあう修羅場のような状態、内戦に近い状態になっていく。そして60日後、選挙が行われて、このときナチ党は伸びるかなと思っていたんですよ。ところが議席を減らす。

 これには色んなことが言われていますが、やっぱり僕が一番重要だと思うことは、ヒトラーが首相の権力をとらなかったってことだと思います。権力を握れなかった」

岩上「それで、パーペンが似たようなことをやり始めちゃったら、ヒトラーが唯一そういうことを言っているのかと思いきや、他の人でもやっちゃうのねという話になるわけですね」

石田「実はそのパーペン首相の時、パーペンを支えていた保守派のドイツ国家人民党というこの政党が選挙で伸びている」

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岩上「ああ、やっぱり」

石田「だから、やっぱりパーペンの保守派に・・・」

岩上「旧保守の方が人気が高まった」

石田「ちょっとだけ。僅かですけどね」

岩上「新右翼にちょっと陰りが出てきたのですね」

石田「それから、この頃少しずつですけど景気が良くなり始め、失業率が回復してくる。部分的にそういう局面があった。それからもう一つは、ナチ党と共産党がベルリンで手を組んだりするんですよ。反ヴァイマルということで。

 そういうことがあって、ナチ党を支持していた中間層は幻滅して、共産党と一緒にするナチなんて駄目だっていうことで議席が減った。それも色々言われている原因の一つです。

 こういう状況なんだけど、共産党とナチ党をあわせるとやっぱり議席数では過半数。そうすると議会が、政治の場が移らないわけですよ。パーペンは、もう一回国会を解散しろと言うんだけど、さすがにヒンデンブルクはそれはできないということで、三人目の首相としてシュライヒャー(※128)と言う軍人を首相にする。

 このシュライヒャーこそ、実は大統領内閣の生みの親のような人で、政治的軍人と言われて、政界にくっついていた軍の代表です。軍を表に出して、そしてそれだけだと支持がないので、ナチ党を今こそ分断させようとする。さっき言ったグレゴール・シュトラッサー(※129)はナチ党の左派といわれています。そのグループを引っこ抜いて党内左派、これを労働組合と一緒に新しい政権の基盤に入れようと画策するんですよ」

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▲1933年1月の国会勢力図

▲シュライヒャー                  ▲グレゴール・シュトラッサー

岩上「なるほど」

石田「そして大統領内閣は、少しは支持勢力を広げる。右派の、右翼の労働組合だから、かなり幅広い国民的な政権を作ろうと。つまり自分たちが国会に勢力がないというのは、やっぱり彼らにとってみるとまずかったんですね。

 だから、ナチ党を分断して一部を入れて、というふうに国民的な政権基盤を作ろうとするんだけど、ヒトラーがこの話を聞いて激怒しているんですね。シュトラッサーを追放してしまうんですよ」

岩上「シュトラッサーは裏切り者だというようなことをヒトラーは言って、党内でこの覇権構想で勝利するわけですね。でも裏切り者だという言い方は、ヒトラー独自の権力構築のための物言いかと思えば、本当に外からの圧力でシュトラッサーは割ろうとしていた。ナチの裏切り者というのはある程度は当たっていたってことですかね」

石田「それは微妙ですね。シュトラッサーというのはすごく知将というか、わりあい頭のいい人で、ちゃんときちんと勉強している人ですよ。ヒトラーはカリスマといわれて、ナチ党もそのヒトラーの人気に依存していた政党なんだけど、それを合理的な組織に作り上げようとして懸命に努力したのがシュトラッサーなんですよ。

 でも、彼はヒトラーのような人気はないから、一線を引いたところで、ヒトラーのナチ党を支えていたんです。だけどシュトラッサーは党内でヒトラーほどではないけど人望があって、もう一人のリーダーとして出てくる可能性があった。それでシュライヒャーはそれが分かっていたので、秋波を送ってこれを分断させてやればいいと。

 このへんが難しいところで。結局シュトラッサーは1934年の例のレーム事件(※130)で粛清され、シュライヒャーも殺されるんです」

岩上「だから逆を言うと、外からナチを割ろうという試みをある程度分かっていたヒトラーは、徹底的に自分のライバルを蹴落としていくわけですね」

石田「そう、その通りです」

岩上「外からのこういう分断の試みに対するヒトラーの危機感によるカウンターが、ヒトラーの独裁とか、党内掌握をものすごく強めたってことは言えるわけですね?」

石田「言えると思いますね。だからやっぱり、いつも狙われているというふうに感じていたのでしょう。ナチ党がこんなに大きくなっても。自分の判断が一つ間違えば、元の木阿弥になるという。狙われているというのは、彼は感じていたと思いますね。

 ちょうど同じ時期に財界を中心に共産党の伸長に危機感を持つ人がたくさん出てきて、今こそヒトラーを首相につける時じゃないかと。いろんなオプションが消えていくわけですよ。シュライヒャーのこういう軍部独裁もだめ。新国家構想もだめっていうふうになってくると」

岩上「消去法で」

石田「ヒトラー。今なら言うこと聞くんじゃないかと。最後の手段としてのヒトラーと。こういうことなんですよ。これらが全部不透明な権力空間のなかで行われていたことなんですね」

岩上「ヒトラーが権力掌握する物語でも、こんなに詳しく聞いたことはないですね。僕が不勉強だったのかもしれませんが。ただ一方で、冷戦崩壊後、東西ドイツの分断が終わり、統一という過程でものすごく色んな資料が出てきたと聞いています。

 歴史的にナチはとっくに崩壊しているから、ナチについて我々にはたくさんの情報があると思っていたのが、今になって不透明だった部分がかなり分かってきたということもあるんでしょうか。研究が進んだという部分が」

石田「今日の話全体で、そういうのはいっぱいあると思います。ただこのヒトラーの権力掌握ということについては、1980年代にはすでに完全に分かっていましたね」

岩上「ああ、そうなんですか」

石田「1980年代だからかなり遅いかもしれませんが、でももう分かっていますね。今、ナチ時代の政権掌握に関するプロセスについては、もう全てのことが解明されていると言っていいと思います。

 こういうわけで、パーペン前首相は、シュライヒャーに出し抜かれたと思っていたんですよ。そういう個人的な恨みもあって、それで今こそヒンデンブルクに進言して、自分が副首相になるからヒトラーを雇い入れると言っているんですよ」

岩上「なるほど。雇われマダムにしようと」

石田「まさにそうですよ。飼い慣らすって。懐柔できるというわけです。用が済めば放り出してやればいいと。緊急令なんだから。大統領の権限のほうがはるかに強いんだから、大統領とパーペンの関係は非常にこの時期は強いんです。貴族でしょ。大統領の息子とパーペンは仲が良かったり、色んな個人的なそういうのも、ここではパーペンには有利に作用したということです」

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(※117)ヘルマン・ミュラー:ドイツ社会民主党(SPD)所属の政治家。1876年5月、ワインディーラーの息子として生まれる。1893年SDPに参加。1899年から1906年まで、社会主義系の新聞記者として勤務。なお、1903年から1906年には市会議員も務めている。1920年、および1928年から1930年までヴァイマル共和国首相を務めた。

 この第2次ミュラー内閣は正常な議院内閣制によるヴァイマル共和国最後の内閣である。1919年のヴェルサイユ条約時には、外務大臣であり、ドイツ側全権として条約に署名した。退任から1年後の1931年3月、胆のう手術に失敗して死去(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2brggcx)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bCiRze)。

(※118)ヒンデンブルク:ドイツの軍人、政治家。ドイツ国(ヴァイマル共和政)第2代大統領(在任:1925年 – 1934年)。 第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。大戦後期には参謀本部総長を務めた。戦後、共和制となったドイツにおいて大統領に当選。アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権樹立への道を開いた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bFAFJj

(※119)ブリューニング:中央党に所属したドイツの政治家。ヴァイマル共和国時代末期の1930年から1932年にかけて首相を務めた。1930年3月28日、ヒンデンブルク大統領は正式にブリューニングに組閣を指示、組閣作業は異例の速さで進み4月1日に完了した。連立に加わったのは中央党のほかドイツ国家党、ドイツ人民党、経済党、そしてドイツ国家人民党の一部だった。首相就任時の44歳という年齢はドイツ史上2番目の若さ。世界大恐慌の直撃を受けた財政の立て直しに取り組んだが、失敗。

 ナチ党などの勢力拡大を許し、正常な議会運営が困難となったブリューニングは、62にも上る法案を議会に縛られない「緊急立法」として通過させた。退任後は、躍進したナチ党が政権の責任を負うべきと考え、その危険性を考慮することもなくナチ党と中央党との連立に反対しなかった。1934年5月、ナチスの粛清対象にリストアップされているとの情報を得たブリューニングは、身に迫る危険を避けてドイツを出国し、難を逃れた。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bnF93L

(※120)ケインズ:ジョン・メイナード・ケインズ。イギリスの経済学者、官僚、貴族。20世紀経済学者の代表的存在である。ロンドン大学,ケンブリッジ大学で学び、1910から1925年まで、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジの運営にもたずさわった。若手学者集団である「ケインズサーカス」を率い、マクロ経済学を確立。

 著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』では、失業と不況の原因について論じ、完全雇用達成の理論を提示。近代経済学において、ケインズ革命とよばれる変革をもたらした。ケインズは政府による経済への積極的介入の有効性を主張。修正資本主義の理論を展開し、現在に至るまで大きな影響を及ぼしている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2biECn4)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bCjlp1)。

(※121)財政均衡:財政支出を経常的収入と等しくする財政運営、あるいはそうした財政状態。いわゆる「赤字財政」に対する概念である。日本の予算制度では、長期債の収入は経常的収入と同じく歳入の一形態とみなされており、これをも含めた歳入総額と歳出予算の総額は必ず一致すべきとされている。ケインズ経済学誕生前夜、イギリスなどの多くの国の大蔵省・財務省は、支出を税収に一致させる均衡財政主義を採用していた。

 20世紀に入るとアメリカは、世界恐慌に際し、均衡財政主義を破って積極的な歳出増額により失業者救済を図り、1942年に日本は、米ドル建て国債のデフォルトに陥っている。1947年、戦後混乱期の日本では日本国債の発行額が税収を上回り、それが戦後インフレーションの原因になったという反省から、財政法が制定され、赤字国債の発行と日銀の赤字国債引き受けを禁止して、均衡財政主義を取ることとなった。

 その後、日本は世界銀行からの借り入れにより、大規模なインフラ建設を実施。高度経済成長により得た歳入で、期日どおりに世界銀行へ返済し、世界を驚かせた。1965年、日本は赤字国債の発行を再開。1990年にはバブル景気の税収増によりいったん発行額ゼロになったが、1994年にふたたびはじめられた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29XsN4C)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/29QpfOA)。

(※122)7年前には有名な天文学的なインフレがドイツで起きていた:第一次世界大戦中より、ドイツではインフレが進行していたが、この時期には驚異的なインフレに陥っている。まず1923年1月11日、フランスとベルギーはイギリスの反対を押し切り、ドイツ屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地方を占領。この占領に対し、ドイツ政府は受動的な抵抗運動を呼びかけ、抵抗運動の資金は政府がねん出していた。しかしこの抵抗運動に伴う財政破綻によってドイツの財政は致命的な状況へ陥り、ルール工業地帯の供給能力を失ったため、空前のハイパーインフレになった。同年6月までに一般物価水準は大戦前の25,000倍を超える事態となる。

 この1年間でマルクは対ドルレートにおいて7ケタ以上下落。パン1個が1兆マルクになり、100兆マルク紙幣が発行された。このためこの時期にマルクは「紙のマルク」と呼ばれた。抜本的な通貨改革の手がかりとなったのは,レンテン銀行の設立と、農業用土地および工業用資産の負担によってカバーされた「レンテンマルク」の発行であった。「レンテンマルク」導入が発表されたことによりインフレはほぼ停止。物価も安定した。これを俗に「レンテンマルクの奇跡」と呼ぶ(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2al75Ku)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2b67j6h)。

(※123)第1次世界大戦後のドイツの賠償に関して生じた諸問題:ドイツはベルサイユ条約によって連合国に賠償を支払うことを義務づけられた。 1921年4月 27日ロンドンで開かれた連合国賠償委員会は賠償総額を 1320億金マルク (約 320億ドル) ,毎年の支払額を 20億金マルクとほかに輸出額の 25%相当と決めた。

 ドイツ財務省は3日、第1次世界大戦(1914~18年)の戦後処理を定めたベルサイユ条約などで敗戦国のドイツに科された賠償金のうち、最後まで残っていた国債利子分の約7千万ユーロ(約80億円)の支払いを完了した。大戦終結から92年後にようやく払い終えた。第1大戦後の大不況を背景に誕生したナチス政権が賠償金の支払いを拒否したことや、53年の「ロンドン協定」でドイツ統一まで支払いが猶予されたことから、完済が遅れていた。

(※124)大統領内閣:石田勇治氏は『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)の中で次のように説明している。

 「国会に多数はをもたない『少数派政府』を率いたのは、ヒトラーが初めてではなかった。ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといったヴァイマル共和国末期の三名の首相はいずれも程度の差こそあれ、議会に基盤らしい基盤をもたず、ヒンデンブルク大統領の緊急令に依拠しながら政権運営にあたっていた。こうした内閣は『大統領内閣』と呼ばれる」[121]

(※125)1932年7月、ナチ党が第一党になる選挙の前に、危機感を募らせたアルバート・アインシュタインら、著名な学者、芸術家、文学者ら33名が連名で野党共闘を求め、「(ナチ党の台頭をくい止めるための)最善策は2党(社会民主党と共産党)の統一候補者リストだが、せめてリスト協力が実現するように望む。どうか天性の怠慢と臆病な心のせいで、我らが野蛮の中に沈み込むことのないように」と緊急アピールを出した。詳しくは前月の「岩上安身のIWJ特報!」を参照(http://bit.ly/2c5zC6u)。

(※126)新左翼:第二次世界大戦後の1960年代、欧米や日本などの先進国では急進的な革命を志向した、主に大学生・大学院生・若い労働者から構成される左翼的政治勢力が登場。こうした新左翼と呼ばれる若者たちは、旧来の共産党や社会民主主義政党を、権力にしがみつく戦わない左翼として批判し、自分たちを既存の左翼と異なる革命的左翼であるし、急進的な革命を志向して過激な直接行動に出た。

 新左翼の基本的イデオロギーとしては反パターナリズムに基づく反共産党、反スターリン主義、アナーキズム、トロツキズム、毛沢東主義と、マイノリティー擁護が柱となっている。新左翼の思想については、マルクーゼなどのフランクフルト学派の影響も大きい。なお、マルクーゼは第二次世界大戦中、アメリカの対ナチス政策に協力している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2aDtYoF)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1EfwHBd)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1LbxT7P)。

(※127)パーペン:ドイツの軍人、政治家、外交官。 ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。その後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。しかし「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29WwkN6)。

(※128)シュライヒャー:ドイツの軍人、政治家。軍人としての最終階級は名誉階級歩兵大将。ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領やヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。

 1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。

 その後、自ら首相となるも、国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーとパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。

 その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人もろとも殺害された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bVZPSA)。

(※129)グレゴール・シュトラッサー(1892年5月31日 – 1934年6月30日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部。 

 ナチ党がミュンヘン一揆の失敗により禁止された時期にナチ党の偽装政党「国家社会主義自由運動」で頭角を現し、ナチ党再結党後に党首アドルフ・ヒトラーより北部ドイツのナチ党の再建を任された。

 その後、党中央で宣伝全国指導者や組織全国指導者を務めた。実弟オットー・シュトラッサー[1]と並び、ナチス左派を代表する人物であったが、保守派のヒトラーから疎まれてやがて実権を喪失した。

 1932年12月には独断で首相クルト・フォン・シュライヒャーと接触したため、党役職の辞職に追い込まれた。さらにナチ党の政権獲得後に長いナイフの夜事件において粛清された(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bNWp55)。

(※130)レーム事件:1934年6月 30日、ヒトラーがナチス突撃隊隊長 であるエルンスト・レームなど、党内の反ヒトラー分子、左派分子を粛清した事件。

 レームは1925年には意見の対立もあってヒトラーから一時期離れたが、1930年末にヒトラーに呼び戻された。しかし、1933年にヒトラーが政権につくと、ふたたび両者は対立。レームは、ヒトラーの革命論に飽き足らず、社会革命的な「第二革命」を唱えるとともに、国防軍にとってかわろうとした。

 政権を掌握したヒトラーは軍部と資本家階級の協力を得るため、党の擬似軍隊組織 SA(突撃隊)の改革と左派分子の一掃が必要であると考え、ゲーリング、ヒムラーらとともに、ドイツ各地で処刑・暗殺を一斉に実行に移した。

 レームについては一揆を企てたとの理由で殺害。いわゆる「長いナイフの夜」事件の最初の事件ともいえる(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/29VI7RQ)。

