【安保法制反対 特別寄稿 Vol.331~Vol.340】
立憲主義も法的安定性も民主主義をも無視し、説得力も説明力もまったく欠いた矛盾だらけ、疑問だらけの答弁で押し通し、数の力だけで戦争法案を強行採決しようとする安倍政権をどのように評したらよいのでしょうか。
集団的自衛権行使の論拠はまったく論理破綻しています。憲法解釈の変更が国際的な「安全保障環境の変化」だというのであれば、そのことを国民に訴えて正面から憲法改正を提起すべきです。
一内閣が勝手に憲法解釈を180度変更することは、武力なき一種のクーデーターです。法案が「憲法違反」であり「反対」だと考える国民が過半数を占め、「今国会で通す必要はない」との世論が60%を上回るにもかかわらず、参議院でも強行採決するとすれば、安倍政権はまさしく国民世論に背を向けた独裁政権といわざるをえません。法案は廃案、安倍内閣には退場以外の選択肢はないと思います。
(鶴田廣巳 関西大学商学部教授)
今回の安保法案はアメリカからの要求によるものであることは、すでに明らかです。
中国や韓国にどうしても謝りたくない安倍政権―――
日本を事実上の支配下に置いておきたいアメリカ政府―――
この両者の利害関係が一致し、ここまで強引に採決したがっているのではないでしょうか。中国・韓国への過去の侵略を明確に侵略と認めず、誠実な謝罪もしないのであれば、良好な関係を築けるはずはありません。
となると、アメリカの軍事力という虎の威を借りる必要が出てきます。威を借りるからには、アメリカの要求に応じることはもちろん、こちらからアメリカに自発的に何かを申し出ることすらあるかもしれません。
中国・韓国には日本が加害者であるという事実をうやむやにし、アメリカには自発的に隷従する。このようないびつな体制をいつまで続けるのですか? 自民党は未来永劫続けるつもりなのですか?
戦後70年、日米合同委員会の存在も明らかになった今、日米の歪んだ上下関係を正しながらアメリカと新たな関係を構築し、中国・韓国には対しては侵略の事実をまっすぐに認め、誠実な謝罪も行い、友好関係を築いていく。
すでに何度も謝罪したという意見もありますが、いじめ問題と同じで、いじめた側は忘れても、いじめられた側は忘れたくても忘れられません。そして、心からの謝罪かそうでないかは見えてします。わだかまりが融ければ武力に頼る必要はありませんし、経済・文化・学術・あらゆる人的パワーを駆使しながら外交努力を重ねる、そういう方向性を持った日本政府が必要ではないでしょうか?
安倍総理を始め、歴史修正を試みようとする人々は、日本の近現代史における日本人の自虐史観、とよく口にされますが、アメリカの庇護の下でなければ日本はやっていけない、という前提に立つ方が、はるかに自虐的ではないでしょうか?
私は日本語教師という職業柄、いろいろな国の人々に出会いますが、先日、ある生徒さんが私に言いました。
「日本は民主主義だからいいよね。私の国では反体制的なことは口にできない。』
私は答えに窮し、
「でも、今、主権在民は無視され、マスメディアも正常に機能せず、報道の自由が危ない。民主主義と言えるかどうか…」
すると彼は、言いました。
「でも、今、少なくとも嫌なものは嫌、おかしいことはおかしいと言えるでしょう?」
そうです! 言えるんです! 言っていいんです!
