2013年6月29日(土)14時から、福岡県北九州市の北九州市生涯学習総合センターで「『忘れない、フクシマ』~福島からの避難者の声。わたしたちにできること~」が行われた。3.11のあと、福島から九州へ避難した2人の被災者が、それぞれの体験を語った。
(IWJテキストスタッフ・荒瀬/奥松)
2013年6月29日(土)14時から、福岡県北九州市の北九州市生涯学習総合センターで「『忘れない、フクシマ』~福島からの避難者の声。わたしたちにできること~」が行われた。3.11のあと、福島から九州へ避難した2人の被災者が、それぞれの体験を語った。
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福島県郡山市に住んでいた弁護士の斉藤利幸氏は、福島第一原発の事故を受けて、3月15日に福岡へ避難した。斉藤氏は「元々、脱原発の活動をしており、チェルノブイリ原発事故の情報も得ていたため、地震の際には、まず原発を心配した。しかし、原発事故の直後は、政府が『安全、安心』という情報を出したことで、それを信じてしまった」と語った。
「反原発運動に関わっていた自分でも、人の習性として、自分に都合の悪い情報は排除してしまう、ということがある。その後、インターネットで『メルトダウンの可能性がある』との情報を得たことで、避難を決めることができた」と述べた。
福島からの避難者について、斉藤氏は「福島からは、かなりの人が避難してきているが、人口比からいえばまだ少ない。避難ができないのは、生活の基盤が確保できないからだ。資金がないと、一度避難しても帰らざるをえない」と実情を話した。その上で、「事故から半年ぐらいは、ほとんどの人たちは『大丈夫だ』と信じていた。メルトダウンの危険について理解しない人も多く、都合の悪い情報を無視してしまう傾向にある」と、被災者の心情を説明した。
「福島には、事故前には原発安全神話があり、事故後は、放射能安全神話がはびこっている」と斉藤氏は指摘し、「『子どもは新陳代謝が激しいから、この程度の放射能は大丈夫だ』というように、都合のいい情報を取り入れてしまう。しかし、チェルノブイリ原発事故の4~5年後と同じような状況が、まもなく福島で如実に現れてくるだろう」と懸念を示した。
次に、福島のライブハウス経営者だった木村ゆういち氏が、避難を決めた経緯について語った。「私は、宮城県の石巻出身で、実家は津波の被害を受けた。両親もまだ帰ってこない状況だったが、幼い娘がいたことで避難に踏み切れた。インターネットで調べて、放射線管理区域は0.6マイクロシーベルトということを知り、それ以上、放射線量が高い場所では育児はできないだろうと考え、九州への避難を決意した。当時、福島の自宅そばの公園では、50マイクロシーベルトを超える場所があった。将来、子どもを産むであろう娘のことを守るのは、親の責任だと考えた」と話した。
木村氏は、参院選に緑の党から立候補を決めたことについて、「日本とアメリカの間には、日米原子力協定がある。それがある限り、日本の脱原発は不可能だ。2018年に、日米原子力協定の有効期限がくる。そこで更新しないことが大事だ。これから5年の間で、更新を阻止できるようにしなければならない」と力を込めて語った。