「8.15」終戦の日、靖国参拝取材ルポルタージュ / 靖国神社キーワード集 ( IWJウィークリー第14号より) 2013.8.21

記事公開日:2014.8.14取材地: テキスト動画
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(記事構成:原佑介、平山茂樹)

 僕が終戦記念日に靖国神社を参拝するようになってから、今年でちょうど10年目になる。

 始めて靖国神社に参拝した18歳当時、靖国神社とは何か、ちゃんと理解していなかった。A級戦犯も祀られていることくらいはわかっていたが、ただ「戦争で亡くなった方々に手を合わせに行きたい」と思い、参拝した。

終戦の日、靖国参拝取材ルポルタージュ

 靖国神社は歴史が浅く、明治維新の「官軍」によって明治2年に作られた神社である。天皇をかついだ長州・薩摩VS徳川幕府による戊辰戦争、その後の「長州閥」を中心とした明治新政府VS西郷隆盛率いる旧薩摩藩士による西南戦争、そして日本が近隣諸国を植民地化していく過程で勃発した侵略戦争の数々。これらの中で、「天皇のため戦死した」と認定される人々だけが祀られている。

 戦いを終わればノーサイド、敵味方なくいたわるとか、民間人の犠牲者も弔うといった寛容な精神で建立された神社ではない。こうした排他的な側面がある。靖国神社の存在が物議をかもすのもわかる。

 僕自身、不勉強なこともあって、どう受け止めていいのか、未だにわかっていない。だが、戦争で、尊い命が犠牲になったことも確かだ。年に一度の「終戦記念日」に、そうした過去の現実と向き合うという意味でも、参拝は続けてきた。

 そもそも靖国神社とは何か、基本的なこと、根本的なことを、誰も教えてはくれない。学校も、親も、教師も。ぼんやりしていても目や耳に入ってくるマスメディアからの情報も、靖国についての根本的なことを伝えてはくれない。「A級戦犯の合祀」とか、「8月15日に閣僚が参拝したか否か」とか、そんな話題だけが、毎年、騒々しく語られるだけだ。靖国神社をどうとらえるかは、自分で意識的に調べ、学ばなければ、一生わからないままだろう。

 靖国神社とは何か、よくわからないままに、10年間欠かすことなく参拝に通ったが、取材で訪れたのは今年が始めてである。これはこれで新鮮な気持ちだった。

 午前10時、靖国神社に到着。毎年毎年、終戦記念日の当日は、とにかく暑い。今年はカラッと晴れ、猛烈に暑かったが、湿気がなかった分、まだ動きやすかった。

 今年は、自宅から自転車を一時間ほどこいで向かった。明治通りを新宿方面に向かい、新宿通を曲がり、靖国通りに入る。曙橋を越えた頃、道路が混み始めた。のろのろと進み、市ヶ谷に差し掛かったあたりで原因がわかった。片道2車線のうち、左1車線が封鎖されていたのだ。ずらりと機動隊の大型車両が路駐して道をふさいでいる。右翼、左翼対策だ。たしかに、辺りは騒がしい。

 靖国神社に近づくにつれ、騒々しさは増す。爆音で何か怒鳴っている右翼の街宣車を横目に、脇道から境内に入り、自転車を駐輪する。すでに濡れていないところがないくらいTシャツは汗だくだ。

 境内はすでに人であふれている。拝殿へと並ぶ参拝客は、「第二鳥居」を超えるほどの列を作っていた。

 この日に靖国神社を参拝したことがない人であれば、もしかしたら意外に思うかもしれないが、参拝客は、老若男女さまざまだ。おじいちゃん、おばあちゃん、おじちゃん、おばちゃんもいれば、金髪のギャル、ギャル男、サラリーマン風の男性、OL風の女性もいる。特攻服を着た右翼がいる。そして、今年も例年通り、軍服をきた「コスプレーヤー」がいる。

 軍服を着たコスプレーヤーも、見ていてあまり良い気はしない。しまいには「アンパンマン」の着ぐるみに身を包み、踊っている人すらいる。

 一見、靖国神社とは無関係にみえるが、実はアンパンマンと戦争は、深い関係がある、ということを、僕は今回の取材でいろいろ調べるまで知らなかった。

 アンパンマンの生みの親であるやなせたかし氏は、日中戦争に出征した経験を持つ。従軍中は戦闘のない地域にいたため、敵に向かって銃を撃ったことはなかったというが、従軍中の食糧不足による空腹体験、弟の戦死を通じ、反戦感情を持っているという。

 やなせ氏は、生きてきてもっとも辛かったことが、戦争による「ひもじさ、飢え」だったとし、「ひもじさを助けるヒーローにしたかった」と、アンパンマンに込めた思いを語っている。

 ご存じのように、アンパンマンは、お腹を空かした子どもたちに、自分の顔(アンパン)を分け与えるヒーローだ。「正義を行うときには、自分が傷つかずにはできないという考えが、ぼくの中にあるからです」と、やなせ氏は述べている。もしかしたら、アンパンマンのコスプレーヤーは、そういったやなせ氏の思いを体現したかったのかもしれない。