今、言わなければ、声を上げなければ、戦後、大切に守ってきた平和主義は壊れ、武力も仕方ない、というようなとんでもない方向に向かってしまいます。
個人対個人であれば、他国の人と友人になることは決して難しくありません。その友人になれるかもしれない人同士が殺し合うのが戦争です。
紛争の根本原因である貧困や格差問題に真摯に向き合い、日本が積み上げた平和の歴史、憲法の重みを今後さらに生かすためにも、今、全力で安保法案成立阻止を訴えたいと思います。
(内田明子 日本語教師)
<署名>
「内閣総理大臣 安倍晋三殿:憲法違反の安全保障関連法案(戦争法案)の施行停止と廃案を強く求めます』
「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会
「安保法案可決に賛成した自民党&公明党議員には今後一切投票しません」
「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」
「戦争をさせない1000人委員会」
「安保関連法案に反対するママの会」
「戦争法案に反対する東大有志の会」
「自由と平和のための京大有志の会」
「TOLDs」
<賛同>
「Forum 4」
「歯止め」言い強行採決するポチ公!
青が消え恥ずかしそうな三色旗
今夜から佛罰(ぶつばつ)怖じよ幹部たち
「ポチ公」の頭ナデナデ蛸入道(Armitage)
(けんじい)
ちょうど800年前のイングランドに、ある王様がいた。
彼は、王国の法と慣習を無視して人々に重税を課し、教会の人事に介入してローマ教皇と対立し、フランスにおける領地をめぐって仏国王と争った。そしてその結果、全てを失うことになったのである。
凋落の要因は、彼のわがままで傲慢な性格が大きく災いしているが、それだけではなく、多くの人々の声に耳を傾けずに少数の側近の助言に頼って、父祖伝来の領地ノルマンディーの喪失という取り返しのつかない過ちを犯してしまったことにある。彼こそが「悪しき国王」の代名詞として歴史に汚名を残すジョン王である。
悪政に怒りを爆発させた貴族たちの反乱と、教会や商人たちの抵抗にあい、1215年6月15日、ついにジョン王はロンドン郊外の平原ラニミードにおいて、63箇条に上る誓約書に署名させられた。これがマグナ・カルタである。
直後に「貴族たちにより押しつけられたもので無効である」とのジョン王の訴えを聞き入れたローマ教皇により無効と宣言されたものの、ジョン王が死去しその子ヘンリー3世が即位すると、部分的に修正されてその後数十回も確認され、英国の制定法の一部となった。14世紀後半以降、一時的に忘れ去られることになるが、17世紀に入り、マグナ・カルタこそが英国の「古き良き法」、コモン・ローの結晶であると信ずる誇り高き裁判官、エドワード・クックによって再評価され、権利請願、権利章典、そして米国の独立宣言、合衆国憲法、権利章典、南北戦争修正を経て、日本国憲法(31条・84条など)にもその精神は受け継がれている。
今月15日に英国は国を挙げてマグナ・カルタの800周年を祝った。キャメロン首相が演説の中で「支配される者と政府とのバランスを永久に変更し、正義と自由の議論を発展させ、何世紀にもわたって、人権を進展させ世界中の苦難を緩和するために引用されてきた」と述べているように、マグナ・カルタは政府の権力を法で縛るという「法の支配」の原点、、そして人々の自由の礎として英国憲法の最重要の一部と位置づけられているからである。
歴史的教訓から何も学ぼうとせず、戦後70年間の「法と慣習」を軽視し、マグナ・カルタについて国王(および彼の官吏)でなく国民が守るべきものだ、などと答えるならば、そのような人物、そのような政党や政府は、自国民のみならず、自由と正義を希求する他国の人々からも尊敬を受けることはないであろうし、究極的には「歴史の審判」を免れないと私は確信している。
