突然の「IWJ中継市民」
私が臨時中継をさせて頂くことになったのは、ひょんなことがきっかけでした。
「今、石垣島に選挙の応援に来た」と何気なくtwitterで呟いたところ、岩上さんから、臨時の中継市民として手伝ってもらえないかとご連絡を頂いたのです。
驚くとともに、正直なところ、お引き受けするのをためらいました。
私が島に行った理由は、石垣市出身である祖母が「石垣に基地は要らない。もう少し若ければ手伝いにいってたのに」と悲しんでいるのを見て、もうすぐ90歳になる祖母のために何かしたいという極めて個人的な理由だったからです。
また祖父が名護市出身ということもあり、以前から沖縄の米軍基地問題には関心があったものの、ちゃんと調べてきたわけでもなく、準備不足ということもありました。
そして、実は選挙のためという大義名分のもと、友達や親戚に会ってゆっくりしたいという気持ちもありました。何よりも先日iPhoneを買ったばかりの私に、ツイキャス中継ができるかどうか不安がありました。私は記者経験もカメラマン経験もない市井の市民、一介のフリーターにすぎません。
しかし、岩上さんの、石垣島の選挙の様子を全国に伝えてもらいたいという熱意ある説得に押しきられて、私はツイキャスデビューをすることになりました。
祖母から、事前の情報として、「石垣島の人は本島と違って基地がないから、基地が出来るという危機感がない。地上戦がなかったということもあって、本島並に『命どぅ宝(生命こそ宝物である)』という考えが強いとは限らない」という話は聞いていたので、きっと基地容認派と基地反対派と真っ二つに分かれているのだろうと私は考えていました。
私が石垣入りしたのは2月28日のことだったので、それまでの流れも何も知りませんでした。中継と取材を引き受けると承知してしまった以上、何も知らないというわけにもいかず、告示からの流れを追ってみることにしました。
自民が争点化を拒む「基地問題」
自衛隊の基地が建設されるという話は、まず、2月23日に、琉球新報が具体的な情報を報じました。石垣市の2カ所が陸上自衛隊の配備先として絞り込まれていると報じたのです。(2月23日、琉球新報 陸自警備部隊、石垣に2候補地 防衛省が来月決定)
翌24日には、産経新聞が防衛省幹部は「石垣島がノーとなれば、宮古島への部隊配備にも悪影響を及ぼす」と指摘したと、さらに踏み込んで報道しています。(2月24日、産経新聞 陸自配備の行方左右 石垣市長選告示、保革一騎打ち http://on-msn.com/1jD99b0 )
そして、同24日に、沖縄タイムスも1面で報じています。(2月24日、沖縄タイムス 陸自配備、石垣に候補地 大崎牧場周辺など )
こうした一連の報道を受けて、目立った争点のなかった(と思われていた)市長選が、自衛隊配備問題が最大の争点になる可能性が浮上したのです。
基地容認派の中山義隆陣営の動きはというと、最初の報道が出た23日の午後に、自民党県連の翁長政俊前会長、砂川利勝県議らが、中山氏の選対本部で記者会見し、「(選挙に)迷惑をこうむっている。大変遺憾だ」(砂川氏)、「選挙に影響を与える可能性がある」(翁長氏)、と琉球新報社に抗議しました。
防衛省側も小野寺五典防衛相が同日午後、視察先の岐阜県で「事実ではない」と否定しています。
さらに26日には、来島した石破幹事長が、「基地をつくることは絶対にない。中山さんが許すはずがない」と発言しています。
しかしその一方で、石破幹事長は、「市長選の与党推薦候補の要望を受けて、2013年度の補正予算で100億円の沖縄漁業基金を新設した」と話してもいるのです。話題になった「100億円発言」です。基地は「絶対につくらない」にも関わらず、100億円もくれるなんて、石破さん太っ腹ですよね。
街頭でも、弁士が「候補地報道は事実無根。デマやデタラメを言って市民の不安や恐怖心をあおっている」と話しています。
そして、防衛省は、28日に「事実と全く異なる」と記者会見し、最初に報じた琉球新報社と日本新聞協会に文書で抗議したことを明らにしました。(琉球新報社の松元剛編集局次長は「十分な取材に基づいた報道であり、訂正の求めには応じられない」と突っぱねています)。
このように自民党や政府は総力をあげて、火消しに必死になったのです。
中山さん支持だという地元の複数の男性に、私が、基地についてどう考えているのか、 と聞いて回ったところ、「基地なんてできない」と回答される方が少なからずいらっしゃいました。中山陣営と政府・自民党は上手に争点をぼかしたのです。
当選後のインタビューで、中山氏は、「自衛隊の件に関しては、実際にどうこうするレベルの話ではなかったので、争点化することは考えていなかった」と答えています。
対する大浜陣営は…
では、大浜長照氏を推した革新側(沖縄では本土と違い、今なお「革新」という言葉が生き残っているのです)は、基地問題を全面的に打ち出して争点にしようとしたのでしょうか?
