【安保法制反対 特別寄稿 Vol.211~Vol.220】
私は、メキシコの教育を研究する者です。
今日私達市民は、世界市民として行動する義務を負うと考えます。特に外国を研究する者は、そうした義務を意識することが要請されます。
日本の憲法とそれに基づく70年近い非戦の実践は、米国への従属という問題を忘れてはならないとはいえ、上述の世界的な観点からいえば、すばらしいものです。私達には、それらを継承し、発展させ、世界に拡げていく義務があります。
秘密保護法を制定し、今戦争法制を成立しようとしている安倍政権は、その行動と思想からいって、ファシズム政権と呼ぶべきものです。立憲主義を無視し、憲法と非戦を覆そうとしています。
このファシズム政権の戦争の準備・実施の野望を阻止することは、世界市民としての国際的責務です。
また、この戦争法制が予定している戦争やテロに対する準備・経験は、日本社会に100年単位の回復しがたい深刻な影響をもたらすと考えます。
この戦争法案を阻止し、安倍政権を一日も早く倒さなければならないと思います。
(アジア経済研究所嘱託 米村明夫)
この文章は、筑波大学で2015年8月4日に開催された「安保法制について考える討論集会」において読み上げられたものである。なお、当日は、時間の関係で省略した部分があることをお断りしておく。
なぜ安保法制に反対するのか「安保法制について考える討論集会」
2015年8月4日 筑波大学 佐藤嘉幸
今日はお集まりいただき、ありがとうございます。なぜ私は、集団的自衛権の行使を可能にする安保法制に反対しているのでしょうか。三つの理由を述べたいと思います。
まず第一の理由です。現行憲法において、集団的自衛権の行使は不可能です。憲法解釈上、集団的自衛権の行使は論外であり、個別的自衛権の行使しか認められないはずです。
皆さんがよくご存知の、日本国憲法第九条を引用します。
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
このように、憲法第九条は、明確に戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力の保持を禁止しています。こうした憲法の下で、どのようにして他国の防衛に参加する集団的自衛権の行使を容認することができるのでしょうか。
憲法第九条と集団的自衛権の関係ついて、1972年の「集団的自衛権に関する政府見解」——日本政府は、昨年の集団的自衛権行使容認の「閣議決定」以前、一貫してこの見解を保持してきました——は次のように述べています(豊下楢彦、『集団的自衛権とは何か』、岩波新書、5-6頁による)。
まず、憲法第九条について、「政府見解」は、「いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、[……]自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることを禁じているとはとうてい解されない」と個別的自衛権の行使を認めています。
しかし、「平和主義をその基本原則とする憲法が右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として、はじめて容認されるものである」として、「政府見解」は、個別的自衛権の行使にさえ厳格な制約を課しています。
そこから「政府見解」は、結論として、集団的自衛権について次のような結論を導いています。個別的自衛権でさえ以上のような制約が課せられている以上、「わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。
つまり、憲法第九条に照らせば、自国防衛のための個別的自衛権の行使にさえにさえ厳格な制約が課せられるのであり、ましてや、他国の戦争に参加する集団的自衛権の行使など認められない、というのが1972年「政府見解」の結論です。憲法第九条が戦争の放棄を謳っている以上、これがぎりぎり可能な解釈なはずなのです。
ここから、安保法制に反対する第二の理由が導かれます。安倍内閣は、憲法解釈を単なる閣議決定によって変更し、集団的自衛権の行使を可能にしました。これは、立憲主義(つまり法の支配)と、法的安定性の確保に対する重大な挑戦です。