日本のメディアでは一言程度しか紹介されていませんでしたが、さすがは「法の支配」の象徴、マグナ・カルタの発祥の地であるイギリスの首相だけあって、とてもよいことを言っていると思います。私はイギリスで6月15日の式典に立ち会い、このスピーチを聞いてぜひ学生に紹介したいと思い、日本語版を作って授業(憲法1、憲法2および英米法)で読み上げたところたいへん好評でした。イギリスのメディアによると、第4節(人権)のところで現代の状況を述べているのは現在の欧州人権条約体制に反対する姿勢を暗示したものという批判もあるようですが、その点を差し引いたとしてもマグナ・カルタの歴史的意義、その重要性については正しく述べられていると思います。
――マグナ・カルタ800周年記念式典におけるキャメロン首相演説(2015年6月15日)――
導入部
800年前のこの日、ジョン王は世界を変えることになる書類に署名しました。
我々は「国法(国土の法)」について語りますが、まさにこの土地において法とそこから生まれた権利が根を下したのです。
執行権(行政権)の制限、裁判を受ける権利の保障、法の支配と呼ばれる信念、裁判なしに収監されないこと---マグナ・カルタは我々がこうした事柄を書き記し、それによって生きる考えを最初にもたらしたのです。
こうしたことは今日の我々にとっては小さなことかもしれません。しかし、その当時それは革命的なことであり、支配される者と政府とのバランスを永久に変更することになったのです。
どうして問題か
この平原で800年前に起きたことは、当時と同じく、今日にも影響を与えています。そしてその影響は、イギリス一国をはるかに超えるものとなっています。
世界の至る所で、人々は今なお法の支配によって生きるために、そして彼らの政府を法に従わせるために悪戦苦闘しています。こうした問題を抱える国々でも、長い目で見れば、成功を収めることができるでしょう。逆に、法の支配に向かわない国々は長期的には失敗に終わるでしょう。
そして、ここイギリスで当然だと考えられていることは、とても深く我が国の土台に組み込まれているので、我々はそれを問うことすらしませんが、それは他国の人々がそれを求めて叫び、望み、祈っていることなのです。
歴史
どうして人々は、マグナ・カルタにそれほど重きをおくのでしょうか。
それは、彼らは歴史に目を向けているからです。彼らは、ここ1千年間の最良の時期に、どのように大憲章が正義と自由の議論を発展させるのに貢献したかに注目しているのです。
私が不思議に思うことは、これらの貴族たちは、マグナ・カルタの条項が時代を超えて反響し続けるのを知っていたのだろうかということです。
イギリスの内戦を戦った人々を勇気づけ、チャーチスト運動の糧となり、選挙権拡大運動を励まし、不正義に異を唱え、恣意的な権力を抑制しようとする人々に武器弾薬を与えてきました。
この地に播かれた種が世界中に育つことを彼らは知っていたのでしょうか。
アメリカのことを考えてみましょう。初期の州における憲法や法典において、マグナ・カルタに言及し、それをほのめかし、あるいはその条文がそのまま写し取られているのを我々は目にします。
インドについて、ガンジーについて考えてみましょう。彼が外国にいるインド人により多くの権利をもたらそうとしたとき、彼の提案したインド人救済法において、彼は「この地における我々の自由のマグナ・カルタ」という特別なものを手にしたのだと宣言しました。
南アフリカについて考えてみましょう。リヴォニアの法廷で、ネルソン・マンデラが被告人席に立ち、終身刑が科されようとしていたとき、彼が引用したのはマグナ・カルタでした。
