また、この季節がやってきた――。
夏になると、ニュースが、こぞって取り上げる問題がある。
政治家の、靖国神社参拝をめぐる去就である。
第二次安倍政権では、これまで、麻生太郎副総理、古屋圭司拉致問題担当相、新藤義孝総務相、根本匠復興相、稲田朋美行革相、下村博文文科相の6人が、政権発足後、参拝を行った。このなかで、稲田行革相が、8月15日にあらためて参拝する意向を表明している。
昨年、野田佳彦内閣では、すべての閣僚が8月15日の参拝を見合わせた。さて、今年は、何人の閣僚が靖国神社を参拝するのだろうか。
自民党幹部では、高市早苗政調会長が、8月15日に参拝する方向で調整中だ。安倍総理は、「中国、韓国に配慮する」として、8月15日の参拝を見送る方針を固めている。
「ヤスクニ」って何?
正直に告白すれば、私もこれまで、靖国神社に幾度となく参拝した経験がある。7月13日の「みたままつり」に訪れたこともあるし、8月15日に参拝したこともある。
すでに亡くなった私の祖父は、従軍経験者だ。鹿児島の漁協に務めていた祖父は、海軍に志願して出兵。「あぶくま」という駆逐艦に乗っていたところを撃沈され、近くの島まで泳いでたどり着き、なんとか生還したという。祖父はそのことを、私に自慢げに語ってきかせてくれた。
生前、祖父は歴史認識について多くを語ることはなかったが、「一度、靖国に行きたい。あそこには、戦死した仲間がいるから…」と、まだ幼い私に、ため息まじりにつぶやいていたことを、私は今でも鮮明に覚えている。
「ヤスクニ?」。この言葉が持つ政治的意味を知らなかった幼い私は、当然ながら、祖父の感情を理解することはできなかった。しかし、「ヤスクニ」という言葉だけは、はっきりとその時私の心に刻まれた。
その後、ある程度歴史を勉強し、いわゆる「A級戦犯」とされる人々が合祀されていることを知った後でも、私は何度か靖国神社に参拝した。それは、日本が他国を「侵略」したかどうか、「A級戦犯」とされる人々が合祀されているかどうか、といった、歴史認識やイデオロギーとは関係がない。祖父の言葉を思い出しつつ、ただ純粋に、戦地で心ならずも亡くなられた方々に対し、哀悼の意を表したいと考えたからである。
ここまで読んで、私を「右翼」「軍国主義者」と思われた方には、靖国神社に参拝した足で、千鳥ケ淵戦没者墓苑にも欠かさずお参りをしていることを、とりあえずは付け加えておきたい。
千鳥ケ淵戦没者墓苑とは、日本国外で死亡した日本人兵士や一般人のうち、身元が判明していない方々の遺骨を安置している墓苑である。いわゆる「A級戦犯」の合祀を理由に、国内外から批判の的になる靖国神社に代わり、この千鳥ケ淵戦没者墓苑を政府公認の追悼施設にしてはどうか、という議論が、これまで幾度となく行われてきた。
靖国神社は長州藩の神社
8月15日、靖国神社には多くの戦没者遺族が参拝に訪れる。その方々一人ひとりの思いは、親族が戦死し、その魂をなぐさめたいという、極めて素朴かつ純粋なものであると思う。
しかし、である。「政治」という枠がはめられた瞬間、靖国神社という場所は、まったく違う相貌を示し始める。それが具体的にはどういうものか、実際に境内を歩いた気になって、考えてみることにしたい。
地下鉄九段下駅を出て、少し坂を登る。これが、いわゆる「九段の坂」か、と感慨にふけっていると、巨大な建造物が目に飛び込んでくる。靖国神社の大鳥居である。
高さ25メートルを誇る、この巨大な大鳥居。1919年に完成した当時は、日本一の高さを誇り、「空を突くよな大鳥居」と、人々に親しまれた。
実はこの大鳥居、1943年に撤去され、現在のものは2代目であるという。靖国神社のパンフレットには、「長年の風雨に蝕まれて撤去した」と記されているが、大鳥居の右手にある鉄板には「戦力増強のため撤去」と記されている。
