【岩上安身のツイ録】心臓発作に見舞われて3.11に思うこと~セットで語られるべき「原発×戦争」リスク、3.11原発事故と3.10東京大空襲 2015.3.12

記事公開日:2015.3.12 テキスト
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★3月12日、2013年10月に行われた「『破局しかない』“属国”日本の戦略なき軍事国家化をめぐって ~岩上安身による軍事評論家・前田哲男氏インタビュー」を会員限定配信いたしましたす!!ご視聴、ありがとうございました。
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 東日本大震災の発災からまる4年。もう4年も経ってしまったか、と思う気持ちと、この間、とても消化しきれない、あれほどたくさんの出来事が起こってきたのに、まだ4年しか経っていないの?と驚く気持ちとが、同時に湧き起こり、交錯する。具体的に語り出すと時間がいくらあっても足りなくなる。

 日中にブラックアウトしかけて、しばらく安静にしていた身だから、多言を費やすことはここでは控えようと思う。多くの方が僕の過労を心配されている。また、取材の過程で被曝したことが影響しているのではと懸念する声も聞こえてくる。

 放射能の影響については、正直、なんとも言えない。2012年に体調を崩した時は、福一入構取材直後だったから、そのことと体調の悪化との間に因果関係があるのではと、仮定することはできたが、今回は、そんな出来事はない。蓄積しているのでは、と言われれば、そうかもしれないが、測定や検査の方法があるわけではない。死んだら、解剖していただくのはやぶさかではないが、バンダジェフスキーのように、あとから手続きに不備があるだのなんだのと言われないように万全を期してもらいたい。本当に心筋にセシウムが付着するのか。それがどんな影響をおよぼすのか。

 いずれにしても、今、生きている僕の心臓から心筋を切り取ってスライスして顕微鏡で覗くというわけにはいかないので、これは現時点では不確定としか、言えない。患者当事者とすれば、原因の特定よりも救命救急を先行してもらいたい。動脈が詰まっている、というならステントを入れるしかない。

 詰まっていないが、痙攣は間違いなく起こしていた、と言うなら、痙攣を止める手だてと、今度、同様の発作が起きた時、生き残れる確率を高める手だてを先に考えなくてはならない。完璧な環境のもとで、完璧な生活を実現できたらどんなにか素晴らしいだろう。

 だが、世のほとんどの人がそうであるように、僕もまた、完璧な世界に生きてはいないし、完璧な生活や人生を実現するには程遠い。心臓に悪さするリスクはすべて遠のけたい、と思っても、現実にそんなことはほとんど不可能である。

 心臓の冠動脈の痙攣の原因として、過労だ、ストレス過多だと言われれば、それは間違いない、と自分も周囲も思いあたる。合点がゆく。そもそもずっと高血圧で、降圧剤を服用していた。3.11の前からである。働きすぎで、慢性の睡眠不足で、睡眠障害も持病である。

 2010年にIWJを立ち上げて、忙しさは加速し始めてきたが、2011年に3.11を迎えて、忙しさは爆発的なものとなった。以来、休みなく走り続けてきて、何度か倒れて、また起き上がって走って、とうとうここに至っている。岩上が過労のはずはない、という人はまずいない。

 要するに、交感神経優位がずっと続いてきた、張り詰めた緊張を解くことがないまま、走り続けてきてしまった、ということだ。だから、過労やストレスは明らかなので、それを取り除くのが第一だ、という話に当然なる。

 僕も休んだ。休まざるを得なかった。休んでいるそばから異変がまた起きた。そんなことが起きると、血圧だけでなく、気持ちも激しく上下動する。弱気にもなる。帯広でも東京でもICUの天井を見上げた。同じようなレイアウトの照明、そしてモニタリングのカメラ、心電図のピッチ音。

 そんな間にもIWJのことが心配で頭を離れない。自分が動けない間の指示を頭の中でまとめていたり、原稿のことを考えていたりする。死ぬまでジャーナリストでいたいな、と思った。死ぬ間際まで、原稿の手直しをするとか、両手に針を刺されて管に繋がれて動かせなかったら、口述筆記でも、してもらいたいな、などと本気で思った。また、そう思うと、少し怖さも薄れた。

 倒れてから16日間のことは、また詳しく書くとして、思ったことは、人生の後半に差し掛かって重い病いにかかった人の苦しさと、福島の人の苦しさだった。本当に苦しいだろうなぁ、辛いだろうなぁと、つくづくと思った。

 ウクライナの報告を見ても、ベラルーシの報告を見ても、甲状腺がんだけが増えているわけではなく、あらゆる疾患が増えている。被曝するとは、全身の体細胞の老化が加速することなのだ、と言われる。増えるのは特定の疾患だけではない。まずは体の不調、ぶらぶら病のような形で現れる。

 だが、そうした漠然とした体調不良は理解されない。気のせいだ、気の持ちようだ、とも言われるだろうし、自分自身でもそう言い聞かせてしまうだろう。何かの疾患が現れても、それはそういう年齢だから、と言われるだろうし、自分でもそう言い聞かせてしまう。

