【安保法制反対 特別寄稿 Vol.291~Vol.300】「戦争と平和と経済」「言葉を愚弄する者は、民主主義を愚弄する者である」「誇るべき日本の立憲主義ブランド」「外国語教育からみた安保法制論議の落とし穴」

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【安保法制反対 特別寄稿 Vol.291~Vol.300】

Vol.291 戦争と平和と経済 ―2015年の「日本」を考える― 東京大学教授・小野塚知二さん

はじめに

 2010年代に入って日本は大きな曲がり角を迎えていますが、それは大多数の国民にとって、またアジアの人々にとっても、とうてい望ましいこととは考えられません。一方では、武器輸出三原則の改定(2011年、2014年)、特定秘密保護法(2013年)、そして「安全保障」法案(2015)と、戦争と軍事化への道を着実に歩み、他方では、鳴り物入りで喧伝された「アベノミクス」(2012年)の破綻は明瞭で、日本は経済的にはバブル破綻以後の「失われた20年」が相変わらず継続しています。では、これら二つのこと、つまり戦争と軍事化への道と経済の不調の間には、どのような関係があるのでしょうか。

 日本はいまどこに向かおうとしているのか、また、どこに向かうべきなのかを考えてみましょう。

Ⅰ 「集団的自衛権」はなぜ権利なのか、誰のいかなる権利なのか

1.集団的自衛権という問題設定
 「集団的自衛権」の行使が憲法上認められるか否かという問題設定は、もちろんありえます。むろん、周知の通り、それが合憲であるという議論はいかにも無理筋です。安保法案を強引に成立させるなら、法案の内容が違憲である(憲法を壊してしまう)だけでなく、国民の大多数が反対し懸念を表明していることについて、議会での多数を濫用してそうしたことがらを強行するなら、立憲主義を破壊することにもつながり、こうした二重の意味で、現在、安倍政権が必死で推進しようとしている安保法案は「壊憲」といわざるをえません。

 憲法には「自衛権」という概念は明示的には存在しません。では、今回の「集団的自衛権」というのはどこから出てきた概念なのでしょうか。

2.国連憲章と「集団的自衛権」
 「集団的自衛権」という概念は国連憲章に起源があります。しかし、国連憲章の中ではいささか居心地の悪い概念なのです。憲章前文には以下のように書かれています。

 われら連合国の人民は、[中略]一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いない[ことを原則として、]すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いる。

 つまり安全保障は国連によって集団的に確保し、安全保障のための武力行使の主体は国連であるというのが、国連憲章の本来の考え方だったのです。こうした国連憲章の基本原則は、国際連盟の時代(1919-1945年)に、集団安全保障・平和維持義務・戦争禁止規定にもかかわらず、国際連盟には規制力・強制力が弱く、結局、個別的・集団的自衛権の跳梁跋扈を許してしまい、第二次世界大戦にいたったという苦い反省を踏まえた上での熟慮にもとづいて立てられたものです。

 この国連憲章の草案は、1944年8月から10月にかけて米国ワシントン郊外のダンバートン・オークスに米・ソ・英・中の代表が集って作成されたものです。第二次世界大戦という未曾有の危機のさなかにこれら四国の代表たちの間では、国連による集団安全保障が原則と考えられていたということは、あらためて記憶されてよいことでしょう。そこには、個別的であれ集団的であれ、各国人民の「自衛権」という概念は現れていなかったのです。

 ところが、1945年4月末から6月末にかけて連合国約五十ヶ国の代表がサンフランシスコに、国連設立と戦後処理の方針を討議するために集まった際に、国連中心の集団安全保障の原則に、修正意見が表明されました。

 このサンフランシスコ会議が始まってまもなく、5月8日にはドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争状態は5月上旬には終了しますので、この会議に集った連合国代表が共有していた最後の脅威が、日本の軍国主義であったということもあらためて記憶されてよいことです。ダンバートン・オークスで策定された憲章草案への異論はまず、オーストラリアとニュージーランドという、日本軍国主義の脅威に実際に曝されていた国から出されたのでした。日本の軍国主義が現に暴威を示している状況で、各国人民の自衛権が承認されないのならば、国連が設立されるまでの間、また設立後も、国連による集団安全保障が実際に機能するまでの間、誰が自分たちを守ってくれるのかと問い、各国人民の自衛権を原則として承認すべきことを要求したのです。この両国の修正提案はサンフランシスコ会議参加国の過半数の支持は得ましたが、三分の二に満たなかったため否決されます。

