TPPは菅政権の際に、「第三の開国」として、唐突に持ち出された。そのTPPが同時並行で進められている日米同盟の深化(軍事的属国化)と改憲(実は米国との集団的自衛権の行使容認)とリンクしていることに、もう多くの人が気づき始めていると思う。
第二の開国は、第二次大戦での敗戦で、第一の開国は、幕末の日米通商条約の締結。鎖国を開き、貿易を求めるといえば聞こえはいいが、米国にとって有利な条件での貿易の要求は、黒船と大砲という武力による威圧を伴うものだったことは周知の通り。同時に「守ってあげるよ」という甘言も。
第二の開国で、「ボクが守ってあげるよ」という口先だけの約束の安保条約が結ばれたのはご存知の通りだが、第一の開国でも、脅しだけでなく、「守ってあげるよ」と囁かれてもいた。以下、市井三郎氏の『思想からみた明治維新』から引用。
「嘉永六年(1853年)六月にペリー提督がやってきたとき、武力で威嚇しても日本を開国させてみせる、という強い決意をもっていたことはすでにのべましたが、その返答を求めて同提督は、こんどは七隻の軍艦をひきいて翌年(この年安政と改元)一月、ふたたび神奈川沖へやってきました。そのときまでにベリーは、琉球(沖縄)に強要して交易を承諾させ、一艦を派して小笠原島を占領させていたのです。(中略)贈り物のなかには、小銃やピストルにまじって、アメリカとメキシコとの戦争をえがいた油絵十二枚があったのです」
約十年前、1846〜48年、米国はメキシコに侵攻し、領土を奪い取ったばかりだった。
「アメリカはメキシコに侵攻してついに和を乞わせ、領土を大きく割譲していました。ニュー・メキシコとカリフォルニア地方はそのときいらいアメリカ領となったのです。(中略)その神奈川和親条約がついに調印された日(安政元年つまり嘉永七年三月三日)、ペリーは林大学頭に向かってこう言ってます。「後来他国モシ貴国ヲ侵スコトアラバ、米国ハ軍艦兵器ヲ以テ応援スベシ。今同盟ノ証トシテ是ヲ呈ス」。そこでわたされたのは、アメリカの国旗でした」。
通商条約の締結を迫る前に、「守ってあげる」と、頼んでもいない同盟を押しつける。その証が星条旗というセンス。第一の開国にも、第二の開国にも、「守ってあげる」という同盟の押しつけがつきまとったように、TPPという第三の開国でも、日米同盟の深化という頼んでもいない「守ってあげるよ」がついてくる。100年の時を超えても、アメリカの姿勢、戦略にはまったく変わりはない。
TPPを持ち出した菅元総理は、「強い経済、強い財政、強い社会保障」と、強さを連呼した。野田前総理を経て、安倍総理に至るまで、強さを強調する姿勢は共通している。だが、強調すればするほど、その「強さ」は虚勢にしか映らなくなる。
幕末に話を戻すと、24歳の若さで首席老中となった聡明な阿部正弘が38歳の若さで世を去ったあと、跡を継いだ井伊直弼は、徹底的な弾圧を加える。安政の大獄である。高圧的、強権的で、自らの不安や弱さを隠すために、幕府の権力の強さを誇示しようとしたが、逆効果となった。
再び、『思想からみた明治維新』から引用。
「英仏の強引な中国侵略は、安政五年六月、天津附近でまたも英仏連合軍の大勝利をつげます。その情報を入手した在日・米総領事のハリスは、英仏両国艦隊がまもなく大挙して日本へ来航し、過大な要求をするだろうと幕閣をおどしたのです。井伊直弼が大老として、アメリカとの修好通商条約に急いで調印する決意を固めた(六月十九日)のは、まさにそのおどしー半ば虚構のおどしーにのったからでした。井伊家の『公用方秘録』の同日づけの項には、そのときのハリスの言として、次の言葉がはっきり書かれています。
「…たとえ英仏の艦隊が数十隻渡来してきても、日米の「仮条約書ニ後調印ズミ御渡シニナリ候ハバ、イカヤ(ヨ)ウニモ骨折リ、御迷惑ニアヒナラザル様トリ計ヒ申スベシ」と。権力政治家ほど力におびえるものです。井伊大老はそのような状況下に、アメリカにとりなしを拝みたのむような気持ちで、応接員岩瀬忠震らに条約調印の内諾を与えたのだ、と考えざるをえません」。
英仏連合軍の脅威を、中国・北朝鮮の脅威に置き換えると、揉み手で言い寄る米国と怯えながら頼みにしようとする日本の関係は、構図がとてもよく似ていることが明らかになる。