この答えはYESでもありNOでもあるという非常に微妙な状況だったのです。これが、冒頭に書いた、私の感じた違和感の核心です。
24日、山本太郎参院議員を迎えて行われた街頭演説では、すべての弁士が自衛隊配備問題を取り上げました。
山本氏は、「安倍政権は、日本を戦争のできる国につくりかえようとしている。地方から変えるしかない。きな臭くなると観光客は来ない。自衛隊を配備してはいけない。そのためには大浜さんしかいない」と訴えました。
大浜氏は「基地があると、必ずまちづくりは阻害される。歴代市長で、誰ひとり軍事基地の誘導には乗ってこなかった」と強調し、基地反対を前面に掲げる戦略を展開しました。
2月25日の八重山日報も、「大浜陣営は報道を追い風として期待しており、この問題の最大争点化を図る構えだ」と報じています。
3月1日の打ち上げ式では、稲嶺進名護市長、山本太郎参院議員、平良朝敬かりゆしグループCEOらも来島しました。
しかし、大浜候補の選対本部の中には、こうした「基地の争点化」という戦略に、意外なことに否定的な声も上がっていたのです。
といいますのは、選対本部は「市民党」を標榜し、従来の革新層のほか一部の保守層を巻き込んで戦っていたからです。基地問題を争点化すれば、その一部の保守層は逃げていってしまう、という懸念が選対本部の一部にはあったのでした。
島外から応援に来ていた、選挙に詳しいある男性は、「選対本部と勝手連とがかみあっていないから、基地問題を争点化しきれていない。戦術ミスだ」と分析していました。
選挙後、3月3日の八重山毎日新聞も「市民党は自公に対抗する新たな組織として注目されたが、内部での意見調整が上手くいかず、統一した戦略が確立されないなど、今後に課題を残した」と評価しています。
基地容認派が必死で争点をぼかした一方で、本来は基地反対派であるはずの大浜陣営も、一生懸命、争点をぼかそうとしていたのです。
開票後、市議会議員の石垣涼子氏にお話をうかがったところ、「基地問題を前面に出してしまったために、保守票が取り込めず負けたと思う」と話していました。事実、3月4日の琉球新報で同じことが書かれています。
しかし同じ3月4日の産経新聞では、「革新勢力は、大浜氏を支援し反基地の訴えを強めたが、浸透していなかった」と書いているのです。
一体前面に出したのか浸透していなかったのか、どちらなんでしょう。全くすっきりしません。
石垣島という「離島」の現実
開票後、大浜選対に集まっていた地元の方の年齢層はとても高く、60代以上の高齢者であったことが特徴的でした。
その方たちは、「基地が私たちを守ってくれるわけではない、基地があるところから狙われる」と語っていました。
「かつて軍は食料を独占した、自衛隊も必ずしも自分たちの味方になるとは限らない」
「中央から色々な人が乗り込んできて異様な雰囲気。平和な島が軍事色に染まっていくのは残念」
「基地が出来るということを市民が理解していない」
「基地問題を争点にできなかったことが石垣市民として恥ずかしい、目先の利益でない本当に大切なことは何かを考えていない」
と口々に話し、68年前の戦争を知る世代として、ことのほか不安と危機感を強めていました。
かつての「戦争できる国」へ突き進む改憲タカ派の安倍政権や、若者も愚かな戦争に対しての想像力が乏しいといった右傾化の中で、「中山が勝てば安倍強権政治に弾みをつけ、石垣をはじめ沖縄やこの国がどうなるのか」という不安が高まっていました。
このことが、従来は保守的な高齢層も革新の大浜候補支持に駆り立て、公明も約3割が大浜候補支持に回った、と地元紙八重山毎日新聞は報じています。
従来の革新色が前面に出てしまった。
有権者に浸透しなかった。
保守票を取り込めなかった。
保守系を駆り立てた。
この一見矛盾した話が現場のあちこちから聞こえてきたことが、私の中の釈然としない思いを大きくさせたのです。
当確が出た後、中山陣営の選対に移動したのですが、こちらは、若い人が多く活気がある印象を受けました。
石垣商工会青年部のほとんどが、中山さん支持にまわっていました。
皆さんにお話をお聞きすると、
「中山さんの4年間が評価されて嬉しい、経済振興が大切。この4年間で良くなった」
「平和のために、島を守ることも大切。そのためには自衛隊も必要」