この大鳥居が、戦中、実際に兵器鋳造のために転用されたのかどうかは、実は定かではない。しかし、「あの大鳥居ですら、金属供出されたのか」という風聞を流すことが、庶民への金属供出を強いた当時の軍部によって、プロパガンダとして使用された可能性は否めない。
大鳥居をくぐり、少し歩くと視界に入るのが、大村益次郎の銅像だ。
靖国神社のほぼ中心に立つ銅像が、長州藩出身で、日本近代陸軍の創始者である大村益次郎であることは、いったい何を意味するのであろうか。
大村益次郎は、後に初代総理となる伊藤博文や木戸孝允、高杉晋作、井上馨らとともに戊辰戦争を戦い、天皇をかつぐことで江戸幕府を「朝敵」として「成敗」した、長州藩の軍事的リーダーだ。明治維新以後、大村は、国民皆兵や兵学校の設置による近代陸軍の青写真を描いていたとされる。大村の死後、その思想を受け継ぎ、明治3年に徴兵令を発布したのが、大村と先輩・後輩の仲であり、初代陸軍卿に就任する山県有朋であった。
靖国神社設立の起源を調べてみると、やはり長州藩にいきつく。1865年、長州藩が奇兵隊の死者を祀るために建立した桜山招魂社が、靖国神社の起源である。その後、禁門の変、戊辰戦争などで戦死した長州軍の兵を合祀。明治維新後、明治天皇の上京にともない、天皇の錦の御旗が与えられることで、官幣の神社として靖国神社が設立された。
以上の経緯を踏まえると、靖国神社は、明治維新以降、実権を握った長州閥の意向が色濃く反映された神社だと言える。事実、会津藩家老を先祖に持つ右翼の大物・田中清玄は、靖国神社を「長州藩の守り神にすぎないもの」と切り捨てたという。
政治的装置としての「靖国」
さらに歩を進めよう。「皇族下乗」の標札を過ぎ、拝殿に向かう。
普通の神社と同じように、賽銭箱が置いてある。拝殿からは、その奥にある本殿をのぞき見ることはできない。しかし、境内をぐるりと迂回し、池を横切って、神社の真後ろに回ると、本殿の裏側を少しだけ垣間見ることができる。
靖国神社の本殿には、246万6532柱の祭神が祀られている。それらは、戊辰戦争以降、台湾出兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争といった、戦争で亡くなられた方々の御霊である。
ただ、この中には、例えば東京大空襲の犠牲者、広島・長崎への原爆投下による犠牲者、沖縄戦での犠牲者などは含まれていない。さらに、大村益次郎らとともに戊辰戦争を戦いながら、その後、西南戦争で「鎮圧」された、薩摩藩の士族たちも祀られていない。
あくまで、明治政府で中心をなした長州閥の人々が押し進めた、西南戦争という内戦での官軍側の死者と、日本が対外諸国を侵略していく過程で戦死した人々だけを祀っているのである。
私の祖父は、「一度、靖国に行きたい」と言った。それは、アジア・太平洋戦争を、実際に戦地で戦い、戦友を失った一人の人間の、率直な心情であるだろう。そのことは、否定すべくもない。
しかし、靖国神社が持つ歴史的背景を鑑みるに、政治家が参拝することは、例えば私の祖父のような人間が参拝することとは、まったく別問題である。
靖国神社が、日本の軍国主義化に貢献した政治的装置として働いたことは、疑うべくもない。そこに、当の政治家が参拝するということは、靖国神社が持つ政治的装置としての機能を、無条件に肯定することを意味する。
「軍国少年」だったという山中恒氏は、岩上さんのインタビューの中で、「若い人には、しっかりと歴史を学んでもらいたいです」と語った。私は、戦中・戦後を、自らの戦争体験を考え抜くことに費やして生きてきた山中氏の、この、重い、重い言葉を、若者だけではなく、政治家にも、是非、かみしめてもらいたいと思う。
靖国神社の問題点や歴史認識に関しては、以下のアーカイブをご覧ください。
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