 しかし、周辺の強国の軍事的脅威からいかにして自己を守ればよいのかという問題提起は、小国にとっては死活問題でもあったため、中米諸国から、国連の集団安全保障(国連による武力行使)を原則とはするが、それが実際に発動されるまでの間は、個別的又は集団的自衛を各国人民の固有の権利として承認すべきではないかとの妥協的修正案が出され、これは採択されて、国連憲章第51条[自衛権]に盛り込まれることになります。以下の通りです。

 国連憲章第51条[自衛権]「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

 しかし、これは読んですぐにわかるように、各国民の個別的/集団的自衛権よりも国連の平和維持の機能の方を優越・優先させる規定です。個別的であれ集団的であれ自衛権は、国連憲章の中では、例外的、一時的、補足的な位置付けを与えられているにすぎません。

3.憲法と国連憲章の関係
 日本国憲法は、こうした国連憲章が確定し、国際連合が実際に設立されたあと(1946年11月)に、それらを前提にして作られたものです。それゆえに憲法第9条は以下のように明瞭に、戦争も、武力行使も、戦力も、そして交戦権も否定したのです。

 日本国憲法第9条[戦争の放棄]「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。/第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 つまり、それは国連憲章を前提にして、かつての軍国主義的であった自己への反省を日本が表明したということにほかならないのです。国連憲章の精神にしたがい、戦争・武力・戦力・交戦権を放棄したと明瞭に宣言していますから、素直に読むなら、個別的自衛権も否定しているということにならざるをえないでしょう。しかし、その後、日本の再軍備の過程で、憲法は個別的自衛権までは否定していないという解釈が生み出されますが、集団的自衛権の行使は認められないという点については、歴代の内閣、法制局、そして最高裁の一致した見解として維持されてきました。「集団的自衛権は、国連憲章にも明記された各国の固有の権利なのだから、日本国も当然有している」という説がありますが、これは、日本国憲法と国連憲章との関係を理解しない ―あるいは意図的に無視した― 妄論というほかありません。

 もう一つ、ここで再確認しなければならないのは、日米安保条約と砂川判決の意味です。日米安保条約で、アメリカは日本を防衛する義務を負い、その代わりに、日本から基地その他の便宜を提供される権利を獲得しました。日本はそれに対して、アメリカに基地と便宜を提供する義務を負い、アメリカに防衛を要求する権利を得たのです。つまり、ここでは日米の権利義務関係は非対称で、日本側にはアメリカを防衛する義務は規定されていません。砂川判決も、こうした日米安保条約の枠組みの上になされたものであって、それは決して、日本の集団的自衛権の根拠にはなりえません。また、日米安保条約においても、国連憲章との整合性が明示されているということは、あらためて記憶されるべきでしょう。

 明文の憲法改正(第9条の改正)はとても無理そうだから、安保法案で第9条に風穴を開けようというのが安倍政権の姑息な目論見ですが、その論拠に引き出された砂川判決が日本の「集団的自衛権」の行使を容認しているなどという解釈はとうてい成り立つものではないことは明らかです。

 しかも、当の同盟国アメリカにおいては、現在にいたるまで、日米安保条約とは日本が独自に軍事大国になることを未然に防止する「瓶の蓋」のようなものだという認識が支配的です。つまり、アメリカはいまでも、サンフランシスコ会議の時の雰囲気を忘れていないのです。したがって、安保法案の成立を安倍首相はアメリカで約束してきましたが、アメリカ側から見るなら、日本の安全保障関連諸法によって、日本の「集団的自衛権」が成立したとしても、それはあくまでもアメリカの完全なコントロールの下に収まるべきものであって、日本が対等の同盟国としてアメリカと軍事同盟を結ぶということは、先方は些かも考えいないのです。

4.「集団的自衛権」という権利
 以上見てきたように、「集団的自衛権」という概念は、確かに国連憲章の中に存在しますが、それは国連憲章の中では、鬼っ子のような、例外的権利ですし、それを前提にしてできた日本国憲法も、また日米安保条約も、日本が「集団的自衛権」を行使することを承認していないのは明瞭です。

 しかも、国連憲章の基本理念からいっても、憲法論からいっても、「集団的自衛権」とは人民(people)ないしは国民(nation)の権利であって、国家[機関](元首、政府、軍隊)の権利では断じてありません。国民の大多数が反対し、懸念を表明しているのに、政府がごり押しできる国家の固有の「権利」などではないのです。主権在民を明示的に規定する日本国憲法はそのような「国権」は一切認めていません。

