戦争は美辞麗句で飾り立てられているのが常だ。また、飾られ美化されなければ、憎くもない見知らぬ相手を殺したり、逆に殺されたり、そんなおぞましい血みどろの蛮行を正当化できるものではない。
では、そもそもそんな蛮行を、偽りの修辞で厚化粧を施したりしながらも、国家はなぜ強行しようとするのか。実のところ、そこに一部の資本家にとっての利益がひそんでいるからだ――そう喝破した人物がいる。その人物とは、反戦運動家でも、聖職者でもない。米軍の”殴りこみ部隊”たる海兵隊の将軍として、2度も叙勲の栄誉を受けた(海兵隊史上、2人しかいない)スメドリー・バトラーという軍人なのである。
バトラー氏は1898年から1931年まで海兵隊に身をおいていたが、退役後の1931年8月には、自らを振り返ってこんな衝撃的な告白を述べている。「私は(海兵隊に)33年間もいたが、その大半は大企業、ウォール街、銀行の高級用心棒」、「資本主義のためのラケティア(ゆすり屋)であった」。
海兵隊の英雄的軍人でありながら、1935年には、『War is a Racket(戦争はいかがわしい商売だ)』というパンフレットを出版し、米国における海外での侵略戦争、軍需企業を痛烈に批判し、講演活動にも奔走した。パンフレットでは、自身の従軍経験から、戦争によって資本家の利益のために軍が利用され、悪用され、侵略を繰り返し、そのたびに将兵が血を流してきたという内情を暴露するとともに、戦争がいかに資本家にとって儲かる商売であるか、ということが詳細に述べられている。
バトラー氏の軍人としてのキャリアについては、国際ジャーナリストで元桜美林大学教授である吉田健正氏の『戦争はペテンだ―バトラー将軍にみる沖縄と日米地位協定』に詳しい。
キューバのハバナ湾で米国の船艦「メイン号」が爆破された1898年、16歳で陸軍に志願したが断られ、海軍に予備兵として入隊した。18歳で士官試験に合格すると、海兵隊の少尉に任官され、まもなく米西戦争(1898年の米国とスペインの戦争)下のキューバへ送られた。 その後、米国・フィリピン戦争、1900年の中国(当時の清)での義和団の乱、1903年のホンジュラス蜂起、1914年のベラクルス(メキシコ)攻略、1915年のフォート・リビエール(ハイチ)攻略など各地を転戦し、海兵隊員あるいは指揮官として活躍した。第一次世界大戦では、第13海兵隊連隊を率いて戦い、帰国後にサンディエゴ海兵隊基地の司令官などを歴任した。
実は、沖縄にはバトラー氏にちなんで命名されたキャンプ・バトラーが存在する。これは、沖縄に駐留する海兵隊と富士山麓にあるキャンプ富士の総称であるとともに、これらの基地を統轄する司令部の名称でもある。
沖縄の海兵隊基地には、アルバート・シュワブ1等兵にちなんだキャンプ・シュワブ、デール・ハンセン2等兵にちなんだキャンプ・ハンセン、ヘンリー・コートニー少佐にちなんだキャンプ・コートニーなど、1945年の沖縄戦で戦功を挙げた海兵隊員の名前が冠されているのだが、沖縄にある海兵隊員の名前がつけられた9つの基地のうち、このキャンプ・バトラーの名称だけは沖縄戦と関係がない。
バトラー将軍は、1931年に退役し、1941年に亡くなっており、沖縄戦には従軍していない。にもかかわらず、彼の名前が、在沖米海兵隊基地の名称として使われているのである。海兵隊にとって、それだけビッグ・ネームである、ということを意味しているのだろう。
彼が「米国海兵隊の英雄」と讃えられるのは、常に最前線にあって、幾多の戦功をあげ、数々の勲章に輝いたからというだけではないらしい。戦場において、下級兵士と共に塹壕で過ごし、戦闘でも犠牲者をなるべく出さないよう配慮した功績は大きく、一般兵士から絶大な支持を得ていたと言われている。