安保法制をめぐる安倍政権への批判は、それが大方の憲法学者の解釈と歴代の内閣法制局の解釈にさえ反して、強引な解釈改憲を行おうとしていることが明らかになるに及んで、新しい局面を迎えつつあるように見える。つまり、安全保障については意見が異なるとしても、たとえば集団的自衛権を認めるべきだという考えに賛同する人さえも巻き込んで、さすがに法治国家の骨格を覆すような手続き上のごまかしは認めることができないという国民的合意が、安倍政権を窮地に追いやりつつあるのだ。
当初安倍政権は、例によってマスコミを買収と恫喝で巻き込むことによって、このようななし崩しが可能だと思っていたのであろう。
しかし、いよいよ海外派兵による戦闘の危険が目の前に迫る中で、このような国民をなめきったやり方に対する批判が、澎湃として起こったのである。安倍政権に対する不信は、単に安全保障政策をめぐるものに留まらない。もしそうなら、現状を確認したうえで率直に議論を闘わすことも可能であろう。
しかし、国会を見ていると、政権が安全保障を本気で考えているなどとはとても思えない。あるいは本気で考えているのかもしれないが、その細部を国民に明らかにして国民の協力を求めることはしようとしていない。それを明らかにすれば、国民の協力が得られないと考えているからであろう。国民に率直に政策を訴える前に、アメリカ議会に約束し、その既定路線を押し通そうとしているのだ。
安全保障にアメリカの協力が必要だというのであれば、なぜそれを率直に訴えないのか? 極東の脅威が増しているというのなら、どのようにそれを除き得るのかを、国民に説明したらどうなのか? それに対抗する「抑止力」がかえって偶発的危機を招く可能性はないのか? よけいに緊張を高める危険はないのか? 軍拡競争をコントロールする手立ては十分であるのか? 極東におけるアメリカの関与を求める政策が、それとの交換に、たとえば中東における我が国の戦争関与につながる危険はないのか? これらのことは、包括的に安全保障政策を考えるならば、当然に議論されなければならないことである。かかる考察は複雑なものになるから、単純に善悪を判断することは難しいだろう。
しかしだからこそ、徹底的な議論が必要なのである。たとえ全員が納得しなくとも、共通前提を確認して、どのような危険とコストが伴うのか、それに対するオルタナティヴにはどのようなものがあるのか、失敗においては誰が責任を取るのか、などについて、共通の了解が必要である。国民には情報を制限して、どこかわからない所で決定し、責任もはっきりしないまま何となく事態が進むというようなやり方は、国民の協力が何より不可欠である安全保障政策においては、致命的なものである。今般の国民の決起は、安倍政権の火事場泥棒のようなやり方が通用しないことを示したものである。
もともと軍事政策には、大きな利権や惰性が伴うものであるから、途中で政策変更が難しい。ダム建設や原発政策でさえ、始めたら見直しが難しいような国で、いったん大きな軍事的行動が起こった場合、あるいは巨大な軍事産業が興る場合、そこから引き返すことは非常に難しい。満洲政策やその後の国策を見ればよくわかる。
だからこそ、日本国憲法はそのような歴史の反省に立って、時々の政権の安全保障政策に対して、大枠としての厳しい制約を課しているのである。一時の感情的反発や、金に目のくらんだ連中による愚かしい煽動にたやすく動かされる前に、国民が熟慮することを憲法の精神は求めているのである。
安倍政権の最大の罪は、単に戦争の危険に国民を巻き込むところにあるのではない。戦争に匹敵するような国難であっても、それが真に必要な名誉ある道であることが説得されるならば、それに人民は耐えるであろう。
しかし、嘘と欺瞞に満ちた空疎な言葉によっては、そのような名誉と品位ある歩みは決して期待できない。またぞろ、ずるずると満洲事変のやり直しに引きずり込まれるばかりだ。常に黒を白と言いくるめようと小細工をする国会答弁によって、日本語をめちゃくちゃにしたことこそ、この政権最大の罪である。今や、小学生には国会中継のまねをしないように、とくと教育せねばならない。政権中枢でこそ、この国最大の不道徳がまかり通っているからである。どのような政策を選択しようと、その前提を為す精神が崩落の瀬戸際にあるとき、安倍政権から国の精神を守るために、すべての愛国者は決起する義務がある。