彼にとってこの憲章は、イギリスの自由の本質をなすものであり、彼が尊敬し、南アフリカの人々のために求め、それが得られるならば死んでもよいと考えた理想でした。
人権
マグナ・カルタは今日さらに影響力を増しています。
何世紀にもわたって、人権を進展させ世界中の苦難を緩和するために引用されてきたからです。
しかし、最初にこの考え方が打ち出されたここイギリスでは、皮肉なことに、人権という「大義名分」が時に歪められ、軽んじられてきました。
これらの権利の名誉、そして我々の法制度における決定的基盤を回復する任務は現世代の我々にかかっています。
この遺産、この思想、そしてこれらの貴族たちのなした偉大な業績を守ることは我々の責務です。そうしてこうした関与・献身を再確認するのにこのような記念式典ほど最適のときはありません。
結論
マグナ・カルタはイギリス人が誇りに思うべきものです。
その現存する副本こそ色褪せていくかもしれませんが、どの法廷、どの教室でも、王宮、議会から教区の教会に至るまでその原理はこれまでと変わらずに光り輝いています。
自由、正義、民主主義、法の支配、これらは我々が大切に保持するものですが、それらがまさにここテムズ河畔で形作られたという事実のゆえに、我々はそれを一層大切にすべきなのです。
それゆえ、この歴史的な日に、これらの原理をまっすぐに守り通すことを誓おうではありませんか。
これからもずっと、マグナ・カルタを生かしていきましょう。
なぜなら、これらの貴族たちがはるか昔にそうしたように、我々の今日していることが、今後長い間世界を形作ってゆくであろうからです。(中村による試訳、原文)
中村良隆 明治学院大学講師(英米法)
1、自民党/アベコベの党/消費税/ダシに使って/解散し/争点隠して/大勝利/4割8分の/得票で/7割6分の/議席占め/決まったことは/絶対で/党首に弓ひく/議員さん/違った意見も/言えやせぬ/本音は要らない/参議院/この夏までに/成立させます
2、ジョン王の/マグナ・カルタを/はき違え/憲法は/それ国民の/守るもの/報道も/学者も好きに/利用する/法制局を/入れ替えて/他衛が自衛で/従属が自立/安保法/違憲は合憲/戦争は平和/美しい国/塵芥(ちりあくた)
3、三代目/空虚 な言葉で/盛り上げて/お気に入らない/野党には/質問しろよ/国政は/俺の勝手に/やらせろよ/まずはお試し/改憲は/名誉が第一/じっちゃんの/安保が第一/日本国/アメリカ第一/国民よりも
4、一票の/格差是正は/後回し/急げ原発/再稼動/企業が第一/税制も/急げ辺野古の/基地建設/閣議決定/先行も/一人で決めたい/安部談話/アベコベだらけの/党名の/自由は不自由/民主は独裁
(詠み人しらず)
9月19日の早朝、安全保障法案が参議院で可決され、法律として成立することとなりました。立法過程において立法事実(法律が想定する事象で法律が必要とされる根拠となる)が示されていない、最高裁砂川判決は集団的自衛権を合憲とする根拠にならない、参議院特別委員会採決が議事録に記載されていないなどの瑕疵(欠点・欠陥)のいずれをとっても、法の支配や立憲主義を基本原理として統治されている近代国家において法律として成立しえないはずのものです。これら立法上の問題点は、すでに多くの方々が指摘しています。そこで、本稿では、安全保障の全体像を議論しないまま武力行使偏重へ舵をとることが安全保障に本当に資するのかという視点で、問題提起を行いたいと思います。