 ましてやもともと持病がある人は抗弁のしようがない。福島の浜通りの人たちは、地震と津波と原発の爆発の3連打に見舞われて、命からがら避難を繰り広げたのだ。持病を持つ年配の人なら、血圧が上がり、病状が悪化しても少しもおかしくない。おかしくないからと言って、放射能の影響はなかった、という話で片づけられてすむのか否か。社会的には片づけられてしまっても、一人一人の心の中にはずっとわだかまりや、釈然としない気持ちが残るだろう。自分で自分にいくら言い聞かせても、ぐずぐずとしたものが澱のように残るはずだ。

 僕は、福島から離れた東京から、わざわざ自らの意志で取材に向かった。一定の被曝は覚悟の上であり、ある意味では「自己責任」である。だが、福島に住んでいただけで、被曝してしまった人に、いったい何の責任があるのか。

 3.11以降、これから先も、体調の不良や病気の兆候や悪化のたび、放射能という三文字が脳裏をかすめるに違いない。そして多くの場合、被曝との関連性を訴えてもメリットはなく、不安やわだかまりを自分の胸に沈めようとするのではないか。

 福島の人々の場合、自分の選択で被爆したわけではないから、本当に理不尽であり、おつらいだろうと思う。我が身に、死が迫るという体験をして、あらためて、本当に苦しい思いをされている人がたくさんいるだろうなぁと、別の意味で胸が痛む(リアルに心臓が痛み、胸痛があったので)。

 3.11を忘れない、どころではない。3.11のカタストロフィは今も様々な意味で続いている。政府がとことんの嘘つきである、ということが、嫌というほど思い知らされて、別の意味で心が痛んだ人も多いに違いない。

 あれほどの惨事が起きたにも関わらず、福一も収束していないにも関わらず、原発を再稼働し、原発維持政策を継続してゆくという。腹の中にあるのは、核武装の潜在能力の確保である。なんという荒唐無稽か。

 チェルノブイリ事故は2度、同様の事故は起きないかもしれない。ヒューマンエラーによって引き起こされたものであり、防ぐ手だてがありうるからである。しかし、地震と津波によって引き起こされた福一の事故の二の舞は、絶対にないと断言はできない。

 巨大な地震や津波に、定期的に襲われるというのは、この国の国土の避け難い条件であり、変更は不能なのである。そして大量の水を用いる原発は、海岸沿いに建てる他はない、ということも早々変わらない。

 この地震・津波リスクと、もうひとつ直視すべきは戦争リスクである。海岸線にずらりと核施設を並べて、戦争になれば格好の標的となる。戦争と原発、この二つを同時に、同じ平面上で並べて語る人が本当にまだまだ少ない。

 だいぶくたびれてきた。長くツィートの連投をするのは、あまりよろしくない。3.11から四年目の今日、どうしても言っておきたいことを急ごう。3.11を忘れないのは当たり前のことだ。天災の恐ろしさも、福一のような事故が再び起こる可能性があることも、忘れないことだ。

 だが、本当に忘れてはならないこと、いや、ろくろく気がついてもいないから、気づかなくてはいけないことは、戦争リスクである。空襲リスクと言ってもいい。そうした意味で、3.11は、その前日の3.10とセットで記憶されていくべきだろうと思う。

 今から70年前、1945年3月10日の東京大空襲で、一夜にして10万人以上が殺され、100万人以上が焼け出された。史上最大規模の無差別爆撃である。広島・長崎への原爆投下と並んで、日本全国の都市部に加えられた無差別爆撃は、一般市民を殺戮するジェノサイド以外の何物でもない

 僕の父も母も叔父も叔母も親戚の年長者はみんな東京で空襲に直撃された。物心つくかつかないかの頃から、戦争といえば、この空襲の話だった。戦争=空襲という理解は、しかしそうずれてはいない。第二次大戦から空を制するものが戦さを制するようになり、同時に殺戮が無差別化した。

 現代戦は当然、空爆に始まる。となれば、空から海岸沿いの原発を眺める視点が必要だ。守れるのか? 答えは小学生でもわかる。NOだ。ミサイルでも、戦略空爆機での空爆でも、艦砲射撃でもなんでもいい。あたり一帯に絨毯爆撃を行えば、建屋に命中しなくても停電にはなる。ジ・エンドだ。

 戦争となって、海軍と海軍だけが、遠く南の海で決闘するように会戦を行い、自分たちは銃後で高みの見物が可能と思うのは、絶望的なまでに無邪気に過ぎる。現代戦は、戦場と銃後の区別なく、まず頭上から爆弾やミサイルが降り注ぐことを意味する。我々の頭の上にも、原発の頭の上にも。

 日本海側沿いにずらり原発を建ててきたのは、それこそ「平和ボケ」の象徴だろう。皮肉を込めて言うのだが、原発は文字通り「核の平和利用」だった。平和でなければ建設不可能だったはずだ。

 平和憲法下で、平和であることをいいことに、原発という危険な代物を建ててきた自民党が、今度は「戦後レジームからの脱却」などと抜かして、憲法の平和主義を骨抜きにしている。原発と米軍基地はそのままで、戦争を始める準備に大忙しだ。

