【岩上安身のツイ録】ある日の夜〜後進を育てること、叔母の危篤の報せ、ゲストとして招かれているのに話を妨害される理不尽 2015.12.2

記事公開日:2015.12.2 テキスト
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※2015年10月26日付けのツイートを並べて掲載しています。

50歳になって立ち止まって考えたこと〜人生で3度目の決断が「後進を育てる」ことに

 仕事は毎日、山ほどあるが、365日欠かせないのは、日刊ガイドのリライトである。若手スタッフに書かせて、赤字を入れ、添削して、直させる。時に、書いているうちに新しいニュースが飛び込んできて加筆したり、誰かが原稿を書き上げて、その記事をアップした場合、キャッチコピーを考え、この日刊ガイドの中でプッシュする。日々、どころか時事刻々、世の中は動いているので、Web速報で流したりもするが、できるだけ、このIWJの唯一定時発行(午前8時)の日刊メディアに詰め込もうと思っている。

 この日刊ガイドを書くのは、若手にとっては重要な文章修練の機会になる。わとはぷのような、それぞれに自由に書く場所もある。書き出しやお知らせなど、単調になりやすい。それをわずかな言葉の変化で、コピペに終わらせないようにする。実は本当はとても大事な作業なのだ。

 若手自身は、どれほどその大切さを意識しているかわからない。親の心子知らずで、仕事を振ると、仕事が増えるのは嫌だと、あからさまに文句を言う、ほおを膨らます、そんな子供じみた態度をとる者だって、中にはいる。困るのは、第一稿を出す時間を守れないことだ。

 今、夜中の4時たが、まだ仕事は終わらない。深夜に第一稿を出してきた今夜の担当者に、追加の記事の指示をし、全面的にリライトをして、先ほどメーリングリストに送り返したのが3時半。こんなことがしばしば続く。IWJに出る原稿の主要な記事の大半は僕が見てリライトし、校正をするので、日刊ガイドだけでなく、IWJの記事本数が現在のように増えてくると、本当に一日中、スピードを上げて、めまぐるしく仕事をしなくてはならない。しかも休みを取れない、というのが常態化する。一人一人の記者の腕が上がり、僕が大して直しを入れなくても済むようになってくると随分楽になるのだが。

 書いてきた文章に厳しいことを言って、それで辛そうな顔をされたり、嫌がられるだけだったりすると、こちらもまるで人をいじめているような気になり、これはこれでかなりストレスになる。

 しかし、まだまだこんなに「てにをは」もわからないなら、ものになるかな?なっても相当先だな、と思っていた人間が、ちゃんと読める原稿を書くようになるまで成長すると、その落差の大きさの分だけ、ちょっと感動する。

 高低差という点で、よく低地からコツコツ這い上がってきたなあ、と感心するのは、名前を出して悪いけど、ぎぎまき記者と原佑介記者。本当に書けるようになってきた。僕の指示も以前ならポイントを外していたのが、すぐ飲み込んで取材でも文章化でも、ポイントを形にできるようになった。

 最初からある程度の素質がうかがえ、文章をまとめることを、これまでの人生の中で少し修練してきたあとが感じられたのが、佐々木隼也記者と平山茂樹記者。もちろん、文章を書くことの追求に終わりなどないので、課題は次々出てくるものだ。

 ある程度の完成度の文章を書いたその次は気が抜けるのか、僕が赤字をズタズタに入れなくてはならないものになったりする。佐々木記者と平山記者には、もっともっと安定感のある書き手になってもらいたいと期待している。

 そこで、ここのところ急激に売り出し中の新人が、城石エマ記者。現役の早大四年生。通学もしつつ、卒業論文も書きながら、週に5日、働いている。それも一般事務と記者の兼職。なのに、結構、記事を量産している。みんなが嫌がる日刊ガイドの挨拶文レギュラーにも入った。

 この子は天性の器用さを持っていて、とても勘がいい。流れを作る構成力もある。しかし、器用がゆえにさらさらと書いてしまい、深みを欠いたり、ミスもポロポロ見つかる。落ち着いて、深みを加えて、中身のある原稿にするために、取材のやり直しも命じて、何度も突き返すことをしている。

 「えーーっ」などと言ったりもするが、「ダメっ!書き直し」とこわい顔をして、突き返し、書き直し、また突き返しと何度もやっているうちによく練られた原稿が、上がってきた。