 「集団的自衛権」という問題設定の危うさは以上の点からも明らかですが、さらに、次のようなことを考えるなら、それがとうてい容認すべきことでないのは明らかです。

Ⅱ 「集団的自衛権」とは軍事同盟を意味する

1.国連以前の「集団的自衛権」=「軍事同盟」
 国連憲章以前に「集団的自衛権」という概念は世界の憲法学説に存在していませんでした。いま「集団的自衛権」と言われていることは、国連憲章以前には端的に「軍事同盟」と呼ばれていましたた。A国はB国の危難の ―たとえば第三国から侵略された― 際にはB国を防衛する義務を負う代わりに、自国の危難の際はB国に相互防衛を求める権利を与え、B国にも同様の権利義務を発生させるのが、軍事同盟の基本的な姿です。

2.「集団的自衛権」論の落とし穴:義務を欠いた権利だけの物語
 以上見てきたように、「集団的自衛権=軍事同盟」とは権利だけでは成立しません。契約関係も条約も同盟もすべて、権利と義務との関係で成立しており、権利だけの「集団的自衛権」などありえません。「集団的自衛権」とは、相互防衛義務(国民が相手国を防衛し、相手国の戦争に巻き込まれる義務)と表裏一体の関係にあってはじめて成立するものなのです。

 もし、相手に防衛を求める権利だけがあって、相手を防衛する戦争に巻き込まれる義務がないのだとするなら、それは、自我に目覚めた小学生か中学生が、「私のことはほっといて」と主張しながら、いざとなると親を頼るような、子どもじみた発想ということにならざるをえません。日本は、それほどに未熟な国ではないし、またそうした発想で物事を決めるような民主主義の成熟していない社会でもありません。「集団的自衛権=軍事同盟」とは、国民(憲法の主権者であるnation)が、相手国の防衛に義務を負うということを明晰に認識しなければなりません。

 「集団的自衛権を実際に行使するか否かは、個々の事態に即して、日本の自主的な判断に委ねられている」といった程度の手前勝手な緩い軍事同盟では、相手国は日本が相互防衛義務を確実に履行すると期待できませんから、相手国もまた、日本をまじめに防衛しようなどとは考えないでしょう。したがって、日本側の都合に合わせて「集団的自衛権」の行使を決定できるというのなら、そもそも、軍事同盟(=「集団的自衛権」)は成立しえないのです。

 このように、「集団的自衛権」とは、軍事同盟であり、義務の側面を決して免れないことなのに、なぜ、安倍内閣の説明では軍事同盟の義務の側面が無視されているのでしょうか。また、メディアはなぜそこに目を瞑って、いつまでも、「集団的自衛権」だけの議論に終始しているのでしょうか。「集団的自衛権」の本質が軍事同盟であることを了解したならば、こうした議論のあり方ははなはだしく均衡を欠く、不思議なことといわざるをえません。

Ⅲ 軍事同盟の実態は何であったか?

 では、人は義務を押し付けられそうになったら、どう行動するでしょうか。

小野塚知二さんの寄稿の続きはこちら >>

Vol.292 二度と過ちは犯してはならない 日蓮宗/法華寺・大塚泰淳さん

 先の大戦で、日本の宗教者・仏教界は、戦争に加担・協力、大きな過ちを犯しました。

 二度と過ちは犯してはならないと思います。

 安保法案、戦争法案に反対いたします。

日蓮宗/法華寺 大塚泰淳 合掌

Vol.293 私が安全保障関連法案に反対する理由 京都大学教授・前川玲子さん

 私が、現在国会で審議中の安全保障関連法案に反対する理由は複数あるが、その中から二点について述べたい。アメリカ研究が専門であるので、一応その立場から私見を述べたい。

 今回の法整備、またこれまでの防衛庁から防衛省への昇格、防衛予算の上昇などを見ていると、第二次世界大戦時から冷戦時にかけてアメリカが安全保障国家の道を歩んでいった過程を、日本は追いかけているように思えてならない。

 アメリカでは、これに呼応して、大学その他の教育・研究にも国防予算との繋がりが増え、軍隊からの委託研究が増えた。アイゼンハワー大統領自身が産学軍複合体を離任演説で批判したが、安全保障国家は国家機密の保全という立場から、国民の知る自由、報道の自由、また学問・教育の自由を制限する方向に働くことが多い。

