【安保法制反対 特別寄稿 Vol.56】「日本が取り戻すべきなのは、拒否し続ける英断、握手する地平を探す努力」

記事公開日:2015.7.14 テキスト
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 私たちは様々な天変地異に混乱し、直近には、2011.3.11.を経験した。地球への責任を負わねばならない存在である。何故なら、すべてをエネルギーに頼り、自分で生活を営むということが出来ない地平へ自らを追い込んでいたことに気が付かされたからである。福島原子力発電所の事故を、東日本大震災時に経験してしまったのである。その事故による放射能漏れは地平や命への暴力が、次第次第に私たちの未来を蝕み、子どもたちの未来を潰しつづけているのである。その今、私たちが責任を負い、取り組まねばならないのは、オリンピック2020が幻に終わるかもしれないにもかかわらず、庶民感覚では到底考えたり得ない経済観念での国立競技場の行方ではあるまい。

 戦争という方法を放棄する、という誇り高き憲法理念である。そこから文化の多様性を外交努力で認め合う力をはぐくむ文化を「日本」自身が身に着け、磨き続けることである。沖縄に犠牲を強いて、その基地から、かつては朝鮮半島、ベトナムへ、イラクへと米軍の兵士たちを見送ったさまざまな立場での苦しみをさらに追い込む、辺野古新基地への拘ることであろうはずがない。

 安倍政権が今行おうとしていることは、未来を担う、現在「若者」である人々の世代への侮辱である。どうして、アメリカに追随すると、戦争へは加担するのだと言わないのか。我々自公民与党は戦争産業で勝ち続けたいと認めないのか。平和を守るために軍備が必要だと言い募るのか。嘘はもううんざりなのだ。そして私たちが得たい未来は、エネルギーと人間と地球が調和する世界であり、パワーゲームでサイバー攻撃をしあうことでも、武力による力の誇示でもない。傷つけあうことを、自分自身で受けるわけでもなく、平和維持への軍備としての柱を自衛隊に課するのか。彼らの人権はどうなるのか。

 我々は人間である。どんな形であれ、人を殺めてしまえば、その傷は殺める側にも、ひどい傷を負わせることになる。そういう意味でも、今の安倍政権がやろうとしているのは、過去から何も学ばず、自分達だけがシェルターに残り、その役割を負わせる人々を作り上げる身勝手な文化である。稚拙な文化である。非暴力不服従というやり方を、人類としたて、私たち人類は知っているのである。可能であることも経験したのである。全体化する意識は、そういう平らかさに満たされた、成熟した文化である。そういう知性である。思考停止し、「戦争」を重視し、「勝利」を重んじ、「兵士を使い捨てる」蛮人に成り下がることではない。

 70年続いた傷だらけになりつつも戦争当事者にならなかった平和を、日本と名乗ることに後ろめたさを感じることなく、これからも紡ぎ続けるなら、今、安倍政権が掲げる「安全保障法制案」を廃し、日本憲法の出来た経験を学び、様々な民族が寄り合って作り始めた「日本文化」を成熟させることである。

 武器商人になることから手を引け。戦争加担から勇気をもって撤退せよ。国策によって困窮している問題を直視し、責任をとれ。

 日本が取り戻すべきなのは、「戦争は何をも得ることが出来ない手段でしかなかった」という敗戦のダメージが生んだ、平和への希求である。決して再び戦争当事者になることを拒否し続ける英断である。勇気ある撤退である。

 安倍政権のプライドのありかは間違っている。それに気が付いているのは若い人たちなのである。自分たちの未来を守りたい彼らを尊重し、ファイティングポーズでなく、握手する地平を探す努力である。

 少なくとも、若い人たちは、話をするための地平を探す準備を始めてくれている。彼らの人生をかけて。その彼らの勇気に応えることが出来もしないで、「戦争抑止力は武力」と言い張るのは即刻やめてほしい。様々な思いを抱きつつ、ここにメッセージを送る。

(Satsukirara)

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