お久しぶりです。IWJ青森中継市民のしーずーこと外川鉄治です。
今回は「戦争」をテーマに、地元青森では過去にどんな戦争をしたのか、とりわけ青森空襲について、ご紹介したいと思います。このテーマは、2012年の「青森空襲展」をきっかけに、ずっと追いかけていました。
明治時代以降、大正時代・昭和初期から国策に翻弄されながらも時代を過ごしてきた青森県ですが、ひとつのテーマに絞りきれないほど、戦争の歴史も色々あることに驚いています。
下北半島の先端に位置する大間町では、函館を中心とした津軽海峡の防人として、津軽要塞(旧函館要塞)がありました。戦時中の重要な物資輸送のための「幻の大間鉄道」という、完成しなかった鉄道計画もありました。
終戦直後の1945年8月24日、この鉄道工事や炭鉱で働いていた朝鮮人強制労働者を朝鮮半島へ帰還させるために出港した船が、京都の舞鶴港で爆発し、沈められるという悲しい事件が起こりました。この「浮島丸」事件では、確認できただけで524人が日本人乗組員25人とともに犠牲になりました。
上北鉱山では、戦時中の捕虜に強制労働させていたりというような、戦時中の歴史が色濃く残っています。
青森空襲を記録する会『青森空襲体験者の証言シリーズ』について
次に紹介するのは、2013年10月から取材してきた、青森市にある「あおもりまちかど歴史の庵 奏海(かなみ)」の2階会議室で毎月28日に行われている、『青森空襲を記録する会』での青森空襲体験者の証言の記録です。
昨年10月、11月、今年1月、3月、4月、5月と、会は6回を数えます。12月と1月は、雪のために、ご高齢の方々が集まるのも容易ではないということでなくなり、6月には、証言者の方が急に体調が悪くなり、来られないこともありました。
空襲を経験し、いまも存命でいらっしゃる方々の平均年齢は75歳から80歳と高齢で、今や当時のことを知るのは困難になっているため、何かの形で記録に残せないものかと考えたところから、このシリーズを思い立ちました。
今後も、できる限り記録していきたいと思います。
青森空襲の特徴
青森空襲は、大きくわけて5つの特徴があるといわれている。
1. 青函連絡船攻撃(7月14・15日)
当時の津軽海峡は、北海道の炭鉱から石炭を本土に輸送する重要なエネルギー供給港だったために攻撃された。被害は連絡船と大型輸送船8隻(沈没)2隻(大破)2隻(航行不能)だった。人的被害は352名、函館を含めると全体で424名の犠牲者を出した。
▲青函連絡船への米軍艦載機攻撃
2. 硫黄島陥落後、硫黄島からの空襲としては、日本で最初で最後の青森空襲
青函連絡船の爆撃は、艦載機による爆撃だったが、1945年7月28日の空襲は、3月に陥落した硫黄島から飛び立ったB-29の爆撃だった。それまで、東京大空襲はじめ日本各地の空襲は、グアムからや艦載機による爆撃で、グアムを出発した戦闘機の本州最北到達地点は、岩手県一関付近だったという。B-29は、牡鹿半島から秋田県男鹿半島を経由し、62機(内1機は投下失敗)が青森市に爆撃を行なった。
▲B-29
3. 投下された新型M-74六角焼夷弾
青森市の空襲には、東京大空襲などで使用されたM-69焼夷弾に、威力を高めるために黄燐(白リン)を混ぜた焼夷弾が使われた。この空襲は、新型M-74焼夷弾の効果を試すために行われた実験であり、戦後、いち早く進駐軍による焼夷弾の威力調査が行われた。
▲(左)E-48焼夷収束団 (右)新型(黄リンで威力を増した)M-74六角焼夷弾
4. 空襲前日の深夜に6万枚のビラが撒かれていた
1945年7月27日の空襲前夜に6万枚のビラが撒かれていたが、憲兵隊や警察の手でビラは回収され、市民はビラの存在を封殺された。ビラの撒かれた場所では、憲兵隊の尋問などもあったという。
▲空襲前日の7月27日夜中に撒かれたビラ
5. 空襲当日が配給の日だった
1945年7月18日、青森県の金井元彦元県知事は、「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないという者があるそうだが、防空法によって処罰できるのであるから、断固たる措置をとる」と新聞に警告文を掲載した。「28日までに、青森市の家に帰らなければ、食料・物資の配給を停止する」とし、郊外や田舎に疎開していた市民は、配給のために、やむなく家に帰ることになった。
▲青森空襲を記録する会が収集した記録VTR
以上、注目する5つの点と、青森空襲体験者の証言を元に、69年前の1945年7月28日、青森空襲当日の夜に、青森市内で実際に起きたことをまとめてみました。
完全に再現することはできないのですが、これはフィクションではありません。今、ガザで実際に行われている、同じ「戦争」の話です。
そんな、青森市には今、ねぶたの音が響く平和があります。