 それがこれ。

 曖昧ではない、具体的な取材を、しつこく粘ってすること。この僕の指示も、高市総務大臣や総務省の役人、さらには、たらい回しにされた内閣官房の役人から、自治体の職員まで、よくねちっこい取材がやれたと思う。

 また、DV被害の実例を調べ、生々しい実例に沿って記事を書くこと、という指示もした。マイナンバーが住民票の住所へ送られてしまうことで、懸念されるのは、夫から逃げている妻へのストーカー被害。逃げている妻の居所を突き止めた夫は、時に妻を殺害するという無惨な凶行に及ぶ。

 この課題も、しっかりした調べを行い、文章の中にきっちりと、バランスよく盛り込んだ。マイナンバーの迂闊な送付によって、どんな悲劇が起きる可能性があるか、読んだ人はリアルに想起できる文章となったはずだ。

 そうやって、日に日に力をつけて活躍してくれる若い人が出てきてくれることはやはり嬉しい。

 僕は、50歳を手前にして、一度立ち止まって考えたことがある。

 これまで通りフリーランスとして、少数のアシスタントを食べさせながら、基本的には自分一人で生きていくか。これから先の世代の育成を考え、チームの編成をしようか。さて、どちらにしようか、と。

 考え、結局、後者に決めて、今日のIWJに至るのだが、若い人の成長は、その決断が、間違ってなかったような気がして、本当に嬉しい。

 僕は、人生でおおむねの進路に関して、3回決断している。一回目は高校から大学にかけてジャーナリズムの世界に行こうと思い始め、なかでも出版の世界に行こうと決めた時。大学2年ごろだと思う。

 これも一筋縄ではいかず、試練はあったが、結局は第一志望としていた出版社の編集者になれたのだから良しとすべきだろう。その次は、その出版社を事情があってやめることになり、致し方なく書き手側に回った時のこと。

 しばらくそれなりに楽しく仕事をこなしながら、自分は組織の編集に戻るのか、このままフリーランスのライターとして生きていくのか、と自問自答した時。最終的によし、書く方に回ろう、フリーで生きていこう、と決めたのは、27歳の時。

 その27歳の時、契約していた週刊誌記者をやめ、純然たるフリーランスとなった。50歳頃の、よし、チームを作ろう、という決断は、23年ぶりくらいの、生き方を変える決断だったわけである。人生はだいたい予定通りに運ばないものだ。が、この3回の決断は実っている気がする。

スペシャルに大変な夜〜身寄りのない叔母の、危篤の報せを受け取って夜中へ多摩まで向かう

 今夜も若手の遅筆につきあい夜鍋となって大変な夜ではあるが、これは僕の日常である。昨日の夜は、もっと別な意味で大変な夜であった。特別な、スペシャルに大変な夜だったのだ。

 ルーティンの仕事が、どんなに頑張っても深夜に至る。それに加えて、明けて翌日、小田原で講演があり、そのパワポの用意をしていた。そこへもってきて、妹からの連絡である。夜も更けていた。夜の報せはだいたい不吉なものだ。

 嫌な予感がしたが、やはり的中した。叔母が危篤だという。母親の末の妹になる叔母で、嫁がなかったので、身寄りがない。妹が同居はしていないが面倒を見ている。

 生前、長女だった僕の母親は、この年の離れた末の妹である叔母を心配していて、「自分に何かあってら、面倒見てあげてちょうだいね」と、僕の妹に繰り返し頼んでいた。今は八王子の方の老人ホームに隣接したクリニックに搬送されていて、呼吸が乱れており、一両日がヤマ場という。

 中央高速を車を走らせ、八王子方面へ向かった。消灯したクリニックに入れてもらい、瀕死の叔母と対面した。小さく、痩せこけていた。マスク越しの呼吸が乱れる。いびきもかいていて、ゴォーっと勢いよく呼吸したかと思うと、パタッと止まり、え、もしや、と思うと、また細い息がもれる。

 ベット脇の丸椅子に座り、しばらく付き添ったが、変化が見られないので、日付が変わってしばらくしてから、当直の方に御礼を言いつつ、クリニックを後にした。都心の事務所に戻り、残りの仕事と、翌日、小田原で講演の予定があるので、そのパワポを仕上げなければならない。仕上げたら、きっと朝になるだろう。