 僕のミッションは、参拝客のインタビューと、不測の事態への待機。同時刻には、IWJ動画スタッフの古田晃司と赤間一欽さん、渡辺みささんが、本殿のほうで「みんなで靖國神社に参拝する国会議員の会」の取材にあたっている。ハプニングに備えた最低限のUst機材は持っていたが、しっかりと参拝客にインタビューするためには、古田らの機材を待つ必要があった。

 残念ながら、と言っては不謹慎になるかもしれないが、僕は、ハプニングをキャッチできなかった。

 前日の夕方、「靖国神社で声明を発表し、記者会見を開き、安倍政権の右傾化に抗議する」ことを目的として、韓国最大野党・民主党所属の国会議員ら4人が入国した。4人は、李鍾杰(イ・ジョンゴル)議員、李相珉(イ・サンミン)議員、文炳浩(ムン・ビョンホ)議員、そして李竜得(イ・ヨンドゥク)議員。靖国神社に来るのであれば、その姿を撮っておきたい、と思っていた。

 だが、彼らは靖国神社には来なかった。産経新聞によると、

 「午前8時に声明読み上げを計画。機動隊が隊列を組んだ神社周辺では、取材に訪れた韓国の報道陣に対し日本の民族系団体関係者が『帰れ!』と怒号を浴びせ、一部が機動隊ともみ合うなど、騒然となった。李氏らはタクシーで靖国神社に向かったが、約500メートル離れた路上で『危害が及ぶ恐れがある』と警察に制止された。一部議員はその場で安倍政権を非難する横断幕を広げ『軍国主義を復活させようという安倍首相の愚かさに強く警告する』と抗議し、警察に説得された末、引き返した」

 ――とのことだ。韓国議員は、行く手を阻まれて、靖国神社までたどり着けなかったのである。

 彼らが掲げようとした横断幕はどれほど過激なものだったのだろうか。調べてみると、意外に穏健な文言で拍子抜けした。横断幕には、「日韓の平和を望みます 安倍政権の軍国主義に反対 アジア・太平洋戦争の遺族も被害者です 心より哀悼の意を表します」と書かれていたようだ。この抗議行動は韓国国内向けのアピールだとは思うが、メッセージそのものは「反日」というほど過激でもなく、むしろ真っ当な「正論」である。(2013年8月15日付 産経 韓国議員ら、靖国での声明発表断念、500メートル先の路上で抗議、2013年8月15日付 朝日 韓国議員、靖国神社近くで抗議 両政府、自制働きかけ)

 一時的な騒動にはなったそうだが、いずれにしても、場所が靖国神社でもなく、時間も午前8時という早さであれば、僕一人でキャッチするにはちょっと無理があった。

 李鍾杰議員自身がこの日のことをブログで書いているので、韓国語を読める人は参考に読んでみてはどうだろう。→ブログ

 iPhoneでtwitterを開き、韓国議員が靖国神社にたどり着けなかったことを知った僕は、30分ほど並び、参拝をすませた。外の喧騒に比べ、拝殿する場所は静かだった。

 参拝を終え、しばらく境内をウロウロしたが、カメラを手に走るような瞬間はなかった。汗が吹き出してくる。じりじりとした陽射しで、肌も少し赤みがかっていた。今夜シャワーを浴びたら痛みそうだな、などと考えていた矢先、取材を終えた古田ら3名のスタッフと、偶然、鉢合わせた。

 「暑いな」「暑い」「中だったから暑くなかっただろう?」「外だよ!」「そうなの?」「屋根もなかった!」「こっちは1時間以上ずーーーっと、この炎天下、ただただウロウロしてたんだぞ」

 5分ほどそんな雑談をして、僕たちは再び別れた。僕と赤間さんは参拝客にインタビュー。古田は景観の撮影。暑さに弱いみささんは、木陰で荷物番。

 赤間さんがカメラをセットし、僕はマイクを持った。参拝に向かう人、参拝を終えた人を見渡す。話し聞かせてくれそうな人はいるか、話を聞いてみたい人はいるか、幅広い年齢層に聞きたいところだ。できれば、戦時中の体験も聞ければありがたい、と思う。

■参拝者インタビュー

 クリーム色のハットから白髪をのぞかせた年配の男性に近寄った。フィリピンのルソン島で出征した兄を亡くしたと話す男性は、兄のお参りとして毎年参拝しているという。カメラの前で、話を聞かせてくれた。

 「まだ僕は生まれてなかったが、日本もあれだけみんなに締めつけられると、外に出て行くしかなかったのではないか。あの時代はどうしようもなかったのではないか」と、当時を振り返る。

 「今の人間が、過去の人間にケチを付けるのはイカンと思う。あの時代には、あの時代で正しいと思って(戦争を)やったはずだ」。

 話をうかがっている間にも、右翼の怒声が聞こえてくる。こちらの話が聞こえないくらい、うるさい。

 ハットの男性に、憲法改正、国防軍の創設、または、憲法改正せずとも「集団的自衛権の行使容認」に持って行こうとする、安倍政権の動きについて、どう思うか、聞いてみた。

 「(憲法が作られてから)あまりにも長く時間が経っているから、現代の情勢に合わなくなってきているんじゃないか。こんなに改正していないのは日本だけで、現状と憲法にゆがみが生じているのではないかと思う。憲法を改正したとはいえ、軍国主義になるとは考えられない」