自作自演が強く疑われる国会議事堂放火事件から、令状なしの5000名拘束へ~そのナチスの緊急令よりさらにひどい自民党の緊急事態条項

石田「ヒトラーを政権に雇い入れる、飼い慣らす、用が済めば追い出す、ということなんだけれど、これは要するに、両者の間で共通の目標があったということです。一時的にとはいえ、手を組んだわけですから。

 これには三つの目的がありました。一つは議会制民主主義はもう寿命が来たと。もうこれは終わらせましょうと。もう一つは、不穏な政党。つまりナチ党はこういうふうにジリ貧になってきたけど、共産党は伸びているわけですよ。そういう不穏な政党と言いますか、選挙のたびに議席を増やす共産党、この時に確か100議席ぐらいになるんですよ。これを抑えると。禁止するということまで言っていました。

 もう一つは再軍備です。ヴェルサイユ条約が再軍備を禁止していたわけですよね。ドイツには当時陸軍10万、海軍1万5000の兵力があったんですけど、それは諸外国と比べれば本当に弱小で、それ以上増やすことはできなかった。でも、ヒトラーは『強いドイツ』を目指していたんですよ。平気でこれを言っていたわけです。これまでの首相は、誰もこんなこと怖くて口に出せない。それを公言するのが、ヒトラーなんです」

岩上「強いドイツを取り戻せ、みたいな話ですね」

石田「そうですよ。だから再軍備の実行、これに反応したのは軍人たちなんです。ヒトラーを首相にすれば、再軍備が実現するんじゃないか。失われたドイツ帝国の名誉がここで復活するんじゃないか」

岩上「いやあ、『安倍イズム』と本当に重なりますね。『議会民主主義を終わらせる』、これは言ってないですけどね」

石田「ああ、そうかも」

岩上「でも、終わらせうる緊急事態条項を入れようと言っているんですから。『共産党を抑える』、これだって考えていないわけじゃない。共産党のことはボロカスですからね。もう反共そのものみたいな演説を毎日やっていますし」

石田「再軍備というのは、戦争をするためですから。ヴァイマル共和国は、『戦争ができる国』じゃないんですよ。だから、それを『戦争ができる国』にしましょうという話です。武力がないわけですから。この三つを合意点として、この両者が手を結んだということになります。

 そして、1月30日にヒトラーが首相に任命されました。ヒトラーは首相になると、やっぱりチャンスだと思ったんでしょうね。それで一気に攻勢に出るんです。飼い慣らされるどころか、逆手に取って相手を放逐する。

 まずは連立与党の相手である国家人民党、これはこの前の選挙で勝ったから、またやるのかという感じで、反対したんですよ。だけど首相になる時の条件でもあったみたいなんですが、ヒンデンブルクに頼んで国会を解散させる。それで国会選挙に打って出て、ここでヒトラーは過半数を手に入れられるとたかをくくっていた。

 でも実際はそうはならなかった。この選挙では勝つことが重要だった。それで、ヒトラーは首相になりました。ヒトラーは3月5日に選挙をする。彼にはやっぱり勝てるという勝算があったんだと思います。彼には、歴代の三つの大統領内閣の首相にはないものがあったんです」

岩上「突撃隊と親衛隊、そして大衆宣伝組織があった、と」

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石田「そうそうそう。大統領緊急令はもう他の首相にも使われていた」

岩上「使われていたんですよね」

石田「この三つを使って、この選挙戦に臨んでいく。まず何をしたか。ヒトラーが首相になった直後、共産党がゼネストを打つと、そういう呼びかけをするんです。これについて、共産党の不審な動きだということを理由に大統領緊急令を発動させて、集会と言論の自由に制限を加える。大統領緊急令は法律ですから、これに逆らうことは犯罪を意味します。選挙なのに、自由な選挙ができなくなって」

岩上「言論統制されちゃう」

石田「言論統制ですね。発足した直後のヒトラー政権にはヒトラー首相のほか、10名の閣僚がいる。そのうちナチ党は3人しかいないんです。ヒトラーとフリックとゲーリング。あとはみんな保守派なんです。国家人民党とか無所属の保守系の専門家たち。ところが、内務大臣をナチ党が押さえた。これがやはり、全国の警察にものすごく大きな影響を与えます。

 ヒトラーはすぐ、プロイセンの警察とかを直接配下に置く。大臣ポストを手に入れてプロイセン州の内相になるとか、そういう形です。この状況のなかで警察権を行使して、反対派の拘束に動き出すわけです。なんと、ナチ党の下部組織である突撃隊や親衛隊もプロイセン州の警察の補助警察にしてしまうのです。

 政治犯を逮捕して拘束するためには、普通の警察じゃ間に合わないので、ナチ党の下部組織の隊員たちを一時的補助警察として利用するんです。こういう状況のなか、国会議事堂が炎上する。これにはいろんな説がありますが、今ではこれはもうナチ党の仕組んだ自作自演の事件という見方が強くなっています」

岩上「そうなんですか!?」

石田「ドイツの歴史の教科書でも、まだオランダ人の共産主義者の単独犯の説が載っている場合が多いんですけれども、最近の新しい機運では、当初から言われていたヒトラー陰謀説が徐々に有力になってきている」

岩上「あ、そうですか」

石田「これはまだ論争が続いているんです。誰が犯人か」

岩上「イアン・カーショーは?」

石田「イアン・カーショーの本では単独犯でしょ」

岩上「そうですね。イアン・カーショーの『ヒトラー』を読んだら、この事件は単独犯で、非常に細かく、その時ヒトラーや幹部のところにどんな報せが届き、お手伝いさんにどう起こされ、どう駆けつけたとか、すごく細かく書いてあります」

▲イアン・カーショー『ヒトラー』(白水社)

石田「ところが最近の新しいアメリカの研究では、その反対のことを言っています」

岩上「なるほど。分からないものですね」

石田「いまだに論争が続いているんですよ」

岩上「ということは、ある種の謀略なんですね。偽旗(にせはた)作戦だった可能性がありますね」

石田「まあ、共産党なんか当初からそう言っていました。今でも、日本共産党の歴史の記述を見ると、そういうことを言っていますけど。歴史研究によって、それが正しかったという方向になりつつあると、私は思っています。

 その話をするとすごく長くなっちゃうのですが、要するに、ヒトラー政権はドイツ共産党による国家転覆の陰謀なんだと断定して、ただちにこの大統領緊急令というのを交付する。これがまさに非常事態宣言です。

 国会議事堂が燃えた。それがきっかけなんで、国会議事堂炎上令と一般的に言うんですね。共産党の国会議員を中心に左翼の政治指導者が一網打尽にされ、あわせて憲法の定める基本的人権を停止する」

岩上「この大統領緊急令(国会議事堂炎上令)というのは、そんな長いもんじゃないと聞いています。非常に簡単なものだと。

 『共和国憲法第48条第二項に基づき、共産主義者による国家の安全を危険にさらす暴力行為を未然に防ぐために、次のことを命令する。(1)共和国憲法第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の事由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)および第153条(所有権の保障)は、当分の間効力を停止する』と」

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石田「これがまさに、48条第二項に書かれているそのものなんです」

岩上「そうなんですね」

石田「大統領緊急令というのは、48条第二項に書かれているんですけど、この基本権を停止するという『この目的のために』、『基本権の全部または一部を停止できる』とあります。

 何度も言いましたが、ヴァイマル共和国の前半に出される大統領緊急令が、すべて行使されたわけじゃないんです。法律に代わる無害なものもあるんです。だけどこの7つの基本権なんですけど、これをこのとき全て停止した。ナチ体制が崩壊するまで続いて、1945年に連合軍がこれを停止するんですね」

岩上「自分の力で停止しなかったわけですね。できなかった」

石田「できなかった。この大統領緊急令が発令された後、戦争が終わり、ナチス体制が崩壊するまでドイツ国民に基本権はなかったということです。

 したがって、令状なしの逮捕も、裁判の介入なしに、警察が勝手に誰でも逮捕できてしまう。予防拘禁という言い方をして、怪しげな人はどんどん捕まえていく。だから、あっという間に5000人ぐらい(※131)が捕まってしまった」

岩上「プロイセンだけで5000人とか言われていますよね」

石田「そう。そういう大量な人間を牢獄に入れるって、牢獄がそんなにあるわけじゃない、それで収容所をどんどん作っていく」

岩上「なるほど。あらたに作る」

石田「そのために必要なのが突撃隊(※132)、補助警察なんです。親衛隊の連中もそれに動員されて秩序のために彼らは働くんですよね」

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▲突撃隊を閲兵するヒトラー(出典・WikimediaCommons)

 岩上「日本の自民党改憲案では『公の秩序』のためには、あらゆる基本的人権に全てエクスキューズがついているわけですね。これは(ナチス・ドイツの大統領緊急令では、権力が何ができるか)、全部書き込まれているわけですけど」

石田「できてしまう。これもそうなんですけど、『州において公共の』ってあるでしょ。共和国政府っていうのはこの場合、ヒトラー政府のことをいっている。

 『州最高官庁の権限を一時的に用いることができる』ってことは、つまりドイツは地方分権が非常に発達している連邦州立国家ですから、言うことを聞かない地方政府がいっぱいあったんです。これを一気に手なづける。こういう名目で。

 例えばナチ党員が、市の市役所に行って、ナチ党のハーケンクロイツをこの州の庁舎に掲げろとか言うんです。『そんなのできない』って言うじゃないですか。そして騒ぎになるでしょ。そしたらこれをとらえて、『公共の秩序』が乱れているという口実にして、一気にこれでバッと入ってしまう」

岩上「なるほど」

石田「それで、市の市長とか州の首相を全部更迭していく。これがナチ化です。具体的にはこういう手続きで、あちこちの政権が全部ナチ色に変わっていく。ドミノ倒しみたいに。ダーッとあっという間ですよこれ。一ヶ月もかからないうちに」

岩上「自民党の改憲草案の緊急事態条項のなかに、『地方の市長に命令することができる』ということが入っています。これはもう、ナチスとそっくりですね」

石田「そうなんです。しかも(ナチスの大統領緊急令では)刑法について色々言っていて、厳罰というふうになっている。死刑をもって罰するとか」

岩上「無期懲役、あるいは死刑をもって罰する。すごい」

石田「つまりいろんな名目で、どんな人間だってこんなふうにできるっていうわけ。だから左翼とか平和主義者とか、反戦運動家とか、みんなこれでやられちゃう」

岩上「自民党の改憲草案における緊急事態条項のなかでは、災害を前面に打ち出しながら、しかし戦争とそれから内乱等とある。ここに内乱がありますね。内乱『等』とある」

石田「そうすると、全部入ってしまいますね」

岩上「挑発的な行動をして、それに対する反対運動、反対行動、デモが起きたら、それをみな『等』に入れて全部くくれてしまえるわけですね」

石田「そういうことになると恐ろしいですよね。さらにドイツは、この大統領緊急令だけでは済まなかったんですよ。ヒトラーにとってみると、大統領緊急令はある意味手段といいますか、本来の目的のための道具だった。

 大統領緊急令によって何がしたかったか。さっき、『共産主義による』と書いてあったでしょ。だから念頭にあったのは、共産主義者の動きを封じ込めることなんです。特に、共産党の国会議員を拘束しているわけです。これは当然、選挙で選ばれた人たちです」

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(※131)あっという間に5千人ぐらい:1933年2月28日、ドイツ、『緊急事態宣言』が出ると、わずか数日中に、約5,000人が司法手続きなしで、逮捕・予防禁され、行方不明になった。

 なお、1932年11月6日に行われた選挙では、66.9%の有権者がナチス以外の政党に投票していたにも関わらず、『緊急事態宣言』後の1933年11月12日の総選挙では、ナチスを支持する票が、全体の92%になっている。

 この司法手続きなしの、逮捕・予防拘禁・その後の行方不明を知ったドイツ国民は、恐怖心と無力感と諦観から、ナチスに投票することを余儀なくされたと考えられる(NETIB-NEWS、2015年11月13日【URL】http://bit.ly/22tVolT)。

(※132)突撃隊(SA):1920年初頭、ドイツ労働者党がミュンヘンのビアホールで開いた大集会での騒乱を沈めるため、レームが立役者となって組織した「会場警備」が始まり。1920年11月に問うの「体操スポーツ部門」となり、1921年7月にヒトラーが党内で権力を掌握した後に「運動に関わる青年男子の身体訓練」という重要な任務を与えた。これにより、「会場警備」は準軍事組織に作り変えられた。これが1921年10月以降、「突撃隊」の名で知られるようになった(参照:『ヒトラー 1889-1936 傲慢』イアン・カーショー、2015)

 突撃隊について、石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』では次のように説明されている。

 「突撃隊は、その制服の色合いから褐色シャツ隊とも呼ばれたように、イタリア・国民ファシスト党の武装組織、黒シャツ隊を範にとっていた。隊員の資格は二五際までの若者に限られたが、退役軍人による軍事教練のおかげで逞しくなり、労働組合や左翼政党の集会を急襲して政敵を混乱に陥れるようなことを平気でやってのけた」[47-48]

乱発されてきた大統領緊急令をヒントに、ヒトラーは授権法で独裁政治を敷いた~凶暴さを隠して、ヒトラーは平和演説をした

石田「いよいよ授権法です。(ヒトラーは)授権法が欲しかったわけですね」

岩上「国家緊急権あるいは大統領緊急令というものは、ヴァイマル憲法の中に書き込まれていた。帝政ドイツから引き継いだものとして仕込まれていて、ヒトラー以前の首相も使っていた。ヒンデンブルクは自分が出していた。それをさらに拡大、恒久化するこの授権法というもののコンセプトを、ナチスはどこで用意していたんでしょうか」

石田「実は授権法というのは、ヒトラーが初めて使ったわけじゃないんです。先ほど言った1923年、有名な天文学的インフレの年なんだけど、あれはなぜ起きたか。ルール地方をフランス・ベルギー連合軍が占領しているんですよ。ドイツが賠償金を払えないから。ある種の戦争みたいな状態になってしまって、それで当時政府は、占領軍に一切協力しないということで、全ての操業を停止するんです。そして、お金がなくなるから、お金を増刷することによって危機をしのごうとする、それが大インフレーションになっていく。

 その国難を乗り越えるために、シュトレーゼマン(※133)の時代に、授権法が国会で成立している。これはしかし分野を限って時間を限定して、緊急事態だということで三分の二の国会の賛同を得て、分野を定めてやっている。国会ではやっぱり時間がかかるっていうんで。そういうノウハウっていうか蓄積が・・・」

岩上「ノウハウがあった」

石田「あったんですよ。さっきの緊急令の場合もそうなんだけど、緊急令でナチ党がやられたこともある」

岩上「なるほど」

石田「自分たちの活動をそれで制限され、同僚が引っ張られたりしたので、やられたことをやり返している。授権法もその時の為政者のやったことを見ていて、これは使えると思ったんです。ヒトラーがやったことは全部自分で考えたんじゃなくて、自分が学んだことなんです。自分の身に降りかかったこと。それを今度は逆手にとって反抗に出る。大攻勢に出るためです。

 ただ重要なのは、ヒンデンブルクも授権法成立に反対していない。むしろ支持している。これは非常に面白いというか、ヒンデンブルクはああいう人ですけど、国民から憲法違反と言われることが怖い。

 授権法じゃなく、大統領の大権をこんなふうに使うことが、果たして本当に正しいのかということをずっと前から法律家などに批判されていて、あまりにも大統領緊急令の乱用が過ぎるということで、ヒンデンブルクもちょっとそれを気にし始めていた。それならもう授権法を作ってやれば、基本的に同じようなことができるし、自分に責任がない」

岩上「大統領緊急権として出すのではなく、恒久法のような形にして、国会で通してしまえば、それ以降は大統領個人が出すものではないから責任がなくなると」

石田「しかもその政府の中に保守派もいるわけです。保守派にはフーゲンベルク(※134)とか有名な政治家がいるんだけど、彼らもこの世界恐慌の危機がまだ続いていますから、経済独裁という言い方があって、経済・財界の利益になることをやるにはやっぱり授権法が必要だと。小回りの利くやつのほうがいいということで、国会をとにかく無形化・無害化するには今がチャンスという感じですよね。保守派の人の政策が容易に実行できると期待したんです」

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▲演説するフーゲンベルク(出典・WikimediaCommons)

 岩上「なるほど」

石田「だから授権法成立の時点でも、まだ(ナチスと旧右翼との間で)同盟関係が成り立っていたということです」

岩上「かつてあったところへ、プチ復古している」

石田「そうですね」

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岩上「で、そのプチ復古だから、以前の経験もあるし、それほどひどいことにはならないだろうと。制限的にやったし、と。無制限じゃなくまた無期限でもなかった。ところがヒトラーがやるときには、無制限でかつ無期限のものになってしまう」

石田「そうなんです。授権法を通すというのは大変なんですよ、やっぱり。これは憲法改正と同じに考えられていたので、国会議員の総数の三分の二以上の出席と、出席した議員の三分の二以上の賛成投票が必要なんです」