 悩ましいことはあった。叔母には身寄りがない。結婚していないので、子どもがいない。なきがらの引き取り手をどうするか、だ。叔母は、母方の姓のままだ。生前、僕の母親は、「T子が死んだら、金沢のお墓に入れてあげて。あそこにはお父ちゃんとお母ちゃんが入っているから」と、僕にもだが、特に面倒を見る役目を仰せつかった形の妹に頼んでいた。

 それが自然だとおふくろは考えたのだろうと思う。ところが金沢の家はもう代替わりしている。僕らと同世代の従兄弟が継いでおり、嫁も子供もいる。そこへ面倒見役の妹が電話したら、色よい返事をしない。「いきなり言われても困る。考えさせてくれ」という。

 困った。叔母さんを金沢の墓に入れるという約束は、その従兄弟のお母さん、つまり義理のおばさんからも約束を得ている。うちの母と、そのおばさんと、どちらも遺言である。

 遺言通りにはいかない事態となってきた。他の親戚も、それはおかしいよね、などと言う。妹が、「ウチの墓に入れようかと思うんだよね」と、ぽつりと電話口で言った。ウチの墓って、実家の岩上家の墓のことか、それとも嫁ぎ先の家の墓か。でも相手は四国出身。檀家寺は四国だろう。

 「いや、こういうこともあるかもと、将来のことを考えて、お墓を買ったんだ。旦那のお義父さん、お義母さんはまだ健在だけど。首都圏に出てきているのでもう四国には帰らない。だからこの墓に入ることを了承してもらっているんだ。T子さんにはそこに入ってもらおうかな、と」。

 「でも、お墓の中で一人ぼっちじゃない? T子さん、人に懐かなかったし、いつも一人ぼっちだった。心を開いていたのはうちのおばあちゃん(我々兄妹の母親)だけ。自分の父親、母親が早く亡くなって、頼れるのはずーっとおばあちゃんだけだったから。そばにいたいと思うんだ。岩上家の墓にはもちろん、母親の骨が納められている」

 そうか、と僕は返事をした。うちの墓は今、長男である僕が預かっているわけである。僕がウンと言えば済む話だ。寺の住職に相談が必要かもしれないが、名字が違っても家族として墓に入れてはくれるだろう。「いいよ。ウチに入れてあげるよ。その方がおふくろも安心するだろう」。そう返事した。

 そのあと娘に連絡をした。僕の次がある。僕も永遠に生きるわけではない。後続の世代の言い分も聞かなければならない。長女はもう嫁いで名字も変わったけど、うちには娘二人しかいないので、僕が墓に入った後のこともあるから、後続世代の許可を得ないわけにはいかない。

 長女は、皆まで話を聞かないうちから、金沢が乗り気でないと聞いた時点で、「ウチのお墓に入れてあげればいいじゃん」と言った。正直、ホッとした。

激務の中、危篤の報せ、そしてほとんど眠らずに講演先の小田原へ

 危篤の状態が持ち直すことなく続くと、家族・親族は不安な状態におかれ、おちおち寝ていられなくなる。特にこの激務の中、ただでさえ少ない睡眠時間が削られる。そんなわけで昨夜は、ほとんど眠らないまま、小田原の会場まで車で向かった。

 お芝居が行われ、僕の出番はそのあとだと聞いている。最初、企画を持ちかけられた時、原発に関連するテーマのお芝居で、それが終わってからその芝居がらみのトークをしてくれないかと依頼された。

 知っている方の依頼ではない。義理はない。芝居を作っている人、演じる人、台本を書く人、誰ともつながりがない。中身を教えてもらえますかというと、まだこれからだ、という。

 シナリオを事前に読ませてもらえますか、というと、それもできないという。かつて公演したビデオはありますか?、というとそれもなく、今回初めてかける芝居なのだという。僕は受けた仕事は真面目にやるタチなので、これでは手がかりがなさすぎて、ちゃと話せるかどうかわからない。

 自信がないので、今回はせっかくのお話ですがご遠慮させてくださいと断った。ところが、このイベントを地元で主催するという方がどうしてもと熱心にお誘いしてくれる。結局、お芝居はお芝居、それとは別に、講演はその時々の時事的なテーマでやる、ということで合意した。

 国内外とも動きが激しい。もっともホッとなテーマから本邦初、というスクープネタもまじえて用意をした。パワポは結局、寝ないで徹夜で準備したのだ。謝礼は気持ち程度しかもらえない。交通費含めた経費だけでもう持ち出しのようなものである。それでも一生懸命誘ってくださった主催者の意気に感じて、小田原まで向かったのだ。