<なお、安全保障についてのわたくしの立場については、『戦争思想2015』河出書房新社、所収の拙論「安全保障をめぐる弁証法的政治」に、いくらか詳しく論じたので、ご参照いただきたい>
(田島正樹 学習院大学非常勤講師)
若者達に、これ以上の負債を負わせてはいけない。
もうすぐ退職という歳になった者にとって大学生は孫のようなものですが、彼や彼女たちが未来に希望を持てないでいることに、大きな責任を感じてきました。
1000兆円を越える国の借金、原発事故にもかかわらず再稼働を進める国の動き、そして「戦争法案」の強行採決等々と、将来を希望どころか悪夢のように想像せざるを得ないことばかりです。
そのような意味で「SEALDs」や「T-ns SOWL」の登場に一筋の光明を見ながら、自らも安倍政権の暴挙に強い批判の声をぶつけたいと思います。
大学生が政治問題に目覚めてやっと動き始めた。毎週金曜日の夜に国会議事堂前で、土曜日に渋谷で集会やデモをやっている。その動きは京都や札幌、そして沖縄などに広がって、数百、数千人の若者達が集まっているようだ。思い思いのプラカードを掲げ、マイクを握って発言し、ラップなどでメッセージを伝えてもいる。僕は出かけていないが、Youtubeではその模様をいくつも見ることができる。
集会やデモをリードしているのは”Students Emergency Action for Liberal Democracy – s”(自由と民主主義のための学生緊急行動)という名の組織だ。略して”SEALDs”と言う。
若者達の意識が変わりはじめた。そう思うと、どうしようもない政治状況に暗くなっていた気持ちの中に、ひとつの明かりがさしてきた気がした。参加したフォーク歌手の中川五郎はツイッターで「なんと美しき光景かな。未来を生み出す若い人々とこの時代を生きていることを心の底からうれしいと思う。未来は彼らと共にある。」と興奮気味に書いている。
そんな気分になるのは僕にもよくわかる。大学生が抗議行動に率先して立ち上がったのは半世紀ぶりで、僕らの世代が高校生や大学生だった時以来だからだ。”SEALDs”のFacebookには岡林信康の「友よ」がリンクされたりもしているから、余計に懐かしさを感じたりもしてしまった。
とは言え、そんな興奮をゼミの学生に話しても、彼や彼女の反応はいまひとつだ。僕の勤める大学のキャンパスにも、そんな動きはまだ見えない。渋谷に2000人といっても、まだまだごく一部の学生なのだと思う。内向きで政治には無関心の学生の意識を変えるのは大変だが、ほかの誰より自分たちに一番関わる問題であることに早く気づいて欲しいと思っている。
だからこそ、この動きは大切にして、芽を摘みとるようなことが起こらないようにとも思う。たとえば”SEALDs”のサイトには「私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。」といった声明がある。そしてこれに対して、自由で民主的な日本がどこにあるのか、それを作ろうといったい誰が努力してきたのかといった批判をして、その認識の甘さを突く声もある。
戦後に作り上げられてきた民主主義を守るのではなく、むしろその民主主義なるものの欺瞞を撃つことから始めなければという批判は、至極まっとうなものである。けれどもそんな批判を頭ごなしにしても、それはやっと芽生えた動きの芽を摘みとる働きしかしないだろう。身近にいる大学生達とつきあっていて肝に銘じているのは、叱るよりはまず褒めることであるからだ。とにかく行動し、その後で、自分で考えながら気づいていく。教師としてはどうしても、そんなふうに考えてしまう。
学生達は何より空気を気にするから、この流れが身近な人間関係に及ぶことが必要だ。その意味で不思議に思ったのは、”SEALDs”のサイトのSNSにFacebookやTwitter、それにYouTubeがあるのにLineがないことだ。僕のゼミの学生達の多くはLineしかやってない。たぶん多くの大学生も同じなのだろうと思う。