岩上「そのために、宣伝に次ぐ宣伝をして」

石田「ヴァイマル共和国の時代に培ったプロパガンダの技術や経験を、ヒトラーは今度は首相として使う。圧倒的に有利な選挙戦なのに、43.9%しか取っていない。この時点でもです。このとき、社会民主党と共産党もやっぱりそれなりに得票率取っているんです。合わせて二十数%にはなっている。国家人民党は8%。確かにこれ過半数は超えるんです。過半数は得たけど三分の二には届かない。それでどういうことをしたか。

 一つはさっき言った国会議事堂炎上事件の緊急令を利用して、共産党員を全員逮捕。全員拘束です。これは当然、これ(授権法の成立)が狙いです」

岩上「議決にあたり、母数を減らす狙いがあるわけですね」

石田「だけどさっき言いましたが、二つの要件がある。三分の二の国会議員が出席しなきゃいけない。共産党員が81名拘束されていますから、社会民主党以下、全員欠席すると定数に満たない。そこでこういう欠席戦術を取ってくる可能性があるので、これを未然に防ぐために、こういう姑息な議院運営規則改正案を議決の直前に国会で提出し、過半数を取るのです」

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岩上「ああ、そうか。だから、社会民主党が欠席戦術を取っても、カウントされちゃうよということですね」

石田「そう。これは三分の二じゃなく規則運営だから半分でいいと。半分彼らとっているわけですよ。これがあったからもう結局どうやっても三分の二通ってしまう。だから、オットー・ヴェルス(※135)の勇敢な演説も、本当にむなしいことを彼は分かっていた」

岩上「社会民主党の党首ですね」

石田「しかも、この3月23日というのはその議決があった日です。これは運命の日だと思いますが、さっき言った補助警察でもあった突撃隊員が、議場の中に入っている。国会議事堂が炎上してなくなっています。使えないんです。これは近くのクロルオペラ座っていう歌劇場を仮の国会にして使っている。このへんにいるのがゲーリング(※136)だと思います。議長ですね。ユニフォーム着ているのはみんなナチ党員です」

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▲焼け落ちた国会議事堂の代わりに、クロルオペラ座で審議が行われた。壁際にずらりとナチスの突撃隊員たちが立つ

 岩上「ああ、みんな着ていますね」

石田「そう。だいたい30~40%以上いますからね。ここにいる人たちは、突撃隊員の若者ですよ。普通はこういうことはあり得ないんですよ。議場のなかにこういうのが入って」

岩上「にらみつけて」

石田「ここでさっきのヴェルスの演説が行われたにもかかわらず」

岩上「しかも、ハーケンクロイツが正面に掲げられていますね。もう、威圧しまくりですよね」

石田「これは歴史的な議決が行われた瞬間だと思います。じゃあ授権法というのはどういうものだったかってことが、次のスライドです。授権法の中でも重要なのはこの第一条、第二条です。『国の法律は憲法に定める手続きによる他、政府によっても制定されうる』とあります」

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岩上「これは、自民党の改憲草案にそっくりの文言が入っているんですけれど。内閣に政令という名前で法律と同等の効力を持つものを出すことができると。要するに、立法府の権限を行政府が持ってしまうわけですね」

石田「そうです。だから、(権限を政府に授けるという意味で)授権法というのです。全権委任法と同じ趣旨のことですね。第二条には『政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる』と書いてあります」

岩上「これこそ、『ナチスの手口』ではないですか」

石田「ヴァイマル共和国憲法は、一度も廃止されていないんです。結局、何が起きたかというと、ヴァイマル憲法が店ざらしというか、あってもないようなもの、無形化、形骸化しました。この授権法と、国会議事堂炎上令、この二つがナチ体制を根底から支える法的基盤でした。あらゆる国の国政は、授権法によって政府の意のままになるということですね」

岩上「ヒトラーに惹きつけられ、社会の空気が変わるという話もご説明いただきたいと思います。日本社会で、本当に貴重な情報をマスコミが萎縮して出さない状態になり、政治的関心が衰えつつある中、非常に重大な局面を迎えるんですけど、ぼんやりと自公政権を支えるムードが形成されつつあると思うんです。さらにこれで三分の二をもし参院選で取ったりすると、さらにもっと強気になっていく。

 では、ヒトラーが大統領緊急令を利用して、あっという間に権力を掌握していったあとに反発は出なかったのか。出るよりも『三月降参者』という人々が大量にあらわれ、ナチスに屈服するすね。こういうムードになっていったという。この点を教えていただきたいのですが」

石田「『三月降参者(1933年春、大量の入党者、とくに公務員)』とありますね。これは当時の言葉ですが、まさに三月、選挙の前後なんですけど、流れが変わってきたのを察知するのが官僚は早いですよね」

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岩上「公務員が」

石田「公務員って権力の近いとこにいるから、書類の流れとか変わってくるんじゃないですか。それを見て、ああ、自分がここに居続けるには入党したほうがいいやということになる」

岩上「保身なんですね」

石田「最初の大量入党者は官僚なんですよ。もう何十万という単位でワーッとなる。これはやっぱり大きかったですね。行政が全部そうなっていくわけですよね。ナチ化がまずそこで進む。

 それから、学校の先生もそうです。最初は偉そうなことを言っていた人も、あっという間にナチ党のユニフォームを着はじめたりするんですよ。単に権力の問題だけじゃなくて、雰囲気が変わる。

 ヒンデンブルクはヒトラー以上に国民的な信頼を集めている。ヒトラーは(国民の間では)信頼なんかあんまりなかったんですね。でもヒンデンブルクは由緒正しいプロイセンの王家の出身で、貴族の出身。それから軍人として偉いしと、そういう人物だった」

 有名な『ポツダムの日(※137)』というのがあります。よりによって、この授権法制定の確か二日前ですね。ポツダムっていうのは、ベルリンの郊外で、プロイセン王国の王国貴族の墓があったり、有名な教会があったり、とても大事な場所なんですよ。ここにヒトラーを招いてこの写真のような式典をするんですね」

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▲「ポツダムの日」式典におけるヒトラーとヒンデンブルク

岩上「これは、何をしているところなんでしょう」

石田「ヒンデンブルクは、自分の寿命が間もなく尽きるということを感じていました。彼はヒトラーを、有名な教会があるんですけどそこに入れて、自分と一緒に並び立たせる。自分の後継者であるということを直接は言いませんけども。

 フリードリッヒ大王(※138)とビスマルク。並んでいるのは全部プロイセンの英雄です。そして、ヒンデンブルク、これもプロイセンの英雄です。そして四人目にヒトラーを据えているんです。つまり、こういうドイツの由緒正しい流れのなかにヒトラーが位置づけられた、というわけですね」

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▲左から、フリードリッヒ大王、ビスマルク、ヒンデンブルク、ヒトラー

岩上「これはポスターですか?切手なんですか?」

石田「色々使われています。絵はがきになったり。売られているんです、たくさん。この手のプロパガンダはいっぱいありますね。

 つまり、ヒトラーは決してどこの馬の骨か分からない人物ではなく、由緒正しいポツダムにつながる人物だというお墨付きを与えているわけです。このときヒトラーはナチ党のユニフォームを着ていませんよね。民間人として軍人の横に並び立つという」

岩上「歴史的正統性、権威を帯びる。あるいは権威を継承するということですね」

石田「そう。ヒンデンブルクは自分にある権威をヒトラーに譲るとまでは言わないけれども、シェアさせてやろうと思った。そのことによって、ヒンデンブルクの言うことをヒトラーは聞いてくれると思ったんでしょう。無茶なことはやらないってこともあったかもしれませんね。だけど、三つの共通の目標があるんです。それはやらさなきゃいけない。

 もう、共産党弾圧を始めているわけですよ。再軍備は、だけどこっそりと秘密のうちに演説をやって、軍部の前で再軍備のための計画を紹介しているんですよ。説明しているんです」

岩上「すごく重要なところだと思います。僕ら戦後に生まれた人間は、歴史的な話としてヒトラーの話を聞きますよね。ヒトラーは初めから凶暴な、攻撃的な演説をし、ものすごく独裁者的で非常に好戦的な人物だった、と。しかし、実はヒトラーは、非常に凶暴な側面と、平和主義者を偽装するような面があったということですね」

石田「全くその通りです。このときは、平和主義的な要素を見せていますね。5月には有名なベルリンの国会での演説があって、それは平和演説(※139)と言われていました」

岩上「ヒトラーが、平和演説をしていたんですか?」

石田「自分は平和主義者であると。『鳩のイメージである』とやるわけです。他方で、彼は今言ったように、秘密裡に軍の将軍を集めて、秘密の演説をやって、再軍備のための計画なんか紹介して、軍の支持を集めているわけです。『自分が首相になった。4年間でドイツを大国にする』と言うんです」

岩上「大国というのは、軍事大国ですね」

石田「そう、軍事大国への道。だから、いかにヴェルサイユ条約が不当なものかということでですね。みんな思っていたことなんですが、ヒトラーがそれに確信を与え、それを自分の存在理由だと軍の前で言うわけです」

岩上「『戦後レジーム(※140)』からの脱却とか」

石田「まさにそれですね。徴兵制を導入するという。徴兵制はヴァイマル期にはなかったんですよ。でも、徴兵制がないとやっぱり他の国と比べても色々見劣りするし、と」

岩上「戦力を補充できないですもんね」

石田「徴兵制のことも秘密裡に約束している。表向きは国会で平和演説をやり、それで反対派だった社会民主党、まだこのときは議席あったんだけど、社会民主党に対する目くらましですね。幻惑される人たちがいっぱい出てくる。ヒトラーも良いこと言うじゃないかと。本当に字面だけ見れば、平和主義的なことを言っているんですよ」

岩上「国内外に目くらましをしていた」

石田「そう」

岩上「国際社会、国際世論も、ヒトラーの演説を見てびっくりするわけですね。イギリスの新聞紙なんかでも、ヒトラーは平和主義者だ。ジェントルマンだって言っています。1933年、1934年頃は。

 そういう人を騙す方法、世論を味方につけるためのノウハウはもう完全に習得していたんでしょうね。ゲッベルス(※141)なんかもそのためにあらゆる知恵を絞っていたのだと思います。

 ただこのポツダムの日は長いこと、ゲッペルスが仕組んだんだって言われていたんですけど、今日の研究ではむしろヒンデンブルクの主導で行われたことが明らかになっていますね。保守派もヒトラーに歩み寄ることによって、ヒトラーを手なづけけられればいいと思っていたんでしょうね。でもそうならなかった」

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(※133)シュトレーゼマン:ドイツの政治家。第一次大戦後、ドイツ人民党を結成し、1923年に首相となってからは通貨安定・経済再建に尽力した。

 外務大臣としても活躍しており、1923年には首相兼外相としてルール占領に対する消極的な抵抗を放棄し、協調外交を推進。1926年にはフランス外相アリスティード・ブリアンと共にノーベル平和賞を受賞している。

 また1928年、ハイデルベルク大学から名誉博士号を贈られた。1929年に脳卒中のため急死(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29YmXgM)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2b7q1rg)。

(※134)フーゲンベルク:ドイツの実業家、政治家。ドイツ国家人民党(DNVP)党首。1894年には国粋主義団体である全ドイツ連盟の創設に加わっている。実業家として、新聞社、映画会社などを買収、マス・メディアのコンツェルンを築いた。

 1933年に成立したヒトラー内閣で、経済相と食糧農業相を兼務。フーゲンベルクはヒトラーを傀儡首相にする意図があったらしく、「我々の手でヒトラーを枠にはめてやる」と語っていたという。

 しかし1933年3月5日の総選挙で国家人民党は8%しか得票できず、フーゲンベルクの影響力は低下。

 その後ナチスからの圧力で6月27日には経済・農業大臣を辞職し、翌日には国家人民党解党へ追い込まれ、さらにはフーゲンベルク・コンツェルン傘下のメディアも次々と強制的に売却されてナチスの支配下に入った。

 最後まで所有し続けていたメディア企業も、1943年にライン・ヴェストファーレン工場の株と引き換えに売却された。なお、父カール・フーゲンベルクは、プロイセン王国の国会議員である(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2aiPySN)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bRhaj7)。

(※135)オットー・ヴェルス:ドイツの政治家。1873年、飲食店主の息子として生まれる。1906年から政治活動に専従。1919年から1939年までドイツ社会民主党(SPD)の党首を務めた。ナチ党が国会に提出した全権委任法(授権法)に対する反対演説で知られている。

 1933年3月23日、ヴェルスはアドルフ・ヒトラーの提出した全権委任法採決に際し、国会で最後の抵抗を行い、全権委任法に反対の演説を行った。ヴェルスはヒトラーを直接見据えて 「君たちは我々の生命と自由を奪うことができる。しかし、我々の名誉を奪うことはできない」と宣言。

 この演説に対し、ヒトラーは「私もあなた方に賛成してもらいたくはない。ドイツは自由になるべきだ。しかしあなた方によってではない」と答弁している。社会民主党の94議員は法案に反対票を投じたが、残りの全議員は賛成票を投じ、法案は可決された。

 全権委任法の可決から数週間後、ヒトラー内閣により、社会民主党をはじめナチス以外の政党すべてが非合法化された。現在、Youtubeで当時のヴェルスの演説の音声が日本語字幕付きで公開されている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29PlAl2)(参照:Youtube【URL】http://bit.ly/2b7s3HV)。

(※136)ゲーリング:ヘルマン・ゲーリング。ドイツの政治家、軍人。元・プロイセン首相、元・ドイツ帝国総元帥。

 士官学校に学び、第一次大戦ではエースパイロットとして活躍した。戦後の1922年、ヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。1928年には国会議員に当選している。

 1932年にナチ党が第一党となると、ゲーリングは国会議長に選出された。ナチ党と上流階級の橋渡し役を務め、ナチ党の党勢拡大と政権獲得に貢献。1933年のナチ党政権誕生後には、プロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相、森林長官、狩猟長官など要職を歴任し、同年、秘密警察・ゲシュタポを組織。ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。

 対外穏健派だったため、強硬派のヒトラーとの間で次第に距離ができていき、1930年代終わり頃からは政治的な影響力が低下。しかし戦後のニュルンベルク裁判では、最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決した。死刑判決後に服毒自殺(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2awZSml)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2b7r4dn)。

(※137)ポツダムの日:1933年3月21日、ドイツ東北部の都市・ポツダムで新国会の開会記念式典が行われた。1871年3月21日、ビスマルクがドイツ帝国議会を召集したことに合わせたと言われている。これに先立つ1933年3月5日に国会が改選され、社会民主党 (SPD)、共産党 (KPD) 以外の議員がパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領臨席のもと参加。ヒトラーはまだ独立体制を保持していなかった。この行事は保守派に好感を与えることが意図されており、ヒンデンブルクに代表される「古き偉大さ」とナチズムの「若い力」の結合を示すものだった。

 本文中にもあるように、ヨーゼフ・ゲッベルス率いる国民啓蒙・宣伝省が企画したとされてきたのがこの「ポツダムの日」である。現在では石田教授が言及しているように、ヒンデンブルクの企画とされているようだ。この2日後、1933年3月23日に「授権法」が制定されている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29XVhLA)(参考:ホロコースト百科事典【URL】http://bit.ly/2b5jKlm)。

(※138)フリードリッヒ大王:優れた軍事的才能と合理的国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされた。

 学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し、哲人王とも呼ばれている。

 即位の前年に著した「反マキアベリ論」では、開明的な君主の理想を描いたが、王座に就くとマリア・テレジアのオーストリア継承権に異議を唱え、シュレジエンを不法に占領。マキアヴェリストとしての本質をあらわにすることとなった。

 なお、寒冷でやせた土地でも生育するジャガイモの栽培をドイツに広めたことでも知られている。民衆がジャガイモを嫌っていることを知るや、毎日ジャガイモを食べて率先垂範を示したという(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29YsAvv)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2b7sZMb)。

(※139)平和演説:1933年2月にヒトラーが行った演説について、石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』では次のように説明されている。

 「この演説でヒトラーはいつもの過激な扇動家とはまるで別人の、穏やかで信心深い政治家を装った。初めてヒトラーに耳を傾ける全国の聴衆を意識してのことだった。

 ここでヒトラーが訴えたことは、国内的には14年間の罪深い共和国政治のもとで深まった国民相互の対立と亀裂を克服して『国民的和解』をはかること。14年間にわたりドイツを破壊してきたマルクス主義の撲滅をはかること。対外的には軍縮問題に関連して国家間の平等を実現することだ。キリスト教と家族の意義にも触れたが、反ユダヤ主義や領土拡張にまつわる言辞はなかった」[137]

(※140)戦後レジーム:「レジーム」は「体制・政治体制」の意。現代の日本では主に、第二次世界大戦後のGHQによる占領政策でできあがった、日本国憲法を始めとする法令等のほか、広く戦後体制を意味する言葉として使われている。

 安倍晋三氏はこの体制から「脱却すべき」と再三唱えている。憲法をはじめとして、アメリカに押しつけられたものとする意見も保守派の間では少なくない(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a2DfrS)(参照:はてなダイアリー【URL】http://goo.gl/9RDkhL)。