今年の8月31日~9月12日までの12日間、『李香蘭』というミュージカルが東京で上演されました。李香蘭は、満州国で生まれ育ち、中国人と偽り歌手・女優として活躍した日本人・山口淑子さんの中国名です。山口淑子さんは、後にTV番組の司会や参議院議員を務められた実在の人物です(2014年死去)。ミュージカル『李香蘭』は、幼いときからの中国人社会との交流により日中両文化にアイデンティティを持つようになり、それゆえ、日中間の武力衝突に苦悩する主人公、李香蘭を描きます。さらに、李香蘭の半生を軸として、日本が戦争に突入し敗戦を迎える1930年から1945年までの間の社会や戦場の史実も描写してゆきます。特に、平頂山事件(1932年、抗日運動に協力したという嫌疑で平頂山付近の全住民を日本軍が虐殺)には一場を割き、終盤では、沖縄戦の実写映像が映し出されます。
ミュージカル『李香蘭』のクライマックスは、李香蘭が、上海軍事裁判所の法廷で漢奸罪(対日協力による中国への反逆罪)容疑の裁判を受ける場面です。多くの敵性映画に出演し日本の宣撫教化工作に協力した実行犯として検察官は死刑を求刑します。また、近親者を日本軍に殺された傍聴席の中国の人々も「李香蘭を殺せ、殺せ」と死刑を求めます。それに対し、裁判長は無罪判決を下し、傍聴席に「この不幸な出来事が後の世の教えとなるよう憎しみを棄てて考えよう」「徳を以て怨みに報いよう」と歌いかけます。最初は判決を受け入れられなかった人々も最後にはこれに応え、この歌『以徳報怨』の大合唱で舞台はフィナーレとなります。
この法廷の場面は、『李香蘭』の原作となった伝記『李香蘭 私の半生』(山口淑子・藤原作弥)に以下のように詳述されています。
裁判長が「これで漢奸の容疑は晴れた。無罪」と宣言して、小さな木槌をトンと打った。それから「ただし全然、問題がなかったわけではない」と付け加えた。「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸罪を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で『支那の夜』など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」(引用終わり)
実際にも李香蘭を処刑せよという強い世論があったものの、葉徳貴(ようとくき)裁判長は、李香蘭の責任に言及しつつも罪刑法定主義に則り無罪判決を言い渡しています。
伝記『李香蘭 私の半生』には、さらに、終戦後の中国からの引き上げの様子も描かれています。日本の占領下にあった中国においても中国人社会から信頼されていた日本人・川喜多長政氏(故人。東宝東和映画株式会社会長)の采配が山口さんの身の危険を回避し安全を守ります。それ以外にも、人々の怨みが報復行為に発展しないようするための努力が日中双方にきっとたくさんあったに違いありません。
本稿で『李香蘭』を取り上げたのは、安全保障というのは軍事力だけで実現できるものではないことを思い起こさせてくれるからです。戦争という武力行使によってもたらされる人命や財産の犠牲は人々の心に恐怖、憎しみの感情を生み落とします。一旦生まれてしまった個人の激しい感情は消えるものではありません。そして、その恐怖や憎しみは次の武力行使を生み出す原動力になります。実際、恐怖、憎しみの連鎖により、イスラエル・パレスチナ間の紛争は出口が見えなくなってしまっています。しかし、山口さんの場合には、筋を通す葉裁判長が中国人社会にいました。また、川喜多氏の中国人社会とのパイプがありました。それらは、中国の人々の怨みが社会全般に伝搬し報復行為へと発展していくことを押しとどめる役割を果たしました。憎しみの連鎖をとどめるのは本来難しく、平和を希求する人の存在と彼らに対する信頼がかろうじて報復の連鎖を断ち切る礎となりえるのです。
それでは、日中戦争の終焉から70年を経た今日に目を戻してみましょう。成立した安全保障法制(以後、安保法制)により、日本以外の外国での武力行使(集団的自衛権)・武器使用(PKOにおける駆け付け警護)が可能になります。これは日本の安全保障にとってどんな意味を持つのでしょうか?
