2013年5月26日(日)10時から、新潟市中央区のクロスパルにいがた映像ホールで「東電柏崎刈羽原発運転差し止め訴訟 新潟地区市民集会」が行われた。放射能に関して講演した瀬川嘉之氏は、「被曝を考える上で重要なのは、累積。被曝が累積すれば、それだけ健康被害につながりやすくなる」と述べた。福島から新潟に避難した住民は、「大きく息を吸えること、水道の水を存分に使えることなど、普段の当たり前が何より幸せだ」と語った上で、「もし、柏崎刈羽原発が動いてしまえば、皆さんの未来も私のようになりかねない」と懸念を表明した。
- 講演「放射能と内部被ばく・その危険性と予防法」瀬川嘉之氏(高木学校)
- 福島から避難者の訴え 磯貝潤子氏
- 柏崎刈羽原発の差止め訴訟の意義と概要 和田光弘弁護士(脱原発新潟弁護団長)
- 放射能拡散予測シミュレーション新潟市版
- 日時 2013年5月26日(日)10:00〜
- 場所 クロスパルにいがた映像ホール(新潟県新潟市)
- 詳細 放射能と環境を考える会
瀬川氏は「放射線が、なぜ危険であるか」という基本から話し始め、「放射線を出す元の放射性物質が、どれだけあるかというのが、ベクレル。それに対して、人がどれだけ浴びたかというのが、シーベルトである。放射線の害は、その時に浴びた量によって影響が違い、100ミリシーベルト以上だと目に見えて具合が悪くなる。100ミリシーベルト以下では、何十年か後に、がんや心疾患、その他の病気が現れてくる」と説明した。
続けて、放射線の被害に関して、「どれぐらいの量で、どれぐらいのことが起きるかは、実際に試してみないとわからない。そんなことは、とてもできないが、歴史的にそれに近いこととして、広島、長崎の被爆者を生涯にわたって追跡調査している。放射線影響研究所(放影研)で研究され、2012年に最新のデータも出ている。大事なことは、被曝量がある値以下だと、がんの発生が増加しないという、いわゆる閾(しきい)値はないこと。これは、放影研の論文の冒頭に、はっきり書いてある。多大な犠牲を払った、広島と長崎のデータから得られたものだ」と述べた。
内部被曝については、「放射性物質が体内にどれくらいあるか、どれくらいの期間、体内に留まっているかが問題になってくる。たとえば、1000ベクレルのものを一度に食べたとしても、半減率が100日で2分の1、200日で4分の1とどんどん減っていく。しかし、仮に10ベクレルであっても、毎日食べ続けると体の中に溜まっていく。大事なのは、被曝は累積で考えなければならないことだ。累積すれば、放射線によるDNAの損傷も多くなり、がんにつながる可能性が高くなる」と語った。
瀬川氏は最後に、「外部被曝だけを考えても安全値はない。蓄積していくし、内部被曝のことも考えると、とにかく放射線に対する感受性の高そうな人、蓄積する線量が高くなりそうな人から、優先して対処する必要がある。子どもの健康管理としては、除染した場所で過ごすよりも、長期にわたって他の地域で過ごす方がいい。新潟では、すでに被災者を受け入れている団体もあるが、それをもっと広げていくといい。長期にわたって避難する事態は、これから、どこの地域でもあり得る。ましてや、原発の立地地域では可能性が高くなる。防災学習など、子どもの学びや交流も含めた新たな取り組みが必要である」とまとめた。
磯貝潤子氏は、新潟に避難するまで1年ほどかかったことについて、「原発事故当時、国や県、東電の会見、新聞などからは、『今すぐ生活を捨てて、避難しなくてはならない』という情報がなかった。私が住んでいた郡山では、『家が残って自分たちは幸せな方だから、早く復興するために、がんばるしかない』という雰囲気があった。原発について、何の知識もなかった私は、放射能がなくなれば元の生活ができると信じて、家の中や庭を懸命に除染した。この間にも、娘たちは普段の生活で鼻血を出し続け、皮膚炎は治らない。腹痛、頭痛を次々と発症した。気が狂うほど放射能に神経質になりながら、何とか今までの生活を、培ってきたものを、大切な家族や友人を、失いたくない一心で、(移住せずに、子どもたちを)放射能から守ろうとしてきた」と話した。
避難後の新潟での生活について、磯貝氏は「ストレスも多かったが、大きく息を吸えること、窓が開けられること、子どもに外遊びをさせられること、水道の水を存分に使えることなど、普段の当たり前が何より幸せだった。心から待ち望んでいたものだった。1年間、運動を制限されてきた娘たちは、走り方を忘れていた。子どもに我慢させ続けたことの重大さを、改めて知った。それでも、何のためらいもなく外でお弁当を広げたり、土や草の上に座り、花に触れたときの子どもの笑顔は、何にも変えがたいものであった。1年間怯えた日常を、あたりまえの日常に取り戻していく」と語った。
一方で、磯貝氏は避難生活の不安を、「いつ終わるとも先の見えない避難生活。少しの体調の変化にビクビク怯え、被曝症状かと不安になる。また、自主避難者には何の賠償もないため、生きていくのに精一杯で、子どもたちには何もしてあげられない。事故から2年以上たっても、生活再建どころか、まったく将来の目処も立たない」と告白した。
最後に、原発に関して、「まさか、事故など起こらないだろう。事故が起きても、国がなんとかしてくれるはず、と思っていたが、その国が、私たちに何をしてくれたのか。世界規模の大事故であっても、国は放置し、助けてくれなかった。新潟で、福島と同じような事故や失敗をしないためにも、私たちが手を取り、原発反対を訴えていかなければならない。もし、柏崎刈羽原発が動いてしまえば、皆さんの未来も私のようになりかねない」と訴えた。
和田光弘弁護士は、柏崎刈羽原発差止め訴訟の現状を、「今、裁判でのやりとりを4回行ったが、東京電力の代理人の弁護士は木で鼻を括ったように、『書面に書いたとおり。それ以外は言うことはありません。いろいろ質問されても、すべて書面で出します』という対応だ。なぜ、そうなってしまうのか。結局、その場で具体的な話を詰めていくと、代理人自身がきちんと答えられないからだ。すべて、東電任せになっているのだ」と批判した。
今後の裁判の方向として、「地震の問題、原発の設備の健全性の問題、放射線の危険性の問題などがあるが、実際に、福島のような事故が起きた場合、具体的な被害は、避難を強いられる人たちに向かう。だから、避難を強いられ、日常生活に困難を抱える影響の大きさを、裁判所に伝えていかないといけない。次回以降、もっと被害を受けている人たちの、具体的な実態を明らかにしていく」と述べた。
また、各地で進む原発関連裁判に関しては、「訴えに耳を傾けようとしている裁判や、警戒し、エキサイトしないように押さえつけようとする裁判もあり、さまざまな報告がある。そういう意味では、先行している裁判所の判断が、どう出るかである。私たちは、一番進んでいる浜岡の控訴審判決が、具体的にどうなるか注目している。その上で、新潟は新潟で、東京電力を相手にしている裁判はここしかないので、弁護団やサポーターのみなさんと一緒に進めていく」と述べた。