(※141)ゲッベルス:ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」と称された。

 小児麻痺のため下肢が不自由になり、兵役を拒否されている。1925年にナチスに加入。1926年に党ベルリン管区指導者、1929年に党宣伝部長、1933年には国民啓蒙宣伝相となっている。

 1933年8月20日、ベルリン第10回放送展で外国放送が聞けない「国民ラジオ」がはじめて公開され、ゲッベルスは「19世紀は新聞であったが、20世紀はラジオである」と公言。ゲッペルスは「国民ラジオ」を全国28の工場で大量生産させ、安価な76マルクで購入できるようにして普及につとめ、国民を扇動した。1945年5月敗戦直前に自殺(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1F8GPu1)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2b7x2ee)。

国民啓蒙・宣伝省とナチスのプロパガンダ政策~今も残る「ヒトラーの政策は正しかった」という誤解

石田「大事なのは各界の有力者、政治に直接関係ない人たちが、この頃こぞって支持表明をしていることです。ハイデガー(※142)とかカール・シュミット(※143)が、この3月~4月にかけて支持声明を出し、そして入党している。これはやっぱり学生たちに大きな影響を与えましたよね。公然とやりましたから。新聞にもワーッと出るような。

 今は非常時なんだ、共産主義者が何をやるか分からないような時期だ、実際に国会議事堂が炎上しているじゃないか、というわけですね。多少の自由が制限されてもやむを得ない、と。表立って異論を唱えなければ、みんな生きていけるでしょうというわけです。いっそナチ党員になれば」

岩上「生きていく上でも楽だと」

石田「ナチ党員になって、今や損することはないだろう。ワーッと党員が増えていくということなんですよね。これが1933年の状況です。

 こういう雰囲気を演出したのは、やっぱりこれ、『国民啓蒙・宣伝省』です。ゲッペルスは、ヒトラー政権が発足した当時は何の役ももらえなくて、がっかりしていたんだけど、3月になって、この国民啓蒙・宣伝省というのができて、ここでナチ党の宣伝組織が今や国家の組織になるわけです。ナチ党というのは、元々プロパガンダの政党なんですよ。

 ナチ党っていうのはろくに実績もないのに、どうやって人を集めたかっていうと、ヒトラーのカリスマ的なしゃべり。確かにあれは人を惹きつける。たくさんの人が集会に集まる。集会と宣伝によってナチ党は力を見せていたわけです。

 それで他の支持者、他の有力者と関係をよくしたりして、自分たちの政治的な可能性を実現しようとする。つまり、宣伝と集会の政党だったんですよ。その宣伝活動をナチ党がやるなかで、どうやったら大衆を動員できるか、ずっとゲッベルスなど、ナチ党の宣伝関係の専門家は、その知恵を集めてきていたわけですね。これが今度は国家の機関としてフル稼働するわけです。

 ラジオはたしかにヴァイマル期の時に使われるようになるんだけど、それまでラジオは政治に使われることはなかったんですよ。選挙でも使われてはいません。でも、ヒトラーが首相になると、全面的にラジオが使われる」

岩上「なるほど」

石田「それをオーガナイズしたのがゲッべルスです。それで、民衆宰相とか、今までにないような言葉使いで、つまり受け入れられやすいようなヒトラーのイメージを作ってあげるわけです。

 親しみやすい人物像を本当に演出する。子供と手をつないでにこにこしている写真とか。それを絵はがきにして売り出す。雑誌にも載るようになる。グラビア誌にワーッと出るようになるんです。

 失業問題の解消(※144)をヒトラーの手柄とみんな信じているけど、そんなことはない。いろんな操作をしながら、数を減らしていったのです」

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▲映画会社を視察するヒトラーとゲッベルス(出典・WikimediaCommons)

岩上「これは今の日本の問題ですが、アベノミクスで失業が減ったと散々喧伝されています。だけど、実際には非正規雇用が増えていて、正社員が減っている(※145)。

 今回の参議院選挙でも重要な争点だと思いますけど、それは失業の本当の解消と言えるか。どんどん非正規に置き変えて、どんどん実質賃金が下がっていますよね。GDPだってマイナスで、減っていっている(※146)わけで、ただそれを一生懸命プロパガンダでごまかしているわけです。当時ヒトラーはどういうふうに失業問題を解消したとプロパガンダしたわけですか」

石田「これはとても重要なポイントだと思います。いまだにヒトラーは偉大だという人は、わずかしかいませんが、それでもいますよね。その時に失業問題の解消が挙げられるんです。でも、それはまさにプロパガンダの影響が今まで尾を引いていると言わざるを得ない。

 確かに、それまでのデフレ政策、財政均衡の立場から公共投資をどんどんやって、青天井の公共投資を予算を組んでやるわけです。確かに、それで景気が良くなった面もないわけではない。だけど、実際の失業者がどういうふうにして統計上減っていったか。

 一つは、国民に対する勤労動員をかけるんですよ。勤労動員。これは特に青少年に対して。

 あちこちでシャベルを担いだような隊列の、若者はそのユニフォームを与えられて、ほんのわずかのお小遣いをもらって、あちこちに行って橋を作るとか、道路を直すとか。これはナチ的なヒトラーユーゲント(※147)のやり方なんですけど、それを一般の国民に広げるんですよ。参加すれば、ちょっとお金がもらえる」

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▲「ヒトラーユーゲント」の隊員(出典・WikimediaCommons)

岩上「安いんですね」

石田「でもまあ、キャンプファイヤーをやったりするようなこともあって、同時にこれは民族共同体を実践する側面もある。それから、女性の勤労者を家庭に帰すんですよ。これが決定的なんですね」

岩上「これもまさに今の日本と重なる課題じゃないですか。安倍政権は、『一億総活躍』と言っているんですけど、女性が働くためには、子供を預ける環境がなければ、女性は働けない」

石田「そうですよね」

岩上「一方で、安倍政権は女性が活躍する社会を、とプロパガンダはしているんです。口だけ。けれども、女性が子供を預けられる環境のための3000億円すらも出し惜しみする(※148)。世界中に金をばらまいているのに。一方で安倍政権を支える日本会議のような組織は、家族主義の導入を掲げています(※149)」

石田「そうですね」

岩上「ナチスと同じことををすごく強く言っているわけです」

石田「まさにそうですね」

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▲「一億総活躍推進室」の看板を掲げる安倍総理と加藤勝信・一億総活躍担当相

岩上「男女の分業、男女の役割をかつてのように戻せということも、そこには含まれているわけです。だからこの点はものすごく、重要ですよね。婦人が働けなくなる。結婚するしかない」

石田「共働きを禁止するんですよ。DINKS(Double Income No Kids――2収入、子供なし)(※150)を禁止するんですよ」

岩上「DINKS禁止なんだ!?」

石田「そう。だから結婚したら、女性はもう家に帰れってことですよね。それから、子供、出産を促すために、これはナチズムの思想にも関係あるわけだけど、子供を増やせというわけです。そうすると、子供手当ってやるんだけど、4人産んだらお金返さないでいいとか。そういうようなやり方をする。子供を作ることが女性の役割だと。当然それは失業者にもつながっていきますよね。数を減らすという意味で。

 それから、ここに書いていませんけども、徴兵制の導入(※151)ですね。100万人規模でやっぱり減っていくわけですよね。そういう仕掛けがあったわけですよ。それはアウトバーン(※152)とかありますけど、アウトバーンは確かに多少、失業減少に貢献したと言われていますけど、元々ヒトラーのアイデアではないんですよね」

岩上「ヒトラーのアイデアではない」

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▲アウトバーン起工式で演説するヒトラー(出典・WikimediaCommons)

石田「アイデアではないんですよ。そういうのを全部自分の手柄にして、『これは私がやった』というのをゲッベルスが演出するんです。みんなそれを信じるわけですよね。

 僕は失業問題で、ナチスの貢献がゼロだったとは言いません。あることはあった。企業減税もあるんですよ。それから、住宅補助とかいうのもあるんですよ。それからもちろん、鉄道とか郵便局が人を雇用するような政策を講じている。そういうのは確かにあります。前の政権はそういうことに消極的だったけど、例えば、シュライヒャーとか、パーペンなんかはもうそういうことを始めていたんです」

岩上「あ、なるほど。先ほどの大統領緊急権を利用した大統領内閣たちは」

石田「そうそう。やっていたんですよ。それを」

岩上「先行していたんですね」

石田「やっていたんです。ただ規模を大きくした。無制限にしたのがヒトラーの特徴で、なぜそれができたかというと、やはり授権法です。授権法が招いた事態ですが、続々と新法を制定するわけですね。これはまさに、『決められる政治』なんですよ。

 ひとつひとつを国会でやっていたら、何時間かかるか。議論百出で結論が得られない。廃案になった法案もいっぱいあるわけですよ。

 国会の会期日数は1930年から1932年までこのように減っている。そして、これもヴァイマル期のデータですが、国会で成立した法律って1932年までにはこのように減っていって、逆に緊急令が増えていっている。ところが1933年以降、緊急令はほとんど使われていない」

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▲ドイツ国会の会期日数

 岩上「なるほど」

石田「ヒトラーが政権を握った1933年には、緊急令がいま言った国会議事堂炎上事件で使われていますよね。ところがもう使われない」

岩上「授権法があるから、もういいと」

石田「代わりに授権法で、ぼんぼんぼんという感じで『決められる政治』が実現した。つまりこれは大統領緊急令、大統領統治というのは移行期の措置で、1933年になると、もう法律が政府のもとで作られるようになる。国会は事実上開店休業。もう意味がないんですね」

岩上「繰り返しますけど、自民党の改憲草案の緊急事態条項では国会をパスして内閣が政令を出せる。それが法律であるということで、この『決められる政治』ができるようになる」

石田「そうです」

岩上「安倍さんが言っているとおり、『この道を前へ』みたいな形になるわけですね」

石田「だから、政府の意のままですよ」

岩上「意のままですね」

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▲「この道を。力強く、前へ。」というコピーが踊った自民党のCM

石田「意のまま。一般にナチ時代にヒトラー政府が作った法律はナチ法と言われるんですよ。ところが、ナチ法の中にはまともなものもあるんです。政府がやったことの中には、国民のニーズに応えるものもあります。自然保護法(※153)とか出てくるんですよ。良いものもあるんです」

岩上「エコロジカルだったりするんですよね、ナチスって(※154)」

石田「そう。よく言うんだけど死体を焼却する。昔この当時はまだみんな遺体は埋葬していたでしょ」

岩上「土葬だったんですね」

石田「火葬するための法律とか作るんですよ。これはナチ的かどうか分かりませんけど、近代化には役に立つ。衛生的にもいいという」

岩上「合理的だったりする」

石田「昔は色々とカトリックがうるさいこと言ってできないとか。しかしこの時、続々とこういう法律が制定されるわけです。ドイツも近代化の過程のなかにあったから、近代化に必要なこともやっていくわけです。あっという間にやっていくわけですよ。世の中がなんかダイナミックになったなと思った人はたくさんいたと思います」

岩上「いたと思います。『意志の勝利(※155)』という記録映画がありますね。1934年ですから、権力を掌握してから一年後です」

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▲ナチスによる党大会の様子(出典・WikimediaCommons)

石田「ヒトラーが総統になった直後。ヒンデンブルクが亡くなって、ヒトラーが唯一の指導者になった。ヒトラーは総統という地位を手に入れて、文字通り大統領と首相の二つの権限を自分の中に体現する。絶対の指導者になった時の、その党大会の模様なんですよ。これは、レニ・リーフェンシュタール(※156)が撮った記録映画ですね」

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▲ゲッベルスとレニ・リーフェンシュタール(出典・WikimediaCommons)

 岩上「レニ・リーフェンシュタール。そのレニ・リーフェンシュタールに僕は会ったことがあるんですよ。実は、冷戦が終わった直後、東西ドイツ統合前のタイミングで、取材したときに、なんと言っても、民族の勝利。ベルリンオリンピック(※157)の記録映画・・・」

石田「『民族の祭典(※158)』ですね」

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▲ベルリンオリンピックの開会式(出典・WikimediaCommons)

岩上「『民族の祭典』。あの映画の話を聞きたいって言ったら会えたんですね。彼女の自宅で会って、それでナチスの話とかして、録音中には言わなかったですけど、取材が終わって帰ろうとしたときに二言三言、『でもナチもヒトラーも良いこともしたのよ』って言って。え?っと、びっくりするような発言でした。『失業を減らしたりとか、インフレを抑えたりしたのはヒトラーだ』と言ったんですよね」

石田「当時の人はそういうふうに信じたんですよ」

岩上「思っていた」

石田「でもそれ自体がプロパガンダなんですよ。だけどそれをプロパガンダと思いたくない。やっぱり、リーフェンシュタールは共犯者ですよ」

岩上「そうなんですね」

石田「ナチのイメージづくりに協力した人です。もちろんヒトラーに請われてやったわけですよね。

 ここで注目してほしいのは、これ、9月なんですよね。1934年の9月。これは今言ったよう、ヒンデンブルクが亡くなる一ヶ月前に、有名なレーム(※159)というナチのナンバー2を粛清しているんですよ。

 レームというのは突撃隊の指導者でした。突撃隊というのは、ヒトラーのナチ運動が全国的に広がっていくうえで、ものすごく大きな役割を果たした。しかし、武装の暴力組織なんですよね。ヒトラーが首相になった後は、これがヒトラーから見ると鬱陶しくてしょうがないんですよ」

岩上「さっきの平和、ハト派としてのヒトラーなんていうイメージづくりをしている時に邪魔なんですね」

石田「そう。過去の汚れ役だった人たちですから。これが実は一時的にワーッと大きな組織になるんですよ、ヒトラーが首相になると。ここにはいろんな狼藉を働くようなやつがいっぱいいて、これがヒトラーの信頼を揺るがしかねない。

 特にこのレームは、元々軍人です。第一次世界大戦の軍人で、戦後は兵器を扱っていた。兵器をナチ党に流したりして、ナチ党に有利な環境を作ってやっていた。このレームはヒトラーが首相になると、今度は、SA(突撃隊)を中心とした『国民軍』を作ろうと言い始める。『国防軍』と対立し始めるんですよ。今ある国防軍という正規軍を追っ払って、自分を軍のリーダーにするっていう」

岩上「大胆ですね」

石田「これが、評判が悪いんですよ。ヒトラーはこれを粛清する。粛清することによって、国防軍とか既存の保守エリートとの関係をよくしていこうとするわけです」

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▲エルンスト・レーム(出典・WikimediaCommons)

 岩上「ドイツ国防軍というのは、再軍備前から国防軍という名前だったんですか」

石田「訳すと、『ライヒ』というのは難しいんですけど、共和国軍と言っても構いません」

岩上「国軍だった」

石田「国軍だったんですね。国軍と言いますね。それをヒトラーはもちろん1934年に国防軍に名前を変えるんですよね」

岩上「これはドイツ語ではなんて言うんですか?