 また、戦後のアメリカ国内の、FBIによる共産主義者や外国人の監視、CIAによる海外での反アメリカ勢力の破壊工作などをみると、安全保障をやみくもに重視し始めると、国内でのマイノリティへの不信感、また国内外での「テロリスト」の予防的拘禁などがおこる可能性がある。アメリカやヨーロッパに比べて、市民による国家、軍事機構への監視は、日本ではいまだ弱く、ある種の恐怖感がでてくると、司法、行政、立法の三権の分立も弱まり、一つの傾向に流れやすいこともある。

 つまり、戦後70年たっても、いまだ民主主義的チェックの弱い日本の現状で、憲法から逸脱する形で、アメリカ型の安全保障国家の方向に制度的に突き進んでしまうと、アメリカ以上に悪い結果になることが考えられるのである。これが、私が、法案に反対する第一の理由である。

 さらに、安倍政権は、この法案を成立させて、日米の「信頼関係」と「友好関係」を固める必要があるという。言い換えれば、日米が軍事協力をすれば、両国は仲良くなり、ひいては欧米諸国またそれ以外の国の日本への信頼と友情が増すと主張している。

 これは、本当であろうか。

 歴史を振り返って、約100年前の第一次世界大戦では、日本は、その独自の利害から、アメリカ・イギリスの同盟軍となった。しかし、戦争がおわり「戦勝」に勢いを得て、1920年代から30年代にかけて、日本の軍国化また治安維持法による「危険思想」への取り締まり、またアジアへの侵略が加速すると、アメリカは今でいう「ならずもの」国家となった日本への経済制裁を始めた。

 第一次世界大戦終了時、必ずしも日本に批判的ではなかったアメリカの世論は、1930年代には、急速に中国の領土・主権を侵す「国際法にしたがわない」違法国家として日本を敵視するようになった。ここから太平洋戦争への道は、すでに歴史の示すところである。

 アメリカは多様な人種、民族からなる多元的な国であり、世論も、共和党、民主党支持層、超保守派から左派まで多様であり、大統領や政党の交代も頻繁に起こるため、いま安倍政権がとっている路線が、1年後あるいは4年後のアメリカの世論、そしてその支持を背景にした政治家に受け入れられるとは限らない。

 私の留学時代の経験では、アメリカの中では、日本の軍国主義化や全体主義化に関しては、リベラルを中心に根強い警戒感があり、今回の法案の成立により、日本が平和憲法の方向性から右にずれていき、また沿岸防備のためということで挑発行為と受け取られかねない事態が起これば、日本への批判が巻き起こる可能性も強い。

 其のときに、アメリカの批判を受けて政策を転換させようとしても、いったん自衛隊の強化を含めた安全保障システムができてしまうと、各省庁の独自利害が動いて軌道を戻せない可能性が強い。つまり、今回の法案が、日米友好を固める絆となり、さらに軍事的「国際貢献」によって世界に愛される日本になるという宣伝は、歴史的にみて怪しいのである。これが、私がこの法案に反対する第二の理由である。

 むしろ、長期的にみれば、日本が軍事的に消極平和路線をとり、文化・教育・外交でより積極的で人道的な姿勢を示すこと(難民受け入れ、マイノリティ人権保護、医療などの支援、国際機関で活躍できる人材の育成など)、情報公開を含めた開かれた社会を作ることのほうが、日米の友好、そして日本と他の国との友好に、はるかに役立つと思えるのである。

 第一次世界大戦に反対し、停戦直後に夭折したアメリカの思想家ランドルフ・ボーンは、「戦争と知識人」の中で、知識人が戦争に積極的に関わることで、戦争の流れを進歩的な方向に変えることができると主張する戦争擁護派に対して、次のように書いた。

 「戦争をコントロールすることができるかという話になると、狂った象の背中に乗った子供のほうが、地上にいてその猛獣の暴走を止めようとしている子供よりも効果的かどうかは疑わしい…。流れのなかにあって、リベラルな目的のために流れをコントロールするには、船に同乗するしかないと彼らはいう…。しかし、彼らが現在の流れにそって漕いでいく船の行き着く先は、大惨事や国民生活の疲弊であるかもしれない」と。

