【IWJブログ・TPP特別寄稿vol.11】TPPの根底にあるもの ~ヴァンダナ・シヴァさんの本から考える(神子島健 東京大学助教) 2013.12.3

記事公開日:2013.12.3 テキスト
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◆◇TPPの根底にあるもの
 ―ヴァンダナ・シヴァさんの本から考える―◆◇

神子島(かごしま) 健(東京大学助教:社会思想史、相関社会科学)

2013年10月23日

1.はじめに

 TPPの問題点を色々な専門家が具体的に指摘していることは、IWJの会員のみなさんはよくご存じでしょう。TPPに参加することが「国益を損なう」ものであり、「参加のメリット」なるものはアメリカ追従路線を変えられない政治家・官僚から出される説得力を欠いたものでしかないわけです。

 しかし、そうしたTPPに批判的な見方は世論の大勢には届かず、状況は厳しいものがあります。そこには巨大メディアの壁があり、それが簡単に変えられるものでないという問題とは別に、一つの大きな問題があることも考えなければならないのではないでしょうか。

 多くの、特に大都市部の国民は、国益に反すると言われてもTPPに参加する方がよいと考えているのではないかということです。TPPのような「自由貿易」の路線を進めないと日本が21世紀の資本主義社会を生き残れないという恐怖感に押され、多少の「国益を損なって」もTPPに参加するべきだ(結局それが「国益にかなう」)と考えているのではないでしょうか。行くも地獄帰るも地獄なら、思い切って突っ込んでみよう、と。

 これは私たち、日本社会で成長しそこで暮らす人々の多くが、昔であれば国内での、今はグローバルな企業競争の中で生き抜く価値のある人間になることを求められ、そこに入れない場合は周囲(の「価値ある」とされる人々)に「迷惑」をかけない範囲(生存ギリギリのライン)で生きることを求められるということが、リアリティを持っているからです。

 そして、その企業競争を中心とした価値観の延長線上に、損得を考えず貿易自由化を進めていくことが現代日本の進むべき道なのだという考え方も出てきます。TPPの場合には、アメリカと仲良くするという意味合いも含まれるので、一層「突っ込んでみよう」となります。

 そうした価値観にあっては、例えばISDS条項によってTPP参加が日本の主権を損ね、民主主義を後退させるなどと言われても実際はどうでもいいことかもしれません。「主権を損ねる」ことは保守層(自民党のコアな支持層と重なります)にとっては聞き捨てならないことですので、そういった指摘と「国益を損ねる」点を強調することは、TPP反対の側として悪い戦略ではないかもしれません。

 ですがむしろ大都市の非保守層、具体的には09年の総選挙で民主党に入れ、昨年の総選挙で自民党に入れたか棄権したような層を考える時、貿易自由化への肯定的イメージからTPPを支持している可能性があります。もちろん「内容をよく知らない」(知らされていない)という部分があるにせよ、TPPは必要だとすり込まれる土壌が、こうした層には強いと考えられます。

 私たちは視野を広く取り、TPPが進め、更にTPP締結後も進められていくであろう、アメリカ優位の形でのグローバルな資本主義そのものが、世界全体にとって構造的なマイナスをもたらすということに踏み込んで考える必要があります。TPPに飛び込まねば日本の未来はない、と恐怖しつつ(あるいは深く考えずに)乗っていく人々に働きかけていく際に、そろばん勘定のプラス・マイナスを越え、いわばその現在のそろばんのルールそのものの問題、私たちの生き方、価値観のところに踏み込まなければいけないのではないか、と思うのです。

 いや、もっと言えば、TPPがおかしい、と思っている人の多くは、既にそのことに気付いているのではないかとすら私は思っていますが、つい「国益を損ねる」という点に議論を集中してしまっているのだと思います。

 なんだか大袈裟な前書きで、それに見合う内容かはわかりませんが、以下は今私たちが進もうとしている道がなぜ危ないのかということを素描した文章になります。

2.ヴァンダナ・シヴァさんをなぜ取り上げるか

 異質な、ということばには、ネガティブなニュアンスがあります。同質なものが前提にあって、そこから排除される(べき)対象を異質というのであって、マイナスの価値判断を含んでいるのです。しかし、異質なものが色々と集まって多数を占めていくと、「異質」の前提としての「同質」がそもそも成り立たなくなり、同質・異質という関係性でなく、混沌とでも呼びうる状況になります。