石田「Wehrmacht」

岩上「これもまた、安倍政権は自衛隊を国防軍とわざわざ変える(※160)」

石田「Wehrmachtというのはドイツ語ですけど、Wehrというのはやっぱり防衛という意味なんですよ。machtは力っていう意味、軍という意味。だから、防軍とは言えないので、国防軍と日本語であてるんですよね。

 この党大会の時には、SAというそれまでナチ党のために働いていたこの組織が粛清された。そのことによって人心が動揺しているんですよ。それを掌握する狙いがあった。

 そしてSAが今やもう粛清されて、ヒトラーの言うことを聞くようになったのを象徴するのが、この3人なんですよ。この真ん中にいるのがヒトラーで、こっちがヒムラー(※161)。もう一人はルッツェ(※162)というレームの代わりに突撃隊幕僚長に任じられた人です。SAの人間を引き連れて秩序を回復する。新しい秩序が生まれたというのがこの立ち位置で分かるようになっているんですよ。これを撮ったのがリーフェンシュタール。だから、まさにプロパガンダ」

岩上「そうですよね」

石田「この後、ヒムラーという指導者がナチ党の実質的なナンバー2として、ホロコーストにつながるような動きをしていくんですよね。これも演出されているわけです」

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▲ハインリヒ・ヒムラー(出典・WikimediaCommons)

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(※142)ハイデガー:ドイツの哲学者。「ハイデッガー」と表記される場合もある。キリスト教神学、フッサールの現象学、カント、ヘーゲルなどのドイツ観念論、キェルケゴール、ニーチェらの実存主義の影響を受け、独自の存在論哲学を展開。

 1927年の主著『存在と時間』では存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い」を立てた。また、ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。1933年5月1日のメーデーを改称した「国民的労働の日」をもって、22名の同僚教授とともにナチス党に入党しており、たびたび議論にのぼる。

 なお、日本とのつながりという点では、1954年に東京帝国大学の手塚富雄教授と対話。その内容がのちに「言葉についての対話」として刊行されている(参考:大阪大学【URL】http://bit.ly/2bcWsWW)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2ab6BDy)。

(※143)カール・シュミット:ドイツの法学者、政治学者。法哲学や政治哲学の分野に大きな功績を残している。

 1932年には『政治的なものの概念』を著した。同書では、人間の善性を政治理論から排除しており、常に敵の存在を前提に考えた友敵理論を展開。宗教、経済、人種などの対立を政治的対立になりうるものとして、誰が敵なのかを判断することが重要であるとした。

 1933年から政権を獲得したナチスに協力し、ナチスの法学理論を支えた。しかしナチス政権成立前に、『合法性と正統性』で、共産主義者と国家社会主義者を内部の敵として批判したこと、ユダヤ人のフーゴー・プロイスを称賛したことなどが原因で、1936年には失脚。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判で尋問を受けたが不起訴となった(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1NN5up8)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bdh4y2)。

(※144)失業問題の解消:戦後初期の西ドイツで実施された住民意識調査(1951年)によると、「20世紀の中でドイツが最もうまくいったのはいつですか?」という問いに対して、回答者の40%がナチ時代の前半をあげているという。実際、ナチ時代の前半は雇用が安定した時代でもあった。ヒトラー政権が誕生した1933年1月末のドイツの失業者数は、600万人であったが、1933年には480万人、1934年には271万人へと減少した。しかし、ヒトラーの景気対策には「からくり」があった。労働市場から若年層や女子の労働力を減らし、そこに失業者を充てたのである。若年層は土地開拓や道路建設などの勤労奉仕に従事させられ、女子には結婚奨励貸付金を交付し、勤労意欲をそいだ。最大の失業者対策は、徴兵制度だった。1935年の一般徴兵制導入により、失業者はさらに減り、1939年にはドイツの失業者は約12万人にまで減った。さらに、ドイツの人々の記憶にナチ時代の前半が「20世紀の中でドイツが最もうまくいった時代」として刻み込まれているのは、プロパガンダによるところも多い。石田勇治氏は『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)の中で次のように述べている。

 「ゲッベルスの啓蒙宣伝省は、六〇〇万人という絶望的な数が総統と国民の懸命な努力によって次第に減少していく様子を、ラジオのニュース番組や新聞報道を通じて逐一詳しく伝え、人びとの強い関心を惹きつけた。こうして失業問題の解消は、ヒトラーのもとで一丸となったドイツ国民の一大事業の成就として喧伝され、『労働をめぐる戦い』に勝利したヒトラーの偉業が大々的に讃えられたのだ」[213-214]

(※145)実際には非正規雇用が増えていて、正社員が減っている:2012年の第二次安倍内閣時点では正規雇用者は3,340万人。2013年には3,294万人、2014年には3,278万円に減っている。2015年には3,304万人に微増しているが、それでも2012年と比較すれば、30万人以上減少している。ところが安倍首相は2014年から2015年への増加のみを取り上げていることが指摘されている。なお、非正規雇用は167万人増加している(しんぶん赤旗、2016年6月11日【URL】http://bit.ly/2a7b3l1)。

(※146)GDPだってマイナスで、減っていっている:2014年11月17日、7-9月期のGDPの速報値は減少し、国内外のメディア、政治家、政治評論家などから批判がなされた。2015年―2016年でも微増、微減を繰り返し、2016年2月の発表でも再び縮小に転じている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1FNBZUR)(時事通信、2016年8月15日【URL】http://bit.ly/2b7zjJj)(BBCニュース、2016年2月15日【URL】http://bbc.in/1QCTuXc)。

(※147)ヒトラー・ユーゲント:1926年に設けられたナチス党公認のファシズム青少年組織で、15~18歳の青少年で構成されていた。1936年のヒトラー・ユーゲント法の導入により、国家の唯一の青少年団体となり、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた。ヒトラー・ユーゲントにおいては、同世代の指導者から肉体の鍛練、準軍事訓練、祖国愛が、民族共同体の一員である青少年に集団活動を通じて教え込まれた(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29O31B6)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bH37JH)。

(※148)女性が子供を預けられる環境のためには、たった3千億円も配備しない:待機児童ゼロを必ず実現させるためには、保育士の待遇改善策が喫緊の課題となっており、取り急ぎ必要な予算額は、年間3000億円と推計されている。しかしその財源を得るのは容易ではないと政府は出し惜しみし、その捻出のためには年金・医療など高齢者向け予算、あるいは公務員の人件費削減などが話題に上っている(参考:MediaGong【URL】http://bit.ly/29PDOmr)。

(※149)日本会議のような組織は、家族主義の導入を掲げて:日本会議では夫婦別姓に反対するとして、理想とする家族について記した文書をPDFで公開している(参考:日本会議【URL】http://bit.ly/2aja6dH)。

(※150)DINKS:共働きで子供を意識的に作らない夫婦、またはそのライフスタイルを指す。Double Income No Kidsの略。互いの自立を尊重し、それぞれの仕事に価値を見いだす結婚生活をいう。意識的に子供を作らない考え方を指すため、結婚してまだ日が浅いために子供がいない夫婦、何らかの事情により子供を持つことができない夫婦などは通常、DINKSに含まれない。

 なお、子供を持ちながら「積極的に」夫婦共働きを継続するライフスタイルをDEWKsという(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29PF3BT)(参照:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bVhuNx)。

(※151)徴兵制の導入:(※144)でも紹介したように、ナチスの一般徴兵制導入は雇用政策と一体化したものであった。石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)によると、「1935年(3月)ヴェルサイユ条約に反する形で一般徴兵制が再導入された」「1935年には1914年生まれの男子が対象に始まった」[213]

(※152)アウトバーン:ドイツ・オーストリア・スイスの自動車高速道路の総称。ハフラバ(ハンブルク=フランクフルト・アム=バーゼル間自動車高速道路建設協会)によってケルン=ボン間の道路が完成。「アウトバーン」の名称は1929年にこの団体が命名した。

 ナチス政権下では、アウトバーン関連に1935年6月までに4億マルクが投資され、最大12万人の雇用が行われている。ただしアウトバーン関連労働者の一部については少額の手当と衣食住の支給が行われたのみで、賃金と呼べるほどの額は受け取っていなかったとされている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1VYy7GI)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bsGTfW)。

(※153)自然保護法:政権獲得後、ナチスは自然保護に関する立法を行った。ナチスはドイツ民族にとって森林が重要なものととらえ、若木の伐採を禁止し、木材生産のための私有林を保護した。ゲーリングが森林長官・狩猟長官に就任した。

 しかし、たとえば1934年に制定された「森林の種に関する法律」は、ドイツ森林の価値の高い遺伝資質のある植物を保護し、逆に遺伝的に価値の低いものを除去するという考え方であり、ナチスの種に関するイデオロギーが反映されたものだった。

 なお、ナチスは動物保護も行っており、「動物の屠殺に関する法律」では、屠殺するときは麻酔してから行うことを義務づけているが、これは宗教上定まった屠殺方法のあったユダヤ人にとって不利益となる法律であった(参考:人間環境論集 5, 55-69, 2006-03-31【URL】http://bit.ly/2bVhuNx)(参考:NAVERまとめ【URL】http://bit.ly/2bdov8o)。

(※154)エコファシズムは、環境保護や動物愛護などを理由に、異論を排除して全体主義的な政策を推進し、権威主義や人権抑圧などを正当化しようとするイデオロギーの一種。ナチス政権下のドイツでは、1933年に動物保護法、1934年に国家狩猟法、1935年に国家自然保護法が制定され、動物の虐待の禁止、麻酔なしの生体解剖の禁止、野生生物の保護のため雑木林の保護などが行われた。

 その一方で、豚などの動物を忌み嫌い、捕虜やユダヤ人に対しては動物以下の扱いが行われた。これは人間と動物の境界を曖昧にすることによって、人間に対する殺人のハードルを動物のレベルにまで下げることになったためとの解釈が行われている。

(※155)意志の勝利:レニ・リーフェンシュタール監督による記録映画。1934年製作。1935年ヴェネツィア・ビエンナーレ金メダル、1937年パリ万博グランプリを獲得。1934年に行われたナチ党の第6回全国党大会の様子が記録されている。日本では1942年3月に公開。ナイスに協力したプロパガンダフィルムと考える人もいるため、現在ドイツでは法律で『意志の勝利』の一般上映が禁じられている。

 日本では2009年8月に東京でリバイバル上映が行われ、同年11月にはムック『ヒトラー伝説』(2009年、コスミック出版)に付属する形でDVDがリリース。翌2010年1月には音声解説などのついたデジタル・リマスター版DVDが発売されている。

 製作に使用されたカメラは16台、スタッフは100人以上、撮影フィルムは60時間分。リーフェンシュタールは、この映画の監督をアドルフ・ヒトラー自身から直接依頼された。自伝によれば、リーフェンシュタールは宣伝相であったゲッベルスの嫉妬を買いたくなかったうえ、ヒトラーの提案である「意志の勝利」というタイトルが大仰で芸術性のないことに嫌悪を感じたこともあって、当初は製作を断ったという。しかし結局はヒトラーの非常な熱意と、題名以外は自由に製作させるという約束に動かされて監督を引き受けることになったと言われている。それから67年を経た2009年8月に東京でリバイバル上映が行われた。

 戦後、リーフェンシュタールはナチズムへの協力者として訴追されることになったが、長い審判の後否認され、無罪となった。しかしその後も非難は続き、リーフェンシュタールは名誉毀損の訴訟を100件以上起こした(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2abjAFk)。

(※156)レニ・リーフェンシュタール:ドイツの映画監督、写真家。世界最年長のスキューバダイバー。ナチ政権下のドイツで製作されたベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』と、『意志の勝利』が、ナチスのプロパガンダ映画であるという見解から、戦後はナチスの協力者として、活動はほぼ黙殺された。1970年代以降、アフリカのヌバ族を撮影した写真集と水中撮影写真集の作品で再評価の動きが強まった。

 なお、リーフェンシュタールの日記では1932年当時、ヒトラーの演説を見て強い感銘を受けたほか、『我が闘争』を読んだという記述がある。リーフェンシュタールは自伝において、『意志の勝利』や『オリンピア』撮影中に、ゲッベルスによって撮影を妨害されたと記しているが、公式記録にこうした妨害をうかがわせる記録はない。

 また、『オリンピア』撮影中にゲッベルスがあまりに執拗に妨害を行ったため、ヒトラーがオリンピック映画撮影の部署を宣伝省から外し、総統直轄としたという記述があるものの、そのような措置が執られたという記録は存在していない。こうした点から、リーフェンシュタールの自伝の内容には強い疑いがもたれている。2003年に死去(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2adL5kK)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29OaBM6)。

(※157)ベルリン・オリンピック:1936年8月1日から8月16日にかけて行われた。ヒトラーは、当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとしてベルリン開催に難色を示した。しかし、側近からプロパガンダとして利用できると説得され、ヒトラーは開催に同意。ヒトラーはオリンピックを、アーリア民族の優秀性を世界に印象づける機会として、スタジアムや選手村、空港や道路、鉄道、ホテルなどの受け入れ態勢の整備を進めた。

 ナチスはこの大会の開催において、人種差別主義を隠蔽。ナチス政権は反ユダヤ主義の看板を一時的に撤去し、平和的で寛容なドイツのイメージを表に出して、外国人観客や報道記者を翻弄した。

 なお、ドイツは金メダル33、銀メダル26、銅メダル30、計89のメダルを獲得。二位のアメリカを大きく引き離している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1XW7l3R)(参考:ホロコースト百科事典【URL】http://bit.ly/2bsXlJD)。

(※158)民族の祭典:1938年にドイツで製作されたベルリンオリンピックの記録映画の通称。監督はレニ・リーフェンシュタール。『民族の祭典』『美の祭典』の2部作で構成されており、この2部作は『オリンピア』と呼ばれることもある。一般では『民族の祭典』名で現在でもこの作品は市販されている。『オリンピア』については、実際の競技映像ではない再現フィルムを加えているため、この映画の競技シーンの中には、競技後に選手を集めて撮りなおした映像、効果音、練習中の映像などが一部含まれており、虚実入り混じったその技法は、たびたび批判の的になっている。

 彫刻と同じようにポーズをとる裸体美の描写は第三帝国の美の基準につながるとも言われている。なお、同じくドキュメンタリー映画である『東京オリンピック』を監督した市川崑は、本作に感銘を受けたと言われている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29OaBM6)(参考:allcinema【URL】http://bit.ly/2bam080)。

(※159)エルンスト・レーム:ドイツの軍人、政治家。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党の突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織。突撃隊幕僚長になったが、のちに路線の対立が原因でヒトラーに粛清された(「レーム事件」または「長いナイフの夜」)。

 ヒトラーはレームについての処刑をいったん見送り、ミュンヘンを発つ際に「彼の功績に免じて許した」と述べたという。しかしその後、ヒムラーとゲーリングによって説得がなされ、ヒトラーはレームに自決の機会を与え、自決しないようなら処刑するよう命じた。

 ナチス親衛隊のテオドール・アイケは、レームに自決が許されていることを宣告すると、自決用に一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去ったが、いつまでも銃声がしなかったため、ダッハウ副所長であったミヒャエル・リッペルトがレームを撃つと、レームは床に倒れながら「わが総統よ」と呟いたとされる。これに対してアイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった」と返したという(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1W4Ag3L)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bam080)。

(※160)自衛隊を国防軍とわざわざ変える:自民党の安倍晋三総裁は2012年11月25日のテレビ朝日番組で、衆院選の政権公約に盛った「国防軍」設置に関し「(自衛隊を)軍として認める。そのための組織も作り、交戦規定にのっとって行動する」と述べた。

 これについて当時首相であった野田佳彦氏は同番組で、自民党の国防軍設置について「あえて(自衛隊の)名前を変えて憲法改正して位置づける意義がよくわからない。大陸間弾道ミサイルを飛ばす組織にするのか」と疑問を呈した。

 また、2013年にも国会で安倍首相は「自衛隊は国内では軍隊ではないという位置づけだが、国際法上は軍隊として扱われている」と指摘。「ことさら日本だけが国防軍にしてはいけない理由は見当たらない」と述べている。WEB上でもこの名称を変えることの是非などについての議論が各方面でなされている(日経新聞、2012年11月25日【URL】http://s.nikkei.com/29R5d6t)(しんぶん赤旗、2013年2月27日【URL】http://s.nikkei.com/29R5d6t)(参考:NAVERまとめ【URL】http://bit.ly/29YOJKj)。

(※161)ヒムラー:ハインリヒ・ヒムラー。1929年にナチ党の準軍事組織であるSS(親衛隊)の全国指導者に就任。SSをナチ党の組織内警察とすることに尽力した。ナチ党の政権掌握後には、1934年にプロイセンの秘密国家警察ゲシュタポ副長官、1936年には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官に任命され、国内の警察機構を掌握した。

 1939年「ドイツ民族性強化委員」となり、東欧、南東欧のゲルマン化政策の一環としてユダヤ人の大量虐殺を組織的に行ったほか、「アーリア人」として認定された者であっても、反ナチ運動家や障害者などは「劣等人種」と同等に扱った。

 政権末期の1943年にはヒトラー内閣内務大臣も兼務。軍集団の指揮も任されたが、目立った成果はなかった。ドイツの戦況を絶望視し、単独でアメリカとの講和交渉を試みたが失敗し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任されている。その後1945年5月22日にイギリス軍の捕虜となり、翌日5月23日に自殺した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2ajiWIs)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/1U5gLaf)。

(※162)ルッツェ:ヴィクトール・ルッツェ。軍人。ナチスの準軍事組織突撃隊幹部。ギムナジウムを卒業後、郵便局で働いたが、1912年にプロイセン陸軍に入隊し、第一次世界大戦には歩兵連隊所属の中尉として従軍している。1922年にナチス党へ入党し、突撃隊員となった。

 突撃隊内で高まる反ヒトラー、反国防軍の動きには加わらず、1934年3月には突撃隊幕僚長レームの反ヒトラー言動を報告した。ヒトラーがレームを粛清した「長いナイフの夜」以降は、突撃隊幕僚長に任じられている。

 「長いナイフの夜」において、ルッツェは、レーム以下突撃隊幹部の逮捕に居合わせたが、その際、突撃隊幹部エドムント・ハイネスはルッツェに助けを求めた。ルッツェは苦渋の心境で拒否したとされており、その後ミュンヘンの党本部で行われた誰を処刑すべきかの会議で意見を求められた折に、ルッツェは「誰がレームの共犯なのか知りません」と答えて退席したという。

 なお、ルッツェは粛清の執行にあたった親衛隊に根深い憎悪を抱き、1935年8月17日にはシュテッティンのホテルのレストランでの席上で「1934年6月30日の邪悪な行為にはいつか報復があるだろう」と演説し、周囲に諌められている。

 1943年5月1日、自動車を運転中だったルッツェはポツダム市の近くで交通事故を起こし、翌日の晩に死去。ルッツェにはナチス党の最高勲章ドイツ勲章が追贈されている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29OdKLW)。

