【安保法制反対 特別寄稿 Vol.212】 「安保法制について考える討論集会」~なぜ安保法制に反対するのか~ 「安全保障関連法案に反対する学者の会」賛同者 筑波大学准教授(哲学・社会思想史)・佐藤嘉幸さん

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 この文章は、筑波大学で2015年8月4日に開催された「安保法制について考える討論集会」において読み上げられたものである。なお、当日は、時間の関係で省略した部分があることをお断りしておく。

なぜ安保法制に反対するのか「安保法制について考える討論集会」
2015年8月4日 筑波大学 佐藤嘉幸

 今日はお集まりいただき、ありがとうございます。なぜ私は、集団的自衛権の行使を可能にする安保法制に反対しているのでしょうか。三つの理由を述べたいと思います。

1)

 まず第一の理由です。現行憲法において、集団的自衛権の行使は不可能です。憲法解釈上、集団的自衛権の行使は論外であり、個別的自衛権の行使しか認められないはずです。

 皆さんがよくご存知の、日本国憲法第九条を引用します。

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 このように、憲法第九条は、明確に戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力の保持を禁止しています。こうした憲法の下で、どのようにして他国の防衛に参加する集団的自衛権の行使を容認することができるのでしょうか。

 憲法第九条と集団的自衛権の関係ついて、1972年の「集団的自衛権に関する政府見解」——日本政府は、昨年の集団的自衛権行使容認の「閣議決定」以前、一貫してこの見解を保持してきました——は次のように述べています(豊下楢彦、『集団的自衛権とは何か』、岩波新書、5-6頁による)。

 まず、憲法第九条について、「政府見解」は、「いわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、[……]自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることを禁じているとはとうてい解されない」と個別的自衛権の行使を認めています。

 しかし、「平和主義をその基本原則とする憲法が右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として、はじめて容認されるものである」として、「政府見解」は、個別的自衛権の行使にさえ厳格な制約を課しています。

 そこから「政府見解」は、結論として、集団的自衛権について次のような結論を導いています。個別的自衛権でさえ以上のような制約が課せられている以上、「わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。

 つまり、憲法第九条に照らせば、自国防衛のための個別的自衛権の行使にさえにさえ厳格な制約が課せられるのであり、ましてや、他国の戦争に参加する集団的自衛権の行使など認められない、というのが1972年「政府見解」の結論です。憲法第九条が戦争の放棄を謳っている以上、これがぎりぎり可能な解釈なはずなのです。

2)

 ここから、安保法制に反対する第二の理由が導かれます。安倍内閣は、憲法解釈を単なる閣議決定によって変更し、集団的自衛権の行使を可能にしました。これは、立憲主義(つまり法の支配)と、法的安定性の確保に対する重大な挑戦です。

 (「法的安定性は関係ない」という礒崎首相補佐官の発言を参照して下さい。「政府はずっと、必要最小限度という基準で自衛権を見てきた。時代が変わったから、集団的自衛権でも我が国を守るためのものだったら良いんじゃないかと[政府は]提案している。考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要なことを、日本国憲法がダメだと言うことはありえない」[『朝日新聞』、2015年7月26日]。立憲主義を完全に無視した内閣の「独裁」、これが安倍内閣の本音ではないでしょうか。しかも、磯崎首相補佐官は、過去に「立憲主義という言葉は学生時代の憲法講義では聞いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか」とtwitterで述べています。しかしもちろん、立憲主義という概念は、すでに13世紀イギリスに法の支配の理念として存在しています。驚いたことに、彼が学生時代に所属していたのは東大法学部なのです! 授業には出ていなかったのでしょうか?)。

 2014年7月の「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」は、先に述べた1972年「政府見解」に、論理構成をその結論部分を除いて依拠しており、しかもそこからまったく反対の結論を導き出すという不可能な解釈を展開しています。いささか長いですが、以下に引用します。

 まず、「閣議決定」は自身が1972年「政府見解」に依拠していることを確認します。

 「自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第九条の下では今後とも維持されなければならない。」

 しかし、ここから出される結論は、1972年「政府見解」とはまったく正反対のものです。

 「安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。」(しかし、他国に対する武力攻撃が、なぜわが国の存立を脅かすのかは、まったく明らかにされていません。)