 軍国主義になるとは考えられない。確信を持っているかのように、そう語った。戦争で兄を亡くしたという人がこう断言するのは、正直、意外だった。同じような悲劇は起こらない、ということなのか、起きたとしてもそれは「軍国主義」という言葉で非難される筋合いのものではない、ということなのか、みきわめがつかなかった。

 古着風のキャップを浅めに被り、黒縁のメガネをかけた、お洒落な青年が一人、歩いてきた。30代半ばから後半だろう。声をかける。快く応じてくれた。「戦争で亡くなった方に哀悼の意を表しにきました」。山梨からやってきたという。

 「靖国神社の遊就館を拝見させていただき、やはり戦争は、あってはいけないと振り返っています」。

 もしかしたら、日本は、戦争をしない国ではなくなるかもしれませんが――。

 「憲法改正は、迷うところです。うーん、考えがまとまっていません、ごめんなさい」。

 場合によっては仕方がない時もある、と?

 「そうではなく、もし改憲してもしなくても、戦争しない道を探してほしいです」。

 男性は、自信なさそうに、しかし、自身の迷いも含めて、質問に素直に応えてくれた。

 目の前に、見るからに「ヤンキー」風の少年が、がに股で歩いてきた。やや茶髪がかった、両サイドを刈り上げたオールバック。左耳のピアス。細い眉毛。鋭い風の眼光。

 ――ちょっとお話をうかがえますか?

 僕がそう声をかけると、少年は若干戸惑いながらも、快諾してくれた。18歳だという。

 ――どちらからいらっしゃいました?

 「神奈川っす」。少年は、ぶっきらぼうに応える。

 ――どういった思いで参拝に?

 「いや、自分たちと同じくらいの歳の人が、特攻隊とか・・・で…まぁ・・・」言葉を詰まらせた。そして、照れくさそうに「・・・来ました」と顔をほころばせた。同年代の兵士に、彼なりに哀悼の意を示したかったのだろう。

 少年は、耳を指でほじくりながら、斜に構えて続ける。

 「戦争は、まぁ、あっちゃいけないと思います」。

 質問を続けるため、「今、憲法改正の動きがあって・・・」と説明していると、彼の方から「国防軍・・・」と言葉をさしはさんできた。間髪入れず、「どう思いますか?」とたずねた。

 右目を閉じ、頬を強張らせ、悩んでいる、といった表情で彼は答えた。

 「うーん、でも、自衛隊だけじゃ、結局アメリカに頼るのも一緒だから、そういう意味では国防軍があってもいいと思います。だから志願制にしたらいいと思います」。

 言葉足らずではあったが、自衛隊では不十分であり、同時に、米国からの独立の必要性も感じているといった様子ではあった。

 ここまでは、3人に声をかけ、3人がインタビューに応えてくれた。街頭インタビューとしては、超がつくほど順調だ。ただし、3人連続男性インタビューになってしまった。次こそ女性に話を聞いてみよう。

 4〜5人の女性に断られ、ようやく応じてくれたのは、黒いハットを被った、初老の女性だ。

 「戦争のために大勢の方が犠牲になったのは、日本人にとっては悲しいことだと思います。だから、みんな、こうやってお参りに来ていると思いますよ。二度とこういうことがないように祈ってます」

 穏やかな口調だった。ヤンキー少年の後だから、また穏やかさが際立って感じた。この女性は、日本の戦争参加が現実味を帯び始めていることについてはどう思うだろう。僕は、そろそろ「憲法改正には反対です」という言葉が聞かれるのではないかと予想していた。これまでインタビューに応じてくれた男性3人中3人が、積極的にしろ、消極的にしろ、改憲もありうる、という立場だったからだ。

 「戦争は嫌ですけれども、やはり、日本のためには、どこかでみんなが力を合わせなければならないのではないでしょうか。ねぇ」

 女性は「ねぇ」と優しく微笑み、日本の戦争参加を否定しなかった。ここでようやく、なるほど、そうなのか、と感じた。僕はここのところ、安倍政権の掲げる憲法改正案や、集団的自衛権の行使容認に対する動きに批判的な見方をしている人たちの取材が続いていたので、容認する考え方が「新鮮」に感じられた。靖国に参拝に来られている方々だから、それなりのバイアスはかかっているだろうが、それにしても、世の中の少なくない人が、こう思っているのだ、と実感し始めてきた。

 インタビューする上で、コスプレーヤーの話しは外せないだろう。僕には持ち得ない情熱を、心に持っているかもしれない。海軍のコスプレをした、30歳前後と思われる青年に声をかけた。

 「僕たちより若い人が国のために死んでいった。それを、後世に伝えるという思いが強いですね、一番」。そう、誇らしげに語る。

 では本題。その衣装は、どのような思いで着ているのか。どのような思いが、この衣装には込められているのか。この質問は、10年前から、靖国に来てコスプレーヤーを目にするたび、一度でいいから聞いてみたいと思っていた質問だった。