伝統による正当化――権威を利用するヒトラーと安倍晋三~最初は特定の層を対象にしていたはずのナチスの差別と排除は、次第にその範囲を拡大していった

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▲岩上安身と石田勇治氏

 岩上「プロパガンダというのはすごいですね。作っている当事者も、自分も自己洗脳されているし」

石田「そう。まさにそうなんですよ」

岩上「リーフェンシュタールなんて、本気で言っていたと思いますよ。僕に向かって。作った人間もそうなっていくような状態って、プロパガンダというのはその時代だけじゃなくて、ずっとそれが残存するんですね」

石田「残存するんです。そうです。戦後までそうですよ」

岩上「彼ら(ヒトラーとナチス)だって、この栄光は自分たちが新しく演出しているというより、ドイツ帝国の栄光の再現だというようなイメージを打ち出す。ナチス・ドイツはだから、第三帝国とわざわざ言うでしょう」

石田「そう」

岩上「何かイメージを継承するという。だから、日本でも、大日本帝国のイメージを継承して新しい帝国を作るという動きになるんですね」

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▲ナチス・ドイツの国章(出典・WikimediaCommons)

 石田「そうそう。そういうことですね。やっぱり伝統による正当化が必要だと。ヒトラーでさえ伝統が欲しかった。彼自身にはないから、プロイセン、ヒンデンブルクの権威を借りて、その伝統の上に自分を位置づけた」

岩上「これだけナチスが台頭していても、当時の国際社会の目というのは甘いものがあったんですか」

石田「甘いものがあったんです。この1934年、直前にオーストリアでナチ党のクーデターのようなものがあって、そこにヒトラーが関わっていて評判を落としていたんですけど、前の年に国連から脱退するというようなことがあっても、国際社会はそれを容認するという(※163)。

 ヴェルサイユ条約で苦しめたから、負い目もあったんですよね。ヒトラーの気持ちも分かるみたいな話になっていって、1935年、1936年になると、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約(※164)が禁止していたようなことを、ラインラント進駐(※165)とか、どんどんやり始めるんですけど、イギリスなんかは容認しているんですよ。

 それはヒトラーが反共産主義、反ボリシェヴィキだから。共産主義の台頭が同時にあったわけですよ。あの頃、共産主義は、ソ連は世界恐慌と無縁だったから、計画経済がどんどんうまくいって」

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▲ラインラントに進駐するドイツ軍(出典・WikimediaCommons)

 岩上「なるほど。恐慌に巻き込まれなかった」

石田「(反共の)防波堤をナチス・ドイツに期待していた。イギリスなんかはそうだったんですよ。だからいわゆる融和政策を取り始めて、ヒトラーをなだめる形で、コントロールする。それこそ同じです。国際社会がヒトラーをコントロールできると思っていた時期があった。特にイギリスでは(※166)」

岩上「そういう点では、伝統のイメージを国内だけではなく、国外にもアピールしたという点で、安倍さんがこの間のG7サミット(※167)、伊勢神宮(※168)で」

石田「利用していますよね」

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▲伊勢神宮(内宮)(出典・WikimediaCommons)

 岩上「利用していますよね。それに他国が乗っかって、実質の参拝をした。(伊勢神宮の内宮の)御垣内(みかきうち)と呼ばれる中に入りましたよね。中に入るということは、参拝したことになるのだそうなんです、神道の解釈では。ところがそれを参拝と言わず、見学みたいなことを言っている」

石田「そうですね。不思議な言い方をしていました」

岩上「ところが、あれは実際には参拝したも同然です。後で、宣伝材料にも使いうるじゃないですか。この日本で、もっと国粋主義的な雰囲気が出てきたら。

 しかもこの場合の神道って、伊勢神宮イコールもう究極の国家神を祀っている神社と思われている。伊勢神宮の内宮に祀られる天照大神(※169)イコール最高の国家神であると。しかも、それがずーっと昔からそうだったみたいな話に飲み込まれてしまいやすいんですけど、事実はそうじゃないわけですよ。

 アマテラスの誕生っていうのも、歴史的にいろんな曲折を経て生まれてきている(※170)。そういう話を、メディアはみんな報じたのか。新聞があの時書いたのか、テレビがちゃんと言ったかというと、してないわけですよね」

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▲天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、1887年)(出典・WikimediaCommons)

 石田「してないですよね」

岩上「すると、このかつてあった『偉大な帝国』のイメージが日本でも同じように重ね合わされるわけじゃないですか。さっきの『ポツダムの日』なんかと同じような」

石田「そうですね。そういうことも言えますね」

岩上「これはやっぱりプロパガンダとしてすごく有効ですよね」

石田「そうですね。まあ、イメージですから。すり込まれていくわけですよ」

岩上「しかも各国からそれを受け入れられているじゃないかと。しかも日本は今、反中なんだと。反中=反共でしょ。今ソ連がないわけですから。だから反中・反共のためになら(軍事国家日本が)あっても良いじゃないか、日本は、防波堤でどうだ、という空気になっているわけじゃないですか。トランプは日本に核持たせたらどうかと発言したりしている(※171)わけですから」

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▲ドナルド・トランプ氏(出典・WikimediaCommons)

 石田「そういう意味では、時代は違うんですけど、共通する要素がいっぱいありますね」

岩上「手前で食い止めないと、もうどうにもならないんじゃないかと思いますけど。当初は乱暴な政府の手法に眉をひそめた市民も、非常時に多少の自由が制限されるのはしょうがないと。拘束されたのもごく少数なんだと」

石田「そう。だから最初は共産主義者ですよ。共産主義者はマイナー。やっぱりそんなに多くはないですよね。次は社会民主党というふうになっていくわけです。ユダヤ人もこのときに少しやられるんですけど、まだそんなに(激しい弾圧ではない)、職業官吏再建法(※172)というので、公務員からユダヤ人が追放される」

岩上「公職から追放」

石田「だけどユダヤ人は(ドイツ人の人口)全体から見ると、1%にも満たない小さな集団なんです。あの600万人のユダヤ人というのは戦時下で、東ヨーロッパのユダヤ人が一網打尽にされたからあんなに増えたのであって、ドイツ国内のユダヤ人というのは50万人程度です」

岩上「そうなんですか」

石田「だから全体から見れば小さいし、みなユダヤ人は都市部に住んで、農村なんかにはほとんどいないから、関係ないですっていうのが大半だった。だから最初は小さい。今のフランスの戒厳令なんかもそうですよね。拘束されているのはごく一部で、自分は関係ないんだろうという。ところがそれがだんだん狭められていき、気がついたら自分たちもやられている」

岩上「令状なき捜査とか拘束というのは、あのテロ事件以降、フランスで多発しているのに、それについての報道がすごく少ない」

石田「少ないですよね。そうですよね」

岩上「だからその危機感とか怖さが、十二分に伝わったかどうか分からない」

石田「あのマルティン・ニーメラー(※173)の有名な言葉(※174)がありますよね。最初はそういうところから始まった。自分は関係ないと思っていたら、やっぱり自分には降りかかってきたけども、もう誰も助けに来てくれる人はいないというような状況だったんだと思いますね」

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▲マルティン・ニーメラー(出典・WikimediaCommons)

 岩上「これ、日本で言えば、ヘイトスピーチのようなものですよね」

石田「そうですね」

岩上「最初は、少数の在日に対して牙をむく。在日韓国人、在日中国人、特に中国人よりも、在日コリアンに対して今攻撃が向いている。そういうのをもし放置しておいたら、そうした少数者に向ける攻撃性とか憎悪というのは気づくと、とんでもないものに膨れ上がり、国中に毒が回っていくということですよね」

石田「そうですね」

岩上「全体主義の芽というか」

石田「そうですね」

岩上「芽じゃなくて本質なのかもしれませんけど」

石田「少しずつ出てくるわけです。全てを露呈するってことはなく、少しずつ本質が出てくる。だから、早い段階で気がつくことが本当は大事です」

岩上「大事ですね。早い段階で気づこうと思ったら、もうすぐ、あと10日後に決戦です(2016年7月10日投開票の参議院選挙のこと)。みなさん本当に大事ですからね、参院選。本当に。三分の二を取られると大変なことだということを、このインタビューを通じてお分かりいただければなと思います」

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(※163)前の年に国連から脱退するというようなことがあっても、国際社会はそれを容認するという:1933年にヒトラー内閣が成立したドイツは、1932年から始まったジュネーヴ軍縮会議に反発し、その年の10月に国際連盟を脱退した。石田勇治氏は『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)の中で。国際連盟を脱退したヒトラーの意図について、次のように説明している。

 「ヒトラー政府の発足に国際連盟は危機意識をもち、ジュネーヴ軍縮会議を再開させた。ヒトラー政府は会議の再開を表向き歓迎しつつも、ドイツの国益に反すると捉えた。

 ドイツの言い分はこうだ。西欧列強がヴェルサイユ条約でドイツに厳しい軍備制限を課しておきながら、自国の軍縮を進めないのは不誠実だ。それは、連盟加盟国に軍縮を求めるヴェルサイユ条約第8条に違反する。

 実はドイツは秘密裡に軍拡を進めていたから、西欧列強を非難する資格はない。だがジュネーヴ軍縮会議を決裂させなければ、ドイツが軍備管理体制下におかれ、軍備増強の可能性が完全に失われてしまう。それを未然に防ぎ、逆に軍拡を進めたい。これが1933年10月に国際連盟を脱退したヒトラー政府の狙いだった」[233-234]

(※164)ロカルノ条約:1925年10月にスイスのロカルノで行われた協議を受け、イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの間で締結された中部ヨーロッパの安全保障に関する条約。基本的にはヴェルサイユ条約を踏襲したものが多い。

 内容にはフランス・ベルギーの国境現状維持と、ラインラント非武装の確認、国際紛争を軍事によらず仲裁裁判で解決することなどが含まれていた。

 ロカルノ条約の締結により、ドイツは1926年に国際連盟に加盟。独仏の関係の緩和により、ヨーロッパ全土もしばらくの間、安定した。1936年ヒトラーによって破棄されている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2a0Nmuq)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bat5lR)。

(※165)ラインラント進駐:ヴェルサイユ条約では、ラインラントに駐留する連合国の軍隊が、同地から1935年には撤兵することが規定されており、1929年、ハーグ会議において英国代表フィリップ・スノーデン財務大臣とアーサー・ヘンダーソン外務大臣は、賠償金の低減とイギリス及びフランスの軍隊がラインラントから撤兵することを提案。ヘンダーソンは全ての連合国の占領軍がラインラントから1930年6月までに撤兵するよう、フランス首相アリスティード・ブリアンを説得した。

 これを受け、イギリス軍は1929年末までに、フランス軍は1930年6月に同地から撤兵した。しかし、1936年3月7日、ドイツは領土拡大を目的として、ラインラントに陸軍を進駐させ、駐留を開始。このとき、ヒトラーはフランス軍がラインラントに進軍したら、ドイツ軍部隊は、反撃できないだろうと考え、かなり不安だったと記している(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29Xyzlv)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bWENXj)。

(※166)国際社会がヒトラーをコントロールできると思っていた時期があった。特にイギリスでは:1935年6月、イギリスは軍拡を続けるドイツと英軍海軍協定を締結した。その間の経緯について、石田勇治氏は『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)の中で次のように説明している。

 「ドイツの孤立を救ったのは、イギリスだった。イギリスはドイツの軍拡が止められないのなら、ドイツに制限を課すのが妥当だと考え、英独海軍協定を締結した(35年6月)。この協定では艦隊建設は英独比率100対35とされ、対英比率50%を求めていたドイツの軍部は不満だった。だがヒトラーは大満足だった。ヴェルサイユ体制を支えてきたイギリスが、自らドイツの軍拡を認める協定に調印したのだ。ヒトラーはこれで再軍備宣言が承認されたものと理解し、軍拡を一気に加速させた」[242]

(※167)この間のG7サミット:2016年5月26日から5月27日、日本の三重県志摩市阿児町神明賢島で開催された第42回先進国首脳会議のこと。愛称は伊勢志摩サミット。志摩市が選定された理由には、会場となる賢島が風光明媚であることに加え、四方を水に囲まれた狭隘な島で人の出入の制限が可能であること、陸伝いの侵入攻撃を避けられること、三重県警察が伊勢神宮を参拝する要人警護の経験が豊富なことなど、複数理由が挙げられる。

 公式日程の初めの行事として、各国首脳とファーストレディらにより、神道の聖地である伊勢神宮の御垣内(みかきうち)参拝と、伊勢神宮内での記念植樹が行われた。各国の首脳からは称賛の声が相次いだ、などと国内メディアでは報じられている。参拝は宗教儀礼に当たるため、政府の公式行事で行うことは政教分離に反すると判断された。首脳たちは御垣内に入ったが、二拝二拍手一拝を行っていない。

 政府や伊勢神宮を管理する神宮司庁の公式見解としては、首脳たちが行ったのは「参拝」ではなく「訪問」とされているが、これが参拝か、訪問か、評価の分かれるところである(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2ad5OC2)(参考:G7伊勢志摩サミット公式ページ【URL】http://bit.ly/29Sv1PQ)。

 上智大学教授・東京大学名誉教授で宗教学が専門の島薗進氏は、6月18日にIWJ記者のインタビューに応じ、G7伊勢志摩サミットにおける伊勢神宮の「政治利用」の背景に、伊勢神宮を国家施設に近づけようとする神社本庁の「真姿顕現運動」が存在する、と指摘した。

【IWJ検証レポート】改憲への熱情の底にひそむ「国体復活論」~安倍政権を思想的に支える日本会議、神道政治連盟、そして伊勢神宮の「真姿」とは――宗教学の第一人者・島薗進氏(上智大学教授)に訊く 2016.6.18

(※168)伊勢神宮:三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は「神宮」。神社本庁の本宗である。伊勢神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、皇居の祭祀する最高の存在として社格を超越するものとされている。

 慣例として、総理や農林水産大臣が年始に参拝している。20年に式年遷宮が行われ、国民的関心を集めている。明治以後国家神道の中心であったが,1946年以降は一宗教法人である(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1i8vxwm)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bWENXj)。

(※169)天照大神:皇室の祖神で、日本神話中の最高神とされる。伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の3子中の第1子である。記紀によれば太陽を神格化した神である。鎮座している場所としては伊勢神宮が特に有名(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2aedwxi)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bvApOE)。

(※170)アマテラスの誕生っていうのも、歴史的にいろんな曲折を経て生まれてきている:近年の研究では、「アマテラス」は律令国家としての体裁が整う7世紀、天武・持統朝における『古事記』や『日本書紀』の編纂過程と並行して、それまで最高神の扱いを受けていた「タカミムスヒ」に代わって皇祖神の地位に据えられるようになった、と指摘されている。筑紫申真『アマテラスの誕生』(講談社学術文庫)では、次のように説明されている。

 「アマテラスオオミカミは、天武・持統両帝がつくったカミです。皇大神宮は、天武・持統両帝が築きあげた神社です。この両帝は、壬申の乱というクーデターを敢行し、身命をかけて二人の政権を獲得しました。その政権を永遠にするために、自分たちの権力の美化に熱心であったのは当然のことでした。なぜなら、この両帝は、日本における最高の古代専制君主であったからです。それまでまだ地盤の固まっていなかった天皇政権を絶対なものに築きあげたのは、天武・持統両帝の7世紀における活躍であったのです。アマテラスと伊勢神宮が、どうして彼らと無縁であることができましょう」[60]

(※171)トランプは日本に核を持たせたらどうかと発言したりしている:米大統領選の共和党候補指名争いで首位を走る不動産王ドナルド・トランプ氏は、米紙ニューヨーク・タイムズの取材に答えて、「米国は世界の警察官はできない。米国が国力衰退の道を進めば、日韓の核兵器の保有はあり得る」と述べ、北朝鮮や中国への抑止力として日韓の核保有を認めた。

しかしその後トランプ氏は、クリントン氏の批判などを受け、この発言を否定。徐々に発言内容を弱めて修正している(日本経済新聞、2016年3月27日【URL】http://s.nikkei.com/1SpVo0M)(The Huffington Post、2016年5月28日【URL】http://huff.to/2ai19Pj)。

(※172)職業官吏再建法:1933年4月7日、「職業官吏再建法」が制定された。同法は、「非アーリア人種」や「政治的に信用のできない者」を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨の法律であった。しかしこの法律では肝心の非アーリア人種の定義はなされておらず、ユダヤ人とは何かが問題となった。

 これについて内閣内務大臣ヴィルヘルム・フリックは、「ユダヤ人とはユダヤ教徒であるという、信仰する『宗教』による区分ではなく、『血統』『人種』『血』が決定的要素であり、ユダヤ教徒でない者にも『ユダヤ人性』を追及しうる」と述べ、4月11日には「職業官吏再建法暫定施行令」が出された。

 これによって、ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した者も、さかのぼって「ユダヤ人」と定義されることが明らかとなった。また、この法令による「非アーリア人種」とは、ユダヤ人の事であることが明言され、両親・祖父母のうち誰か一人でもユダヤ教徒であれば、その当人の信仰が何であれ、すべてユダヤ人となると定められた。