 安倍政権の熱心な支持者らは、「平和ボケ」という言葉が、自分たちのためにある言葉だということをかみしめてみるべきだ。人生の大半をぬくぬくと平和の温もりの中で過ごしながら、戦争を待望し、原発の維持を支持し、虚勢のみを張る。

 戦争に備えるというなら、せめて原発を撤去してからにすべきだろう。戦争は社会の外で起きるのではない。社会のただ中に出現するのだ。海の波間の無人島で起こるのではない。我々の頭上から、襲いかかってくるのである。3.10と3.11、無差別爆撃と原発はセットで記憶すべきだ。

 3.10の記憶を蘇らせ、広島・長崎への原爆投下、そして日本中の他の都市への空襲・空爆とともに語るとき、そこでは、我々は一方的な被害者の立場に立つ。米軍の行った無慈悲な無差別爆撃による大量虐殺は、人道犯罪、戦争犯罪ではないか、と。その通りだ。

 我々が被害者であり、米軍の犯罪を告発しようと思うなら、我々は日本軍の無差別爆撃をも、同時に告発しなくてはならない。記憶すべきは、一日ではない。1938年12月4日から1943年8月23日まで、4年8ヶ月あまりにわたって、日本軍は当時の中国政府の首都・重慶を爆撃した。

 その爆撃回数は、なんと218回にもおよぶ。重慶爆撃に先立っては、その前の首都・南京への戦略爆撃も行われた。日本軍は米軍に先立って非人道的な無差別戦略爆撃を実践した軍隊だったのだ。そのことを、我々はゆめゆめ忘れてはならないと思う。(岩上安身)

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 岩上安身が2013年10月4日にインタビューした軍事評論家・前田哲男氏は1988年の著書『戦略爆撃の思想―ゲルニカ‐重慶‐広島への軌跡』で、日本軍による無差別絨毯爆撃「重慶爆撃」に注目。その実態を詳しく調査・分析して論じている。この日本軍による無差別爆撃によって重慶の街、一般市民がどういう被害をうけたのか。そして、その歴史的な位置づけは——。前田氏はインタビューで「重慶爆撃の手法は、アメリカが学び取り、日本に対し、都市爆撃、原爆爆撃によって成功したという言い方もできる」と語った。

 再び、軍事国家化の轍を踏もうとしている安倍政権。本日(3月12日)17時より、この前田哲男氏へのインタビューを【会員限定配信】する。ぜひご覧いただき、戦争の過去と未来を見据える視座を共有していただきたい。

■イントロ動画

【前田哲男氏インタビューの記事はこちら】

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「【岩上安身のツイ録】心臓発作に見舞われて3.11に思うこと~セットで語られるべき「原発×戦争」リスク、3.11原発事故と3.10東京大空襲」への1件のフィードバック

  1. 3・10と3・11の復興の違い より:

    前田さんのお話は、以前に拝聴しましたし、『戦略爆撃の思想』は一読して衝撃を受けたものです。
    このたび、あらためて「ツイ録」を拝読しました。3・10と3・11は、同じく記憶されるべきであるという記事を読み、3・11のあと、東京が焼け野原になった記憶をもつ人たちから、被災地をみて、まさにそっくりというような発言をされていたことを思い出します。おそらく、そのとおりだと思います。ただ、とっても残念なことに、復興の仕方が異なります。東京が、大阪が、日本各地が復興していった推移と、東北、とくに福島が復興していく推移はかなり異なっています。経済でも人の動きにおいても。また、広島、長崎にもそれぞれの復興がありました(「復興」と呼ぶかどうかはともかく)。重慶爆撃には、海軍の井上成美が起案者の一人でした。彼が中国でどのように言われているかは、東京大空襲の作戦指揮者の海将ルメイが、戦災当事者にどのように言われているかを聴くことで少し想像がつきます。
    日中戦争から終戦まで、海軍は世界初の軍事作戦を発案しています。飛行機による海洋船攻撃、航空母艦による空襲、戦艦による地上艦砲射撃、敵地上陸作戦です。敗戦が近くなると「合理的な作戦」ではなくなっていきましたが。合理的な作戦はただちにアメリカ軍にただちに採用され、当時の最新技術と大量生産された兵器をもって、日本に報復攻撃となってふりかっったのでした。自分や家族の生命や生活がおびやかされて、初めて戦争は「おろかなこと、恐ろしいこと」と思った人も日本に少なくないと思います。日本は、「神国」ではなかった、のです。「騙された」という人がいたのも無理はありません。それと比べて、私たちには、戦争の教訓や遺訓と平和70年に培った英知と遺訓があります。政治生命をかけて、職業生命を命がけで平和をまもった人もいます。戦争や被災は問題をたくさんたくさん私たちに課します。それは、一世代で解決できない問題もまた、たくさんあります。人間の限界というのでしょうか。記憶が薄れ、語り継げないこともあるなかで、現代史を語り、論じ、歴史事実を検証し続けることが必要であると思います。今後も現れるであろう「歴史修正主義」という厄介な事象に抗していくために。

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