 彼はまた、「戦争に対して敵意を持ち続けている知識人は、その反戦の論陣を堅牢なものにするためにもっと大胆に進んでいかなくてはならない。古い理想は崩れ去ってゆく。そして新しい理想が作りだされなくてはならない」とも書いた。

 発表の場が失われる中で、当時の状況で、勇気ある発言だった。いま、あらためて、自らの思想の根拠をどこにおくかと問われれば、私には、立ちすくんでしまう弱さがある。しかし、少なくとも、この法案提出が象徴している現在の流れに抗することが必要だと私は思う。

(京都大学教授 前川玲子)

Vol.294 平和憲法とは… 生物学者・森中定治さん

 先の大戦で、何百万人もの尊い生命を購って、人類が体得し具象化したものが平和憲法。

森中定治(生物学者)

Vol.295 言葉を愚弄する者は、民主主義を愚弄する者である 尚絅学院大学准教授・上村静さん

 民主政治の基本は、「言葉」というものに誠実であることを前提とする。

 「言葉」とは、公的な発言、国会での質疑応答であり、そして法律も「言葉」である。しかしながら、安倍政権は「言葉」への誠実さが微塵もないだけでなく、「言葉」を愚弄している。

 安倍政権は「積極的平和主義」を掲げ、それを安保法制制定の根拠にしている。「積極的平和」という言葉は、もとはノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提唱したもので、ただ戦争のない状態を「消極的平和」として、戦争の原因となる貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」のない状態を「積極的平和」と呼んだことに由来する。これに対し安倍政権は、アメリカと一緒になって、アメリカの下請けとして積極的に戦争に参加していくことを「積極的平和主義」と呼んでいる。

 「言葉」を愚弄する安倍政権には、憲法を守る気がない。それゆえ、ほとんどの憲法学者が違憲だと言っているにもかかわらず、安保法制を強行採決できるのだ。

 「言葉」を愚弄する者は、民主主義を愚弄する者である。民主主義を愚弄する者は、国民の生命と財産を軽んじる者である。それゆえ「国民の生命と財産を守るため」と言いながら戦争を厭わないのだ。

 民主主義を愚弄し、国民の生命と財産に手をつける者を決して許すわけにはいかない。

「安保関連法案に反対する被災三県大学教員有志の会」記者会見(2015.7.31)より

上村静(尚絅学院大学准教授)

Vol.296 地域の力で、悪しき「連携」を断ち切る 琉球大学法文学部教員(西洋史学)池上大祐さん

 今回の安保関連法案は、産・官・学・軍の悪しき「連携」を生み出しかねない暴挙であると考えます。

 新産業のイノヴェーションが経済界から声高に叫ばれ、「地方創生」の名のもとで中央が地方を飼い慣らし、地域貢献・国際交流・イノベーションという言葉で粉飾されつつある大学知が、国からの補助金削減の圧力を受けながら、基礎研究の名のもとで軍需産業に手を染めはじめる、という事態が生じないとは言い切れないと思っています。軍事研究に関する研究経費の交付案や、学生を対象とした防衛省へのインターンシップ、自衛隊予備役をもつ企業を優遇する政策案などが浮上しつつあると見聞きします。まさしく「軍事動員」、「経済的」徴兵制の足音が聞こえてる状況にあると思われます。

 一方で、沖縄という「地域」の声 ―辺野古新基地反対― が、安保法案反対という世論の高まりにつながっていく、広がっていく雰囲気を、沖縄の地で肌で感じています。「地域の声が、社会を動かす」ということこそ、そこに生活する人々が主体的に生きていくための原動力となるはずです。

 かつて西洋史家の上原專祿は、1960年代に「地域の『地方』化を阻止しなければならない 」と強く主張していました。上原にとっての「地方」とは、「中央」に対置される概念であり、支配―従属の構造をそこに見出します。他方で、「地域」とは、「単に地理的な概念ではなく、生活の実際基盤に密着して形成された地縁的な社会集団」と定義します。上原は「東京―県」、「アメリカ―日本」の関係を「支配―従属」を前提とした「地域の『地方化』」という概念で捉え、「地域」が主体性を確保していくことの重要性を訴えるのです。

 この安保関連法案は、まさしく「地域」を「地方化」させ、我々の声 ―社会を動かす力― を押さえつけるものにほかなりません。今年の8月30日に展開された安保法案反対デモ・集会は、国会周辺だけではなく各地域が主体的に声を上げたものです 。その地域の力を、これからも政府に対して見せつけていき、産・官・学・軍の悪しき「連携」を断ち切っていきたいと思います。