 それを「多様性」と呼んでみるとポジティブな意味を持ってきます。そう考えてみると、そもそも同質・異質という関係においても、「異質」とみなしていた対象への見方を変えてみると、今まで「異質」と思っていた対象は世界に多様性をもたらしてくれるものであるのかもしれません。

 私たちは日本でなかなか手に入らないものでも当然のように買える時代に生きており、それは世界の多様性を享受することのようにも思えます。だからこそ、自由貿易をどんどん進めていくのは、私たちにとって良いことのように考えられます。しかし現実はそれほど単純ではありません。グローバリゼーションが進んでも必ずしも世界の文化が均質化しているわけではありませんが、世界のどこで作っても同じ、工業化され、規格化された製品が増えるなど、いくつかの重要な面において一種の強制的な同質化が進められ、文化の多様性の基礎が失われていることは否定できないのです。

 以下、TPPと関連付けつつ、しかし必ずしもTPPにとどまらない形で、このことの意味について書いてみたいと思います。なんだか壮大なテーマですが、ここでは、インドの思想家であり、活動家でもあるヴァンダナ・シヴァさんの著書を紹介する形で、できるだけ簡潔に書いてみたいと思います。

 シヴァさんは、インドの様々な農民の運動に寄り添いながら、彼らの取り組みの持つ世界的な意義を発信し、あるいは「自由貿易」が実は不公正な貿易で彼らを窮状に陥れること、あるいはその貿易によってモンサント社などの超国家企業(注1)が潤う実態を鋭く指摘しています。TPPの交渉に参加しているわけではないインドの著者の本をわざわざ取り上げるのは、こうした理由があるのです。

 もう少し言えば、TPPが日本社会にどうマイナスをもたらすのかという具体的な指摘は、既に専門家の皆さんが色々とされていますから、ここではもう少し広い視野から、TPPとそれが加速するであろう現在の「自由貿易」が、日本にとどまらず、世界全体にとってもマイナスをもたらすであろう点を考えてみたいと思うのです。

 ちなみに話の中心は農業のことになります。TPPを農業問題だけに矮小化することは問題があるのですが、時間的な制約などもありますし、シヴァさんの著作の重要な点はエコロジー関連にあるので、ご容赦ください。

(注1)現在のグローバリゼーションのあり方を批判しているスーザン・ジョージさんが用いているのがこのことばです。一般的には多国籍企業ということばが使われますが、多様な国の実態にうまく適応する企業というよりも、「出自の国と緊密にむすびついて」、自国の政治力を使って他国に進出していく企業、という意味が込められています(『WTO徹底批判!』作品社)。

3.世界の農業の現場で起きていること

 農業は本来人間が自然にはらたきかけ、自然の生産力を利用することで自分たちに必要、有用なものを生みだす営みです。その営みの中で形成されてきた数々の作物種は、人類の文化と歴史を物語るものといっても過言ではありません。風土に固有の作物は人間の一生よりもずっと長い時間をかけてその環境に適応し、その地域の食文化の基礎として独自の料理を生み出します。風土のフード、です。英語のculture(文化)の語源がcultivate(耕作する)にある、というのも示唆的ですね。ですが、今の世界の農業の状況は、そうした固有性を失う方向に進んでいるようです。

 現在、たねの多様性と未来は危機に瀕している。8万種の食用植物のうち栽培されているのはほんの150種で、国際的に〔大規模に―引用注〕取引されているのはわずか8種である。この事実は、たねと作物の多様性が取り返しがつかないほど消失していることを暗示している。

 シヴァさんが議長を務めた「食と農業の未来国際委員会」(International Commission on the Future of Food and Agriculture)が2006年に出した「たねの未来のマニフェスト」に書かれた言葉です。シヴァ編著、小形恵訳『食とたねの未来をつむぐ』(大月書店、2010年、今回紹介する本の中で最も読みやすい一冊)という本に収録されています。文化の基盤ともいえる作物の多様性が失われつつあるのです。

 こうした栽培種の減少は生産効率のよい種、あるいは人気のある種が選別された結果ではないか、と思う方もいるかもしれません。ですがまず、単一種の大規模栽培(monoculture)は、病気や悪天候などによる全滅のリスクが高いことを忘れてはなりません。

