「アイヌは交易を重要視し、市場依存型の社会を形成していた」 ~岩上安身によるインタビュー 第325回 ゲスト 旭川市博物館 主幹 瀬川拓郎氏 2013.8.4

記事公開日:2013.8.4取材地: テキスト動画独自
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(IWJテキストスタッフ・関根/奥松)

 アイヌ研究者の瀬川拓郎氏は、アイヌの歴史と文化について、旧石器時代からの縄文人とアイヌの関連性、他の民族との関係や経済システムなどについて語った。さらに、「アイヌの人たちは、サハリンで元朝(モンゴル)と戦争をしている」と述べ、意外な歴史の一面を紹介した。

 2013年8月4日、北海道の旭川市博物館にて、同館主幹の瀬川拓郎氏に、岩上安身がインタビューを行なった。瀬川氏は北海道出身の考古学者で、『アイヌ・エコシステムの考古学』『アイヌの歴史』『アイヌの沈黙交易』など、アイヌに関する多数の著書がある。

旭川市博物館HP

■イントロ

旧石器時代から縄文時代、そして弥生時代へ

 冒頭、岩上は「以前から、日本の歴史や起源に興味があり、縄文人や、その末裔とも考えられるアイヌの人たちについて学びたかった。それらの歴史は、現在の日本人の国家観にも反映されているのではないかと思う」と前置きして、まず、縄文人とアイヌについての関連性を尋ねた。

 瀬川氏は「現在の説では、2万数千年前、日本列島に移ってきた旧石器時代の人たちを、縄文人の祖先としている。彼らは、沖縄から北海道まで全域に定住していた。縄文系は彫りが深く、濃い顔だちで、耳あかが湿っているのが特徴と言われる。二重構造モデル(縄文人と他民族との混血化)もあり、縄文人も単一民族ではなく多様性があっただろう。土器に関しては、縄目文様という共通性があり、縄目の意味は滑り止めという説があるが、もっと精神的な意味合いもあったのではないか」と語った。

 続けて、「旧石器時代と縄文人とは歴史的な断絶が見られないので、つながっている可能性は高い。ただ、旧石器時代は氷河期なので、縄文とそれ以前とでは、生活様式はかなり違っていただろう。DNAや遺跡の研究から、縄文人は他民族との活発な交流はなかったようだが、紀元前数百年頃から、大陸から弥生人の流入があり、二重構造モデルは定説になった」と述べた。

 「縄文時代も含め、多くの人間が往来して、文化の変容が繰り返し行なわれていたと考えたほうがいい。本州が弥生時代の時、北海道は続縄文時代。のちに擦文(さつもん)時代(7~13世紀ころ)になり、擦文土器が出土する。その装飾はヘラで『擦る』デザインだった」。こう語る瀬川氏に、岩上が「アイヌの伝統衣装のデザインは、袖口や襟ぐりに文様が施されている。魔除けの意味だと聞いた」と言うと、瀬川氏は「魔物が入ってこないようにと、口元などに装飾が施されることが多い。土器の口に装飾が多いのも、魔除けの意味ではないか」と話した。

オホーツク人や元(モンゴル)との攻防

 瀬川氏は、弥生時代以降の北日本、北海道の文化について、「一般的に13世紀以降をアイヌ文化と言うが、それは歴史的にたどれる、という意味であって、アイヌ文化が発生したということではない」と述べた。その上で、「7世紀頃、アイヌとはまったく違うオホーツク人がサハリンから南下してくる。当初はアイヌと共存していたが、本州との交易で貴重なオオワシの羽をめぐって、10世紀ぐらいから、オホーツク人とアイヌの間に利害対立が生まれた。結果、11世紀後半の北海道には、日本海側と太平洋岸に2つの擦文文化があり、道東のトビニタイ文化(のちに擦文文化に吸収される)を入れて、大きな3つの文化圏ができた。この頃、アイヌ文化のアウトラインができたと考えられる」と見解を述べた。

 岩上が、アイヌと元(モンゴル)の戦いについて尋ねると、瀬川氏は「アイヌの人たちは11世紀頃から、狩り場を求めてサハリンへ渡っていた。それが13世紀半ばに拡大して、先住民とのトラブルが起こった。当時、サハリンの先住民を支配していたのは元。そのため、元とアイヌは半世紀にわたって、夏になると戦争をやっていた。アイヌ排除のため、元は1万人規模の軍隊を派遣したと言われている」と意外な史実を語った。

縄文人と蝦夷、アイヌの関係

 さらに岩上が、蝦夷(えみし。大和朝廷時代、関東、東北、北海道に住んでいた人々を指す)について、「縄文人の末裔が、蝦夷なのか。アイヌとはつながるのか」と質問すると、瀬川氏は「蝦夷がアイヌなのかどうか、はっきりしない。7世紀後半に、蝦夷が札幌や千歳に入ってきて農耕や祭祀文化をもたらし、擦文文化が興ったとも言われている」と答えた。

 また、「縄文文化が、日本文化にどれだけ影響したかは判断がむずかしい。同様に、縄文人がアイヌの祖先とも断言できない。たとえば、縄文文化では、ゴミ捨て場は貝塚が基本。そこに何でも、遺体すら捨てた。しかし、アイヌのゴミ捨て場は、上位から動物の骨、魚、生活ゴミというように分別されていた。縄文人とアイヌ人の精神性は、かなり違っている」と所見を述べた。

日本との交易を重視していたアイヌ

<この後、意外に緊密な和人とアイヌの間柄を紐解いていく瀬川氏。さらに話題は沖縄とアイヌの相違点へ。アイヌが沖縄のように国家形成に至らなかった理由とは…?続きはぜひIWJ会員となってご覧ください!>

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「「アイヌは交易を重要視し、市場依存型の社会を形成していた」 ~岩上安身によるインタビュー 第325回 ゲスト 旭川市博物館 主幹 瀬川拓郎氏」への1件のフィードバック

  1. 大竹義人 より:

     火焔土器を見て、余りの凄まじさと迫力に、その前から動けなくなった体験があります。「これは全然文化圏が違う」という印象が新鮮だったのです。日本の歴史や文化は単一なものではありえないと確信しました。驚きとともに、一種の解放感のようなものを感じました。それ以降の日本の土器や焼き物とどんな関連があるんだろうと思ったものです(火焔土器のような飛び抜けたものを作った日本人は、その後いないわけですが)。以来、ぼくも興味を持って、能登半島の真脇(まわき)を訪ねたりしました。当時は鉄道が通っていました。80年代後半の話しです。真脇からは多数のイルカの骨、それとトーテンポールのようなものまで出土していました。縄文時代の定住を証明する代表的な遺跡です。真脇では大正年間までイルカの追い込み漁が盛んでした。入り江に追いつめて、一網打尽、イルカを胸に抱きかかえる漁師の写真を見せてもらったりしました。沖縄の友人はアイヌの音楽に非常に強い親近感を覚えると言います。アイヌと沖縄の宗教には類似点が多いのかもしれません。文字を持たない縄文文化の名残は、神道、天皇中心の明治以降の国家神道とは異なる遥か以前の神道に、残ったのかもしれないとも感じます。お寺には花が似合いますが、神社には緑が似合います。この緑は、はるか縄文の緑につながるのではないか。静かな神社の森に、うまく聞き取れないけど懐かしい声のようなものを感じるのです。

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