「私たち若い世代は、中山さんを応援している人が多かった。やはり目の前の生活や経済が切実」
と言った声が聞かれました。中でも印象的だったのが、我喜屋隆次市議会議員のお話です。
「離島である故のハンディを背負っている。本土や沖縄本島と同じ生活が出来るように、格差がないようにしてもらいたい。国がもっと離島をしっかり見てくれて、政策を打ってくれることを期待しています」
離島が抱える切実な悩みを聞くと、石破さんの幻の100億円の効果があったことは否定できないように思います。
基地は原発問題と同じ構図で、産業がないところに、札束で頬を叩いて基地を押し付けるという側面もありますが、そこには、東京-地方間の問題に加えて、離島の切実な現実をどうしたらいいか、という複雑な思いが交錯していたことが、この選挙を難しくした一因だったのではないかと思います。
基地に対してのスタンスの違いはあるけれど、両陣営の選挙戦を見てきて、私の抱いていた違和感の正体は、この八重山という土地の特殊さであることが影響しているのかもしれないと思いました。
「沖縄であって、沖縄でない場所」
皆さんは石垣島、八重山と聞くと、どのようなイメージをもたれるでしょうか?
日本本土の方が、台風が沖縄に接近している、というニュースを聞いた時に、その台風は沖縄本島であっても、石垣島大丈夫?と聞かれることが度々あります。石垣島と沖縄本島は同じ「沖縄県」であり、すごく近いイメージをもたれているのかなと思います。
八重山諸島は、沖縄本島とは遠く海を隔てていて、その歴史も文化も沖縄本島とはかなり異なります。八重山と那覇とは、約410km離れていて、それは、日本本土で言えば東京-大阪間の直線距離に相当するのです。しかも、八重山と那覇とは「海」を隔てています。
逆に台湾とは概ね270kmしか離れておらず、地理的には日本のほとんどの地域よりも台湾に近い場所に位置しています。実際、祖母の従姉妹や、友達も沖縄本島ではなくて、台湾に出稼ぎに言ったと話しています。
こんなに離れたところを同じ「沖縄県」としてひとくくりに考えていいのでしょうか?
東京-大阪間も離れていれば、当然、文化も自然も言語も気質も大きく異なります。八重山人(やいまんちゅ)は、同じ沖縄県に住みながら、本島に行くことをあえて「沖縄に行く」と言います。八重山の人の中には、「自分たちは、沖縄人でも、日本人でもない、八重山人だ」というアイデンティティを濃厚に持っている方もいるのです。
沖縄本島の人々が、歴史・文化的側面においてその地域特性を、「日本であって、日本でないところ」だと表現するとすれば、八重山は「沖縄であって、沖縄でないところ」だと言うこともできると思います。
では、沖縄と八重山の境界線はどこにあるのでしょうか? 歴史を紐解くことにより、その謎に迫っていきたいと思います。
八重山・宮古をのみ込んだ琉球王府
八重山は始めから琉球王国の一部であったわけではありませんでした。個々の島として固有の道を歩んでいたのです。中国との交易も盛んに行われていましたが、15世紀末、宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとゅみや)、石垣島のオヤケ赤蜂との間で勢力争いが勃発すると、琉球王府は、これ幸いとばかりにこの争いを利用しました。琉球王府はオヤケ赤蜂軍を滅ぼし、八重山諸島を制圧し、統治下におきました(オヤケ赤蜂の乱)。
ここで、興味深いことは、オヤケ赤蜂が、石垣島では、「琉球王国に反旗を翻した英雄」であると、現在も語り継がれていることです。琉球から見た場合は、「乱」を起こした「逆賊」とみなされているにもかかわらず、です。視点の置く位置によって表裏が逆転するというこの「メビウスの輪」のような現象は、遠い過去であるはずの琉球史が、実は沖縄の現状を考える鍵になることを教えてくれます。
宮古・八重山の独自の歴史の歩みは、琉球王府の沖縄全島統治という大きな歴史のうねりに呑み込まれ、中断されました。
しかし、その琉球王府も、それから約100年後の1609年、薩摩の侵略を受け、その支配に組み込まれるという皮肉な結果になります。
附庸国でしかなかった琉球王府にとっての宮古・八重山