 「これは、なんて言うんですかね。ただ、好きなんですけど、それだけっすね」

 (うん、まぁ、そうですか。まぁそうでしょうけど・・・)と、内心感じた。戦争についての思いも聞いてみた。

 「戦争はやっちゃいけないが、やらざるを得なければ何もやらないよりは何か行動した方がいい」。

 具体性がない回答だった。「やらざるを得ない」状況とは、どんな状況を想定しているのだろう。行動って、どんな行動を指しているんだろう。やはり、残念は残念だ。

 孫を連れた男性に、話をきいてみた。男性の父親は、戦時中、引き上げ船上で、栄養失調のため亡くなったという。参拝の理由は、父のお参りだそうだ。

 「3歳だったからあまり記憶はない。ただ、父の帰りを浜辺で待っていた記憶がある」と当時を振り返る。

 戦死した人以外は、靖国では祀られない。戦地に兵士として行かされたとしても、病没した人、飢えて死んだ人などは、祀られないのである。この男性は、自分の父親が祀られているかどうが、確認したのだろうか。確認したかったが、質問はためらわれた。

 国防軍案について、どのようにお考えか。

 「それは、ある面では賛成、ある面では反対もします。戦争には尊い犠牲がつきもの。犠牲がないようにしてほしいが、国防というものは必要。今、隣国ともいろいろある。それに対しては毅然とした態度で望むのは必要かと思います。戦争そのものについては反対」。

 インタビューを通して感じたことは、多くの人が「憲法改正」に理解を示すが、それが現実の「自民党改憲草案」とは結びついていないだろう、ということだ。自民党の憲法草案の中身が、戦後生まれの僕らが当たり前のように享受している人権や政治への参加の権利をどれほど制限する内容になっているか、知っていればもっとためらいを覚えるだろうと思う。

 メディアの責任が大きいと実感する。隣国との軋轢を煽り、国民に「毅然とした態度」を求めさせ、そこにするっと「武力」を紛れこませる。

 国防は必要である。自国の軍も必要かもしれない。ただし、それは、言葉を尽くした平和的外交の努力を重ねに重ねての話でなくてはならないし、米国からの真の独立が絶対的な前提条件になるべきではないだろうか。米国からの強い要請にずるずると従い、「米国の都合で始められた戦争に日本が自動的に参戦させられる」仕組みである集団的自衛権の行使容認に踏み切れば、かつて日の丸に捧げさせた命を、今度は星条旗に差し出すことになりはしないか。

 靖国に眠る、僕が手をあわせてきた、祖父や曽祖父世代の日本人たちは、今の日本をどう思っているだろう。喜んではいないし、むしろ心配をかけているのではないか。僕にはそう思えてならなかった(了)。

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靖国神社キーワード集

(作成:IWJウィークリー編集部/調査・文:平山茂樹)

戦地で亡くなった日本の軍人を主な祭神とすることで知られる靖国神社。毎年8月15日には、総理をはじめとする政治家の参拝が、国内外から大きな注目を集めます。今年の8月15日、安倍総理は靖国神社に参拝せず、私費で玉串料を奉納するにとどまりました。

では、そもそも、なぜ総理が靖国神社に参拝することが問題となるのでしょうか。そのことを考えるためには、靖国神社の歴史や、どのような議論がされてきたかということを、知っておく必要があるのではないでしょうか。

このコーナーでは、靖国神社の歴史、議論の経緯、さらには境内にある施設の基礎的な知識を紹介します。

(※写真・図像に関しては、IWJが著作権を持つもののみを掲載しています。それ以外のものに関しては、靖国神社公式ホームページ等へのリンクを作成してあります。写真をご覧いただく場合は、お手数ですが、リンク先のURLからご覧ください)

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1. 靖国神社を考える

■起源 ~長州にはじまる

 そもそも靖国神社は、他の神社とどのような違いがあるのでしょうか。

 靖国神社のはじまりは、1865年(慶応元年)、つまり江戸時代末期にさかのぼります。発案者は、「維新の志士」として有名な、長州藩(現:山口県)の高杉晋作だといわれています。

 江戸幕府を倒すために、「奇兵隊」という武士と庶民の混成部隊を作った高杉晋作は、幕府軍との戦闘で死亡した奇兵隊隊士の霊を弔うための神社が必要だと考えました。そこで、山口県下関市にある奇兵隊の訓練場跡地に、「櫻山招魂社」という神社を造営し、そこに奇兵隊隊士の霊を祀ることにしました。この「櫻山招魂社」は、今も「櫻山神社」と名前を変えて残っています(櫻山神社【HP】)。

 長州藩、薩摩藩を中心とした明治政府軍が旧幕府軍の抵抗を押さえ込んだ戊辰戦争(ぼしんせんそう)が終結した1869年(明治2年)、この間に戦死した明治政府軍の戦死者の霊を弔うための場所を、東京に造営しようという話が持ち上がります。

 そこで、長州藩で軍事的なリーダーを務めていた大村益次郎が、江戸幕府が歩兵の駐屯所として使用していた東京九段坂上三番町を調査し、長州の「櫻山招魂社」をコピーするかたちで、「東京招魂社」の造営を決定します。これが、現在、地下鉄九段坂駅を出てすぐの場所にある、靖国神社の起源です。この年の6月29日、当時の軍務官知事であった小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)を祭主として、第一回合祀祭が行われ、東京招魂社が鎮座しました。