【青森空襲】体験談から
1945年7月28日、その日は快晴だった。配給が行われるというので、疎開先から青森市内に帰ってきた妻と子供たち… 父は怒った…
なぜかと言えば、米軍の飛行機が前日27日の真夜中、青森市内に照明弾を落とし、6万枚のビラを撒いて警告したからだった。
当時の青森県・金井元彦知事は、7月14、15日の青函連絡船の空襲で、青森市民が疎開していたことに対して、「防空法により、処罰できるのであるから、断固たる処置をとることができる」として、青森市民に配給の7月28日(空襲当日)に家屋を守るため、市民を呼び寄せたのだった。
ビラが撒かれたことを知らない疎開していた人は、配給を受けるために市内に戻り、また、妻子を疎開させて、夫だけ家に残った家族は、奥さんと子供を呼び寄せた家もあったという。
シリーズ1で証言した富岡せつさんは、疎開先の西郡木造村(現在のつがる市)から配給のために、汽車でわざわざ青森市内に戻った。
その夜、疎開先に帰る汽車がなくなった富岡さんと子供は、ご飯のあと、空襲への備えをして就寝についたが、父の『起きろ!』の声で起こされ、身の周りのものだけを持って逃げた。
シリーズ4で証言した杉村憲子さんも、この日は親子3人「川の字」で眠りに着いた。
しかし、21時15分、空襲警戒警報が発令され、就寝していた杉村さん親子3人は、街の騒ぎに気が付く…。「空襲警報!」街に響くその声と共に、電気の覆いを隠し、近くの防空壕へと向かった。
防空壕は、小学校、お寺、民家にそれぞれあったが、どこの防空壕もいっぱいの人で入る隙がなかった。
東京大空襲などを体験した人々は、防空壕は必ずしも安全だとは限らないことを知っていた。
防空壕に残る人…郊外に逃げる人…川の橋げたの下に隠れる人…海や川、堰に隠れるなど、人々は散り散りに逃げた。
22時10分、空襲警報発令…
硫黄島を飛び立ったB-29戦闘機62機は、22時37分に青森市の「ヘソ」とも言える、柳町交差点を中心に、新型の焼夷弾M-74六角焼夷弾(黄燐で威力を増した焼夷弾)の入ったE-48収束弾(クラスター弾)を2186発投下し、焼夷弾8万3000個は、円を描くように青森市内外に降り注ぎ、青森市街地の90%を焼き尽くした。
ほかの地で、空襲を体験した人たちの警告で、「防空壕は危ない」と聞かされ、シリーズ3で証言した佐藤ちよさんは、郊外に逃げることにしたが、逃げる道筋を追いかけてくるように爆撃された。軍隊の馬らしき2頭が、火に向かって走って行くのが、今でも印象に残っていると証言している。
ようやく、郊外の親戚の家にたどり着いたが、その場所にはすでに人影はなく、もっと安全な山手に逃げていて、家には鍵がかかっていた。町内には防空壕があったので、そこで一夜を明かしたという。
市街地に残った人の証言では、空襲で燃えた火の勢いが凄まじかったことを物語っている。
「防空壕に入った人は、皆亡くなった」
証言者は口々に言った。
市街地に残った人で、奇跡的にも防空壕の中で助かった人がいる。
富岡せつさんは、防空壕の中には水があり、布団に水をかけて防空壕の出入り口に蓋をしたから助かったという。布団が焼け焦げないように必死で水をかけたと富岡さんは証言した。
沼に入って助かったシリーズ2の平泉喜久郎さんは、沼がお湯のように熱くなり、泳いでいた鯉はプカプカ浮いていたと証言している。
空襲による炎の勢いで上昇気流が発生し、雨が降った。
炎は縦に登るだけではなく、竜巻のように横に火が走っていたと、奇跡的に生き残った人が証言した。
空襲による大火の中で、青森市民は逃げ惑っていた…
その最中、杉村憲子さんの証言によれば、憲兵隊や警察は、防火訓練のように「市街地の火を消せ!」と、長剣を振り回し、逃げる市民を燃えゆく街に強制的に威嚇して追い込んだという。犠牲者は、1018名までにおよんだ。
22時37分に焼夷弾が投下され、23時48分(その間1時間11分)までの間に、青森市街地をほとんど焼き尽くしたB-29は、62機のうち61機が任務を完了してテニアン島に帰った。
翌日の29日、日が昇った後で、その空襲の全容が明らかになる…
日が差して明るくなり、田んぼのあぜ道を通って郊外へ、次々と罹災者が逃げてきた…
杉村さんの親戚は、農家で米がいっぱいあったため、鍋の蓋におにぎりを用意し、街から逃げてきた罹災者に食べさせたという。
シリーズ5の松谷きみえさんの父は、28日の配給で、飯を炊いておはちに入れて逃げたが、鍋底が抜けてしまったため、食べられたのはほんの少しだった。
家がどうなったかを確かめに行った人は、どこが家だったかわからないくらいだったという。ただ、鉄筋コンクリートで造られたお寺は焼け残り、味噌を塗った蔵も焼け残っていた。
▲焼け残った蓮華寺
足元には、「焼けて亡くなった人の髪の毛が玉になり、風で飛んでいた」と杉村憲子さんは語っている。