 「こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」。

 このように「閣議決定」は、集団的自衛権の行使を認めないことを結論とする1972年政府見解を踏まえて、そこから正反対の結論を導いています。このように、「閣議決定」が1972年政府見解を根拠として集団的自衛権の行使を容認することは、論理的には完全に破綻しており、単なる詐欺としか考えられないのです(これは、SEALDsのコール「屁理屈言うな!」に対応しています)。

 (もう一つの根拠とされる最高裁「砂川判決」についても、まったく同じことが言えます。砂川事件とは、在日米軍立川基地の拡張に反対するデモ隊の一部が、米軍基地に立ち入ったとして起訴された1957年の事件のことです。1959年に東京地方裁判所は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」として全員を無罪としましたが、同年、最高裁は地裁判決を破棄し、地裁に差し戻しました。安倍内閣の依頼を受けて2014年に作成された「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書——集団的自衛権を容認した閣議決定はこの報告書に依拠しています——は、集団的自衛権の行使容認の根拠を、この最高裁判決に求めています。その報告書から引用します。「憲法第9条によって自衛権は否定されておらず、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を採り得ることは国家固有の権利の行使として当然であるとの判断を、司法府が初めて示したものとして大きな意義を持つものである。さらに、同判決が、我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきである」。しかし、実際に砂川判決を読んでみれば(私は全文読んでみました)、砂川判決が、在日米軍の日本駐留を合憲とすることを目的としており、集団的自衛権については何ら判断を下していない、ということを理解できるでしょう。日本の戦力は、憲法の制約のため自国防衛のためには貧弱なので——砂川判決の出された1959年当時は、自衛隊が編成された5年後にすぎません——、米軍が駐留し、日本の防衛を補完することは、自衛のために必要であり合憲である、というロジックに従って個別的自衛権を合憲とする、というのが砂川判決の骨子であり、日本が他国防衛に参加するという意味での集団的自衛権は何ら問題になっていないのです。つまり、砂川判決によって集団的自衛権の行使を合憲とすることも、単なる詐欺であり、例の「屁理屈」の一つなのです。)

 このように憲法を単なる一内閣の閣議決定によって実質的に変更してしまうことは、立憲民主主義に対するクーデターだと言わざるを得ません。

 そもそも、内閣とは立法権力ではなく執行権力であって、閣議決定とは立法行為ではありません。閣議決定によって、最高法規である憲法を実質的に変更するということは、立憲民主主義の観点からはまさしく不可能な事柄なのです。

 集団的自衛権の行使を容認したければ、堂々と憲法改定を発議すべきです(むろん、それが無理だとわかっているから、安倍内閣は解釈改憲という姑息な手段に打って出ているわけです)。

 さらにここで重要なのは、内閣とは、法哲学で言うところの「憲法によって構成された権力」(フランス語でpouvoir constitué、「被構成的権力」とも訳します、つまり憲法によって拘束された権力)であり、「憲法を構成する権力」(フランス語でpouvoir constituant、「構成的権力」とも訳します、つまり憲法を作り出す権力)ではない、ということです。憲法によって「構成」され、憲法によって拘束された内閣が、閣議決定という立法行為によって憲法解釈を根本的に変更することは不可能です。また、日本国憲法においては、議員は憲法改定を発議することはできますが、憲法改定を決定することはできません。憲法改定を決定するという「憲法を構成する権力」は、議員ではなく、国民投票という手段を通じて国民に存しているのです。この意味で、「憲法を構成する権力」は国民そのものです。従って、一内閣が閣議決定によって実質的に憲法を変更してしまうことは、国民という「憲法を構成する権力」に対する全面的なクーデターなのです。

3)

 第三の理由は、集団的自衛権の行使を容認すれば、日本が「他国の戦争に巻き込まれることは絶対にない」(安倍首相)どころか、むしろ日本が戦争に巻き込まれるリスクが明白に高まるからです。

 現代は、第二次大戦のような総力戦の時代ではなく、限定戦争の時代です。中国や北朝鮮などの近隣諸国が日本に対して全面戦争を仕掛けてくるような事態は、現代では考え難い事態です。全面戦争のリスクは、むしろ米ソが核戦力によって対立していた冷戦期の方が高かったのであり、そのようなリスクの高い状況の中でも、日本は個別的自衛権しか行使できなかったのです。むろん現代では、従来通り個別的自衛権で十分に対応できます。