日本政府は、安保法制の根拠を「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」とし、安保法制により軍事的な抑止力が増すという説明をしています。しかし、「日本を取り巻く安全保障環境の根本的変容」とはいかなるものかという具体的説明はなく、そのようなおおざっぱな現状認識の下では、集団的自衛権の行使という方策が適切なのか・必要なのか判断しようがありません。それに、そもそも、軍事力による抑止力というのは、日本に対しいかなる武力行使をした場合に武力攻撃(反撃)を日本から受けるのかということが事前に、他国に示されていて始めて期待しうるものです。ところが、自衛権行使の要件と異なり、集団的自衛権行使の要件(武力行使の新3要件)は「政府の総合的に判断」によるとされています。この様に事前に確定していない条件の下での武力行使が他国に対する抑止力として働くとは言い切れません。
さらに本稿で協調したいのは、安保法制で許されることとなった武力行使・武器使用は専守防衛のための武力行使ではありませんので、それによって殺傷され財産を奪われるかもしれない人々は日本以外の外国に住む人々であるという点です。もし武力行使・武器使用が実際に行わることになり犠牲者がでた場合には、日本への報復感情を他国に生んでしまうことになります。また、犠牲者を出した国の人々と日本の人々とのそれまでの信頼関係を失うことにもなりかねません。安保法制の成立を受け、来年早々、駆け付け警護を任務とした自衛隊が南スーダンに派遣されることとなりました。武装勢力に従事を強要されている、12,000~13,000名と言われる少年兵に自衛隊が武器を向けることになります。海外の犠牲者を出す危険性は現実のものとなりつつあります。また、従来から国際協力を行ってきた日本のNPO・NGOにとって安全確保が今後難しくなることも懸念されています。
まとめますと、集団的自衛権が抑止力としての効果を上げることは自明ではありません。そうでありながら、他国での武力行使・武器使用の当事者になることにより日本の安全保障にとって大切なものを失う危険があることは確かなのです。平和を築くためには信義たる人々と国や立場を超えてつながることが重要であるという、われわれが戦争の経験により学んだことを思い起こす必要があります。安全保障を余りに表面的に扱い軍事力の問題としてのみ論じているがため、その重要なことが置き去りにされています。
以上の帰結として、安保法制の成立が合法と認められないことを当然として、その廃止を求めます。
窪谷浩人 神奈川大学教授(工学部)
私は安倍晋三首相を「亡国の宰相」と呼ぶことを提案します。「戦争法案」を衆議院で強行採決し国民をここまで恐怖の淵に追い込んだこと、これだけで戦後歴代首相中で最悪かつ最凶と言えるのではないでしょうか。
もしもこの法案が可決されて自衛隊が集団安全保障を実際に行使したら、どうなるでしょうか。その時はおそらく米国の追随で、イラク戦争のように理不尽な闘いに駆り出されているに違いないでしょう。イラク戦争は、ありもしない大量破壊兵器を口実に米国が国連安全保障理事会の手続きを経ずに無理矢理に突き進み、現在のイスラム国の台頭を招いたのです。
財政難の米国、何兆円という戦費の肩代わりも算盤を弾いていることでしょう。「積極的平和主義」というのは、言葉のまやかしも甚だしい。自衛隊員が戦場に駆り出されて他国民の命を奪い、また自衛隊員も生命の危険に晒されます。闘いの相手となった国の恨みを買い、日本国内でテロを招くことは火を見るより明らかです。
「歴史の審判を待つ」というような悠長なことを言っていられません。今、止めなければ日本は太平洋戦争時のように亡国の道を突き進むことになります。
(角岡賢一 龍谷大学教授)
遅ればせながら、岡山大学では8月下旬に「安全保障関連法案に反対する岡山大学有志の会」が立ち上がりました。今回の安保関連法案の問題点については、多くの方が指摘されていますので、ここではなぜ「大学」から声をあげるのか、その意味を考えてみたいと思います。
言うまでもなく、大学は学問をする場所であり、学びの場です。政治運動をするための場所ではありません。ですから、今回の安保法案に岡山大学から反対の声をあげた背景には、たんに自分たちの政治的意見を声高に叫ぶこと以上の理由があります。