 その後、1879年(明治12年)、明治天皇の命により、名称を「靖国神社」に改称します。「靖国」という名称は、中国の古典『春秋左氏伝』第6巻僖公(きこう)23年秋条にある「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」をという文言に由来すると言われています。「国を靖んずる」とは、国家を安らかにし、平和安寧にする、という意味です。

■祭神の合祀

靖国神社には現在、246万6532柱の御霊が祀られています。靖国神社の御神体は剣と鏡です。霊璽簿(れいじぼ)に氏名を記入し、それを御神体の鏡に映すことで、従来から祀られている他の祭神との合祀が完了します。

 靖国神社には現在、246万6532柱の祭神が合祀されています。その内訳は以下の通りです。(「柱」とは神社に祀られた神を数える単位)

・戊辰戦争時の戦死者7751柱
・西南戦争時の戦死者6971柱
・台湾出兵時の戦死者1130柱
・壬午事変で死亡した14柱
・江華島事件で死亡した2柱
・日清戦争の戦死者1万3619柱
・義和団事件で戦死した1256柱
・日露戦争の戦死者8万8429柱
・第一次世界大戦の戦死者4850柱
・済南事件で死亡した185柱
・満州事変での戦死者1万7176柱
・日中戦争での戦死者19万1250柱
・太平洋戦争での戦死者213万3915柱

 なお、戊辰戦争や西南戦争といった内戦で反政府軍となった、彰義隊や新撰組、薩摩軍などの戦死者は合祀されていません。つまり、近藤勇や土方歳三といった幕府側の戦死者はもちろん、西郷隆盛など、明治維新後に反政府側にまわった戦死者は祀られていない、ということです。

吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎に関しては、戦地で死亡したわけではありませんが、靖国神社は「維新殉難者」として合祀しています。他方、明治天皇が崩御(ほうぎょ)した際に殉死した乃木希典は合祀されていません。

女性は、5万7千柱が祀られています。これは、戦地の軍の病院などに、看護婦として従軍した方々です。また、沖縄戦でのひめゆり学徒隊など、沖縄戦に動員された女性の学徒隊も合祀されています。

■「A級戦犯」の合祀

 中国や韓国といった東アジア諸国が、日本の公人による靖国神社への参拝に反対する理由のひとつに、いわゆる「A級戦犯」の合祀があげられます。

 「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた人々を指します。東条英機(総理)をはじめ、板垣征四郎(元関東軍参謀長)、土肥原賢二(第12方面軍司令官)、木村兵太郎(ビルマ方面軍司令官)など計14名が「A級戦犯」として死刑判決をうけ、うち7人が処刑されました。

 靖国神社は、1959年に「B・C級戦犯」を合祀しています。「A級戦犯」については、1978年、東条英機をはじめとする14人を「昭和殉難者」として合祀しました。1979年4月19日、朝日新聞が「A級戦犯」の合祀を一面で報じ、広く国民に知られるようになりました。

 なお、「A級」と「B・C級」は、戦争犯罪の”質”の違いを示すもので、罪の重さの序列を示すものではありません。連合国が極東国際軍事裁判条例で定めた定義によれば、「A級」とは「人道と平和に対する罪」を指し、「B・C級」とは戦地での残虐行為、捕虜への暴行といった戦争犯罪を指します。

 靖国神社は、「A級」、「B・C級」にかかわらず、極東軍事裁判をはじめとする各地軍事裁判で死刑になった者を一括して「昭和殉難者」と呼び、合祀しています。

■靖国神社と国の関係

 戦前、靖国神社は「別格官幣社」と位置づけられ、国家による管理が行われていました。人事に関しては内務省が、財政を中心とする運営の主導権は陸軍省と海軍省が担っていました。

 戦後は国家管理を離れて宗教法人となりましたが、軍人を祭神として祀る性質上、政府・国との密接な関係が取り沙汰されてきました。

 戦没者の名簿は、戦前は陸軍省と海軍省が、戦後は旧厚生省(現・厚生労働省)の引揚援護局が作成し、「祭神名簿」として靖国神社に送付してきました。これを受領した靖国神社が、「霊璽簿」を作成し、合祀を行います。

 厚生省引揚援護局と陸軍省・海軍省は関係が深いとされ、戦後、多くの軍関係者が厚生省内部に入ったとされます。2007年3月、国立国会図書館が公開された資料から、「A級戦犯」の合祀をめぐり、厚生省引揚援護局と靖国神社が綿密に協議していたことが明らかになりました。

■総理の参拝は何が問題か

 戦後、宗教法人となった靖国神社にはじめて参拝した総理は吉田茂です。1951年10月18日、秋季例大祭にあわせて参拝を行いました。

 1979年4月19日、朝日新聞が「A級戦犯」の靖国神社への合祀を報道し、国内外で政治家の靖国参拝が政治問題化します。同年、大平正芳総理が春季例大祭で参拝。その後も、鈴木善幸総理、中曽根康弘総理、橋下龍太郎総理、小泉純一郎総理の4人が総理在任中に参拝しました。そのうち、8月15日に参拝したのは、三木武夫、福田赳夫、鈴木善幸、中曽根康弘、小泉純一郎の4人です。

