9月19日の早朝、安全保障法案が参議院で可決され、法律として成立することとなりました。立法過程において立法事実(法律が想定する事象で法律が必要とされる根拠となる)が示されていない、最高裁砂川判決は集団的自衛権を合憲とする根拠にならない、参議院特別委員会採決が議事録に記載されていないなどの瑕疵(欠点・欠陥)のいずれをとっても、法の支配や立憲主義を基本原理として統治されている近代国家において法律として成立しえないはずのものです。これら立法上の問題点は、すでに多くの方々が指摘しています。そこで、本稿では、安全保障の全体像を議論しないまま武力行使偏重へ舵をとることが安全保障に本当に資するのかという視点で、問題提起を行いたいと思います。
今年の8月31日~9月12日までの12日間、『李香蘭』というミュージカルが東京で上演されました。李香蘭は、満州国で生まれ育ち、中国人と偽り歌手・女優として活躍した日本人・山口淑子さんの中国名です。山口淑子さんは、後にTV番組の司会や参議院議員を務められた実在の人物です(2014年死去)。ミュージカル『李香蘭』は、幼いときからの中国人社会との交流により日中両文化にアイデンティティを持つようになり、それゆえ、日中間の武力衝突に苦悩する主人公、李香蘭を描きます。さらに、李香蘭の半生を軸として、日本が戦争に突入し敗戦を迎える1930年から1945年までの間の社会や戦場の史実も描写してゆきます。特に、平頂山事件(1932年、抗日運動に協力したという嫌疑で平頂山付近の全住民を日本軍が虐殺)には一場を割き、終盤では、沖縄戦の実写映像が映し出されます。
ミュージカル『李香蘭』のクライマックスは、李香蘭が、上海軍事裁判所の法廷で漢奸罪(対日協力による中国への反逆罪)容疑の裁判を受ける場面です。多くの敵性映画に出演し日本の宣撫教化工作に協力した実行犯として検察官は死刑を求刑します。また、近親者を日本軍に殺された傍聴席の中国の人々も「李香蘭を殺せ、殺せ」と死刑を求めます。それに対し、裁判長は無罪判決を下し、傍聴席に「この不幸な出来事が後の世の教えとなるよう憎しみを棄てて考えよう」「徳を以て怨みに報いよう」と歌いかけます。最初は判決を受け入れられなかった人々も最後にはこれに応え、この歌『以徳報怨』の大合唱で舞台はフィナーレとなります。
この法廷の場面は、『李香蘭』の原作となった伝記『李香蘭 私の半生』(山口淑子・藤原作弥)に以下のように詳述されています。
裁判長が「これで漢奸の容疑は晴れた。無罪」と宣言して、小さな木槌をトンと打った。それから「ただし全然、問題がなかったわけではない」と付け加えた。「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸罪を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で『支那の夜』など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」(引用終わり)
実際にも李香蘭を処刑せよという強い世論があったものの、葉徳貴(ようとくき)裁判長は、李香蘭の責任に言及しつつも罪刑法定主義に則り無罪判決を言い渡しています。
伝記『李香蘭 私の半生』には、さらに、終戦後の中国からの引き上げの様子も描かれています。日本の占領下にあった中国においても中国人社会から信頼されていた日本人・川喜多長政氏(故人。東宝東和映画株式会社会長)の采配が山口さんの身の危険を回避し安全を守ります。それ以外にも、人々の怨みが報復行為に発展しないようするための努力が日中双方にきっとたくさんあったに違いありません。
本稿で『李香蘭』を取り上げたのは、安全保障というのは軍事力だけで実現できるものではないことを思い起こさせてくれるからです。戦争という武力行使によってもたらされる人命や財産の犠牲は人々の心に恐怖、憎しみの感情を生み落とします。一旦生まれてしまった個人の激しい感情は消えるものではありません。そして、その恐怖や憎しみは次の武力行使を生み出す原動力になります。実際、恐怖、憎しみの連鎖により、イスラエル・パレスチナ間の紛争は出口が見えなくなってしまっています。しかし、山口さんの場合には、筋を通す葉裁判長が中国人社会にいました。また、川喜多氏の中国人社会とのパイプがありました。それらは、中国の人々の怨みが社会全般に伝搬し報復行為へと発展していくことを押しとどめる役割を果たしました。憎しみの連鎖をとどめるのは本来難しく、平和を希求する人の存在と彼らに対する信頼がかろうじて報復の連鎖を断ち切る礎となりえるのです。
それでは、日中戦争の終焉から70年を経た今日に目を戻してみましょう。成立した安全保障法制(以後、安保法制)により、日本以外の外国での武力行使(集団的自衛権)・武器使用(PKOにおける駆け付け警護)が可能になります。これは日本の安全保障にとってどんな意味を持つのでしょうか?
日本政府は、安保法制の根拠を「日本を取り巻く安全保障環境の根本的な変容」とし、安保法制により軍事的な抑止力が増すという説明をしています。しかし、「日本を取り巻く安全保障環境の根本的変容」とはいかなるものかという具体的説明はなく、そのようなおおざっぱな現状認識の下では、集団的自衛権の行使という方策が適切なのか・必要なのか判断しようがありません。それに、そもそも、軍事力による抑止力というのは、日本に対しいかなる武力行使をした場合に武力攻撃(反撃)を日本から受けるのかということが事前に、他国に示されていて始めて期待しうるものです。ところが、自衛権行使の要件と異なり、集団的自衛権行使の要件(武力行使の新3要件)は「政府の総合的に判断」によるとされています。この様に事前に確定していない条件の下での武力行使が他国に対する抑止力として働くとは言い切れません。
さらに本稿で協調したいのは、安保法制で許されることとなった武力行使・武器使用は専守防衛のための武力行使ではありませんので、それによって殺傷され財産を奪われるかもしれない人々は日本以外の外国に住む人々であるという点です。もし武力行使・武器使用が実際に行わることになり犠牲者がでた場合には、日本への報復感情を他国に生んでしまうことになります。また、犠牲者を出した国の人々と日本の人々とのそれまでの信頼関係を失うことにもなりかねません。安保法制の成立を受け、来年早々、駆け付け警護を任務とした自衛隊が南スーダンに派遣されることとなりました。武装勢力に従事を強要されている、12,000~13,000名と言われる少年兵に自衛隊が武器を向けることになります。海外の犠牲者を出す危険性は現実のものとなりつつあります。また、従来から国際協力を行ってきた日本のNPO・NGOにとって安全確保が今後難しくなることも懸念されています。
まとめますと、集団的自衛権が抑止力としての効果を上げることは自明ではありません。そうでありながら、他国での武力行使・武器使用の当事者になることにより日本の安全保障にとって大切なものを失う危険があることは確かなのです。平和を築くためには信義たる人々と国や立場を超えてつながることが重要であるという、われわれが戦争の経験により学んだことを思い起こす必要があります。安全保障を余りに表面的に扱い軍事力の問題としてのみ論じているがため、その重要なことが置き去りにされています。
以上の帰結として、安保法制の成立が合法と認められないことを当然として、その廃止を求めます。
窪谷浩人 神奈川大学教授(工学部)