学問に欠かせないのが「対話」です。この対話が成り立つためには、誰かひとりだけがマイクをもって話し続けたり、発言の内容や時間が制限されたり、権力関係や罵詈雑言で威圧されたり、そんなことが起きない自由でフラットな空間が必要です。そうでなければ創造的な発想も、研ぎ澄まされた思考も、生まれないからです。
本来の大学には、この創造的な対話を生みだす素地があります。自由な時間があり、多様な背景をもつ人が集まってくる場所ですから。でも、もうおわかりのように、対話が起きるには、学生が教室で教員の話を聞いて、言われたとおりの課題をこなして、単位をとって卒業するだけでは、まったく不十分です。学問の場としての大学には、「教室」とは別の対話の空間が欠かせません。
今の大学では、そうした対話の場がどんどんと失われているようにみえます。岡山大学には、学生の自治会もなければ、学生新聞もありません。学生のつくった立て看もほとんどみかけません(サークルの立て看すらも!)。学生たちはみんなまじめで、夏休みなのに図書館や研究室ではたくさんの学生が勉強しています。教職や公務員を目指してがんばっている学生も多いようです。
でも、これだけ世間で騒がれている政治問題について、学生たちが学食で語っているのを耳にすることも、ビラをまいたり演説したりする姿を目にすることもありません。今日も、まったくいつもと変わらない様子でキャンパスを歩く穏やかな学生たちの姿があります。
私たちは、その姿に危機感を覚えるのです。今回の法案に賛成するにせよ、反対するにせよ、学生たちのあいだで、きちんと議論が起きているのか、大学がそんな対話を促す場として機能しているのか、心配になるのです。自分たち教員が大学を(たんに授業をして単位を与えるだけの)対話の生まれにくい閉塞的な場にしてきたのではないか、と反省を迫られるのです。
今回、岡大有志の会では、ごく少数ですが、現役の学生とも話し合って声明文を作成しました。それは、学生のあいだに対話のきっかけが生まれることを願っているからです。学生のなかにもあるはずの分断された、見えない小さな声がつどえる「場」をつくりたいと思いました。もし声にならないまま、もやもやとした思いを抱える学生がいるのなら、その思いを語るための「言葉」を提供したいという気持ちで、声明文の推敲を重ねました。その過程で、強く糾弾する口調や誰かを非難する言葉は削られました。「対話」のはじまりには、自制と慎み深さが必要だからです。
岡山大学の津島キャンパスは、緑が多く広々として、とても気持ちのいい場所です。この学生たちが行き交う広大なキャンパスは、かつて陸軍の駐屯地でした。第17師団や歩兵第33旅団の司令部が置かれ、歩兵第10連隊や工兵第10大隊などの兵営がありました。この岡山大学の地から若い兵士たちが出征していったのです。
岡山大学のすぐ裏には、いまも陸上自衛隊の駐屯地があります。山の中には日本でも有数の弾薬庫があるそうです。岡山大学の正門に向かってまっすぐにのびる岡大筋では、大勢の学生が自転車をこいでいる横を、よく自衛隊の大型トラックが通っていきます。門の目の前にあるバス停には、自衛官募集の広告が出ています。
岡山大学で学ぶ学生は、法案に対してどんな立場をとるにせよ、この歴史や現実と無関係には生きられません。ですから、ぜひこの問題について議論してもらいたい。異なる意見をもつ人との対話をとおして、自分なりの言葉を獲得してもらいたい。そして、その意見をきちんと人前で語れるような市民になってほしい。岡大有志の会の設立には、(少なくとも個人的には)そんな岡大関係者の願いが込められていると思っています。そして、大学をそんな活発な対話が生まれる場にすることが、大学に関わる人間の責務だと思います。
今回の法案への反対運動では、大学生や高校生など、若い世代が自分たちの言葉で反対の声をあげていることに、深い感動を覚えます。ある意味、学者の言葉よりも説得力があります。市民に訴え、心を揺さぶる力をもっています。彼ら/彼女らのスピーチを聞いて、率直にそう思います。「学者の会」に賛同する研究者は1万3千人を超えていますが、そのもとで学ぶ学生の数は、その数十倍になるでしょう。その若い世代がつむぎだす「言葉」は、社会の未来をつくる声です。その声があたりまえにどこからでもわき起こり、自然と対話が生まれることが民主主義の成熟には欠かせません。