 それ以上に重要なのは、農業関係の巨大な超国家企業であるアグリビジネスにとって有利なルールがWTO(世界貿易機関)において作られてきた結果、ローカルな固有種を生産してきた農民が経済的に生き残ることが難しくなっている、つまり政策的にこうした事態が形成されてきたということです。

 このことについて、シヴァさんは『アース・デモクラシー』(2005年。邦訳2007年、山本規雄訳)という本で、次のように怒りを込めて書いています。

 インドは1942年以降、飢饉はありませんでした。しかしいまでは、餓死者を出す地域が、次から次へとあらわれるのです。飢えのために8000人もの子どもが亡くなったある地域について調べた1991年の政府調査によると、貿易の自由化、グローバリゼーション以前には、食糧不足が原因で死亡した0歳から6歳の子どもは一人もいなかったのです。

 2002年にインドで死亡した子どもの47パーセントが、食糧不足を理由とするものでした。食べる物がないわけではないのです。6500万トンの食糧が貯蔵庫のなかで腐っているのです。食糧生産と食糧消費の均衡はどちらの側でもかき乱され、いまでは巨大穀物企業が私たちの食糧を貧者が買うときの半値で買い取り、どこかほかの市場でそれを大安売りしているようなありさまです。同時に、穀物企業はまた別の場所から4000億ドルもの補助金を受けている食料を輸入してきます。

 グローバリゼーションはなぜインドで餓死を生んだのでしょうか。資本主義の拡大は、カネをあまり必要とせず自給的な暮らしをしてきた人々に、カネを必要とする生活を押し付けます。カネが増えることが豊かさの指標とされ、自給自足的な農業をしてきた人々に対して、政府や国際機関が商品作物の栽培を促します。WTOなどが外国企業の投資をしやすいルールを途上国に押し付ければ、儲かる農業への投資が増え、そのスピードは一気に高まります。

 しかしいざ商品作物を作ろうとすると、農機具、種子、農薬などを買わなければならず、商品作物の種子や農薬を握るモンサント社などのアメリカ企業にとって得になります。おまけに輸出補助金などによって援助されたアメリカの安い作物との競争にさらされ、食文化の固有性は後退し、カネも外資に流れていくわけです。

 こうしたプロセスの中で、少なからぬ地元農家が廃業に追いやられます。農業を続けていれば食べることだけはできたはずですが、農機具などの借金を返すためにはカネを稼がねばなりません。そのために都市へ出てみて、職にありつけなかった場合、食べることができなくなるわけです。

 途上国には外資を導入してでも経済発展をもたらすべきだ、と漠然と考える人が多いと思います。しかし、急激な経済開発は環境面の負荷が大きい上に、そこに生きる人々の暮らしにも大きなひずみをもたらします。職を失った農民たちは都市へ出て賃金労働者になるわけですから、日本人では全く太刀打ちできない超低賃金労働力がこうしてどんどん増えていく、ということでもあります。

 TPPにおいては、WTOで認められた輸出補助金のように、アメリカなどの農業輸出国に有利なルールがさらに強化される可能性が高いことが指摘されています(例えば、鈴木宣弘、木下順子『よくわかるTPP48のまちがい』農文協ブックレット、2011年の41項などをご覧ください)。

 それでもWTOの交渉では、公平性の観点からアメリカなどの国内農業保護の水準を引き下げる議論が出ることもあります。そのためアメリカはWTOでの交渉を嫌い、個別に交渉でき、国力の強い自分の言い分を通しやすいTPPやFTAを選んでいるという指摘もあります。ちなみに日本はWTOの参加国の中でも、律儀に自国の農業補助を切り下げてきた「優等生」なので、このルールの不利益を受けていると言えるでしょう。

 TPPに日本が参加する場合、世界のGDPの約4割といわれる巨大市場が成立します。そこにおいてこうした不公平なルールが「自由貿易」の名の下に強化されるわけです。そうなると、農業分野において、アメリカやオーストラリアなどの超大規模農家による価格支配力は一層強まり、世界中の中小農家の暮らしに影響が出ることでしょう。