これほどの「英雄」が、なぜ古巣の海兵隊の実情を暴露しようと思うに至ったか。バトラー氏が、その実情を告発した1930年代は、世界恐慌下で深刻なデフレが発生していた時代であった。こうした中、ルーズベルト大統領は、積極的な財政出動によってニューディール政策を実施し、不況脱出を試みていた。ところが、こうしたケインズ主義的な積極財政政策を、当時の資本家たちは快く思わなかった。労働者の基本的な権利を保証し、公共事業で雇用を促進させ、失業救済のための社会保障を謳ったニューディール政策に反発を強めていったのである。
それを象徴するような事件が、1934年に起きた。ニューディール政策を快く思わない資本家らが、バトラー氏にルーズベルト大統領を打倒し、ファシスト政権を打ち立てようとの軍事クーデター計画を持ちかけたのである。実現していたら、世界史は塗り替えられていたに違いない。
このクーデター計画は、バトラー氏が加担せず、逆にこの計画について連邦下院の非米活動委員会で暴露したことで未遂に終わったが、驚くべきことは、この計画に関与していたのが、JPモルガン、デュポン、グッドイヤー・タイヤなど、現在も一流企業として広く名を知られている財閥の面々だったことである。彼らは、バトラー氏がクーデター計画を議会で暴露した後も、何のおとがめも受けなかった。
バトラー将軍の存在も、彼の告発も、幻のクーデター事件も、その後メディアはほとんど言及しようとせず、語り伝えられぬまま忘れ去られようとしている。だが、不況が抜き差しならなくなるほどに戦争の影が忍び寄ってくる事情や、巨大な資本と戦争屋が結びつく政治的・経済構造は、約80年の時を経た2010年代の現在においても、何ひとつ変わるところはない。むしろ、現代の方が、戦争への依存度は深刻さを増しているかもしれない。
例えば、2002年度の米国政府予算(Center for Defense Information)において、総額から国債関係費を除いた額のうち、軍事費が50.5%と、半分以上の割合を占めている。冷戦後、米国に戦いを挑もうなどという国家は他にひとつも存在しないのに、米国は超軍国主義国家の道を狂ったようにひた走っている。
バトラー氏の書いた「戦争はペテンだ」という忘れ去られたこの重要なパンフレットを読みたいと思い、探しているうちに、先にあげた吉田健正氏の『戦争はペテンだ―バトラー将軍にみる沖縄と日米地位協定』という本につきあたった。その第一章に、まるまるこのバトラー氏のパンフレットの全文翻訳が掲載されていたのである。
一読、非常に驚いた。戦争と巨大資本が手を握りあう関係について、バトラー氏の指摘ほど率直で核心をついているものはないだろう、と思った。多くの方にぜひ、読んでもらいたいと思い、訳者である吉田氏に連絡をとった。
吉田氏は、1941年沖縄生まれ、ミズーリ大学大学院(ジャーナリズム専攻)修了後、沖縄タイムス、AP通信、ニューズウィーク誌などの記者、カナダ大使館広報官を経て、1989年から桜美林大学国際学部で教鞭をとり、2006年に退職し、沖縄に戻られた。その後も国際ジャーナリストとして、米国政治・沖縄の問題を中心に執筆活動をされている。現在は病床に伏しておられるとのことだが、今回の転載について、著作権フリーで全文公開することを快く承諾してくださった。この場を借りて深く御礼申し上げたい。
また、吉田氏は前述の著書において、「軍事植民地」と化した沖縄の米軍基地における現実をつまびらかにしている。これは日米安保、地位協定、ひいてはオスプレイ問題にもかかわる問題であり、日米関係を改めて再考する足がかりとなるものである。あわせてお読みいただけたらと思う。( http://urx.nu/40gd)
以下、吉田健正氏の翻訳による、スメドリー・バトラー著「戦争はペテンだ」全文を掲載する。
本文における脚注の表記に際し、吉田氏が翻訳文の中に加えている注は、*印で表記し、我々が新たに加えた注は、(※注)で通し番号を添えて表記した。
ブランド ロレックス marc marc jacobs bag http://www.cdqic.com/