安保関連法案がこのまま国会で通っても、逆に廃案になっても、これからどうやって平和を守っていくのか、市民が対話をつづけ、考えつづけていく必要があることに変わりはありません。今回、「大学」から反対の声をあげることは、その議論を喚起し、対話の場としての大学本来の姿を取り戻すための小さな、でも重要な一歩だと思います。
「安全保障関連法案に反対する岡山大学有志の会」
松村圭一郎 岡山大学教員(文化人類学)
数日前の海外報道によれば、アラスカの永久凍土層が沈下し、崩れかかった地表面で生活してきた現地の住民が立ち退きを余儀なくされていると言う。どこかで「鈍感力」なる新語を耳にしたが、相当の「鈍感力」をもってしても、近年の気候変動、異常気象に伴う生物とそれを取り巻く自然環境の変化に気づかない者は稀であろう。
私たちは、すでに人類史上体験したことのない前代未聞の困難な時代に突入しているのではないだろうか。その意味では、地球上の生存条件を確保するため、人類が一致協力して取り組むべき課題は山積している。ところが、同時代の世界中を見渡しても、そうした認識を持ち合わせた意識の高い政治家はどこにも見つからない。今後深刻な労働力不足が予想される経済界の後押しがあるにせよ、極右勢力の脅しに負けず、政情不安の母国を見捨てた移民を大量に受け入れようとするドイツの女性宰相は、かすかな期待を抱かせる存在ではあるが。
それにしても、日本の政権政党に所属する政治家は、下世話で大雑把な表現だが、あまりにもひどすぎる。この見方は、いまや世論の大勢となりつつあるように思われる。だから、私自身は、別の角度から現下の安保法制、すなわち戦争法案に憂慮する理由を簡潔に述べることにしよう。
一言で言えば、軍事行動の歯止めとされる法案中の要件、政府の国会答弁のどれをとっても、言葉が力を失い、宙を舞う飾り物と成り果てているように響くことである。このような現象は、「立憲主義」、「法的安定性」云々以前に、人間が人間でなくなる端的な兆候と考えられる。言葉が力をもってこそ、骨肉相食む人間同士の対話が可能となり、暴力に頼りがちな権力者の安易な選択を抑え込むこともできるのだ。
考えてみれば、軽い言葉を操るのは政治家だけではない。私たち一人ひとりが言語表現の力を鍛え上げ、彼らの貧弱極まりない人間性を圧倒しなければならない。この機会をとらえ、本来、ありふれた表現でも魂のこもった言葉を用いる人間がどれほど魅力的であるか、また、心がけ次第でどこまでも理性的・平和的な対話を根気強く積み重ねる頼もしい大人になれるか、私たち自身、次世代を担う子どもたちに示す必要がある。
そうすれば、全人類的課題のひとつひとつを率先して克服しようとする日本国民の姿がそこに見出される日も近い。そのためには、日本国民としての当面の試練を乗り越えねばと歯を食いしばる思いである。
(今村与一 横浜国立大学教授)
安全保障関連法案については、それが違憲であるという判断を多数の憲法学者が行っているという理由で今回は廃案にすべきだと考える。
学問とはすべからく社会的な存在である。多数の憲法学者から違憲判断が出ている(そして少数の政府に近しい学者のみが合憲判断をしている)状況においては、今回の法案は社会科学的に見て違憲だと考えている。にも関わらず、政治判断は政治家がするという現在の与党の姿勢は、すべての学問の否定もしくは科学(社会科学、自然科学を含む)の否定であると考える。
それはたとえるなら、医学会で否定された科学的根拠のない治療法を、(たとえばそれが企業に利益をもたらすという理由で)政治判断で推進するようなものだ。
私は個人的には安全保障についての何らかの「備え」は必要であると思っている(その備え自体が戦争を引き起こすこともありうるのだが)。そのために与党が法案を通そうとしている気持ちもわからないではない。与党も戦争をしたいと思っているわけではないのはわかっている。
しかしながら、今回の法案が成立するということは、それは学問の否定であり、憲法の否定である。この点において、今回の法案は一度廃案とし、あくまで憲法違反のないかたちでの「切れ目のない備え」としての法案を作るべき(もしくは賛成はしないが、憲法改正をすべき→それ自体は憲法違反ではないので)と考える。
(杉浦健)