池上大祐(琉球大学法文学部教員・西洋史学)

Vol.297 安保法制は社会福祉の大敵 聖学院大学客員准教授(社会福祉学)・藤田孝典さん

 社会福祉を専攻し教育に関与している立場から反対します。理由は以下のとおりであり、いかなる理由であれ、賛成する道理は見出せません。

 社会福祉専門職教育は、人間の尊厳を大切にし、暴力や抑圧を否定し、自由や共生に基づく社会の実現に寄与するべく努力を積み重ねています。

 これら福祉専門職の努力や理念を、根底から踏みにじる法案を認めるわけにはいきません。

 すべての人間をかけがえのない存在として尊重し続けるために、私たちは声を上げていかなければなりません。

聖学院大学客員准教授 藤田孝典(社会福祉学)

(※)ソーシャルワーカー倫理綱領

  1. (人間の尊厳)
    ソーシャルワーカーは、すべての人間を、出自、人種、性別、年齢、身体的精神的状況、宗教的文化的背景、社会的地位、経済状況等の違いにかかわらず、かけがえのない存在として尊重する。
  2. (社会正義)
    ソーシャルワーカーは、差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などの無い、自由、平等、共生に基づく社会正義の実現を目指す。
  3. (貢献)
    ソーシャルワーカーは、人間の尊厳の尊重と社会正義の実現に貢献する。
  4. (誠実)
    ソーシャルワーカーは、社会福祉士は、本倫理綱領に対して常に誠実である。

Vol.298 誇るべき日本の立憲主義ブランド 大阪大学教授・林智良さん

 私は大学でローマ法史を勉強しております。今回の事態を受けまして、専門研究者の立場、大学教師の立場、市民の立場それぞれからどう意見表明をしたらよいのかに悩んでおります。ここでは法学部教師と専門の法制史研究者という二つの立場から、反対理由を申し述べます。

 憲法解釈学者の大多数が表明する見解も、多年にわたる内閣法制局の見解も、集団的自衛権の行使が憲法上認められないと解してきました。現在参議院で審議中の安全保障関連法案は、集団的自衛権の行使を容認するものであり、憲法を明文で改正すること無しには憲法に適合する法律として成り立ち得ないと考えております。たかだか一代の政権に属する国家安全保障会議・閣議決定によって、憲法の解釈を変更したと主張し、それに基づく法案を国会に提出して成立させることは、我が国における立憲主義と法治主義全体の根幹を揺るがせることだと考えます。

 安全保障分野での政策問題もさることながら、私は、この立憲主義と法治主義の動揺という問題を憂慮します。これは、1870年代に本格的に西欧法に接し、それ以来明治憲法期も含めて、営々と法を摂取して動かしてきた先人の努力を大幅に交代させるものです。立憲主義とは、明文不文の憲法によって国のあり方を定め、その時々の為政者も、その枠の中で権力を行使するよう枠をはめるものであり、あわせて政府の勝手な権力行使・干渉から、国民の自由を守るものです。

 私は、法学部の教員として大学を訪れる研究者や留学生と日々接しています。外国に出かけて現地の研究者や弁護士ら実務家と交流することもあります。それらの経験を通じて、特に日本国憲法下の憲法運用、すなわち立憲主義の現実化と憲法学が国際的評価を受けていることを痛切に感じます。中央アジアや東アジアの留学生が来日し、日本の大学で憲法研究により学位を取るのです。いわば、日本の立憲主義はブランドとして評価されてきたのです。

 時に、立憲主義は西洋的価値観の押しつけとして排撃の対象になることがあります。はたしてそれは健全な自文化尊重・自尊感情の表れなのでしょうか。私は、トルコやチリ、アゼルバイジャンや中華人民共和国など、様々な国の同僚と対話してきましたが、立憲主義への肯定は、これら非西欧の国々で働き学ぶ法曹・法学徒も共有するものでした(脱線になりますが、ピノチェトの独裁と反対者虐殺を経験したチリにおいて、伸びやかに学費値上げ反対デモをする大学生を目撃したときの感動は言葉に言い尽くせません。表現の自由、政治活動の自由は尊いものです)。

 今、このように誇るべき日本の立憲主義というブランド、そして普遍的価値として守るに値する理念が安倍政権の手で売り飛ばされようとしているのです。みずからそれを捨て去り、降りていくべき極北には(失礼ながら)アフリカのいわゆる「失敗国家」というお仲間たちが諸手を挙げて待っているでしょう。