 このユダヤ人の定義付けは「アーリア条項」と呼ばれた。

 その後、1935年9月15日ニュルンベルク法が発布されてユダヤ人との結婚が禁止されたほか、1938年11月9日の夜から10日の早朝にかけては、ユダヤ人居住地や教会に対するSA(親衛隊)の襲撃が行われ、以後ユダヤ人の全商店が閉鎖され、劇場などにも入場が禁止されている。

 この条項を聞いた諸外国、とりわけ日本は、人種差別であるとしてドイツに不快感を表した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2al1eEH)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2bN625j)。

(※173)マルティン・ニーメラー:ドイツの神学者。反ナチ運動家。ナチスの弾圧とそれに対する抵抗運動を描いた詩『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』の作者として知られる。

 ギムナジウム卒業後、ドイツ海軍でUボートの艦長を務めた後、ミュンスター大学神学部に入学。父と同じ牧師の道を目指した。この時期にはヒトラーの支持者だったが、教会からのユダヤ人追放政策に反対し、1933年9月に反ナチに転じた。

 ナチの教会に対する国家管理への反対行動によって、1937年から1945年までの間、ザクセンハウゼン強制収容所とダッハウ強制収容所に収容されたが、ホロコーストをまぬがれ、収容所から生還した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29XCP4s)。

(※174)マルティン・ニーメラーの有名な言葉:「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」のこと。ナチスが迫害対象を徐々に拡大していく様に恐怖を感じつつ、「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、自分が迫害対象となり、その時には声を上げる人は誰もいなかったという内容となっている。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

 以上のバージョンがよく知られているが、異なるバージョンがいくつも存在する(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1flYyMg)。

「ドイツを一つにする」というスローガンの最終目的は戦争だった~日本も緊急事態条項が発令されてしまえば、メディアによる政府批判は不可能に

石田「ドイツはビスマルクの時代からそうなんだけど、社会が分断されてきました。いろんな意味で。つまりドイツは非常に多様な社会、宗教的にはプロテスタント、カトリックに分かれているけど、それが急速な近代化をしたために労働者層というのが大きな社会集団としてできて、それと市民層の間に溝ができると。

 色々と社会を分けてしまう、分断ラインというのができていて、四つぐらいあったと言われています。それを民族共同体として一つにする。ヒトラーの大好きな言葉。『ドイツよ、一つになれ』なんです。一つになればお前は強くなると言っているんですよね、演説のなかで。何回も何回も。

 つまり共産主義であれ、社会民主主義であれ、みな民族を分断するための思想だというわけですよ。それを一つにするのは自分たちの体制の下である。これはある種の平等主義、しかし同時に『実力主義』。力のある者は伸ばしたい。これを束ねるのが全体の献身と自己犠牲なんです」

岩上「この『実力主義』は新自由主義(※175)的でもありますよね」

石田「そうですよ。確かに」

岩上「本当に。初期の新自由主義というのは、全体への奉仕とか、自己犠牲みたいなものは隠されているけれども」

石田「そうですね。あるんですよね」

岩上「その後に出てくる可能性は、十二分にあるわけですよね」

石田「さっきのリーフェンシュタールのプロパガンダ映画のなかに党大会の様子が出てくるんですけど、そこでいろんな地方出身の若者を登場させるんです。私は南ドイツ出身、私は北ドイツ出身、私はどこどこ出身と。みんな一つだっていう。今までにはそういうのはない。みんな出身あるいは学歴によって差別していた。そういうものをなくしていく。そうしたら強くなれるんだという。

 最終的には何を目的にしているかというと、これは戦争なんです。戦争ができる。つまりヴァイマルみたいに、みなが自由にあっちこっちバラバラでやっていたら、戦争した時に勝てるわけがない。それが一つになるために、自分が出てきたんだと(ヒトラーは)言うわけです。だから、最終的な目標に戦争があることはもう分かっています。でもそれは最初はなかなか言わない」

岩上「平和愛好家として、言うわけですね」

石田「そうです」

岩上「これに騙されちゃ駄目なんですね。多くの人が威圧的な、すごく権威主義的だとヒトラーのことを感じつつも、どこかで『平和を我々は愛している』というヒトラーの演説を聞いて、そうなのかもしれないなというふうに」

石田「そう、甘い期待を」

岩上「持っちゃうんですね。希望を託しちゃう。あんまり暗い性悪説的なものの見方よりは、ヒトラーみたいな奴でも良い奴なんじゃないかと。つい期待を、国内の人も外国の人も持っちゃうんですね」

石田「そうなんです。ヒトラーって自分の過去について、人に色々批判されることがすごく嫌な人間で。特に第一次世界大戦中のヒトラーの行動について、周りの人がどういうふうに言っているかということに敏感だったんですよ。彼は自分の伝記を書かせる人間を決めているんですよ。つまり『我が闘争(※176)』なんて、ヒトラーが自分の来歴を書いたところというのはもうデタラメばかりですからね」

岩上「あ、そうなんですか」

石田「まさにプロパガンダの本ですよ」

岩上「なるほど」

▲ヒトラー『わが闘争』

石田「彼は自分の英雄になるまでの来歴、経歴を書いているんですけど、そこには嫌と言うほど嘘があって、都合の悪いことは何も書いてない。まさにそれはプロパガンダ。『我が闘争』を読んで、ヒトラーに惹かれた人もいるんです」

岩上「なるほど」

石田「だから、あれを読む時には本当に注意して読まなきゃ」

岩上「注意が必要ですよね」

石田「そうです。日本では(『我が闘争』を)普通に、無制限に読まれているようですけど、非常に危険だと思います。ただあれは誤訳も多いし、なにせ国家社会主義って訳しているぐらいですから。言っていることも分かんないですね、翻訳は。あれは本当はきちんとした訳をしないといけないものだと思いますけど、あまりきれいな訳をすると、真相が広がっちゃう」

岩上「それはそれで。まあ問題が」

石田「まあ、この時期に作られたヒトラー神話。もうこれは神話なんですよ」

岩上「なるほど」

石田「それは戦後まで残存しました。現在のヒトラーイメージにも影響を与えているということ。やっぱりカリスマ性というのはこの時に作られたんですよ」

岩上「なるほどね」

石田「もう最初から作られていた。それがもう徹底的。ヒトラーだけ特別という。色々悪い奴がいるけど、ヒトラーだけは別格と。そういう語りとイメージが完成していく」

岩上「例えば自民党は、プロパガンダを非常に上手にやっています。今、マスコミが押さえ込まれている。こういうことは明らかに言えるわけですが。記者クラブのメディアの批判は矛先が非常に鈍ってきて、新聞の売れ行きが悪くなったり、テレビの広告収入が落ちたり、貧すれば鈍するという状態に明らかになっているんですけど。

 他方で例えば我々のようなネットメディア。あるいは週刊誌、週刊文春(※177)などは、どちらかというと右派寄りの文藝春秋(※178)から出されているのですが、あたりかまわず、自民党の議員あるいはその候補も、非常に厳しく批判するようなスクープを連発していますよね。

 青山繁晴(※179)さん、甘利明(※180)さんのスキャンダルを暴いたり。緊急事態条項なんかが出た後には、そうした週刊誌的ラディカルさ、ネットメディアのラディカルさ、そういうことは」

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▲甘利明氏の「疑惑」を報じた「週刊文春」の紙面

 石田「できないですね。それはできない。ドイツのこの時代の流れを思えば、できないですね。だって、そこを潰すためにやるんですから」

岩上「やるんですからね。そして、その後にこういう(ヒトラーを美化したような)神話が作られるわけでしょ」

石田「そうですよ」

岩上「塗り直すんですよね」

石田「そうですね。さきほど出た失業問題が解消したという話についても、当時ヒトラーはプロパガンダとしてよく言っていたことなんですが、それを根拠づけるデータが何もない。授権法のもとで、ヒトラーが誕生したその年の国家予算は審議されているんですけど、次の年からはクローズドです。予算が公表されない国になる」

岩上「ああ、なるほど。金の使い方が分からない」

石田「分からないんですよ。だから」

岩上「けど、税金を取られていく」

石田「そう。だから、どんなに赤字になっていったとしても、元々ヒトラーは気にもしない人ですから。国家はどうでもいいんだ、はっきり言うと、民族と国民が大事なんですよ。だから」

岩上「国家と民族は、彼にとって全然別なもの?」

石田「違うんですよ」

岩上「概念が違う?」

石田「国家は道具ですから」

岩上「この民族共同体、これ、ドイツ語ではなんて言うんですか?」

石田「Volksgemeinschaft(※181)と言うんですよ」

岩上「Volksgemeinschaft(フォルクス・ゲマインシャフト)、なるほど」

石田「だから、要するに授権法というのはそういうものを可能にしていくという、恐ろしい法律なんです」

岩上「恐ろしいですね」

石田「だから(自民党の改憲草案の緊急事態条項は)授権法と、大統領緊急令を一つにしたようなものなんです」

岩上「自民党の改憲草案の緊急事態条項は、お試し改憲でやっていいような代物かどうかと言えば、それは分かるだろって話ですよね」

石田「そう思いますね」

岩上「分かってもらわなきゃいけないですね」

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(※175)新自由主義:日本語の新自由主義で示される概念は複数ある。近年では、政府の規制を緩和・撤廃して民間の自由な活力に任せ成長を促そうとする経済政策を指すことが多い。市場主義。

 1970年代のスタグフレーション(不況と物価の持続的上昇が併存する状態)を契機に、物価上昇を抑える金融経済政策の重視が世界規模で起き、こうした市場原理主義への回帰が起きた。自己責任を基本に、政府・行政の規模・関与を可能な限り小さくしようとする「小さな政府」が推奨され、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策がとられる。

 新自由主義を信奉した主な学者・評論家・エコノミストにはミルトン・フリードマン、フリードリヒ・ハイエクなどおり、実行した主な政治家としてロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎などが知られている(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1QSgUJE)(参考:コトバンク【URL】http://bit.ly/2basuEh)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1Lk8JV3)。

(※176)我が闘争:ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著作。二巻組の書籍である。第一部は1925年7月18日にナチ党の出版局であるフランツ=エーア出版から発売された。価格は12マルクであり、当時の一般書の2倍の値段であった。

 1925年には9,432部、1926年には6,913部が売れ、1926年12月には第二部が出版されたが、1927年の売り上げは一部二部をあわせて5,607部にとどまった。

 しかし、ナチ党は同書が大量に売れていると宣伝した。ドイツ国内におけるナチ党の支持層拡大とともに、本の売り上げは増大し、1930年には54,080部、1931年には50,808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらした。

 『我が闘争』が人種差別主義的な内容で、第二次世界大戦中のナチズムやホロコーストにどれほど影響を与えたかについては、多数の議論がある。ドイツでは長年刊行されてこなかったが、「わが闘争」の著作権が2015年末で切れたのを受け、ミュンヘンの研究機関「現代史研究所」は、ヒトラーの主張の誤りを指摘する注釈を付けたうえで、再出版を開始した(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/1QSgUJE)(朝日新聞、2016年1月8日【URL】http://bit.ly/2bF9lsd)。

(※177)週刊文春:現編集長は、新谷学氏。発行部数68万部は「週刊新潮」を抑えて業界第1位。近年では「週刊文春」のスクープにより社会問題化した事件・不祥事が増加傾向にある。2016年の年始から、新谷氏が編集長に復帰してから数々のスクープを報じ、政治家・有名人の辞任や活動停止に追い込まれたことから”文春砲”と恐れられている。

 人気女性タレントであるベッキーとバンド「ゲスの極み乙女」の川谷絵音の不倫騒動、舛添要一氏の別荘への公用車私的利用問題、東京都知事選に立候補したジャーナリストの鳥越俊太郎氏の女性スキャンダルなども、「週刊文春」が報じて大きな騒動となった。

 扱うジャンルは芸能だけでなく、2016年1月21日号では、甘利明経済再生担当大臣サイドが、2013年から2015年にかけて、独立行政法人都市再生機構の入札に関わる千葉県白井市の建設会社Sから、口利きの見返りとして現金などを受け取っていたとする記事を報じているなど、その報道は多方面に強い影響力を持っている。毎週木曜日発売(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29XK7Fd)。

 なお、新谷氏と岩上安身は、過去に仕事をしたことがある。岩上安身が1997年、「週刊文春」誌上で春山茂雄医師の『脳内革命』の「欺瞞」を追及する連載を行った際、編集を担当したのがまだ30代の新谷氏だった(岩上安身の7月28日のツイートより:http://bit.ly/2byvDiI)。

 ニュースサイト「リテラ」によれば、新谷氏は母校である早稲田実業高校の同窓生である自民党の萩生田光一衆議院議員(現・内閣官房副長官)を介し、安倍総理と接近。第一次安倍政権発足時には、『美しい国へ』(文春新書)の編集を担当した。その後も、菅義偉官房長官や世耕弘成衆議院議員(現・経済産業大臣)らによる「チーム安倍」と近い関係を維持しているとされる(リテラ、2015年4月17日、http://bit.ly/2cbiyf8) 

(※178)文藝春秋:1923年(大正12年)1月、文藝春秋社として菊池寛が創業。敗戦直後の1946年3月、いったん解散するも、佐佐木茂索をはじめとする社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が新たに設立。1966年3月、現在の社名に改められた。

 なお、同社が発行していた「マルコポーロ」は、1995年2月に内科医西岡昌紀氏が執筆したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したため、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターが内外の企業に対して、「週刊文春」をはじめとする文藝春秋社発行雑誌全体への広告出稿をボイコットするよう呼びかけるなどしたため、自主廃刊に至っている。この事件をきっかけに言論の自由、言論の責任、メディアのスポンサー依存などの問題が持ち上がり、論議を呼んだ(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/29SCkXT)(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2bej1uo)。

 岩上安身は1995年、西岡氏へのインタビューをもとにしたルポ「無邪気なホロコースト・リビジョニスト」を「宝島30」に発表した。

 この「マルコポーロ事件」をきっかけに文藝春秋を退社した同誌編集長の花田紀凱(かずよし)氏は、朝日新聞社の契約編集者を経て、2004年11月からワック・マガジンズの『Will』編集長に就任。2016年2月にはワック・マガジンズから飛鳥新社に移り、『月刊Hanada』を創刊した。

(※179)青山繁晴:元共同通信記者。民間シンクタンクの独立総合研究所代表取締役社長、近畿大学経済学部総合経済政策学科客員教授。

 2016年6月20日、大阪市北区の帝国ホテル大阪にて記者会見を行い、自民党からの出馬依頼を受諾し、第24回参議院議員通常選挙に自民党公認で比例区から出馬する事を表明。比例区全体の6位である48万1890票を獲得し、当選を果たした。

 週刊文春2016年7月7日号に、「安倍首相 自ら口説いた参院選トンデモ候補 青山繁晴」というタイトルで記事が掲載されたことを受け、7月2日に週刊文春の記者と文春を虚偽の記事を記載したことによる選挙妨害として、公職選挙法違反で東京地検特捜部に刑事告発している。

 週刊文春のWEBページでは、スクープ速報として「自民参院候補・青山繁晴氏が公私混同で退社の過去」というタイトルで記事が掲載され、現在でも閲覧できる(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2azVUd3)(週刊文春、2016年6月29日【URL】http://bit.ly/29okBbu)。

(※180)甘利明:自由民主党所属の衆議院議員。自由民主党政務調査会長、労働大臣、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣、内閣府特命担当大臣等を歴任。2016年1月28日午後5時から開かれた記者会見の中で、週刊文春が報じた金銭授受疑惑の責任を取って内閣府特命担当大臣(経済財政政策)を辞任すると表明。これ以降、「睡眠障害」を理由に第190回国会を欠席していた。

 なお、5月31日、東京地検特捜部はあっせん利得処罰法違反罪で告発されていた甘利氏と元秘書2人を不起訴処分としている。8月1日、甘利氏は約半年ぶりに国会に復帰。党代議士会に出席し、「大変なご心配とご迷惑をおかけした」と陳謝した。(参照:Wikipedia【URL】http://bit.ly/2ahmWq3)(ハフィントン・ポスト、2016年5月31日【URL】http://huff.to/2bayP2d)。

(※181)Volksgemeinschaft(フォルクスゲマインシャフト):ヒトラーは、長らく分裂していたドイツを統一するに際し、「フォルクスゲマインシャフト」という概念を用いた。これは「フォルク」と「ゲマインシャフト」の合成語で、「民族共同体」と訳されることが多い。石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』は、この「フォルクスゲマインシャフト」について、以下のように説明している。

 「まずゲマインシャフトは、ゲゼルシャフト=利益共同体と対比的に用いられる用語で、血縁、地縁、精神的連帯などを根拠に自然発生的に生じる共同体を意味する。

 次にフォルクだが、これには大別して、エスニック集団としての民族、国家の構成要素としての国民、主権者としての人民、庶民ないし烏合の衆としての民衆という四つの意味がある。フォルクが政治的に用いられる場合、その意味は文脈に依存するが、逆にその多義性を利用する政治家も多い。ヒトラーもそのひとりだ。ヒトラーがフォルクスゲマインシャフトという用語で理想社会を語る際、そこに国民共同体と民族共同体の2つの意味合いが込められていたと言えるだろう」[214-215]