 21世紀に入り、既に世界の食料価格は上昇傾向にあります。この10年ほどで平均すると倍近くなっているとも言います。日本社会で生きていると、ついつい食糧輸入に大幅に依存することを当然として深く考えずに済ませて、この状況が永遠に続くかのように思ってしまいがちです。あるいは生活が苦しいから輸入で食糧価格が下がってほしいと考えるわけです。

 私たちは食糧抜きに生活できませんが、ちょっとした不作で食糧の国際価格は高騰します。2007‐08年の世界食糧危機において、コメは在庫が例年以上にあったにもかかわらず、投機的資金の流入や小麦などの不足による消費者の不安といった要素が重なり、国際価格は3~4倍に跳ね上がりました。主要な輸出国は国内の食糧不安をおさえるため、輸出禁止や輸出制限を行いました。

 食糧供給が需要に追い付かなくなった時、日本が食糧を海外から調達できなくなる可能性は常に考えておく必要があります。食糧という生存に不可欠な財を、国内で不足している時にわざわざ輸出する政府はありません。そして世界市場が緊迫している時に余裕のある国があったとして、高値の食糧を売ってやるかわりに他の要求を呑ませる、という政治的な取引を迫られる可能性も十分にあるでしょう。

 今でも既に日本は世界最大の食糧輸入国であり、フードマイレージ(食糧の輸送距離)も突出して世界最大です。食糧自給率を更に下げることのリスクは非常に大きいものがあります。

 ちなみに、一時期よく耳にしたフードマイレージということばも最近あまり聞かないのは、定着したからでしょうか。あるいはTPP推進の立場に立つ大メディアが封印しているのではないかとも思ったりしますが、うがった見方でしょうか? いずれにせよ、こうした食糧貿易の変化による環境への影響抜きにTPPを論じることはできないはずです。

4.持続可能でない「工業的農業」

 TPPもWTOによって進められる「自由貿易」も、単に食料の輸出入だけでなく、そもそも企業が国境を越えて活動する際の制約をできるだけ少なくする方向に進むものです。それはもちろんアグリビジネスの活動も「自由」にします。

 現在でも既に多くの途上国で、先進国の巨大資本が進出して大規模に土地を所有し、機械化による輸出用作物の工業的生産を行っています。失業した農民の後に入り込んだり、借金を背負った彼らのなけなしの「資産」である土地を買い取ったりするわけです。そうして固有種が失われると同時に、現地の文化の基盤であるコミュニティが解体されていきます。

 ここで「工業的生産」ということばを使いましたが、まさにこうした農業は、生産から流通までのすべての段階で、大量の化石燃料(石油由来の化学肥料の利用も含む)を消費します。もはやこの工業化された農業は「人間が自然にはらたきかけ、自然の生産力を利用することで自分たちに必要、有用なものを生みだす営み」ではなく、生みだされるエネルギー(カロリー)よりも大量のエネルギーを消費することで成立する、消耗的な産業なのです。

 地球上の人口は増加し続け、食糧の増産が必要なのだから、生産性の高い品種を導入するのは大切だとお思いの方もいることでしょう。しかし食糧の増産が必要だからこそ、土地の力を活かす持続可能な農業こそが、本来的な意味で効率的なのです。そしてそれはその土地ごとの風土に合った伝統的な農法、多様な農業のあり方を踏まえることでこそ可能なのです。

 『食糧テロリズム』(2000年。邦訳2006年、浦本昌紀監訳)という本の中で、「工業的な農業」の典型といえる「緑の革命」(注2)による生産の問題点を、シヴァさんは次のように書いています。

 「緑の革命の推進者たちが広めた、最も人を惑わす神話のひとつはおそらく、高収量品種は耕作面積を減少させ、したがって何百万ヘクタールの面積にわたる生物多様性を保護してきたという主張だろう。しかしインドでは、より多くの土地が生物多様性保護のために解放されるどころか、工業的な生産が土地への圧力を増大させているのが実状なのだ。というのは単(モ)一種(ノ)大面積(カルチュ)栽培(ア)の土地では一種類の食品しか生みださないので、それ以外の食品をそれ用の別の土地、すなわち「影の耕作地」で育てなければならないからである」

 「緑の革命」と言えば、漠然と途上国農業の近代化というイメージで考えてしまいますが、実態はそもそも商品作物の導入であり、ひいては食糧の「自由貿易」の推進者の一つである巨大(食糧)商社に有利な仕組みであると言えるでしょう。