 早く着いたが、先に上演しているお芝居の邪魔にならないように近くで待機して、パワポの見直しを行う。出番近くになり、会場へ行き、登壇した。照明を落とした薄暗い舞台。思ったよりはるかに小さな会場。どこまでが観客でどこからがスタッフなのか、わからない。スタッフ含めても2〜30人くらいだろうか。

僕の持ち時間は1時間しかない。しかしパワポは2時間、3時間喋れる分を用意してきている。皆さんの顔色や様子を見ながら適宜、飛ばして話を進めた。

 少数の観客だったが、皆さん、熱心にうなづいたり、メモをとったりして聞いてくれた。うちのスタッフが「そろそろ時間です」とフリップを出した。ああ、もう時間だ、と思いつつ、急いでまとめに入りますから、あとちょっと、と言って続けた。

 すると主催者の側(あとで劇団関係者と知る)とおぼしいき中年男性が、時計を指し、時間だと急かす合図をする。「わかりました、急ぎます」と言いつつ、まとめを急ぐと、その男性が手を叩く。強制拍手、強制終了、ということらしい。さすがにムッとした。

 「あなたそれは失礼ですよ。もう1分で終わると言っているのに」と、僕がステージ(といっても、小さなもの)上から注意した。そうした、今度は外から別の男らが入ってきて作業員の男が、僕に向かってもうやめろ!というようなことを怒鳴った。

 陰湿な嫌がらせの域を超えた、力づくの講演の妨害である。さすがに怒った。怒鳴りかえした。怒号が狭い部屋に響いた。一番、大きな声でその場を制したのは、正面の席に座っていた観客のご婦人だった。「もうあと1分、と言ってるんだから最後まで聞かせなさいよ!」と闖入者らを叱責した。

 気を取り直して。本当に1分程度で締めくくって、観客皆さん(結局、観客は10人程度だったと思う)に御礼を言い、それから闖入者どもに向かって、「ふざけるな!」と一喝した。向こうも「なんだとお」などと喧嘩腰。

 何人もの男たちが敵意あらわに迫ってきて、そこに女性やら年配の男性やらが止めようとして、もみくちゃになった。いやいや、冗談ではない。理由もわからず、舞台を妨害され、怒鳴られ、威圧されたのだ。理由もわからなければ、何者かもわからない。関係者なのか、そうでないかもわからない。

 「名前を名乗れ、何者だ!」といっても、名乗らない。動機もわからないし、連中の正体もわからないまま、半分薄暗がりの会場の中で、何人もの男たちに囲まれるのだから、それはもうアドレナリンが爆発する。自分の講演は、自分の書いた文章と同じく、命を削ってやっている言論である。

 それをこんな無礼な形で、どこの誰ともわからない連中に、踏み込まれ、メチャクチャにされて黙っていられるか。怒った。怒ったが、止めに入る人間ばかりがわあわあ言っていて、肝心の嫌がらせや舞台に踏み込んだ男らは、何もろくに言わない。

 何かの主張や文句、恨みがあってやったなら、何か言いそうだか、怒っている僕に対して、怒鳴りかえしはするものの、何も主張らしきものを口にしない。もみくちゃにされながら、別室へ行き、身体中をつかんでいる人たちの手を振りほどいて、主催者にどういうことなのか聞くと、舞台に踏み込んだり、拍手をしたり、怒鳴ったりして、講演を台無しにした男たちは、みんな劇団関係者らしい。なんで劇団関係者にこんな敵意を持った「歓迎」を受けなきゃわからないから、暴言を吐いたりした何人かの男を連れてこい、その上で話をしようと言ってもなかなか連れてこない。

 それどころか、涙目になって僕の右腕を抑えていた若い女性は、「あなたは芝居を見たんですか⁉︎」と難詰する。は? そのお芝居とのコラボは難しそうだからと話が流れ、ご辞退したのにこちらの主催者からどうしてもとと請われ、芝居とは別の関係のないテーマで自由に話す、という約束となって、ここへ呼ばれたのだ、というと、そんなことは知らない、聞いてないという。僕が主催者にどういうことか、伝えると、一部の人間には話したが、一部の人間には話していない、というので、その無責任さにまた怒った。

