大阪市西成区学校教育フォーラム 2012.4.15
2012年4月15日(日)、大阪市西成区役所で「大阪市西成区学校教育フォーラム」が行われた。これは、橋下徹大阪市長が進める小中学校の学校選択制の是非や、また中学校給食の導入において、全員喫食か、家庭弁当との選択制とするかについて、区民らの意見を集める意見交換会で、4月から5月にかけて、市内各区で順次実施されている。
2012年4月15日(日)、大阪市西成区役所で「大阪市西成区学校教育フォーラム」が行われた。これは、橋下徹大阪市長が進める小中学校の学校選択制の是非や、また中学校給食の導入において、全員喫食か、家庭弁当との選択制とするかについて、区民らの意見を集める意見交換会で、4月から5月にかけて、市内各区で順次実施されている。
2012年4月15日(日)、東京都千代田区の東京しごとセンターで行われた、「わたり土湯ぽかぽかプロジェクト報告会」の模様。
2012年4月15日(日)、愛媛県松山市の愛媛県美術館講堂で行われた、「伊方原発の再稼働に反対する 中国・四国・九州緊急合同集会」の模様。
2012年4月14日(土)、「大飯原発再稼働に対する福井県庁前抗議集会」が行われた。
2012年4月14日(土)、福井県福井市の自治会館で「民主党福井県総支部連合会」が行われた。会合には、仙谷由人政策調査会長代行が出席し、大飯原発の周辺に位置する自治体の地元議員に対し、原発再稼働の説明を行った。
2012年4月14日(土)、東京都新宿区の大久保公園で行われた、「げんぱつ?YES/NO パレード」の模様。
2012年4月14日(土)、東京都国分寺市の国分寺労政会館で行われた、連続講座「原発に頼らない電力の仕組み」No.3・千葉恒久氏講演会「ドイツにおけるエネルギー政策の大転換」の模様。
2012年4月14日(土)、東京都渋谷区の宮下公園で行われた、「大飯原発再稼働NO! 緊急集会&デモ」の模様。
2012年4月14日(土)、兵庫県西宮市の甲東ホールでパネルディスカッション「地震・津波そして原発事故 ―被災地の今と明日―」が行われた。
2012年4月14日(土)、東京電力本社で、記者会見が行われた。
停止していた4号機使用済み燃料プール代替冷却システムは、昨日システム再起動し、現在も起動中。昨日深夜窒素ガス分離装置Bが停止したが、朝方に再起動し窒素ガス封入を開始している。
2012年4月14日(土)、東京都千代田区の岩波書店アネックスビルで「NPJ編集長 日隅一雄弁護士 連続対談企画 第5回特別企画 バトルロワイアル『原発とメディア』」が行われた。
2012年4月13日(金)、東京都千代田区の首相官邸前で「4.13 原発再稼働許すな!首相官邸前&関電本社前抗議」が行われた。この抗議行動は、「Twit No Nukes」が呼びかけ、「首都圏反原発連合有志」の主催で、4閣僚会合の実施に合わせて行われている。
2012年04月13日(金)、東京電力本店で、記者会見が行われた。
昨日実施した4号機のプール、原子炉ウェルの水面と5階フロアの床面のの測定の状況を説明、本日3号機使用済み燃料プールに水中カメラを下ろして内部の様子確認、すると発表した。
2012年4月13日(金)、東京都千代田区の衆議院第一議員会館で「第32回 TPPを慎重に考える会 勉強会」が行われた。
2012年4月13日(金)、北海道札幌市内で「反原発ラディカルデモンストレーションNO NUKE YES RIOT!」が行われた。
2012年4月13日(金)9時30分過ぎから、東京都千代田区の中央合同庁舎4号館で「細野豪志環境・原発担当大臣 定例会見」が行われた。この日は、北朝鮮のロケット発射に関する速報が舞い込み、会見は当初9時5分開始の予定だったが、閣議が長引いたため、約30分遅れての開始となった。
2012年04月13日(金)、東京電力本店で、臨時記者会見(11:00~、0:16′)が行われた。
東京電力は昨夜未明、福島第1原発1〜3号機の窒素ガス封入量が低下したことをうけ、一時ガスの封入を停止したことを明らかにした。東電によると、封入量の低下原因は圧縮機故障によるもので、午前3時46分に窒素封入を再開した。今回のトラブルによる汚染水処理装置への影響はないとしている。
2012年4月12日(木)、「井野博満氏北海道原子力安全対策課へレクチャー」の模様。
2012年4月12日(木)、肥田舜太郎氏宅で行われた、肥田舜太郎氏インタビューの模様。
IWJが肥田舜太郎氏にインタビューをするのは今回で2回目。以前インタビューを行ったのは、東日本大震災が起こった後の2011年10月6日である。肥田氏は原爆が投下された広島市で献身的に治療、診察を行なってきた人物である。目に見える外傷を負うような直接的な被害こそ受けなかったが、被曝を自ら経験し、あの瞬間を生きた肥田氏の言葉は重かった。