 しかしそれで生産力が増えるのだから、悪いことではないじゃないか、とお思いかもしれません。シヴァさんはノー、と言います。

 「緑の革命の品種は光合成生産物を茎に回さないことで、より多くの穀粒を生産する。〔中略〕ところが茎が少なくなることは家畜用の飼料が減り、土壌を作り甦らせる何百万もの土壌生物を養う土壌有機物質が減るということを意味している。したがって、麦やトウモロコシの高い収量は、家畜や土壌生物から食物を盗むことによって達成されるということになる。家畜やミミズは食糧生産における私たちのパートナーなのだから、彼らから食物を盗むことは、長期にわたる食糧生産の維持を不可能にすることであり、部分的な収量増大は持続可能ではないということを意味しているのである」(『食糧テロリズム』)。

 要するに「工業的に生産された作物」は、土壌などにもたらされる栄養を全て作物に集中させることで、微生物の活動を弱めて土地自体の持続可能性を失わせます。だから毎年化学肥料を投入する必要がありますし、アメリカ中部のように土地の条件を無視して、降雨の少ない地域で過大な地下水のくみ上げに依存した農業を展開し、深刻な地下水不足を起こしたりもするわけです。そして作物そのものの生命力も弱いために、農薬への依存が増します。農薬メーカーであるモンサント社は、それだけもうかるわけです。

 耕作条件のよい土地が限られ、既に機械化が当たり前になっている日本の農業を、今更昔の農法に戻せなどと言うつもりはありません。労働力不足である日本の農業で、労働効率を上げることは重要だからです。しかし現状の「自由貿易」推進は、農民が現にたくさんいる国で、無理に資源浪費型の「工業型農業」を進めることで失業者を増やします。これから環境問題が深刻化していく一方の世界において、大量にエネルギーを消費する工業的な農業を続け、拡大していくことが賢い選択でしょうか。

(注2)緑の革命とは、高収量の作物品種を開発し、化学肥料や農薬の使用によって、途上国の食糧危機を解決しようというものでした。しかし環境破壊を進め、農民の借金を増大させるマイナス要素が多かったわけです。シヴァさんは『緑の革命とその暴力』(日本評論社、1997年)という本で「緑の革命」の問題点を具体的に指摘しています。

5.私たちは世界をどう捉えるのか

 世界の人口増加はまだまだ止まらず、長期的には食糧需要そのものと、耕作のための水や農地の需要が高まります。世界各地で巨大資本による土地の買い占め(Land Grab)が問題になってきています。これは農地の買い占めや地下資源を狙ったもののほか、水資源を狙ったものもあるという指摘がなされています(注3)。

 シヴァさんは『ウォータ・ウォーズ』(2002年邦訳2003年、神尾賢二訳)という本で、水という人間の生存に不可欠で、人間自身が作り出すことのできない共有財を、人為的に囲い込むことで人類が何度も争いをしてきたことを書いています。

 21世紀においては、食糧の実質的な寡占的体制が作られかねない、という状況に続き、水も大企業によって支配されかねない状況が同書からは見えてきます。TPPに盛り込まれるISDS条項は、民主主義的なプロセスで決められたルールであっても、大企業の利益を損なう規制を撤廃・改変するのに用いられるわけですから、水道の民営化や水資源の森林保護の規制緩和など、水が外国企業によって支配されるようなことも将来起きないとは言えません(注4)。

 シヴァさんが食糧だけでなく水問題までも論じているのは、彼女がエコロジスト(生態学者であり、エコロジー活動家)であるからという話にとどまらず、世界をどう認識するのかという哲学的な問いを根底に持っていることと関わります。その上でどういう世界を作っていくべきなのか、という実践的な活動にも携わっているわけです。

 西欧はじめ、日本人も含めた先進国の人々の多くが、当然として疑ってみることのないモノの見方がある、と彼女は考えています。具体的に言えば、近代科学と経済開発を神聖視して、その問題点を見過ごしている、ということです。

 シヴァさんは元々、科学哲学の博士号を持つ、科学の「意味」を問う専門家です。彼女の本の中で最初に邦訳された『生きる歓び』(1988年、邦訳1994年)が、まさにこの問題を取り上げた本です。