文科省が国立大学に通達した「文系学部・大学院の廃止、定員削減」は、2013年に出された「国立大学改革プラン」に基づくものです。私立大学には直接言及していないので、国の予算を多く使う国立大学は理系に重点を置いて、文系は私立大学に任せればいいということかもしれません。しかし、この改革が、安倍首相の「学術研究よりは社会のニーズにあった実践的な職業教育」をという指示に基づくものであることを考えれば、大学そのものの危機であることは疑いないでしょう。何しろ大学は研究の場である必要はないと言っているのですから、大学の教員は研究者である以上に実践的な職業教育をする教育者であるべきだということになるのです。
私の専門分野は、環境経済学・環境政策論ですが、かつてのベトナム戦争での米軍による枯葉剤作戦の展開などに典型をみるように、あらゆる軍事活動はきわめて深刻な環境破壊をもたらすことを厳しく批判してきました。
今回の安倍政権による安保関連法案は、戦後の日本が現在の憲法のもとで「戦争放棄」を掲げ、「平和国家」としての道を歩んできた歴史そのものを大きく転換させようとするものです。
より具体的にいえば、日本の自衛隊を世界各地の紛争地域に派兵し、米軍の軍事活動に協力させ、武力行使を行うことをも可能にしようとするものです。これは、きわめて危険な日本の軍事化への道を開くものになることを真剣に危惧せざるを得ません。
今回の安保関連法案の廃案を求める国民各層の闘いがさらなる盛り上がりをみせ、この危険な安倍政権の企てが確実に阻止されることを心から期待しています。
(寺西俊一 一橋大学名誉教授・同経済学研究科特任教授)
安保法制の成立を見過ごすことはできません。
軍部と内務・外務が協同して現在の基本法の態勢を変え、また、文教も労働も生産もその新しい態勢に組み込まれる姿は、「2度と許さない」とした戦後の誓いに反します。見過ごすことはできません。
神戸大学名誉教授(数学)
佐々木武
安保法制案になぜ反対なのか。それはまさしく違憲立法であり、わが国を「殺し殺される」「戦争のできる国」に変えてしまう代物だ、と考えるからにほかなりません。これを許せば「日本国憲法」は骨抜きになり、立憲主義の破壊が大手をふってまかり通るようになってしまいます。
もともとアベ内閣は、現憲法を根底から蔑視し、改憲を実現しようとしている内閣です。このアベ内閣を「支持しない」世論が高まっているのは、心強い限りですが、安保法制案を廃案に追い込むには、さらなる反対世論の盛り上がりが必要だと思っています。
(桃山学院大学教授 鈴木富久)
私は「安全保障関連法案」に反対する。
昭和 59年4月から 60年6月にかけ、アメリカとの安保条約を締結した安倍晋三の祖父、岸首相に反対するデモにわれわれ学生の多くは参加した。「安保」は締結され、その10年後この条約は見直しされず、決定的なものとなって現在に至っている。これまでの内閣はこの条約に直接関係する憲法第九条を必ず気にかけ、最小限、立憲主義の立場をとってきた。ところが現・安倍首相は、憲法学者の大多数が違憲とするこの法案を、法学部を出ながら立憲主義の何たるかを学んで来なかった不出来な補佐官(礒崎某)に立案させ、衆議院を通過させた。日本はトンデモナイ国になりつつある、というのが実感である。
軍事同盟はつねに危険である。世界平和を名目にしても、他国との軍事協力は、かならず戦争に巻き込まれる。英国との同盟は、結局、ヨーロッパを中心とした第1次大戦に巻き込まれた。ムッソリーニ・イタリアとヒットラー・ドイツとの同盟は、太平洋戦争における日本壊滅の一つの太い導火線となった。世界で始終戦争をしているアメリカとの、憲法を越えた軍事同盟により、日本は「アメリカの戦争」に確実に巻き込まれることになる。
2003年にはじまったイラク戦争は現在の世界紛争の直近の元になっている。この明らかに不正な戦争に日本は参加協力した。日本は太平洋戦争の総括を自分の手で成し遂げることができなかった。このイラク、アフガン戦争協力の総括(政府の責任追及)もされていない現在、アメリカとの同盟関係の強化は、川内原発再稼働とは違った次元で、日本破滅の道であると私は思う。
私が反対するのは「安全保障関連法案」だけではない。安倍内閣が昨年制定した「秘密保護法案」、「原発再稼働」方針、大学での「文科系学科の縮小」方針、どれ一つ取っても、将来、国の大きな禍根となるものばかりだ。文科系学科の縮小はもってのほかだ。文・理の区別は究極的に存在しないのが現代の学問・科学の現実である。むしろ、技術的に狭くなり過ぎた理系学科に、文科系の幅広い観点をもたらすべきである。