空襲直後、そのまま開けた蔵が爆発したところもあった。蔵は熱により、爆発したのだという。屋根に布団を敷いてゆっくり水をかけて冷やした蔵などはそのまま残ったという話もある。
防空壕に逃げた人は、ほぼ全滅で、橋の下に隠れた人は助かったとの話があった。
皮肉にも、安全だとされていた防空壕にいた母と子が亡くなり、防空壕に入りきれなかったお婆ちゃんが橋の下で助かったなど、当時の防火・防空体制が、いかに甘かったかが浮き彫りになる。
シリーズ2の平泉喜久郎さんと、シリーズ6の茂木ナツエさんの証言では、缶詰倉庫のひとつが燃え、もう一方の倉庫から熱で、缶詰が音を立てて飛んでいた。食べ物に困った市民は、缶詰工場・倉庫から飛び出た缶詰を拾って食い繋ぎ、子供は飴工場の砂糖が融けたのを拾って食べたという。
▲空襲後の青森市内
終戦直後、イワシが大漁で、毎日バケツを持って買いに行っていたことで救われたという佐藤ちよさんの証言もあった。
69年前の空襲の記憶が風化する中、第一次世界大戦開戦から、2014年7月28日で100年を迎える。
来年は70年目を迎えるが、ここで、戦争とは何か考えるとともに、永遠に戦争のない世界にするために、どうしていくべきかを考えながら、青森空襲での戦没者に黙祷を捧げたいと思います。
追記 現実味を帯びる徴兵制への懸念
青森空襲後から8月15日の終戦の日までの間、グラマン機銃や爆弾による攻撃は2度あったという。動くものは何でも攻撃するグラマン機銃の恐ろしさは、当時を知る人の証言で明らかになっている。
佐藤ちよさんは、生まれたばかりの子供がいる家の洗濯物で、オムツが風に揺れているだけでも集中攻撃を受けたと語る。友達の頭に機銃の弾が命中し、頭部半分が失われたという平泉喜久郎さんの証言もある。
飛行機のパイロットが見えるくらいの低空で飛んできて、攻撃後に笑っていたのが見えたと、平泉さんは目を細めて言った。
当時の米国司令官が終戦直前に代わり、日本国民の家は軍事工場だとして、これまでの軍事工場だけを狙った攻撃から、意識の転換が米国軍に起こり、無差別的な攻撃がなされたとの話もあった。
「青森空襲を記録する会」の今村修会長は、当時の日本の判断の誤りを、次のように語った。
『ポツダム宣言は、7月26日に降伏勧告がトルーマン・チャーチル、蒋介石の名前で連合軍から出されたが、青森空襲当時の7月28日に、日本政府・軍はこれを「黙殺」し、連合軍は事実上拒否されたと受け取った。
その日に青森は空襲され、焼けてしまった。
青森空襲後の2週間後にポツダム宣言の受託をするのであれば、最初から受託しておけば、このようなことが起きずに、広島・長崎も原爆を投下されず、中国大陸残留孤児の問題も、北方領土の問題も起きなかったはずだ』
いま、現実にパレスチナのガサ地区、ウクライナ、イラクやシリア、アフリカでは同じことが繰り返されている。
戦争で亡くなられた方々は然ることながら、戦争で両親を失った子供が孤児になったり、身寄りのない人々のその後の苦労や暮らしが、どんなに大変なことなのか、想像を絶する。
集団的自衛権行使容認の閣議決定後、戦後の日本ではあまり聞かなくなった、「徴用」という言葉が新聞でも取り上げられるようになった。尖閣諸島を含めた南西諸島での有事の際に、民間の大型フェリーを「徴用」し、船員を予備自衛官にするとの報道もなされている。
まさに、69年前に爆撃にあった青函連絡船と同じ、青函航路のために造船された、「ナッチャンworld」が「徴用」されるという。(参照:毎日新聞 2014年8月3日 <民間船>有事の隊員輸送 船員を予備自衛官として戦地に)
徴兵の危機感と同様に、徴用の危機感までも感じられるようになった。
青森が受けたような、そして今パレスチナが受けているような悲劇を繰り返さないために、戦争を体験した方々から、我々戦争を知らない世代が耳を傾け、後世に語り継ぐことが求められている。
貴重な体験を記事にして下さりありがとうございます。
自分が住んでいる場所以外の空襲についてはほとんど知らない、という人が多いのではないでしょうか。
特に大きな都市や、広島・長崎・沖縄以外については、そこに住んでいる人にしか受け継がれないと思います。
日本各地で空襲があり、それがどんなものだったのかを、体験した方が語ってくれる機会はとても貴重です。
もっとこの体験を、多くの人が自分のこととして、そして現在も同じような目にあっている人々が世界中にいる、ということを知って欲しいと思います。
悲劇を繰り返さないために、戦争を体験した方々から、我々戦争を知らない世代が耳を傾け、後世に語り継ぐことが求められている。
日本はあの大戦から一貫して、国民の命を犠牲にする事を何とも思わない国なのだな…
これは大変な話ですね。
こんな青森に生まれたことに運命を感じます。