 法制史研究者として語る余裕がなくなりました。民主政という理念が古代ギリシャに由来し、共和政という理念が古代ローマに由来することはよく知られています。これらの社会では、生身の人間を奴隷という商品・財産として合法的に取引・所有しており、そこでこれらの考えが生じたことはグロテスクに見えるかも知れません。でも、統治の責任者は暴走するかもしれない、その場合に被害を最小限に抑えるにはどうすればよいのかという工夫が古代ギリシャ・ローマにおいて既に試みられていたのです。そして時代も社会的前提も大きく異なるにもかかわらず、近代市民革命期以降の思想家・政治家が立憲主義を考え実践するにあたってしばしばこれら古典古代の理念を参照していたことは触れるに値すると考えます。立憲主義的な考え方の底には、その前史も含めて長い長い奮闘と犠牲の歴史が横たわっているのです。

 以上の理由から、私は安全保障関連法案の廃案と安倍政権の退陣を求めます。

林智良(大阪大学)

Vol.299 外国語教育からみた安保法制論議の落とし穴 上智大学外国語学部教授・木村護郎クリストフさん

 この表題をみて、外国語教育と安全保障って何の関係があるの? と思われたにちがいありません。でも、実は意外と深い関係があるということを考えてみたいと思います。

 今、国会で審議が行われている安全保障関連法案について、賛成派は「平和安全法制」と呼ぶのに対して、反対派は「戦争法案」と呼んでいます。そして賛成派が、反対する人たちは平和ボケしていると批判すれば、反対派は、この法案は日本を戦争に巻き込むものだと反論しています。

 どちら側も本気になって論争しているのですが、これらの論戦を聞いていていると、じれったさを感じてしまいます。議論がかみ合っていないことが多いからです。議論がかみあわないことは論争ではよくあることです。でもこの件で、言語社会学の研究者としてとりわけ歯がゆさを感じるのは、このかみあわなさが日本の言語事情、とりわけ外国語教育のあり方と関係していると思えてならないからです。

 賛成派は、新しい安保法制が必要な理由として、安全保障をめぐる国際情勢の変化をあげ、その際、イランや中国、ロシアなどの近年の動きを主に念頭においていることです(北朝鮮もあがっていますが、この国が「常識外れ」なのは新しいことではありません) そして、こういった「脅威」に対抗するためにはアメリカとの連携を強化する、というのが基本的な発想となっています。

 ここにみられる、「(仮想)敵」と「味方」の単純な二分法は、見事に言語と対応しています。つまり、英語国アメリカ(やオーストラリア)は、何を考えているかわかる、透明で安心できる存在にみえるのに対して、理解できない言語を話すイランや中国、ロシアなどは何を考えているからわからない、正体不明のブラックボックスにしかみえない。だからひたすらこわい。何がなんでもアメリカにくっつきたがり、それ以外の可能性が思いもよらないのは、言語能力の限界に裏打ちされているようにみえます。イランの核開発や中国の海洋進出、またロシアのクリミア併合は確かに国際社会の秩序をふみはず(そうと)しているように思えます。しかし、そもそもこれまでの政治や経済の国際秩序は、アメリカ主導で形成されてきた側面が否めません。イランや中国、ロシアなどの指導部にとっては、覇権を独占しようとするアメリカ中心の国際秩序こそ脅威にみえてきたにちがいありません。

 日本やアメリカからみて異なる価値観で動いているようにみえる、国の国情や政治的・社会的背景に関する理解を深めて、利害関係の妥結点を探っていく可能性を追究することが、持続的な安全保障の前提ではないでしょうか。そういう努力をおろそかにして、言語文化をとおしても慣れ親しんだ、「価値観を共有」するトモダチ国とつるんでいれば安全だというほど、国際社会は甘くないでしょう。ただ対立をあおるようにみえる法案が「戦争法案」と批判されるのは当然です。

