【岩上安身のツイ録】高校球児の夢舞台が戦争で断たれることのないよう、祈りを込めつつ。 ~我が母校早実、話題の清宮君が因縁の今治西相手に初陣 2015.8.7

記事公開日:2015.8.7 テキスト
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 77年、早実の偉大なるOBであり、大先輩の王さんが本塁打世界記録を放った年、僕は早実の三年生だった。忘れられない年。

 その77年、王さんが大記録を打ち立てた高3の年、僕らの級友たちが春夏ともに甲子園に連れて行ってくれた。最高の思い出。エースの弓田は三年時のクラスメート。しかし、夏の準々決勝。今治西と対戦して大敗。僕は18歳の誕生日だった。

 11ー1の大敗。この試合は甲子園へ応援に行かず、東京で誕生日祝いしていた僕は愕然。今治西の三谷投手が素晴らしかった。その三谷がなんと早稲田に進学。同学年でエースとなり秋の六大学の優勝投手となる。三谷に泣かされ、三谷に歓喜。

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 その今治西と早実が明日の一回戦で対戦する。思い出が様々に重なり合う。話題の一年生の清宮幸太郎君は、早稲田ラグビー部をNo.8として率いて優勝させた清宮克幸氏の息子。

 清宮は選手としてだけでなく、監督としても超一流。「アルティメット・クラッシュ」というスローガンで早稲田ラグビーを再び学生王座の頂点に立たせた。今はヤマハの監督として頂点に立ち、ラグビーW杯の日本代表監督の候補にも。

 清宮幸太郎君は、父親の血を引き、スポーツ万能だったらしいが、2006年の斎藤佑樹率いる早実とマー君こと田中将大が率いる駒大苫小牧との決勝を球場で観て、野球一本に絞る決意をしたという。その決勝、僕も甲子園のスタンドで母校を応援していた。

 当時、僕は、大阪の関西テレビのニュースアンカーという番組のコメンテーターをしていて、たまたま大阪入りしていた。早実が勝ち上がり、あの中田翔を斎藤佑樹がきりきり舞いさせ、大阪桐蔭を封じたのをテレビで知って、そのまま大阪に居残って甲子園に足を運んだ。

 斎藤佑樹は、当時は、物凄いタフネスで、準々決勝、準決勝、そして駒大苫小牧との決勝を延長引き分け、その翌日の再試合まで含めて4連投、一人で投げ切って優勝! その準決勝から決勝再試合まで、全部甲子園のアルプスで応援した。ものすごくあつい夏だった。

 今大会は100回目を数える記念大会。早実は、100年前の第一回大会から東京代表として出場している古豪。この初出場の大会で準優勝。優勝はならず、以後も、東京代表として最多の出場回数を誇るのに、ずっと優勝できなかった。

 春のセンバツは王さんがエースで四番で優勝したことがあるが、夏は一度も優勝なし。僕が高校の現役の頃、つまり今から30数年前、80歳を超える第一回大会を知るOBの方が「生きているうちに母校・早実が夏に優勝するのを見たい」と言っているのを聞いて歴史を貫く悲願なのだと知った。

 僕が高3の時のチームで、四番を打っていたのは川又米利。のちに中日で活躍する。3番は高3の井上だったが、5番も2年生。荒木健二。僕らの代の夏が散って終わった後、卒業と入れ替わりで入学してきたのが健二の弟の荒木大輔だった。一年生の夏に甲子園。決勝まで進むも準優勝に終わる。

 春夏五回連続出場。その大輔をもってしても果たせなかった夏の甲子園の優勝。永遠に優勝できない気がしていた。それだけに、2006年の初優勝はなんと言っていいかわからないほどの嬉しさだった。スタンドにいて目撃できた幸運に感謝した。甲子園上空に広がる青い空が忘れられない。

 明日の一回戦、18歳の時の思い出が蘇る今治西との対戦が楽しみ。高校野球は投手力がモノを言うので、清宮、加藤の3番、4番の打力だけでは勝ち抜けないだろうとは思うが、いい試合をしてほしい。そして、この100回の大会の間に戦争で甲子園が断たれた悲劇にも思いを馳せよう。

 野球を心から楽しめるのは、平和だからだ。高校球児の夢舞台が戦争で断たれることのないように。今の高校球児の世代、そしてその活躍を見て甲子園を目指す野球少年の世代が、絶対に戦禍に見舞われることのないように。この戦後70年間を戦間期としないように。祈りを込めつつ。

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