 若い人たちの話を聞くと、芝居と、照明や映像、様々なものを一体にして工夫していて、トークもその一部で扱い、演出してきたのだという。まったく初耳である。主催者になんで彼らがこう考えていることを僕に事前に伝えないんだと聞くと、またうやむやになる。

 では、僕の話が、芝居とは重ならないこともあったので面白くなかったからあんなことをしたのか、というと、そうだと思うという。とんだ誤解、とんばとばっちりである。主催者の仕切りが悪い、ということに尽きる。

 あなたが原因じゃないかと、主催者にいうと、そうです、悪かったと口では認めるが、真剣に謝罪している態度ではない。「もう誤解だってわかったんだから、いいじゃないですか」とまでいう。ここでまた、燃料投下である。

 誤解だろうがなんだろうが、仮にも舞台人である。舞台が神聖なものであることくらいわかっているだろう。芝居であれ、トークであれ、芸能であれ、講演であれ、演説であれ、真剣勝負でステージに立っているものに対して、その舞台を壊すというほどの暴力はない。

 そんな人間は舞台に上がる資格はない。結局、最初に手を叩いて妨害した男が呼ばれてきた。別室で、もう事情は説明したという。しかし、悪かった、誤解していた、申し訳ないなどとは全く謝らない。「拍手をしたことだけは、謝る」と、傲然というだけ。これでは再度、挑発されているに等しい。

 殴り合い寸前の一触即発の空気は変わらず、いくら話しても拉致があかないと思い、引き上げた。謝礼を差し出されたが受け取らなかった。無礼、喧嘩腰、ステージに立つ者への敬意のなさ、もともとの仕切りの悪さ。

 自分でゲストとして呼んでおいて、その人間に「あなたは私たちの芝居を見たんですか⁉︎」と言い放つ厚かましさ。誤解がどう絡んでいるにせよ、彼らは全員が僕を抑えこむというベクトルに向かっていて、仲間をかばい続けた。誰も、自分たちの仲間の行動を咎めなかった。呆れた。

 自分たちが同じことをやられたら、という想像力が働かないのだろうか。散々、熱心に呼ばれて、行ったら何人もの関係者が奇妙な悪意をたたえていて、脅すようにステージを壊す。

 これが僕が女の子一人だったら? それでもこういうことをやるのだろうか? 怒鳴って脅しはしなくても、嫌がらせはする? サイテーだろう。

 左側から会場に入ってきてステージ側まで来て大声で文句を言った男に、僕が怒りをあらわにした時、何人ものたくましい体格の男たちが一斉に僕の方向に向かってきた。喧嘩になっていたら、袋叩きだろう。本当は請われていっているのだから、喧嘩を売られる筋合いはないのにだ。

 収まらない怒りを、それでもむりくりおさめて、その会場を離れた。クルマで東京へ向かうあいだに、危篤の叔母の容体に変化がなかったか、スマホをチェックした。連絡がない。ギリギリ小康を保っているのだろう。こんな騒ぎの間に、叔母が息を引き取っていたとか、という話になっていたら、、、

仕事のために母の死に目に会えなかった後悔〜悔いなく働き、生きるために

 舞台に立つ者は親の死に目に会えない、とよく言う。僕がテレビのコメンテーターをしていた時、朝、眠っているおふくろの顔を見て、いってきます、と言って、出かけた。穏やかな寝顔だった。本番中は当然、連絡が取れない。本番終了直後に家族から電話があった。おふくろが息を引き取った、という。

 テレビ局に出かけたあとに、母の容体が急変し、僕宛に電話をしたがつながらず、まさにオンエア中に息を引き取った、と聞いた、その時は頭がおかしくなりそうだった。たまらない気持ちになった。テレビ局からそのまま病院に駆けつけ、霊安室で冷たくなった母と対面した。眠っているように見える。だが、やはり眠っているのと違う。なきがらは、ピクリとも動かない。呼びかけても反応しない。母は、静かに去ったあとだった。

 親父の時は、間に合った。危篤の報せを受けて駆けつけた病院で瀕死の父の息が止まるまでずっとつきあった。人は最期は誰かに看取られるべきだと思う。父を見送り、医師にご臨終です、と告げられた時、強烈な感情が貫いた。それでも、おやじは看取ることができた。看取れなかったおふくろには今も申し訳なかった、と思っている。