 一方、反対している側にも、違和感を感じるところがあります。憲法9条擁護を訴えて、「日本を戦争に参加させない」などと言うことは、日本が戦後、1950年代の朝鮮戦争から近年のイラク戦争まで、いろいろな紛争に直接間接にかかわってきたことにむとんちゃくなようにもみえます。また「戦争はいやだ」というだけでは、隣国の大国化を脅威と感じたり、テロの恐れを感じたりしている人々の不安に正面から答えていることになりません。世界の諸問題に目をつぶって、自分たちが9条を掲げていれば安心だというのは、私の母語であるドイツ語でよく使う表現で言うと、あたかも首を砂につっこんで、これで肉食動物にやられないと思うダチョウのようにみえます。これでは、国際情勢をみていないといわれても仕方ありません。

 これは、言語的にみれば、いわば「日本語世界」にのみ生きているとみることができます。世界の平和構築にどのように寄与するのかを具体的に示さないで、日本が戦争にまきこまれないことをもっぱら主張するのであれば、ご都合主義的な一国平和主義と言われても仕方ないでしょう。私は非暴力平和隊という組織を支援していますが、それは、この団体がこのような態度をのりこえる具体的な活動を行っているからです。しかし、憲法9条の理念をまさに体現するといえる、非暴力平和隊・日本への支援が伸び悩んでいるのは、まさに護憲派における「一国平和主義」の事実上の根強さを物語っているように思えて、残念でなりません。

 このように、安保法制をめぐる論点のかみあわなさは、「英語のみ」と「日本語のみ」という、日本社会を支配する「二重の単一言語主義」が背景にあると考えると、すっきり理解されます。といっても、英語が得意な人は今回の安保関連法案に賛成で、苦手な人は反対だというようなことが言いたいわけではありません。個々人の言語能力自体の問題というよりは、このような単一言語主義的な言説がそれぞれ、それなりの説得力をもって広がってしまうという構造的な問題があるのでは、ということです。つまり、この不毛な論争の構図は、まさに日本の外国語教育の貧困を反映していると考えることができるのです。

 となると、日本語と英語以外の言語世界に目を向けることに、不毛な非難合戦から脱却して、建設的な安全保障論議をする糸口があると考えられます。もちろん外国語を学べば必然的に視野が広がるというほど、ことは単純ではありません。しかし、隣国をはじめとする世界の言語を広く学び、理解を深めていくことこそ、まわりみちにみえて、安全保障の必要不可欠な基盤ではないでしょうか。その点、言語社会学者の鈴木孝夫の次の指摘は鋭いところをついています。

 「どうも現在の日本は、自国をとりまく外の世界から必要な情報を、偏りなく充分に蒐集する能力に欠けるところがあると言わざるを得ないのではないか。日本の対外情報蒐集の社会的なしくみのどこかに、構造的な欠陥がある。」(鈴木 1985、16頁)

 鈴木はさらに、「防衛が軍事力によってのみ行われると考える所に、いまの日本の盲点があるのだ。」(同上、25頁)と述べています。

 この提言がなされて30年がたちますが、未だ何もかわっていないことに愕然とします。安保法制の賛成派も反対派も、日本の安全保障上のリスクを低くすることを主張しているのですが、国民の大多数が日本語のみの世界を生き、外国語教育といったらほぼ英語だけ、という現状こそがきわめてハイリスクなのです。

 外国語教育というと、安全保障とは関係ないように思えますが、そういう考え方こそが議論を袋小路に追い込んでいる一因ではないでしょうか。日本の外国語教育がもっとしっかりしていれば、そもそもこんなおろかな法案たちが、国会に提出されることはなかったのでは、と思っています。

(上智大学外国語学部教授 木村護郎クリストフ)

(参考)
『武器としてのことば―茶の間の国際情報学』 新潮選書 鈴木孝夫(1985)
『新・武器としてのことば―日本の「言語戦略」を考える』 アートデイズ 鈴木孝夫(2008)

Vol.300 法と力 龍谷大学・増田靖彦さん

 法が力によって空洞化されようとしている。それによって露わになるのは、法の拠って立つ基盤が、法ならざるものに存しているということである。

 法が法たりうるのは、法でない何ものかによってでしかない。

 この事実を、あれほどあからさまに見せつけている力(現政権)に抗するのであれば、わたしたちもまた、批判の声を向ける矛先を、法に対して実際に力を行使する者たち(現政権)だけに限るべきではないだろう。

 それだけでなく、彼らという力が拠って立つ基盤、彼らが力を行使することを可能ならしめているもの、彼らを彼らたらしめている彼らならざるものにも向けねばならないだろう。

(龍谷大学 増田靖彦)

 
安倍政権の集団的自衛権にもとづく「安保法制」に反対するすべての人からのメッセージ