琉球王府は、薩摩に支配されるようになると、宮古・八重山の統治を再編・強化し、「収入や働けるか否かには関係なく、15歳から50歳までの男女一人一人に頭割りに税を課すという人頭税」が制度化します。
この悪名高い人頭税に加えて、新しい知行地を開拓するため、強制的に未開地へ移住させる集団強制移住政策などを創設し、苦難を強いました。そのような苦しい農作業の中でユンタやジラバといった古謡が発達したことも、八重山文化を語る上で重要です。
そして、過酷な人頭税から逃れるため、集落ごと島を脱出し、南の島を目指したという波照間の「南波照間(パイパティローマ)伝説」が生まれました。与那国島にも同じように集団で脱島した「はいどぅなん(南与那国)」の伝説があります。
人頭税は、琉球王朝や徳川幕府が崩壊した後の1903年(明治36年)にやっと廃止されました。265年もの間、なぜ宮古と八重山だけを対象に過酷な人頭税の取り立てが行われたのでしょうか。それは琉球王府にとって宮古と八重山は沖縄本島とは異なり附庸国であったからだと言われています。要するに「内地」と「植民地」の力関係が、沖縄本島と宮古・八重山の間に持ち込まれていた、ということです。
「分島増約案」という幻の条約案
幻の日清条約と言われるものもあります。
沖縄の廃藩置県と前後して、日本政府が清国(中国)との間に締結しようと画策した条約に、「分島増約案」という条約案があります。
日本政府は琉球国を併合しようとしていましたが、当の琉球国や宗主国・清国はこれに強く抵抗していました。
そのため、日本政府は、沖縄本島と周辺離島はこれまで通り琉球国として独立させ、奄美大島は日本の領土、そして宮古と八重山は清国に分割譲渡するという案をだしてその実現をはかりました。
明治4年、日清間では「日清修好条約」が締結されていました。が、この条約で日本は欧米諸国並の「最恵国待遇」が認められていませんでした。そのため、この分島増約案と引き換えに、最恵国待遇を清国に認めさせるべく働いたのです。
日本政府にとって、宮古・八重山はやはり軽い存在だったのでしょう。時の琉球国政府も、自身の独立を日本に認めさせるためには、宮古・八重山の切り捨ては仕方がないとみていたようです。日本政府、琉球王朝(沖縄)両者にとって文化も民族も違う八重山諸島は、日本の国益のためには売り買いも譲渡もできる、そんな存在であったことが透けて見えます。
ところが、この案を清国側はのめないとして拒み、結果として、幻の条約案となってしまいました。
当時の日本政府の思惑通り、この条約が締結されていたならば、今頃、宮古・八重山の両群島は中国の領土であり、そこに住む人々は、台湾の一離島に住む、琉球族となっていたことでしょう。そして沖縄諸島は独立国として、独自の歩みを続けていたはずです。
離島特有の選挙の「複雑さ」
中国が太平洋に出ようとすると一番目障りなのが沖縄である。そこに米軍がドンを基地を構えている。全く目の上のたんこぶであろう。中国が琉球奪還(奄美諸島も含む)と言っているのも頷ける。私は基地反対のことばかりニュースにするマスコミを余り信用できない。新聞とかニュースでは反対者の声はよく聞くが、賛成者(消極的賛成者も含む)の声は皆無といってもいい。戦前はあれだけ戦争を煽っておきながら、戦後は左翼的言動を繰り返しているマスコミには胡散臭さを感じます。年金と基地の借地料でやっと暮せている方や基地で働いて生計をたてている方もたくさんもいると聞きます。尖閣諸島近海で漁をしている方が安心して漁ができるように目を光らせておける最少限度の監視部隊の配備は必要だと思います。反対者ばかり・賛成者ばかりの報道は信用できません。もう少し公平な報道をお願いします。
たいへん貴重な報告をどうもありがとうございます。石垣島にはずいぶん前に一度だけ、観光で行ったことがあって、そのときに浜で拾ったサンゴや貝のかけらは、今でも大切に部屋のなかにかざっています。今回の記事で、私の中に石垣島との内面的な接点が作り出されたように思います。ありがとうございます。
私も日本のなかではかなりな地方出身者ですが、私の育った時代にはまだ、地方が中央と闘った歴史を誇る文化が強く残っていました。メディアや教育を使った中央集権化みたいなものが功を奏したのでしょうか、日本中が単純思考に陥っているように思います。