 「西欧の家父長制における偏狭な権益によって『科学的林業』とされた商業的林業は、〔中略〕生計と生産性を森林に依存する人々の社会経済的なレベルでは貧困を生み出した。この種の林業は、林業を水管理から引き離し、農業や畜産からも分離させるがゆえに、還元論の特徴を具えている。また森林生態系の内部では、生命の多様性を木材という死んだ産物に還元し、その木材も商業的に価値のある木材だけにされてしまう」

 私たちにとってデータ化可能な側面だけを抽出してそれを数量的に評価して、ある物質の意味を判断する。そして林業、農業、畜産、水の管理、といった専門分化を前提として、それぞれの対象を、対象が置かれた環境から切り離して認識する。ここで出てきた「還元論」というのはそうした見方を指しているのですが、まさにこれを「科学的」として受けとめることに私たちは慣れ切っています。木材として使える真っすぐで加工しやすい木のみを評価し、その木を効率よく育てる方法を考えるが、その森林の保水機能は無視する、というように。

 最近ではある「システム」全体の意味を捉えようとする科学的試みもあるにせよ、例えば森林の生態系の複雑さを把握しようとする時、その森林の中の多様な生物の知識すら、まだ私たちは十分に持っていないのが現状です。ましてやそうした多様な生物がどう相互に関係しているかを知ろうとすると絶望的です。

 そうした生物種の知識の分厚さにおいて、その森林の周辺で数千年暮らしてきた先住民族の知的遺産は近代科学が太刀打ちできないものがありますが、その知的遺産を活かす前に、多くの森林が破壊され、先住民族の生活が奪われることでその知的遺産自体も消滅していっているのが現状です。

 あるいはそうした生物種の遺伝子を解析した企業が、その利用を知的財産として商品として囲い込むわけです。世界に多様性を付け加える重要な文化が、圧倒的な力関係の差によって強制的な形で消されていくわけです。また、ここで家父長制(家父長=父親がイエの頂点で女性、子どもを指導・善導するのが当然という考え方)が取り上げられており、これはシヴァさんの考え方において重要な意味を持つのですが、そのためにはこうした「還元論」的見方が経済の考え方にどう影響するのかをみるとわかりやすいので、そちらを見てみましょう。

 GNP〔GDPでも同じ―引用注〕で問題なのは、コストのあるものを便益に数え(たとえば汚染防止)、別のコストを完全に無視してしまうということである。こうした隠れたコストのなかには、北でも南でも生態系の荒廃によって生じた新たな負担があり、このコストは女たちに一層重くのしかかっている。それゆえ、GNPの増大に比例して富や厚生が増えなかったとしても何ら驚くにあたらない。(『生きる歓び』)

 ここで「女たち」が言及されていますが、貨幣換算されない労働、つまり家事労働や、商品作物ではない自給的食料の生産などの多くを女性が担っていることを意味しています。「女たち」は男たちの指導など受けずとも、重要な役割を果たし続けてきたのですが、その価値が無視されてしまうわけです。

 シヴァさんは、西欧近代のものの考え方が、科学の面でも経済(そして政治)においても、家父長制的な男性中心主義を前提としており、女性への抑圧が近代において(そして近代化という名の開発によって)加速したことを強く批判しています。

 例えば企業の活動によって家の近くの川が汚染されたとします。水質汚濁の防止法が整っていない国においては(あるいは、形式的に整っていても企業を追求することが政治的に困難な場合や、そもそも因果関係の立証が難しい場合などでは)、その水質汚染のコストを汚染者である企業が負担することはありません。そしてその企業の生産面だけが、GDPに換算されるわけです。

 しかし水道のない国であれば、その川の水は生活用水になりますから、汚れた水を使えば病気が増えてそのコストを市民が負わされるわけです。あるいは汚れていない遠くの川まで水を汲みに行くのであれば、その労働を主に担う女性や子どもの労働コストは増えるわけですが、それはGDPには換算されません。

 AとBという二つのモノ(やサービス)の価値をどう比較するのかということは、実のところ全く自明ならざるものです。しかしそれを問うことは非常に面倒で難しいので、私たちはカネという尺度によって価値を考えることを当然のものとして受け入れています。むしろカネという金属の塊や紙、あるいはコンピューター上の数字そのものが重要な価値であるという風に考えているわけです。