 総理の参拝に関しては、政教分離の観点から、公式か私的か、玉串料を公費から支出しているかどうかにより、違憲訴訟が行われてきました。

 1985年8月15日、中曽根康弘総理は靖国神社を公式参拝します。前日に政府は、「二礼二拍手一拝」の神式ではなく、一拝のみの省略した形式であれば、日本国憲法が規定する政教分離の原則には反しないという、統一見解を発表していました。中曽根総理は、「二礼二拍手一拝」の神式による参拝を見送ることで、公式参拝を行い、玉串料を公費から支出する、という論理を作りました。

 この中曽根総理による参拝は違憲訴訟の対象となり、1992年、福岡高裁と大阪高裁が、総理による公式参拝は一般人に与える効果、影響が大きく、社会通念から考えると宗教活動に該当し、違憲の疑いがある、との判例を示しています。

 2001年8月13日、小泉純一郎総理の参拝は国内外から大きく注目されました。玉串料の公費支出は行わず、神道式によらない一礼式での参拝をおこないました。他方、参集所では「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳したことから、違憲かどうかについて議論が分かれることになりました。

 2005年9月29日、小泉総理の靖国神社参拝に対し、違憲を主張していた原告側の控訴が棄却されました。判決によれば、参拝は小泉総理の「個人的な行為」と認定しましたが、「そもそも参拝は総理の職務行為ではない」という立場を前提としたため、憲法判断はされませんでした。

 2006年8月15日に小泉総理が参拝して以降、日本の総理による靖国参拝は行われていません。

■天皇の親拝

 昭和天皇は、戦後、計8回にわたり靖国神社に参拝していますが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝をとりやめました。その理由として、天皇がA級戦犯の合祀に反対していたからではないか、という指摘があります。その理由として、1988年当時の宮内庁長官・富田朝彦氏によるメモ、通称「富田メモ」に、次のような記述があったことがあげられています。

「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」

 「松岡」とは、日独伊三国同盟を締結し、国際連盟を脱退して国際的孤立を招いた当時の松岡洋右外相を指し、「白鳥」とは松岡洋右以上に対英米強硬外交を唱えた外交官であり政治家でもある白鳥敏夫を指します。

 今上天皇(平成天皇)は、現在まで参拝を行っていません。

■解決策について~分祀は可能か

 「A級戦犯」の合祀に対し、中国、韓国をはじめとする諸外国が反発していることへの解決策として、分祀してはどうか、という議論があります。

 しかし、靖国神社は、一度「霊璽簿」に記された祭神の氏名を削除・訂正することをいっさい認めていません。また、神道における分祀とは、祭神を他の神社にコピーする「勧請」(かんじょう)であるため、一度合祀された靖国神社から「A級戦犯」の祭神が消滅することはない、という指摘があります。

 政教分離の問題と、「A級戦犯」合祀の問題を回避するため、アメリカのアーリントン墓地のような、無宗派で国立の追悼施設を作るべきではないか、という議論があります。

 その候補として名前があげられるのが、1959年3月28日に竣工した千鳥ケ淵戦没者墓苑です。この墓苑は、太平洋戦争により海外で死亡した日本人のうち、身元不詳で遺骨の引き取り手がない戦没者の霊を慰めるため、国により公的な慰霊施設として建設されたものです。

 2005年11月9日、山崎拓氏、鳩山由紀夫氏、冬柴鉄三氏らを中心に、靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設の建設を目指す議員連盟「国立追悼施設を考える会」が発足し、さかんに検討が行われました。

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2. 靖国神社を歩く

■高燈籠(たかどうろう):

 大鳥居の手前左側に立つ巨大な燈籠です。建造は1871年(明治4年)と本殿の竣工よりも古く、靖国神社境内では、最も古い建造物のうちの一つとされます。和洋折衷のデザインが特徴です。江戸時代、夜の町を照らす役割は神田明神の常夜灯が担ってきたが、明治に入り、この高燈籠がその役割をとって代わったと言われています。

・現在の高燈籠【写真URL】(現在、画像削除)
・三代目歌川広重「九段坂見はらし高燈籠」(1873年作)【画像URL】

■靖国神社社号標:

 「靖國神社」という社号が刻まれた、高さ10メートルを超える靖国神社の社号標です。1984年(明治27年)9月に建てられた当初は、「別格官幣 靖國神社」と刻まれていましたが、敗戦後、GHQの命により靖国神社が国家の管理を離れたため、上部にあった「別格官幣」の四文字は塗りつぶされました。その後、上部を切り取り、現在のかたちとなっています。

・現在の靖国神社社号標【写真URL】

■大鳥居(第一鳥居):

 高さ25メートルを誇る靖国神社の巨大な鳥居。これは、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の33.9メートル、大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の32.2メートル、弥彦(やひこ)神社(新潟県弥彦村)の30.2メートル、最上稲荷(さいじょういなり)(岡山県岡山市)の27.5メートルにつぐ、日本5位の高さです。

 1921年(大正10年)に完成した当時は日本最大で、「空をつくよな大鳥居」と民衆に親しまれたといいます。しかし、風雨で傷みがひどくなり、1943年(昭和18年)に撤去。1974年(昭和49年)に再建され、現在に至ります。鳥居右手にある大鳥居再建事業委員会の鉄板には「戦力増強のため撤去」という記載があり、この大鳥居も戦時において、金属供出のため撤去されたとする説があります。