 T子叔母さんは、もちろん、父や母のようには、近い間柄ではない。でも、淋しく生きたひとだからこそ、誰かが、間際についていて看取ってあげなくては、浮かばれない、淋しくて淋しくてしょうがないだろう。妹か、せめて僕がついていてやらなくては、と思う。

 T子叔母さんを見舞って、クリニックを出るとき、クルマをバックさせるときに、右方のドアのウインドを誰かがコンコンと二回ノックした。誰もいない。今度は左からコンコンと二回、やはり音がした。だれもいない。運転してくれた原君が「勘弁してください、そういうの」という。

 空耳だったかなぁ、と思いつつ、少しも怖いと感じなかったので、あ、おふくろかな、とふと思った。心配してきてくれているのかな、と。もちろん、ふとそう思った、というだけで、なんの根拠もない。僕はオカルトを全然信じない人間である。幽霊も見たことがない。

 危篤といっていた人が持ち直すことある。これからしばらく気を抜けない。しかし、先述したように、旅立ちの時には見送ってあげたい。それが万が一叶わないこともあるだろう。真剣に仕事をして、例えば講演していたとして、電話に出られず、駆けつけられなかったということあるだろう。

 実際に実の母のときが、そうであったように。それが充実した仕事をしていたときだったら、慰めもつく。やるべき務めを果たしていたんだし、きっとわかってくれるよ、と。

 でも、昨夜のような、意味のわからない意地悪や喧嘩をふっかけられての騒動で時間を費やして、そのあげく、肉親の死に目に会えなかったら、本当にちょっとたまらない気持ちになるだろう。

 今、ふと思い出したが、僕はあんなに怒って興奮していたが、心臓に病があるんだった。今思い出した。

 もうこれからは、そんな無駄な時間の過ごし方のないように気をつけよう。

 凶暴でセンチメンタルな哀しみの、持って行き場がなくなる。それは不幸だ。そんな目に人を合わせたら罪だ。

 人との出会いは、一期一会。人生は短い。不愉快な人間との付き合いは、グダグダすべきではない。さっさと次へ向かって立ち去ることあるのみ。僕を不愉快と思う人間も、僕に粘着している暇はない。無駄なことをやめて他へ行くべし。

 僕も、また次へ向かう。良い仕事をするために。よき人と出会うために。

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「【岩上安身のツイ録】ある日の夜〜後進を育てること、叔母の危篤の報せ、ゲストとして招かれているのに話を妨害される理不尽」への3件のフィードバック

  1. 清沢満之 より:

    最低の主催者、最低の身びいき劇団・・・お疲れさまでした。

  2. 竹薮みさえ より:

    岩上さま
    大変なトラブルでした。
    お身体に障るのではと思っていたら、肝臓のこと、どうぞどうぞご自愛ください。
    認識の優位にあるものが、関係の暴力の被害者になることはままあることです。
    力量の非対称が生む暴力といっていいかと思います。
    もちろん、それを暴力に変換しても不毛ですから、
    持って行き場のない感情を抱えることになります。
    本当に苦しいことです。
    年齢を重ねたアクティビストには、そういう局面が増えてくるように思います。

    まずは捨ておくことですが
    それでも澱がつもる。
    その澱をどうするか、わたしもここ何年か考えている課題です。

    どうか心身ご自愛くださいませ。
    歴史的な一年の年の瀬にお祈り申し上げます。

  3. 平林 祐二 より:

    毎日「日刊IWJガイド」を読んでいて不思議に思うことがあった。
    自分の歳を考えると、若過ぎる若者が交代で、あれだけ「読ませる」長文を毎日書いている!
    「日刊IWJガイド」だけ目を通しているだけでも、驚異的とも思える組織だなと。
    メディアとして日々発信しているもろもろの業務からすればそのほんの一部でしかない。
    こんな感動を覚えるメディアを私は他に知らない。

    その秘密の一端を、初めて拾い読みした【岩上安身のツイ録】で垣間見ることができ、少し納得した。
    この「ツイ録」の分量にも「プロの書き手」として尊敬の念を覚える。

    日本を襲った巨大な自然災害と人災の「3・11」。
    TVや新聞が知りたいことを何も報じなかった最中、インターネットを彷徨って出会った岩上安身氏。
    この幸運に感謝しないではいられない。

    「僕も、また次へ向かう。良い仕事をするために。よき人と出会うために。」
    私もそうしよう。

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