 それなのに、なぜいま安倍内閣は、安保法制によって集団的自衛権の行使を容認しようとするのでしょうか。

 端的に言えば、それは、日本をアメリカの戦争に協力できる国にしたい、それによって「戦後レジームからの脱却」を実現したいからです(しかし、「戦後レジーム」が、戦後日本に対するアメリカの実質的な支配によって成り立っているとすれば、アメリカの戦争に協力できる国になることは、逆に「戦後レジーム」をより強化する結果になるようにも思われます。安倍首相の「戦後レジームからの脱却」という「自己実現」は、かくも倒錯した構造を持っているのです)。

 日本は、1991年の湾岸戦争時に、多国籍軍に対して130億ドルの支援金を拠出しましたが、アメリカからは「金は出しても血は流さない」と非難されました(むろん、血を流すことが美徳であるとは到底思えません)。この湾岸戦争の経験が、日本にとって、つまり日本政府と外務省にとって、「トラウマ」になったとされています。

 その後、日本は、アメリカが主導した二つの戦争に自衛隊を協力させることになります。つまり、自衛隊は、アフガニスタン紛争(2001年−)では海上自衛隊によるインド洋での給油活動、イラク戦争(2003年−2011年)では陸上自衛隊による人道復興支援活動、航空自衛隊による輸送活動などに携わることになるのです。

 安保法制で集団的自衛権の行使が可能になれば、日本は米軍などの戦闘の後方支援(弾薬の提供も可能)を行うことができるようになります(「重要影響事態」、「国際平和共同対処事態」がそれに当たります)。弾薬の提供さえ可能な後方支援を行えば、当然、戦闘に巻き込まれるリスクは明白に高まります。

 また安倍首相は、「存立危機事態」(すなわち、「日本と密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」)という概念を使えば、ホルムズ海峡が機雷で封鎖された場合の掃海が可能になる、と述べています。これは、他国の領海内で(ホルムズ海峡には公海はありません)集団的自衛権を行使する明白な武力行使であり、日本の防衛以外の戦争に積極的に参加することです(「積極的平和主義」? いやむしろ「積極的戦争主義」では?)。つまり、集団的自衛権の行使が可能になれば、日本の防衛以外の戦争に巻き込まれるリスクは、明白に高まるのです。

 ホルムズ海峡の機雷封鎖とは、機雷封鎖を行うと想定されている国がイランである以上、アメリカとイランの戦争を想定したものです。しかし、イランの核開発問題をめぐって、今年7月14日にイランと欧米6か国との間で合意が成立したため、もはやこの地域で戦争の危機はなくなり、「ホルムズ海峡の機雷封鎖」というシナリオは意味を成さなくなりました。すると、安倍首相は次に、南シナ海の機雷掃海という例を出す始末です(「存立危機事態」という自らの概念を自己正当化するためだけの、悲惨極まりない発言です)。

 その場合、機雷封鎖を行うと想定されているのは中国だと思われますが、中国が南シナ海の領有権をめぐってアメリカと戦闘状態に入り、それに日本が集団的自衛権を行使して参戦するという危険な行為を、安倍首相は本当に現実的な事態として想定しているのでしょうか。そのような事態が万が一にも勃発すれば、ベトナムから、中国、日本までを含む東アジアの広大な地域が、文字通り戦火に巻き込まれることになります。むしろ、そのような事態が決して起こらないよう、外交努力を尽くすべきではないでしょうか。そのためにも、日米安保体制にとどまることなく、東アジアの枠組みで共同体を作る努力は、極めて重要です。

 このように、集団的自衛権の行使を容認すれば、日本は「戦争に巻き込まれることは絶対にない」どころか、「日本が戦争に巻き込まれる」リスクが明白に高まります。このことは、(戦火の)火を見るより明らかなことです。

 以上三点が、私が今回の集団的自衛権の行使を可能にする安保法制に反対する理由です。

「安保法制に反対する筑波大学有志の会」発起人
佐藤嘉幸 筑波大学准教授(哲学・社会思想史)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