 しかし私たちはカネで買えないものの存在に直面させられた時、カネというものの限界を思い知らされます。東日本大震災(原発事故も含めて)は、おそらく多くの人にそうしたことを考えさせる契機だったのではないでしょうか。そして私たちの生存の基盤となっており、人間には作ることのできない土地、水、空気、そうしたものを包み込むものとしての環境とは、本来、カネに飽かして一部の人々が独占したり、あるいは一部の人々が勝手に汚染するといったことがあってはならないものなのです。

 しかし政治はそれを防ぐことができないばかりか、経済的自由の名目の下に、企業に有利な形で活動させようとしているのが今の動きです。TPPと、その背後にある現在の「自由貿易」の考え方は、間違いなくこうした動きを強めるものなのです。

(注3)例えば、2012年7月、TNI Agrarian Justice Programmeのディスカッション・ペーパー、Jennifer Franco, Jun Borras, “A ‘Land Sovereignty’ Alternative? Towards a Peoples’ Counter-Enclosure”
http://www.tni.org/sites/www.tni.org/files/a_land_sovereignty_alternative_.pdfなど。TNI(Trans National Institute)とは、新自由主義グローバリゼーションに反対する運動に関しての研究組織で、先に紹介したスーザン・ジョージさんは、この研究所の主席研究員です。TNIのウェブサイトには、ほかにもこの土地買占めと水の独占との関連を論じたペーパーが多数掲載されています。

(注4)ちなみに企業による水の支配の問題を取り上げた『ブルー・ゴールド』(サム・ボッゾ監督、2008年)というドキュメンタリー映画がありますが、シヴァさんはこの映画の中でインタビューを受けています。(了)

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「【IWJブログ・TPP特別寄稿vol.11】TPPの根底にあるもの ~ヴァンダナ・シヴァさんの本から考える(神子島健 東京大学助教)」への3件のフィードバック

  1. 平沢正秀 より:

    54名会員増おめでとうございます。
    1日に54名も増えるのを見るのは始めてです。
    IWJ存続の訴えに答えて下さる方がいることを喜びたいと思います。

  2. 松代理一郎 より:

    TPPには反対だが、「自由貿易」は必要と思っていた。自分ところで「生産」するものと、他所で「生産」されるものが、お互いの生活物資を補い合う手段として「貿易」(交易)がある。それは、それぞれの自国の経済を豊かにする前提の上で、一定の自制的なルールのもとに、自由になされればいいのでは、と思っていた。
    しかし、「自由貿易」には、”人間が自然を征服(破壊)して幸せを得る”と言う根本問題が潜んでいる事実があると感じた。45億年の地球の営み、5百万年足らずの人類の営み、自然の恵みを”農業”として利用しだしたて数千年。いくつもいくつも失敗を重ね、試行錯誤のなかで、自然の恵みを得る”知恵”を授かって来た筈。
    「自由貿易」と言うのは、もう「足らざるを補う」レベルを超えて、”金”のために競争優位に立つことが前提になる。
    そのために本来、自然が持つ多様性を破壊してでも、と言うかたちでの”自制”を無くした狂奔になってしまっている。
    資本主義の持つ特徴、”儲かればすべて良し、あとは野となれ山となれ”の世界版が「自由貿易」(強者の論理)なのだ。
    まして、TPPは、犯罪者の論理だ、
    今、資本主義、「自由貿易」の持つ深刻な問題。”ホントにそれでいいの?”を問わないといけない。
    結局それは「人類自滅への道」なのだ、と言うことを。

  3. 佐藤袿子 より:

    貴重な報告を読ませていただいて、ありがとうございました。特に次のところが心に残りました。「私たちはカネで買えないものの存在に直面させられたとき、カネというものの限界を思い知らされます。東日本大震災はおそらく多くの人にそうしたことを考えさせる契機だったのではないでしょうか。そして私たちの生存の基盤となっており、人間には作ることのできない土地・水・空気そうしたものを包み込むものとしての環境とは、本来、カネに飽かして一部の人が独占したり、あるいは一部の人が勝手に汚染するということがあってはならないものなのです」の部分です。自然界のすべての生き物の財産を一部の人が勝手にほしいままにすることが無いような社会をどうしたら作れるのか、考えていこうと思いました。ヴアンダナ・シヴアさんの本の紹介をありがとうございました。

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