新たな秩序の形成と国民の自発的隷従~あやまちを積極的に受け入れ、過去を克服した戦後ドイツ

石田「ナチ体制の12年間、ナチ時代というのはたった12年しかない。だけどその12年間で何が起きたか。ホロコーストが起きました」

岩上「短いんですね。12年間」

石田「侵略戦争が起きた話も、それはそれでできるんだけど、それとは少し外れています。それとはちょっと違う。

 よく全体主義(※182)という言葉を使いますよね。全体主義のイメージというのは、上意下達のカチッとした、まさにあのさっきのナチ党大会のイメージですよね。一人がもう全体の駒でしかないような、秩序正しいシステム。

 ところがナチ体制の12年間で何が起きたかというと、これはもう破壊以外の何ものでもない。既成の国家組織はヒトラーの権力によって浸食解体されたんですよ。しかし再構築できなかった。だからヒトラー時代というのは、ドイツの既存の権力構造が崩れただけなんですよ」

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▲ナチスが権力を掌握していた12年

 岩上「崩れただけ」

石田「つまり、壊した」

岩上「官僚組織とかは」

石田「再興できなかった」

岩上「これは意外ですね。では国家社会主義なんて間違いだと。国家主義じゃないんだ」

石田「じゃないんですよ。それは具体的にはどういうことか。

 ヒトラーの下にはたくさんのサブリーダーがいました。多頭制支配です。この多頭制のなかで、サブリーダーたちはヒトラーへの忠誠を誓いながら、いわばヒトラーの寵愛を得て、それを根拠に権力を行使していったわけです。ヒトラー政権というのは既存の官僚機構を従えるんですけど、同時に新しい秩序を作っていく。

 新しいナチの、例えば外務省だったら、ナチ党の外交部門を代表する人たち、その組織を作って別の組織、ナチ党の外交部というのが、外務省と並び立つようになっていく。すると正規の外務省とヒトラーのナチの外交の専門家の間に競争が起きる。それは結局、ヒトラーの有利な形に解決していく。

 外務省をなくすことはないんですけども、結局その既存の秩序が乱れていく。それはあらゆる分野で起きている。ヒトラーは独自の特別委員会を作って、既存のそういう官庁とは別組織で作って、どこが決定しているのか分からないようなシステムを作ってしまう。これはまさに恒常的カオスなんです。

 新たに作られた組織の指導者はみんなヒトラーに忠誠を誓います。でも既存の官僚もどんどん党員になって、ヒトラーの意志を今度は斟酌(しんしゃく)し始める。命令されなくてもやっていく」

岩上「自発的隷従みたいなことなんですね」

石田「総統のために働くという。これはカーショーが明らかにしたことなんです。だから言われなくても、もうやってしまう。ユダヤ人の迫害プロセスにも、そういうのがあるんです。彼らはこうやったらヒトラーの寵愛を得られるというか、信頼を得られるんじゃないかと思って、こぞってやらなくてもいいようなこともやってしまう」

岩上「なるほど。日本の外務省はアメリカの意志を斟酌して、ひたすら隷属する国家、隷属する政府の筆頭みたいになっているわけですけど、どんどんどんどん日本全体がそういう方向になっている。

 アメリカの意志といっても、実際にはアメリカの一部の意志なんです。ペンタゴンの意志だったりするわけですけど、それを日本国家のためとか、日本民族のために、みたいなお化粧直しをして、(戦争のできる国へ)まっしぐらですよ。この道を前へ、と」

石田「一般の国民はどうしたかというと、色々不満もあったんだけれど、でも今言われた目くらましをいっぱい食らっていますよね。だんだん支持していくわけですよ」

岩上「これは、やっぱり聞かないと分からないところですね。ヒトラーが激しい演説をして、戦争と虐殺に向かっていくのに、なぜみんな支持したんだろうと」

石田「虐殺なんてずっと後の話ですから。ユダヤ人をドイツから追放することについては、ヒトラーが政権を取る前からそういう雰囲気はあった(※183)。少数派の弾圧から何が生じたかというと、受益の構造なんです。

 だけど、ユダヤ人にはやっぱり財力もあって、そうした地位についていた。彼らを追放した後、それを奪っていく。ユダヤ人はやっぱり財産を置いて行くわけです。置いて行かざるを得なかった。ナチスは、それを競売にかけたりしている。ユダヤ人の持っていたピアノとかバイオリンとか、あるいは装飾とか家具とか、そうしたものをタダ同然で手にしている」

岩上「もう、強奪ですね」

石田「まさに強奪。これは今、戦後のドイツでは明らかにして、それを反省するような歴史展示とか、いっぱいやっています。自分たちがなぜあんなことをしたのかを彼らは反省していますよね」

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▲ナチスによって迫害されるユダヤ人(出典・WikimediaCommons)

 岩上「一年前に久しぶりにドイツに行ったんですね。ベルリンにも行きました。ライプチヒにも行きました。東西ドイツの頃は、ライプチヒはものすごく汚かった、空気が汚かったんです」

石田「今は、きれいになりましたよね」

岩上「かなり変わりましたね」

石田「変わりました」

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▲現在のライプチヒの街並み――撮影・IWJ原佑介

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▲夜のライプチヒ――撮影・IWJ原佑介

 岩上「それでちょっと案内してもらったら、昔の町並みが残るところに、かつて戦前のナチ時代に百貨店だった建物。これをユダヤ人が経営していたと教えられたんですね」

石田「ええ。ありますよ。つまり、ああいう新しい商売をしていた」

岩上「情報通だったんですね」

石田「新しいし、情報通だし、才覚もあった。商才のあった人もたくさんいて、ヒトラーはそういうのが怖かったんですよ。だから、もう一緒になって一般の国民もユダヤ人を追い出して、そしてそこからタダ同然で手に入れた企業、商店とか、そういうのを多数派が再利用していく。

 こういう受益の構造ができあがっていたんです。だから、必ずしもユダヤ人のことを嫌いだというようなことを言わないような人たちも、そこから」

岩上「儲かるんだったらいいじゃないっていう」

石田「そういうことなんですよ。やっぱり、共犯関係ができていた。だんだんできていった。でも、このときはユダヤ人を殺すという話じゃないんですよ」

岩上「追放」

石田「追放。だからユダヤ人もドイツに住むと色々差別にあうから、よその国に行って、いずれユダヤ人の国が作られるんだったらそれを支援しようというような、ナチのなかにもそういうのが出てくる」

岩上「ナチがイスラエルを支援した」

石田「そう。そういう面があるんですよ」

岩上「あるんですよね」

石田「そう。シオニストとのつながりは、よく知られています。これはアーレント(※184)も批判していますけど。そういう意味では、ナチはある意味で合意独裁を目指した。合意独裁になったわけじゃないけど、こういうものを考えながら、できる範囲で差別まで自分たちの統合要因にしていく。

 少数派の差別迫害を多数派の統合に、つまりナチ時代というのは多数派にとって都合のいい時代だったんです。だから戦後ドイツ人はあの時代よかったですよ、とかいうことを、1950年代なんか、けっこうアンケート調査でも出てくる。ヒトラーは戦争さえしなければ偉大な指導者だったと」

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▲ハンナ・アーレント(出典・WikimediaCommons)

 岩上「それありましたね」

石田「今日はその話ぜんぜんしてないけど、この『過去の克服: ヒトラー後のドイツ(※185)』にもずいぶん書いているんです」

岩上「はい。『過去の克服~ヒトラー後のドイツ』ってご本、ここにあります。ちょっとこれ、クローズアップをしてください。これは戦後のドイツというのが、すぐ一夜にしてナチ批判をするような国になったわけじゃない、という話ですね」

石田「全然そうじゃない」

岩上「相当な努力を重ねてきた」

石田「そういうことですね」

 

▲石田勇治著『過去の克服~ヒトラー後のドイツ』(白水社)

岩上「いったいいつぐらいから、本当にナチは駄目だ、もう一度考え直さなきゃ駄目だというのが、ドイツ国民の間で上回ったのでしょう。ナチ時代がよかったという郷愁に浸っている時代から脱皮できたのは、いつぐらいからなんですか?」

石田「1960年代でしょうね。1960年代の最初にそういう動きがあって、それが広がっていくのが、1960年からそれから70年代。やっぱりヴィリー・ブラント(※186)の政権交代。ちなみにヴィリー・ブラントもさっき言った共産党と社会民主党の対立をなんとか克服したいという立場だったんですよね」

岩上「当時?」

石田「彼はSPD、社会民主党の出身なんだけど、途中からSAPというドイツ社会主義労働者党(※187)という小さな政党が生まれて、共産党との対立を架橋しようとした。でもそれができずにブラントは亡命して、結局戦争中は、ドイツ軍に刃向かうような形で、抵抗運動をやる」

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▲ケネディ大統領と会談するヴィリー・ブラント(出典・WikimediaCommons)

 岩上「そういうふうに本当にごく少数ではあるけれども抵抗し、良心を貫いた人が、少数生き残ったからこそ、ドイツ再建の時に『自分たちは、手を汚さなかったよ』という人間が現れ、その『手を汚さなかった人間』のもとに、国民が気持ちを寄せるとか、そういうことができた」

石田「できたんです。社会民主党というのはさっき言ったように、授権法に最後に国会で反対した人たちです。オットー・ヴェルスもそうですね。それは戦後のドイツの復活の時に、意味があった。でも社会民主党は、やっぱり50年代はまだ少数派、野党だった。

 アデナウアー(※188)が1949年に政権をとり、首相になります。アデナウアーも確かに反ナチ的な要素があったんだけれど、でもアデナウアーは西ドイツの初代首相ですけど、やっぱり何よりも政治の安定を求めましたから、国内でナチ批判と非ナチ批判派に分かれて対立が起きることを恐れた。

 だからアデナウアーは、連合軍がやった非ナチ化政策を反故にする、白紙にする政策をとっている。逆コースなんですよ。その代わりむしろ融和を図って、西ドイツの経済発展に貢献する。過去を不問に付している。

 アデナウアーはむしろ表向きは色々やっていますよ。だけど実質的にはそういうところが非常に強くて、過去を反省するなんてことはあまり言わないんです。

 でもブラントが首相になったころから変わってきます。でも本当に変わったのは、統一後ですね」

岩上「統一後」

石田「ずいぶん時間が経っています」

岩上「ああ、なるほど」

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▲コンラート・アデナウアー(出典・WikimediaCommons)

 石田「だから、過去との取り組みはそれだけの時間をかけて、ある意味では日本のほうが早い段階からそういうことをやっていたかもしれません」

岩上「早くやって、それがいま力尽きている」

石田「そんな感じですね」

岩上「そんな感じですよね」

石田「ドイツも最近またちょっとネオナチ的な動き、極右運動が出てきている。本当にそんなに信頼できるのか、これからもその姿勢が貫かれるかどうかは微妙です。

 まあ、あんまり生ぬるいこと言えないぐらいまで危機的な状況になっていますが。難民問題が起きたから。だけどそこまでに至るまでに、ずいぶん努力は重ねてきていて、指導者がはっきりとしたことを言っていますからね。メルケルとか。

 あるいは大統領のガウク(※189)やヴァイツゼッカー(※190)もそうだけども、毎回、歴代の政治家がきちんとしたステートメントをきっちり出し、補償するとか、犯罪者を追及し続けるとか、日本ではやってないようなことはずっとやってきていることは確か」

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▲ヨアヒム・ガウク(出典・WikimediaCommons)

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▲リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(出典・WikimediaCommons)

 岩上「昨年ドイツへ行ったという話をしましたけど、そのタイミングでテロリストの問題、あるいはユダヤ人排斥の話が持ち上がりました。ヨーロッパのなかで、最初がベルリンかフランスだったんだと思いますが、そうした流れに呼応して、ドイツ大統領、それからメルケル首相が、街頭にブランデンブルク門の前に大きなステージを組んだ(※191)。そしてものすごい人々が集まる大衆集会を開きました。上からと下からのドッキングですよね。その時ちょうどベルリンにいたんで、中継していたんですよ。それ」

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▲ブランデンブルク門の前で行われた集会(2014年9月15日)――撮影・岩上安身

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▲メルケル首相

 石田「ああ、そうですか。いつ頃ですか?」

岩上「去年だったと思いますけど。それを中継でずっと流しました。もちろんドイツ語は僕らわかりませんから、ドイツにいるジャーナリスト(※192)に部分的に訳してもらいながらお伝えしました。目の当たりにしましたから、なんか立派なロックコンサートをやっているような、野外コンサートをやっているようなね。排外主義的な問題が出るとこうやって対処するんだなと」

石田「そうなんですよね。やっぱり寛容でなければならないということを政治家、大統領が言いますからね。それが1つの精神的な屋台骨になっている」

岩上「『ユダヤ人にとってもイスラム教徒にとっても、このドイツはあなたたちの家です』とメルケルが演説しているのには、本当にびっくりしましたね」

石田「そうですね。いま難民問題で揺れていますけど、そういう規範がきちんとできたというのは、戦後のドイツの努力の積み重ねの結果だと思います。

 それは一朝一夕でできたわけではない。今言ったように、最初からやっていたわけではなく、長い取り組みを行い、何回も転換点を繰り返し経験しながら来たということです。だからやっぱり歴史を直視するということが大事です。自国の歴史から今の自分たちのあるべき立場というか、未来を見るということ。その過去を無意味化していない。過去から学ぶという姿勢は、はっきりとしているんですね」

岩上「水に流したりしないと」

石田「しないですね」

岩上「水に流してはいけない」

石田「それはそう。だから、ああいうモニュメントを作ったりという。ベルリンに行けば、ホロコーストの記念碑なんかありますでしょ」

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▲ブランデンブルク門南にある「ホロコースト記念碑」――撮影・岩上安身

 岩上「ありますね。それと、足元の石畳に」

石田「『つまずきの石(※193)』ですね」

岩上「人の名前が書いてあって、これ何?と聞いたら、このアパートの誰々が連れ去られたという」

石田「まさにそう」

岩上「そういうのが点々とある」

石田「そう。あれは市民運動なんですよね。あれもすごく広がっていて」

岩上「そうですよね」

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▲ベルリン市内にある「つまずきの石」――撮影・岩上安身

 石田「もちろん自治体も協力して、ああいう公の道にああいうのを埋め込んで、そこに連行された人のことを書いてあるわけです。どこで殺されたか、とか。ああいうのが広い支持を得ながら市民運動として広がり、またそういうものを埋めるときにシンポジウムをやったり、いろんな芸術活動をやったり、色々とつながっています。『想起の文化(※194)』という言い方をしますけどね」

岩上「思い起こすってことですか。忘れないってことですよね」

石田「思い起こすというのは、過去を現在の一部にするということなんですよ。過去を過ぎ去ったもの、今と無関係な出来事ではなくて、今の問題として、今現在の一部にする、『ありありと思い起こす』とドイツでは言うんですけど。それは同時に現在化するということなんです。だから当然、そこには『同じ過ちを繰り返してはならない』という自覚があると思います」

岩上「これが日本では自虐史観と貶められてしまう。そういう価値観を共有する首相が長期政権を率いて3分の2議席を取って、緊急事態条項を憲法に入れようとしている。悪夢みたいな話ですよ、本当に。

 考えれば考えるほど、日本の今の現状というのは、過去を直視できないし、した者はものすごく非難される空気が広がりつつある。対中国との戦争も終わっていない形になっちゃっていますよね。アメリカには負けたけど中国には負けていないと」

石田「それって信じられない。そういう言説があることはわかっていますけれども、しかしそれが今の日本の政治の権力にかかわる部分で言われているというのはね」

岩上「根幹で言われている」

石田「ちょっと恐ろしい感じがします」

岩上「さらに神話的な材料、つまり日本の場合、求めればそれこそ『日本書紀』にまで求められるわけじゃないですか。そういう材料が山ほどある。これを今日的にもう一回仕立て直し、皇国史観(※)をもう一度再興するとか、国家神道(※)の再興化もやれば、できなくないわけですから」

石田「まあ、恐ろしいですよ。でも、そういう日本というのは、やっぱり国際社会で孤立するでしょう。もう孤立することが怖くもなんともないんですね。そういう人たちはきっと」

岩上「国連の敵国条項の対象国から外されていない(※195)ということがなぜわからないのかなと」

石田「でもやっぱりそういう道を進むと、日本が本当に国際社会で活躍したいと思っていても、できないですよね」

岩上「できないですね」

石田「それは日本だけの閉じこもった内向きの社会ができあがるだけの話で」

岩上「実際問題、日本は輸入と輸出を禁じられてできないような状態になったら、あっという間に終わりなので。だとしたらやっぱり常に世界につながって、開かれてないとどうにもならない」

石田「そうですよね」

岩上「それ

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