・大鳥居(第一鳥居)【写真URL】

■常陸丸殉難記念碑:

 大鳥居の右手後方、境内と一般の歩道との境目に、木々に隠れるように「常陸丸殉難記念碑」という碑がひっそりと立っています。1904年(明治37年)6月15日、日露戦争に際し、日本の輸送船「常陸丸(ひたちまる)」が陸軍将兵1055名、馬300頭、多くの武器弾薬を積んで満州(中国東北部)へ航行中、濃霧のなかから突如現れたロシア艦隊から集中砲火を浴びせられ、沈没するという事件がありました。

 「常陸丸」は軍艦ではなく一般の輸送船であったため、ロシア艦隊に反撃することができず、指揮官の須知源太郎中佐は船上で自決、乗組員のほとんどが死亡します。死者は「殉難者(じゅんなんしゃ)」として靖国神社に祀られたましたが、同乗していたイギリス人3人は外国人であるという理由で合祀されていません。ただ、毎年6月15日に靖国神社境内の碑前で行われる慰霊祭では、イギリス人3人も等しく慰霊されています。

・常陸丸殉難記念碑【写真URL】

■慰霊の泉:

 「社団法人東京キワニスクラブ」が、1967年(昭和42年)に奉納した彫刻。戦場で水がなくて苦しんだ「神様」(=戦死者)に、豊かな水を捧げようとの願いを込めて境内に置かれました。母の胎内から清水が湧き出る様子をイメージしてデザインされたものだといいます。

・慰霊の泉【写真URL】

■大村益次郎銅像:

 大鳥居と第二鳥居の中間点、境内のほぼ中央に位置する、高さ12メートルをほこる巨大な銅像です。目線は、大村益次郎が総司令官として実戦の指揮をとった、徳川幕府側勢力の彰義隊との戦闘の地である上野を向いているとされます。像の下にある大村を称えた顕彰文は、三条実美(さねとみ)の筆によるものです。

 この銅像は、1893年(明治26年)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、明治維新後は兵部省の初代大輔(たいふ)を務め、大阪城近くの兵学寮にフランス人教官を招いて近代軍の創設を目指すなど、大村は「日本陸軍の創始者」だとされます。

・大村益次郎銅像【写真URL】

■「下乗」の高札:

 「下乗」(げじょう)とは、貴人の前で乗り物から降りることをいいます。「下乗」の高札以降、境内では、自動車、自転車等、参拝者は乗り物から降りなければいけません。大鳥居から、この「下乗」の高札までが靖国神社の「外苑」で、これ以降は「内苑」となり、より神聖な領域とされます。なお、3つ目の鳥居である「中門鳥居」の前には「皇族下乗」の高札があり、皇族はその地点まで乗り物に乗ることができます。

・「下乗」の高札【写真URL】http://bit.ly/1diyxAd
・「皇族下乗」の高札【写真URL】http://bit.ly/16lCgt6

■青銅大鳥居(第二鳥居):

 1887年(明治20年)に建設された鳥居です。高さは15.15メートルあり、青銅製の鳥居では日本一の高さを誇ります。兵部省が建設を計画し、旧諸藩から提出させた青銅を大阪砲兵工廠(こうしょう)で鋳造し、原料としました。

▲「下乗」の高札のある場所から見た青銅大鳥居(第二鳥居)。鳥居の真後ろに見えるのが「神門」、左手後方に見えるのが「大手水舎」 「終戦の日」にあたる8月15日は、全国各地から多くの参拝者が靖国神社を訪れる――2013年8月15日

■大手水舎(おおちょうずしゃ):

 他の神社と同様、靖国神社にも参拝前に身を清めるための手水舎(ちょうずしゃ)があります。この大手水舎は、1940年(昭和15年)、「在米日本人兵役義務者会」という、当時アメリカに住んでいて、「兵役法」により徴兵義務が課される満二十歳を迎えたものの、当時アメリカに住んでいたために免除された人々により奉納されたもの。

 戦前の「兵役法」には「帝国外の地に旅行又は在留する者は召集を免除する」という条文があったため、在米日本人は満二十歳になっても軍に招集されませんでした。それに代わるものとして、同会より六万五千円が神社に寄付され、この大手水舎の建築資金となりました。

・大手水社【写真URL】

■神門:

 1934年(昭和9年)に完成した、高さ6メートル、檜造りの門です。一年を通じ、毎日午前6時にこの門が開くことで、靖国神社「内苑」の開門となります。閉門は、1,2,11,12月が午後5時、3,4,9,10月が午後6時、5,6,7,8月が午後7時。

 中央の二つの扉に、直径1.5メートルの巨大な菊花の紋章が取り付けられています。この菊花紋は、皇室が用いる「十六八重表菊」(【図像URL】)ではなく「十六菊」(【図像URL】)となっています。

 設計したのは、伊藤忠太という建築家です。築地本願寺の設計で知られ、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示した、日本建築史の創始者です。