学生団体「シールズ(SEALDs)」は、私がこれまで勤めて来た大学の学生が中心となって生まれた。全国の「シールズ(SEALDs)」賛同者に大いに頑張って欲しい。
明治学院大学名誉教授 工藤進(言語論)
今回の安倍政権の安全保障関連法案の「解釈改憲」は、そもそも違憲であり、姑息な「国民だまし討ち」に他なりません。安倍首相は、自らがかねがね標榜する「美しい日本・日本人」を実践したいのなら、正々堂々と国民的な「改憲論議」をすべきです。こんなだまし討ちによって、私たちの宝である日本の若者たちを戦場に駆り出すことなど、決してあってはなりません。
本件はまた、大学人の社会的責任を改めて認識させてくれました。過去大学人は、二つの大きな過ちを犯しました。一つは、先の大戦で、多くの私たちの学生たちを戦場に送ってしまったこと、もう一つは、原子力の「平和利用」という矛盾したプロパガンダを自ら喧伝して原子力発電を推進してきたことです。あげるべき時に、あげるべき声をあげ、「アンガージュマン」を実践する。今回の大学人の恊働が、立憲主義と民主主語の破壊にほかならない安倍政権の暴挙を阻止することを強く願います。
(立教大学社会学部教授 阿部珠理)
私の専門は科学技術であり、憲法や政治の知識に関して、専門的な知識がある訳では無い。しかし物事を分析し、本質を考えることが仕事であるので、歴史や政治に対しても同様にする癖はある。そのような視点から現政権の動きを見ていると、独裁政治への布石を着々と打っているように思える。具体的には、9割の憲法学者が違憲だと判断している法案を通すメディアに対して間接的に圧力をかけるなど、他の皆さんも多く指摘していることがそう判断する理由である。これに関しては反対の意志を表明すべきであるので、私は「安全保障関連法案に反対する学者の会」に賛同するという行為で、それを表明した。
現在日本は、分水嶺に当たる位置にいると思う。もし安倍政権の思惑が通り、安全保障関連法案の成立を手始めに憲法改正に進めば、いつの日にか戦争を行うようになる。日本の歴史のみならず、世界の歴史からも何も学ばず、悲劇を繰り返す国になる。
一方、市民の活動が実り、平和憲法を守り生かす方向に進めば、我々はより平和について考える国民になれると思う。その場合、安倍政権は平和国家日本に対して大変な貢献することになる。国民に、平和憲法を持っているだけでは何も守られず、継続的にそれを守り生かす努力をしなければ、平和は維持できないということを教えたことになるからである。ナチスドイツは、その当時最も民主的内容を持つといわれたワイマール憲法下で生まれた。我々はこの歴史から学ぶべきである。
さらに今回の国民の意識の高まりが、世界でも稀なる戦争放棄の条文を持つ憲法を持つということの意味を皆で考える機会を与えてくれていると思う。改憲主義者は、世界の先進国で憲法にこの様な条文を持つ国はなく、日本が普通の国になるために憲法改正が必要だと主張する場合があるが、これはまわりと同じでなければいけないという日本人の暗黙の思考の傾向に乗じた意味の無い主張である。
日本は普通の国、すなわち戦争をする国であってはいけない。日本は特異な国であり、様々工夫と試行錯誤により武力を使わず安全保障を担保する。それを実践することによって、それが先進国の進む方向であると示すのが役割と考える。
ただ現実問題として、他国が武力を以って日本に攻め入り、殺戮を始めたら武力なしで制圧できるかを考えたとき、それは無理であろう。そうならないようにあらゆる手段を尽くすが、武力侵略が起こってしまったとき、平和憲法は無力である。我々が単に殺されてしまう。現実には自衛隊があるので、これは大変極端な議論であるが、理論的に平和憲法を持つということの究極の議論をすれば、相手に殺されても相手を殺さないことを選択するという、非常に厳しいことを国民に課しているという側面も理解して、平和憲法を選択すべきだと考える。結局の所、敵と殺しあって両方とも死ぬか、我々は死んでも敵は生かすことを許すかの選択である。
(群馬大学大学院理工学府教授 太田直哉)