 用いられている檜は、日本産のものではなく、台湾檜です。台湾は、日清戦争以降、終戦まで日本統治下にあり、この神門に用いられた台湾檜は、1914年(大正三年)に開通した阿里山森林鉄道(ありさんしんりんてつろ)を通じて運ばれました。なお、阿里山森林鉄道の塔山駅は、戦前の日本が勢力圏下においた地域内で標高が最も高い地点の鉄道駅であり、「我國鐵道最高地点 海拔二三四六米」の標識が立っています。

・神門【写真URL】

■靖国の桜:

 神門をくぐってすぐの場所に、桜(品種はソメイヨシノや山桜)が植えてあります。気象庁は、靖国神社境内の3本のソメイヨシノを、東京都での桜の開花日を決定する標準木として指定しています。東京招魂社が創建されて間もない1870年(明治3年)、木戸孝允が境内に桜を植えたことがはじまりだと伝えられています。

■中門鳥居:

 拝殿の前にある鳥居。現在のものは4代目で、2006年、埼玉県産の檜を用いて建てられた。初代の中門鳥居は1901年(明治34年)10月5日、拝殿とともに完成しました。建設当時は門がついていたといいます。

・中門鳥居【写真URL】

■拝殿:

 1901年(明治34年)10月5日竣工。創立120周年にあたる1988年(昭和64年)、「昭和大修築」の一環として屋根の葺き替えが行われました。拝殿の前には他の神社と同じように賽銭箱が置いてあり、通常はこの場所で参拝を行います。天皇の使いが来た場合に限り、普段は白色の幕が紫の幕に変えられるとともに、賽銭箱がどかされ、正面から階段をのぼって本殿に向かうことができるようになります。

・拝殿【写真URL】

■本殿:

 1872年(明治5年)旧暦5月に竣工。1869年、東京招魂社が鎮座した第一回合祀祭の際、本殿はまだ完成しておらず、合祀は仮殿で行われました。本殿で参拝する場合、参集殿/到着殿で受付を済ませた後、廻廊を渡って本殿内に入ることになります。

 御神体は、剣と鏡です。死者の氏名が書かれた霊璽簿を御神体の鏡に映すことで、従来から祀られている他の祭神との合祀が完了します。

▲廻廊を渡り、本殿での参拝に向かう「みんなで靖国神社に参拝する会」の議員団――2013年8月15日 (写真)

■遊就館(ゆうしゅうかん):

 1892年(明治15年)に建設された、祭神となった戦死者の遺品を収蔵し、展示する施設。当初は、遺品よりも武器類を展示することが目的とされていました。1910年、明治天皇が「武器ノ沿革ヲ知ルヘキ物件ヲ蒐集保存シ軍事上ノ参考ニ供スル所トス」という勅令を発布し、展示品は急増します。

 名称の由来は、中国の古典である「筍子」勧学篇の「君子居必択郷遊必就士(くんしはおるにかならずきょうをえらびあそぶにかならずしにつく)」という文言によると言われています。

 戦後、靖国神社は、社屋を進駐軍に接収された富国生命保険と月額5万円の賃貸契約を結び、遊就館を同社の「九段本社」として貸し出していました。1980年(昭和55年)、富国生命保険が立ち退く際、同社の社長が財界人に呼びかけ「靖国神社奉賛会」が発足。同会の資金援助のもと、老朽化した施設を大幅に改築し、1985年7月13日に遊就館として再開されました。

・遊就館【写真URL】

■パール博士顕彰碑:

 東京裁判でインド代表判事を務め、被告団全員の無罪を主張した、ラダ・ビノード・パール博士の「功績を称える」ため、2005年(平成17年)に遊就館前に碑が立てられました。

・パール博士顕彰碑【写真URL】

■相撲場:

 本殿裏、遊就館横の、靖国神社境内の最奥に、相撲場があります。1869年(明治2年)、東京招魂社が鎮座した際、大相撲が奉納されたことに由来します。現在も、春の例大祭では全力士が参加しての奉納相撲が執り行われました。

 1922年(大正11年)5月7日、日本初のプロボクシング興行試合「日米拳闘大会」が行われたのも、この靖国神社内の相撲場です。1961年4月23日には、力道山率いる日本プロレスがこの相撲場に特設リングを設置し、奉納プロレスを開催しました。近年も、プロレス団体「ZERO1(ぜろわん)」が、「大和神州ちから祭り」という名称で、奉納プロレスを定期的に開催しています。

・相撲場【写真URL】

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「「8.15」終戦の日、靖国参拝取材ルポルタージュ / 靖国神社キーワード集 ( IWJウィークリー第14号より)」への1件のフィードバック

  1. reservologic より:

    極めて優れたルポルタージュだと思う。

    最初のインタビューで示されたのは、結局今でも国民に「考える材料」となる情報が十分行き渡っていないこと。
    考える材料がないから、何も考えないで、雰囲気でものを言うしかない状況が靖国参拝者を支配していること。
    そしてそこが靖国神社問題の最大の問題点であることがここでまず指摘された。

    その上でこのルポは考えるヒントとしてのキーワードと、参考資料へのアクセスを網羅して提示している。

    靖国に関して、これだけはっきり問題の所在を明確にしてその解決への手がかりをあたえた報道はこれまでマスコミには見られていないという点で、筆者に拍手を送りたい。

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